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私釈三国志 169 諸葛公休(後編)

F「諸葛誕の叛乱劇は、呉の滅亡を招いた」
A「あ……ありのまま今起こったことを話すぜ。『諸葛誕が叛乱したら、なぜか呉が滅んでしまった』ナニを云ってるか判らねえと思うが、俺にも判らねぇ……。パスとかキャッチボールとか、そんなチャチなモンじゃ断じてねえ、もっと恐ろしい毒電波の片鱗を味わったぜ……」
F「誰が電波を受信してるのかね、アキラくん」
Y「ときどきそうとしか思えない言動が目立つのは俺たちの気のせいか?」
F「ヒト聞き悪いな、お前ら。これまでの呉軍の動きが、露骨に精彩を欠いているのはいいと思う。朱異はともかく孫綝には、もともと指揮能力がなかったのは指摘してある。さらに、ここで負けて呉に帰れば自分の地位が危うくなるという危機感があり、それが焦りにつながっているのがありありと見えるンだ」
Y「妥当な焦燥感だな」
F「割と重要なオハナシだが、孫権の死後、呉では三派が権力争いを繰り広げていた。このうち、諸葛格・滕胤らの豪族派は孫峻・孫綝ら孫静系皇室派によって始末され、残る孫魯班率いる外戚派が皇室派と暗闘していた」
A「? 何で大トラが外戚に与してるの?」
F「孫亮の夫人が全尚の娘なんだ。本人の伝によれば、全公主すなわち大トラ孫魯班は、彼女の従祖母(血のつながらない祖母)にあたる。つまり、全jと前妻の間に生まれたのが全尚……らしい」
A「らしいって」
F「実は、正史のどこにも、全jと全尚の血縁関係が明記されていないンだ。あるのは『孫亮全夫人伝』の『全夫人は全尚の娘で、全公主は従祖母』との記述のみ。で、こっちは明記されているが、孫亮への影響力をもちたい孫魯班は、全尚の娘をほめちぎって孫亮の妃に迎えさせた」
Y「つまり、全家を外戚とするために大トラが画策したワケか」
F「そゆこと。もともと武官として孫権に重用され、公主まで娶った家だ。それなりの勢力を誇っても不思議ではないが、その全家が事実上滅んだのがこの諸葛誕の叛乱なんだよ」
Y「どんな風が吹いて桶屋が儲かったンだ?」
F「どうして『信じる者』と書いて『もうける』なのかよく判らんが、事の起こりは全jの長男・全緒の子の全禕(魏書では全輝)と全儀が、魏に寝返ったことにある。没年の明記はないが全緒は亡くなっていて(享年は44)、爵位と兵は三男の全懌(次男全奇は二宮の変で孫覇に与し自害している)が継いだ」
A「……全家嫡流ではなく、三男が爵位と兵を継いでいた」
F「全緒は東興で奮闘して、別の爵位を得ていた(252年)からな。ところが、家督は全禕ではなく、三男の全懌が継いだ。これでは問題が起こらないはずがなく、一族内での争いが訴訟に発展して、全禕・全儀は母を連れ魏に亡命した(つまり、訴訟では負けた)ンだ」
A「いや、訴訟くらいで魏に走るか?」
F「訴訟の相手が、ぼかして書いてあるンだが孫魯班でな。全懌が主な全家一族を率いて諸葛誕救援に従軍している旨は明記があり、呉国内に残っていた全家は、全尚か、孫魯班の産んだ全呉くらいしかいない。どちらにせよ、バックには大トラがいるようでは、訴訟に勝てるはずがないし、負けたら呉にいられるはずもない」
Y「聞けば無理もない話なのか。確かに、それは逃げないと身が危ういな」
F「そゆこと。ところが、逃げ込んだ先が(呉にとっては)悪すぎた。直接司馬昭のところに駆け込んできたモンだから、鍾会が悪だくみして、流言を広めさせたンだ。全禕・全儀に書状を書かせ、それを、寿春城内にいる全懌らのところに持ち込ませている」

『寿春が落ちないのに腹を立てた呉は、遠征中の諸将の親族を皆殺しにしようとした。だから我らは魏に降ったのだ』

A「一見すると突拍子もない発言に見えますが」
F「ところが、これに先立って思わぬアクシデントが発生していた。孫綝が朱異を処刑したンだ」
A「何でか!?」
F「これには多少の事情がある。もともと朱異は、父・朱桓の後を継いで軍功を重ねた勇将で、生前の孫権に『朱異が勇者とは聞いていたが、会ってみれば噂以上ではないか』と称賛されたこともある。だのに、孫綝に命じられるまま攻撃を繰り返しては負け続けていたので、三度めの攻撃命令、それも『決死でやれ!』には、ついに逆らった」
A「……魏では王基が『君命有所不受』とか何とか云っておきながら出世してるのに、呉ではそれで死ぬか」
F「孫綝から呼び出された朱異がノコノコ行こうとすると、従軍していた陸抗(陸遜の子)が危険だから行かないよう勧めているけど、本人は『心配無用』と相手にしなかった。で、孫綝の兵に取り押さえられると、状況が判っていないのか叫んでいる」

『何の罪があって、呉の忠臣たるワシを捕らえるのか!?』

F「かくて朱異は斬られ、その軍勢は孫綝の弟が引き継ぐことになった。これでは、全懌が全禕の書状を頭から信じても、無理もないオハナシだと思えるだろう?」
Y「書状文中の"呉"を"孫綝"と書き替えれば、なんら疑う余地がなくなるな」
F「そんなワケで、全懌ら従軍していた全家一族は、寿春城の東門(守備担当は王基)を開いて外に出てきて、魏に降伏した。これが11月のことだった」
A「江東豪族の集合体だけに、疑心暗鬼に駆られると即座に崩壊するな……」
F「しかも、城内では城内でトラブル発生。蒋班という、先に留賛を破った諸葛誕の副将と、文欽の意見が対立した」

蒋班『朱異を殺し呉へ帰ろうとしている、孫綝などあてになりません! 兵の士気があるうちに、全兵力を挙げて囲みを破るべきです!』
文欽『孫綝が我らを見捨てようとしても、孫亮陛下がそれを許すまい。それに、長引く戦火に魏の兵は疲れ果てている。守りを固めていれば、魏国内のどこかで叛乱が起こり、事態は好転するはずだ』

F「どーしても攻撃をと主張する蒋班に文欽が怒り、援軍を怒らせるワケにはいかないので、諸葛誕は蒋班を斬ろうとする。その場は引き下がった蒋班だったが、身の危険と諸葛誕の破滅を察知し、同僚とともに魏に降っている。実際、全懌らも寝返ったのは、このふたりのあとのことなんだが」
A「どんどん内側から崩れてないか?」
F「結論を云ってしまえば、司馬昭の作戦勝ちなんだ。寿春についた当時から、司馬昭は早期攻撃論を退けている」

『この城は堅く、兵も多い。攻撃しても攻め落とせないだろうし、呉から援軍が来れば前後に敵を迎えることになる。それじゃ危険極まりない。いま、三人の叛逆者どもが城内にこもっているのは、天の差配かもしれん。奴らをここに釘づけにして、策略をもって制圧してくれよう』

F「諸葛誕はともかく文欽は、野戦でこそ真価を発揮するタイプの武将だ。おまけに、趙雲に比すべき文鴦まで来ている。それなら自由に動かさせるのではなく、包囲を固め城から出られないようにしてしまえば、その武勇を発揮することもできなくなるだろう、と踏んだワケだ」
A「孔明の空城の計をも見破った司馬昭相手に、籠城したのが間違いだろうね……」
Y「演義での話とはいえ、相手が悪かったのは事実か」
F「そんなワケで、司馬昭は寿春城の周りに陣地を築いて堀まで作り、守りをかためて諸葛誕を追い詰めた。年が明けた258年正月、文欽の『蒋班や全懌が降伏し、敵は油断しているはずだ。今こそ攻撃すべし!』との発言に、諸葛誕は全面攻撃を開始する。五日から六日に渡って、南の包囲陣に全ての兵器を投入した」
Y「……寿春から呉に直接向かうなら、東門を破った方がいいンじゃないか?」
F「それはそうなんだが、防御態勢の問題で、南側の包囲は他と比べて緩かった可能性があってな」
A「誰担当?」
F「王基」
A「……東門じゃなかったのか?」
F「城の東側および南側は王基が包囲を担当していた、と本人の伝にある。両方を指揮しなきゃならないなら気配り目配りが行き届かなくなる可能性は高く、攻めるならそのどちらかがいい。そして、東門包囲陣には全家一党が加わっている。つけいる隙が余所より多く、補強されていない南側に兵を叩きつけるのは、判断としては間違いではないと思う。正直、僕がこの時の諸葛誕の立場にあったとしても、南側に攻撃していたはずだ」
Y「お前なら、こんな状況には追い込まれないだろうが」
F「そうでもないさ。だが、そんな6日間の攻撃も失敗に終わった。全懌辺りが何か手を打ったンじゃないかと思うんだが、昨年から食糧が不足しはじめていたため、士気が低下していたようでな」
A「1年分の食糧を集めてなかった?」
F「割と単純な計算だ。もともと5万の兵で1年分なら、そこに3万の援軍が加わって8万。人数が増えたらその分食糧の減りは早く激しくなり、また、手ぶらで降伏したとは思えないので、全懌がそれなりの量の食糧を持ちだした可能性は高い。蒋班は同僚とふたりだけで降ったから持ちだせる量もたかが知れているが……」
A「一族そろって寝返ったなら、相当量を持ち出すだろうね。残り食糧の半分くらいは」
F「というわけで、寿春城内から包囲陣に降伏する者が相次ぎ、実に数万にのぼった。いよいよ困り果てた諸葛誕に、よせばいいのに文欽がとんでもないことを吹き込む」

『いっそ、アンタの率いる魏の兵は外に出してしまえ。そうなれば食糧は足りるはずだ。なに、オレが連れてきた呉兵がいれば、城は守れるさ』

Y「何がしたいンだ、こいつは?」
F「というか、思いだしてくれ。もともと諸葛誕と文欽は、仲が悪かったンだぞ」
A「何でそんな奴を送り出すンだ……と思ったが、呉将で魏の事情にいちばん精通していたのが文欽か」
F「というわけで、文欽も死んだ」
A「うん、気持ちと理屈は判る」
F「さて、少し話を逸らすが、関城という防御施設がある。城門の前に防御側が作る砦なんだが」
A「? 門の前に?」
F「うん。城門の前に、それなりに堅固な砦を作っておくンだ。すると攻撃側は、城門を攻めれば関城に背後を衝かれ、関城を攻めれば城から攻撃を受ける。城壁の弱いところや低いところ、門の正面に作ってしまえば、攻城兵器を近づけなくする働きも期待できる。長期の籠城戦には必須の防御施設なんだ」
Y「要するに真田丸か」
F「防御の強化と弱点の補強というニュアンスで云うなら、かなり近いな。この戦闘でも、諸葛誕は関城を用意していたようで、文鴦と弟の文虎がそこに入っていた。それなりの効果を発揮していたから、ここまで寿春城がもったワケだ」
A「幸村みたいなことまでするとは、どこまでカッコいいンですか、あのヒトは」
F「文欽が始末されると、文鴦は諸葛誕のところに乗り込もうとしているが、兵たちは従おうとしなかった。ために、文虎を連れて魏軍に走り、投降している。当然『殺すべきです!』との声は上がったが『追い詰められて帰順した彼らを斬っては、城内の連中は改めて抵抗するだろう』と、助命し、将軍位に爵位まで与えている」
A「えーっと……?」
Y「降伏しても斬られるなら戦って死のう、と居直るだろうって話だよ」
A「あー」
F「しかも、えげつないことをさせている。文鴦・文虎に兵(護衛兼見張り)をつけて城の周りを走らせ『文欽の子が殺されないのに、他の者が降伏するのに何の障害があろうか!』と叫ばせた。これには城内喜びかつ動揺し、城内の結束は乱れ、諸葛誕も手の打ちようがなくなった……とある」
A「完全に追い詰められたンだな……」
F「というわけで、完全に戦機が熟したと踏んだ司馬昭は、自ら全面攻撃の指揮を執った。四方から兵を進め城壁を登ったが、城内の兵たちには抵抗する者もない。かくなる上はと諸葛誕、馬を駆り直属の兵を率いて、関城から討って出た。戦況そっちのけで司馬昭を討とうと突っ込んでいるが、迎え撃った胡奮(胡遵の子、胡烈の父)は防戦を貫き、ついに諸葛誕は乱箭に斃れている」
A「よほど追い詰められたンだって、必死さが伝わってくるな」
F「だが、これでは終わらなかった。諸葛誕の首級は洛陽に送られ、三族は皆殺しになったが、諸葛誕直属の兵たちは誰ひとり降伏しなかったのね。捕らえられた数百人は一列にされて、ひとりずつ処刑されたンだけど、その都度降伏が呼びかけられた。でも、彼らは誰ひとり、最期まで態度を変えていない」

『諸葛公のために死ぬのだ、心残りなどない』

A「……これじゃ危険視されるわな。才では孔明に及ばなくても、徳では孔明に引けをとらない」
Y「才徳で云うなら孔明のそれもたいしたモンじゃないと思うが」
A「なにをー!?」
F「はいはい、以下同文。寿春城内にはまだ呉軍の武将も残っていたンだけど、西門を預かっていた于詮は『主君から命を受け、ひとを救おうとしておきながら、勝利を得られず敵に降るなど、男のやるべきことではない!』と、降伏勧告をはねつけて魏軍に斬り込み、討ち死にしている」
Y「いるンだよなぁ、そういう潔いバカが」
F「漢にとって、死に場所ってのは何物にも代えがたい価値があるンだよ。一方で、司馬昭から『三人の叛逆者』と名指しされていながら、あっさり捕らえられたのが唐咨だ(残るふたりは文欽・諸葛誕)」
A「? なにもの?」
F「曹丕の代に魏で起こった叛乱事件の首謀者でな。文帝自らこれを叩き潰したンだが、唐咨は呉に走り、左将軍にまで出世している。曹丕の代ということは、つまり30年ばかり前なので、あっさり捕まったのはそれなりの年齢だったからと考えていいだろう。ちなみに、どうにも部下に縛られて降ったような記述がある」
A「その頃二十代でもすでに五十すぎか。統率力はなかったのかね?」
F「ところが、司馬昭は唐咨を殺さず、雑号だが将軍位を与えている。降伏した部下たちもちゃんと遇されたので、文鴦たちの処遇を鑑みてひと芝居打った、というところじゃないかな。もちろん、投降した呉兵一万超も殺されることはなく(『生き埋めにしろ』との声はあった)、分散こそさせられたが魏の国内に移住している」
A「かなり緩い処置じゃね?」
F「おおらかに遇することで、魏の度量を示すのだ……とは司馬昭の談。淮南では叛乱が相次いだので、厳しく締めつけても呉と組んで挙兵するだけだから、無意味だと判断したワケだ。この処置には呉も思うところがあったようで、投降した兵たちの家族を罪に問うような真似はしなかった、とある」
Y「完勝だな」
F「敵将の大半が自滅か内輪揉めで死んだことを除けば、そう云っていいだろうね。ところで、今回は諸葛誕の造反劇を見たのに、大半が呉軍中のイベントだった」
Y「云われてみれば……」
F「自分で云うけど無理もないンだ。何しろ、諸葛誕は寿春城を包囲されて、外に出ようと必死にあがいていたのに、包囲している魏軍では基本的に『堅く守って相手にするな。連中の自滅を待て』という命令を遵守していた。その辺りに関して、『ひたすら外に出ようと攻撃を繰り返していた』とか『外に出すまいと防御をかためていた』とは、戦場では当たり前すぎて正史に書かなかったとしても仕方ないだろう?」
Y「ないと云えばない……な」
F「何かしていただろうことは確かなンだ。ただ、その何かは戦場の常識を上回るほどのものではなかった。そして、上回らなかっただけに記述しておく必要性を、陳寿は認めなかったようでな。わざわざ『戦闘していた』と書かなくても、籠城戦なんだから戦闘するだろうと察してくれるはずだ、と」
A「まぁ、そこは判るわな。戦闘はしていたが、特筆すべき事態は起こらなかった。起こったとしたら、それはたいがい呉将関連」
F「それでは書く気が起こらなかったのかも……な。かくて"魏の狗"諸葛誕は死んだ。"蜀の竜"孔明・"呉の虎"瑾兄ちゃんともども陣没したことになり、その中では唯一の戦死となる」
A「並べるのはどうなんだろうなぁ」
F「続きは次回の講釈で」

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