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私釈三国志 170 孫亮廃立

F「あー……復活」
A「風邪ひき治ったンだ?」
Y「母体に伝染したらまずい、とうちに隔離されてた。そろそろ帰してもいいとは思うが、そもそもアイツは風邪をひくのか? 何とかは風邪をひかんだろ」
F「ヒトの妻を悪く云わんように……。まぁ、喉だけは本調子じゃないから凄い声になってるけど、その辺は字面からは判らんだろう。気にしないできょうの講釈に入るよー。そんなワケで諸葛誕が討ち取られ、その叛乱劇は幕を下ろす。終わってみれば半ば以上自滅だが」
Y「困った連中だな」
A「実力なり国力なりの差が出た、というところかな」
F「そーだな。ただ、主将同士の心理的余裕の差はもっと大きかったと思う。諸葛誕は、追い詰められて挙兵しただけに、後半すでに冷静な判断ができなくなっているのが明白だったし」
Y「対して司馬昭は、終始冷静だったか」
F「うむ。戦後のことも計算して、投降者や捕虜を遇していたくらいな。全家一門や文兄弟、さらには唐咨にまで将軍位を与え、低いとはいえ爵位・官位も与えている。あまつさえ文鴦たちに、文欽の遺体を収容させると先祖の墓に葬ることを許し、輸送用の牛馬まで支給したので、武威と徳義を知らしめた……とは諸葛誕伝の注に引かれた習鑿歯の談」
A「名声は高まっただろうねェ」
F「いやでもな。習鑿歯はどこまで司馬昭を気に入ったのか、と思える記述がある」

 高い勲功を打ち立て人々はその成果を楽しみ、業績は広く知れ渡って敵国もその徳を慕った。武威を輝かせたうえに文治の経略もあまねく行き渡らせた、このやり方を推し進めていけば、天下にいったい刃向かえる者があろうか。

A「……絶賛だなぁ」
F「さて、繰り返しになるが、諸葛誕の叛乱劇は、呉の滅亡を招いた」
A「呉にとって有力な武将だった朱異や全一族、文欽とか于詮とか、多数失ったモンね」
F「呉が被った直接的な被害としてはそれだな。そもそも孫綝は朱異を処刑すると、実質そのまま退却した(孫亮伝によれば9月)に等しいンだから、全懌たち寿春城内に取り残された呉軍将兵が投降したのは、やむを得ないこととも云える。さらにさらに、寿春城陥落による最終的な投降兵は10万に達した……とは習鑿歯の談」
A「ホントにどこまで……。間接的には?」
F「負け戦による悪評だな。こちらは孫綝伝によると、諸葛誕を救えなかったのみならず多数の兵を失い、声望ある朱異を処刑したことで、人々は孫綝に不満を抱いた……とある」
A「まぁ、悪評も立つか。孫亮大喜びかな」
F「ところが、今回の事態が難しいのは、孫綝が失敗したのに孫亮の立場は強化されなかったことでな。前回云ったが、この頃呉の宮廷で孫綝ら孫静系皇室派と争っていたのは、孫魯班率いる外戚派だ。さて、外戚とは誰か」
A「……あ、全一族なのか」
F「そゆこと。前回見た経緯によって、全j嫡流の全禕らは孫魯班のせいで魏に走り、全家当主全懌は魏に降った。呉に残っている全家の人員と云えば、全jとの血縁が明記されていない全尚と、孫魯班の産んだ全呉くらいだ」
Y「そのネーミングに、大トラの野心がありありと伝わってくるな」
F「下から2番めの息子に負けないほど、孫権の悪いところだけを受け継いだ感があってな。孫魯班が男に生まれているか、あるいは誰かがとっとと除いていれば、呉はもう少しまとまっていたと思えるが……まぁ、それはともかく」
A「孫亮の上の子って……誰だっけ?」
F「まだ出してない。というわけで、孫綝の勢力こそ弱まったものの、気がついたら孫亮の勢力がさらに乏しくなっていたという、笑えないのか笑うしかないのか判りかねる状況が展開されてしまったワケだ」
Y「上には上が、下には下がいるというのが、この『私釈』のメインテーマのひとつだからなぁ」
F「物事ってのは下を見るとキリがないモンでな。かくて、呉に両派共倒れに近い惨状をもたらして、諸葛誕の叛乱劇は幕を閉じた。生き残った者たちは……権力争いを始めている」
Y「納得すればいいのか、呆れればいいのか」
A「驚くことじゃなさそうだからねェ……」
F「いちがいには責められんけどな。負け戦から逃げ帰ってきた武将が、敵にではなく主君に殺されるのは、実際のところ歴史的に珍しい話じゃない。寿春から敗走した孫綝は、いつぞやの諸葛格同様に、問責を加えられるのをおそれて宮中に参内しなくなった」
Y「やってること割と似てるよな、諸葛格と孫綝」
F「当初支持があったか、最初からなかったかという世論の違いはあるがな。諸葛格は、普段はいい点を取っていたテストで赤点を取って、前後不覚に陥った優等生で、孫綝は『今度問題起こしたら退学だ!』と云われていたのに、校外でトラブルを起こした問題児、と考えれば判りやすいかもしれない」
A「どっちも学校に顔出したくないワケか」
F「ただし、ここで問題児は居直った。帝都・建業の南(朱雀橋の南とあるので、まず間違いなく街の南)に自分が、東(こちらも青龍門とあり、街の東と断定していい)には弟・孫恩がそれぞれ居を構え、一族の者には建業の周囲に、軍を率いて陣を築かせている。文句があるなら攻めてもいいンだぞコラ、という意思表示だな」
A「やっていいのか、そんなこと……」
F「はっきり云って生ぬるいね。負け戦で自分の権勢が低下しているのを察したのはいいが、孫綝が軍を率いていても怖くも何ともないというのが天下に知れ渡っているンだから、示威行為には意味がないと自覚すべきだった。脅迫ではなく実際に危害を加えないと、誰も怖がってくれないのを気づけなかったようでな」
Y「負けて逃げてきた奴がいきがっても周りの目は冷たいワケか」
F「現に、孫亮はあっさり手を打った。255年に孫峻によって小トラ孫魯育が殺害されているが、この件を突然孫亮が追及し、かつて孫弘に忙殺された朱拠の息子、朱熊と朱損が云ったことだ……と大トラ孫魯班が云いだした。ために、この両者が丁奉によって捕らえられている」
A「うわ、しっぽ切り?」
F「いや、それどころじゃないンだ。確認するが、孫魯育が死んだのは、明らかに、二宮の変を根に持っていた孫魯班の陰謀だった。直接処刑命令を出したのは孫峻だが、大トラが孫峻と肉体関係をもち、彼に通じていたのは以前にも触れた。当時は諸葛格・滕胤らの豪族派を討つため、外戚派と孫静系皇室派は手を組んでいたことになる」
A「ところが、その関係は、大トラの手を逃れようとした孫峻の死によって崩れた?」
F「何しろ孫綝は230年の生まれだ(孫亮は243年生まれ)。219年生まれの孫峻とは違って、孫魯班に通じようとは思わなかったようでな。それだけに、大トラは容赦なかった。朱損は、建業郊外に陣を構えていたという記述があり、先の孫綝による一族配備の一隅を担っていたンだ」
A「一族なの?」
F「姻戚なんだ。妻が孫峻の妹、孫綝のいとこでな」
Y「建業周辺に軍をもつ、孫峻の義弟……か。孫亮が眼をつけるのも無理はないか」
F「あー……済まん。今まで大トラ大トラ云いすぎたな。この頃の正史の記述では、孫魯班はきちんと全公主とされていることが多い。で、魯育は朱公主だ」
Y「……そういえば朱拠に嫁いでたか? 孫魯育は」
F「その通り。彼女の実子か明記はないが、朱拠の子ということは孫魯育の子でもある。これでは孫魯班が生かしておくワケはないな。母親が死んだのは息子が誣告したせいだ、と孫魯班に云われて真に受けた孫亮も孫亮だが、これは完全に濡れ衣だった。慌てたようで孫綝は、参内してふたりの釈放を求めている」
A「人間関係だけで考えるなら、完全に濡れ衣なんだけど、ホントにそのふたりのせいで孫魯育が死んだってコトはないの? 親子仲がよくなかったとかで」
F「んー、それはあとで見る。だが、魯育が孫峻・孫綝ら孫静系皇室派とつるんでいた可能性は高いが、孫峻らを討つ側につくことは考えにくい。このとき孫綝が動いたのは、姻戚に当たる朱損を惜しんでのことだったけど、これが引き金になったと考えていいな。孫綝に釈放を求められたから、孫亮はふたりを処刑した」
A「孫綝がかばえば、孫亮は意地になって殺すわな……」
F「結果論で云うならこの一件が、両者の対立を最高点に引き上げた。孫綝は、もはや孫亮が自分の思い通りには動かないのを思い知ったし、孫亮にしてももはや後には引けない」
A「腹を括る段階だわな」
F「実際、傍から見ているとすでに事態は取り返しのつかない段階に陥っているのが明白で、たとえば荊州方面を預かっていた朱績(朱然の子)は、孫綝と宮廷の対立に乗じて魏が侵攻してきたら、荊州が大変……と蜀に使者を送り、誰が応えたのか閻宇が五千の兵をもって白帝城に入っている」
Y「手際がいいのか、何なのか」
F「そんな一触即発の空気の中、先に動いたのは孫亮だった。孫魯班・全尚、かつて滕胤を攻め殺した劉承と謀って、孫綝の誅殺を計画した。……のだが、以下同文」
A「失敗したの!?」
F「孫峻にせよ孫綝にせよ、自分へのこういった計画には徹底的に勘が鋭く、また対処も正確なんだ。ただ、今回で云うなら、孫亮の側に問題があったと云わざるをえない。恃むべからざる相手を恃んだ、というところでな。はっきり名指しすれば全尚だが」
A「全尚の娘が、孫亮の妃だろ? 仲間に引き込まないワケにはいかないと思うけど」
F「その全尚の妻が、孫綝のいとこでもか?」
Y「別れろ!」
A「すみません、お義兄さま。アキラの前で別れるとかの発言は控えてもらえますか」
Y「ん……おう、そうか。気にするか。発言そのものは撤回せんが、悪かった」
F「このうっかり長兄は……。えーっと、何でそんな夫婦になっているのかは、誰にも判らん。現に陳寿は説明どころか事態の推移を描写するのも放棄して『孫亮の妃は孫綝のいとこの娘で、孫綝に計画を告げた』と端的に記して終わっている。裴松之が注に引いた記述のが、もう少し詳細で、たぶん正確なんだが」

 孫亮は全尚の子・全紀を呼んで、命じた。
「もはや孫綝を許すことはできん。お主の父・全尚は軍の指揮権を持っているのだから、それを動かせるようにしておいてもらいたい。私は近衛を率いて朱雀橋まで乗り込み、孫綝を包囲しよう。皇帝が詔勅を出せば孫綝の兵は逃げるだろうから、生け捕りにするのは難しくはない。
 お主は退出したら、そのまま父にこのことを伝えてくれ。だが、お主の母に伝えてはならんぞ。事態を理解せずに、祖父が同じというだけで孫綝に通じかねんからな」

F「全紀はうちに帰って、全尚にことを告げるンだけど、何を思ったか全尚は妻にそのことを話してな」
A「お前、何やっとんね!?」
F「そんなワケで全尚の妻は、孫綝にことを告げた……というのが裴松之の記述になる。実際、孫亮の妃の全夫人は孫亮と仲睦まじく、孫亮を危険にさらすような真似をするかというとかなり疑わしい。孫盛も『この件に関しては陳寿の記述より裴松之の注の方が、筋が通っている』と、全尚の妻こそがことの元凶というのを支持しているンだ」
Y「どちらにせよ、ことの次第を聞いた孫綝は動いた」
F「うむ。夜の間に兵を動かし、勝負を決している。夜襲をかけられた全尚はあっさり捕らえられ、青龍門に張っていた劉丞は孫恩に斬られた。夜が明けると宮殿はすでに孫綝の兵に包囲されていて、それと知った孫亮は、自ら馬に乗り弓を取り、討って出ると云いだしている」

『父上が亡くなって五年、その嫡子たるわたしが動こうというのに、従えぬ者がどこにいるか!』

F「実は6年なんだが、それはともかく。側近やら乳母やらがひっついていさめたため、やむなく孫亮は降伏している」
A「何もかも孫尚が悪いな、こりゃ……」
F「この時、例の若年親衛隊を率いて孫亮が動いていれば、孫綝に勝てた可能性は否定できない。孫亮の指揮能力こそ評価材料はないが、孫綝の指揮能力を考えると、まっとうな軍があれば充分対抗できたはずだ。現に滕胤は数十人の兵で、少なくとも2日は劉丞指揮する孫綝の兵を相手に抗戦している」
Y「ことを劉丞と孫綝のどちらに求めるのかは判ったモンじゃないが、ろくな軍じゃねェのは確かだな」
F「先の諸葛誕戦で孫綝に殺された朱異がこの場にいたなら、孫亮の出陣を全面的に後押ししたと思う。何しろ彼の父・朱桓は、曹仁率いる10倍の魏軍を相手に『戦争は数ではない!』と豪語し、実際に勝っているンだから」
A「そういう意味では、朱異を斬ったのは孫綝の慧眼かな」
F「だが、後手に回った孫亮と、戦況が読めない側近のせいで、事態は収束してしまった。憤慨した孫亮は2日間食事を摂らず、妃に『お前の父親のせいでことが台無しだ!』と当たり散らし、それでも収まらずに全紀を呼びつけるけど、本人は『父のせいで陛下がこんなことになっては、会わせる顔がない……』と自害している」
A「恥は知っていたンだね」
F「そうなっては孫亮も荒れておれなかったようで、その後どうしたという記述はない。まぁ抵抗もできなかったようで、孫綝が大臣たちを集めて孫亮の廃立を宣言すると、何の抵抗もせずに退位している。本人は会稽に、全尚の一族は零陵に流されたが、当人が自害したとかそういう記述は一切、ない。この男、自分のしでかしたことの重さがまったく理解できていなかったようだ」
A「……どー考えても母親が悪かったようにしか思えんな。いや、義母の方だけど」
F「自分が助かればそれでいいとか、自分のためなら誰に迷惑をかけてもいいと考える性格に、大トラの悪影響が強かったのは誰の目にも明らかだったようでな。孫魯班を宮廷に野放しにしておくのは、孫綝でも危機感を抱いた。これ以上何かされたらかなわんからな、大トラ孫魯班も宮殿から追放され豫章に流されている。これ以後どうなったのか、正史に記述はない」
A「千秋万歳!」
Y「どこで覚えた、ンな台詞? まぁ、追放するのが40年は遅かっただろうな」
F「かくて在位6年にして、孫権の末子は帝位を追われた。そのわずかな在位期間が、呉にとって身中の虫たる孫峻・孫綝、誰より孫魯班と同時代だったことが彼の不幸と云える。どこまで信用していいかは微妙なモンだが、孫綝が孫亮を責めた文章が残っている。かなり長いが、書き下して引用してみる」

「孫亮陛下は劉丞を寵愛なさり、美色を好まれ、役人や民衆の婦女から美しい者を選んで宮中にとどめられました。また、兵士たちの子弟から若い者を集めて御苑の中で軍隊ごっこをなされ、武器庫の獲物を遊び道具としたのは、身分の上下を問わず嘆いたものです。先帝の忠臣であった朱拠の子朱熊・朱損が朱公主様を殺害したのは、全公主様の企てに従っただけだというのに、事態を精査もせずに軽々しくふたりを殺し、いさめの言葉も聞き届けいただけませんでした。陛下はまた、宮中に小船三百を作ってはそれに金箔を押したため、工人たちは休む間もありませんでした。全尚には何の能力もなく、自らの一族を執り仕切ることができずに魏へと走らせ、自身も力量以上の地位について陛下の行いをいさめることもせず、敵に通じて国家の大事を漏らしておりました。ゆえに今月(258年9月)27日、劉丞を斬り全尚を捕らえ、陛下に退位いただいた次第であります」

F「まぁ、これらがすべて本当であったとしても、それほど責められることではない。劉丞はともかく、美人を後宮に納めるのは君主の行いとして外れてはいない(規模にもよるが、それほどの多人数だったとの記述はない)。若年親衛隊が、若いだけに武器の扱いに慣れていなくても無理はなかろう」
Y「朱損兄弟殺害はどうなんだ?」
F「この記述によれば、この兄弟との親子仲は悪く、実際に孫魯育を誣告したようだが、あの件の主犯は孫魯班であって、孫亮はただの実行犯(孫綝は従犯)だ。そもそも孫魯育の血を絶やそうとした大トラの暴挙だという前提を考えると、孫亮が反対していたら孫峻の二の舞になった可能性は否定できないンだよ」
A「ほめたくはないけど、孫綝の大手柄だなぁ」
F「また、その意味では、全尚が孫亮をいさめなかった云々はともかく、敵国に通じていたというのは考えにくい。周りに知られずにそんなことをしでかす能力が全尚にあるとは思えないし、あるなら孫綝が裏で糸を引いていたとしか考えられん」
Y「例の妻を通じてか……確かに、それは孫魯班ではやらない類のことだな」
A「かなり的外れなこと書いてるンだ?」
F「ただ、外れていないものもある。孫亮の派手好みは事実で、のちに陸凱が、孫権亡きあと孫亮の代から皇帝の金遣いが荒くなったと書いているンだ。女を集めるだけ集めて何もさせないなら結婚させてしまえ、とも上奏している辺り、浪費癖があったのは否めない」
Y「その辺り、孫権には似なかったのか。アイツは金品財宝にほとんど頓着しなかったが」
F「若かったと云わざるを得んだろうね。もう少ししっかりしたおとなが補佐、はっきり云えばおもりについていればその辺りを教育しただろうけど、しっかりしている諸葛格はすでに亡く、孫綝や孫魯班といった最低レベルのおとなしか周りにいなかった。成長していたらどうなっていたのか、割と興味深いオハナシに思える」
Y「自分で弓持って馬に乗る辺り、孫権に似た性質はあったようだからな」
F「惜しむ声があったのは事実だが、ところで(ここから)代わって皇帝となったのは孫権六男の孫休だった」
A「……上に行ったのか」
F「警戒はしなくていいってのに。孫権の7人の息子のうち、258年時点で生存していたのは奮・休・亮の下3人だけ。庶子や孫魯班もいたが、帝位を継承できる立場にあったのは孫休だけでな」
A「あれ……? でも、孫奮のが年長だろ?」
F「この孫奮、もともと軍を率いて武昌にいたンだけど、諸葛格が『皇子が軍事的要地にいるのは好ましくない』と豫章に移そうとすると、皇子であることを盾に従わず、法をないがしろにする言動をしでかした。結局異動には従ったンだけど、諸葛格が死ぬと建業に乗り込んで帝位を簒奪しようと目論んでな」
Y「40年ばかり前に、曹彰が同じことをしでかしたな」
F「人格で云うなら曹彰よりタチが悪い。曹彰は賈逵のいさめを聞きいれたけど、孫奮はいさめた謝慈を殺しているンだ。結局帝位には就けず、庶民に落とされ謹慎することと相成った」
A「いるンだね、問題児って……」
F「ところが、この258年に、孫亮が『王にはできんが侯にはしよう』と爵位を与えているンだ。皇族の有力な味方となるのを期待しての封爵だったと考えてよく、孫綝にしてみればそんな奴を帝位にはつけられなかったワケだ」
Y「人格的にも社会的にも、選ばないことに非難の声はなさそうだからな」
F「そんなワケで六男・孫休が帝位についた。即位後最初に着手したのは、もちろん孫綝の排除だったが、それはまたのオハナシということで(ここまで)
A「今回も長くなったからねェ」
Y「では、どうぞ」
F「続きは次回の講釈で」

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