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私釈三国志 169 諸葛公休(前編)

F「アキラが来たので、本筋に戻ります」
A「たびたび休んで済まないねェ」
F「まぁ、来月はいる日のが少ないだろうけどな。お前いなくてもオハナシ進める場合もあるから、その辺は了承しておいて」
A「おーらい。ときに兄よ、『Stellar Theater』の攻略はせんの?」
F「ちゃんと真ン中のキラっまで発音しろ」
Y「だから、真顔で寝ボケたこをとほざくのやめろ」
F「ゲームそのものはずいぶんツボだったが、絵描きが絵描きで食指が動かん」
A「お前のストライクゾーンにはひと回り小さいか」
F「ふた回りかなぁ」
Y「……手遅れ3号はともかく、アキラ。お前、先様のご家族に自分の仕事を説明したのか?」
F「ご両親には僕が会ったよ」
Y「何で」
A「神戸の震災で両親亡くしてこっち、アキラはねーちゃんに育てられたワケだから。保護者同士の面談には、ねーちゃんとコイツが行ってくれましたとさ」
Y「それであの弟は、幸市を保護者呼ばわりしていたか。しかし、思えばお前も難儀な人生送ってるな」
手遅れ1号「その通りだねっ。アキラ、義姉さんの胸で泣いていいんだよ(ぎゅっ)」
Y「ホントにいやがったよ!?」
ヤスの妻「あら、だいじょうぶ。アキラ慰めたら帰るから」
Y「最近、愛されてないのはどっちだと常々思う」
F「実りがないのは畑じゃなくて種の責任にしか思えんがな。さて、そんなワケで諸葛誕(字は公休)は、寿春城に立てこもった」
Y「とーとつに本題入りやがって……支持を集めていた例の城か」
F「この城も不思議なもので、以前云った通り揚州の治所だが、かの袁術陛下が拠点となされた地でもある。つまり、悪政を敷いたり四方から攻められたりしていた城でな」
A「はふぅ……云われてみればここじゃったね」
F「とろけるほどの大きさかね……? あれからすでにひと回り(60年)近く経っているとはいえ、その頃の記憶が身体にしみついている住民は少なくなかったようでな。毌丘倹の乱が平定されたのちには、処罰されるのを恐れた城内の民衆(諸葛誕伝に曰く『十余万全員』)が、城門を破って呉に逃げ込んでいるンだ」
A「袁術〜……」
Y「どンだけの悪政敷いてたンだよ、あの偽帝は」
F「いや、袁術陛下のせいではあられませんで、むしろその後も魏の前線として戦火に見舞われ続けたのが悪かったンだろうな、と。陛下については場を改めてみたいところだが、現状ではさておいて」
A「何で袁術に敬語なんだ?」
F「何となく。ともあれ、前二者とは違って諸葛誕は、追い詰められ勢いあまっての挙兵だった。その割には、毌丘倹とは違って周辺地域の制圧に成功し、また、自分も突っぱねた経験から、魏将に同調を呼びかけてもムダだと察して、最初から呉に助力を求めている」
A「他力本願ってどうなんだよ」
F「今回に限らんでもまずいが、今回で云えば普段よりまずい。追い詰められてキレただけに、諸葛誕は、呉の側の都合をほとんど考慮していなかった」
A「何かあったの?」
F「この頃、孫亮と孫綝の対立が激化していたンだ。滕胤・呂拠を除いた孫綝には、もう敵対者はいないと思われたが、大将軍の上には皇帝がいる。孫権の死(252年)から5年が経ち、孫亮も数えで15歳だ。257年4月には、宮殿ではじめて政治を執った……とある」
Y「子供はいつまでも子供のままではない、と」
F「大きくなっていたワケだ。ために、当然ながら孫綝と対立するようになった。孫綝からの上奏を反対・反論して突っぱねたり、自分と同じくらいの年代の、兵士の子供を集めて3000人の部隊を編成し『私も彼らとともに成長していきたい』と御苑での演習を行っている」
A「大将軍の指揮下にはない、自分の親衛隊を編成したのか」
Y「前半部で云うなら、この頃の孫亮は、孫権の事跡を調べて『先帝はご自分の考えで命令を出していたが、私は大将軍の意見を認めているだけではないか』と嘆いているな」
A「……孫権が期待しただけあって、骨があるンだねェ」
F「自分の置かれている立場が、孫権の頃とはまるで違うことに自覚が出てきたンだろう。あるいは孫魯班の入れ知恵か、とにかく孫亮は孫綝の上奏をはねるようになった。皇帝の立場としては間違いではないンだが、孫綝が面白くないと逆恨みしても、まぁ無理はない」
A「確かに、逆恨みだね。皇帝が自分の意見を容れないからと云って皇帝が悪いと考えるのは、態度がずれてる」
F「そんな具合に、内部に一触即発の危機を孕んでいただけに、諸葛誕からの救援要請には国を挙げて応えている。文欽が呂拠を討つのに尽力したように、助ければ自分の有力な手駒になると期待したのが孫綝で、孫綝が成功しても大局的には孫亮の功績になり、失敗すれば孫綝を排除できると考えたのが孫亮」
A「利害は相反してるのに、方向性は一緒というのがへんだよなぁ」
F「だが、自分の権勢強化を第一義に考える孫綝だけに、まずやったことがブっ飛んでいる。江夏に向かう荊州の前線都市・夏口を守っていた孫壱を、朱異を遣わして討ち取ろうと目論んだ」
A「何のために!?」
F「滕胤も呂拠も、この孫壱の妹を妻に迎えていて、孫壱の弟もふたりに連座して自殺していたから」
Y「むしろ、今まで殺されなかったのが不思議なんだが」
F「血筋としては孫静の、四男孫奐の次男(長男はすでに故人。なお、庶子)。身内が孫峻・孫綝に厳しいのか、孫峻・孫綝が身内に厳しいのかはさておくが、以前諸葛融(諸葛格の弟)を攻め殺すのに従軍した武功があり、そう簡単には手出しできなかったのかもしれん。ところが、大規模に軍を動かすのなら、そんな奴を野放しにできない」
A「潜在的な危険分子と云えなくもないのか……」
F「気持ちはともかく理屈は判らんでもない、というレベルだな。というわけで朱異(朱桓の子)が夏口に派遣されたが、危険を察した孫壱は、千からの人口を引き連れて魏に寝返っている。魏書にも『人数としてはたいしたモンじゃない』と云われているが、戦闘前に隅っことはいえ皇族が魏に寝返っては、幸先が悪いと云わねばなるまい」
A「しかも、孫綝が悪いしね、コレは」
Y「自業自得と云うのもアホらしいくらいにな」
F「それが6月のこと。関連は不明だが、8月に会稽の南部や鄱陽・新都(いずれも地名)で叛乱が起こっている。孫権の頃からずいぶんタガが緩んでいるのが判るな」
A「あの頃は、外憂はあっても内患はなかったモンねェ……」
F「孫権が積極的に潰していたンだと思うが、ともかく、諸葛誕を救いだし魏につけいろうと、呉は兵を出した。諸葛誕の挙兵は5月だが、6月には文欽・唐咨・全懌ら3万が、7月には孫綝・朱異・丁奉ら5万が出陣している」
Y「ほとんど総力戦だな」
F「これに対して、魏でも対抗策は講じている。というか、司馬昭だが」
A「こちらも大将軍自ら鎮圧に向かった、と。3代に渡って淮南平定に乗り出しているンだな」
F「だが、前回のことを司馬昭はきちんと覚えていた。病身を押して出陣した兄が陣没すると『帰ってくるな』と云われては、僕でも忘れやせんだろうがな。また宮中を留守にしている間に、郭太后が何か企んだらコトだ。そこで、皇帝曹髦と郭太后を従軍させている。曹髦本人の詔勅に、司馬昭が何と云って戦場に連れ出したのかが判る箇所が見える」

『かつて高祖劉邦は、黥布が叛乱を起こした折には自ら討伐に向かわれた。隗囂が背いた折には、光武帝劉秀自ら長安に入られている。我が魏においても、明帝曹叡御自身で呉や蜀を征伐されたのだから、朕と皇太后自ら諸葛誕の叛乱を平定し、東方を安定させようと思う。それこそが、士気を高め武威を広めることになるのだ』

A「のだ、って……」
F「帝位に就かなかった曹操はともかく、曹丕や劉備も自分で出陣していたように、皇帝自ら出陣するのは士気を高めるのには効果的だが、皇太后を連れていく必要はない。誰かの入れ知恵なり強制なりがなければ、郭太后まで従軍することにはならなかっただろう。あるいは、曹髦の身を案じて郭太后が自分から従軍すると申し出たとも考えられなくはないが、司馬昭のせいでそんなことになったと見ていいだろう」
Y「皇太后がついていってもどうにかなる類の事態じゃないからなぁ」
F「だが、これによって諸葛誕が魏に戻れる可能性はなくなった。何しろ、錦の御旗どころかかしこき処そのものが出陣してくるンだから、完全な朝敵となりおおせたンだ。諸葛誕は心理的にさらに追い詰められ、一方で、討伐に向かう魏軍の士気は高まった。大義名分我にあり、とね」
A「抜けめないよな。郭太后まで連れ出したから、司馬師のときと違って宮廷から締め出されることはないって計算だろ? 残っている連中が何かしようにも皇帝も皇太后もいなければ、第二……じゃない、第四の王淩になる」
F「計算高いがずいぶんといやらしい。ただし、曹髦たちは実際には寿春まで行っておらず、先に毌丘倹が立てこもった項城で留まっている。この付近には賈逵の功績をたたえる祠があって、曹髦自らそこを訪れお言葉を述べられているので、従軍することになったのが誰のせいかはともかく、陣中での身の安全は賈充が保証していたと考えていい」
A「……相変わらず、人間関係から裏の事情を計算するのが得意なんだからなぁ」
F「もちろん、項城から先、寿春へは司馬昭自ら兵を率いている。鍾会が参謀として従軍しているが、この年の2月に鍾会の母が死に、一度官を辞していた。ところが諸葛誕誘引計画を司馬昭が実施したと聞くと、官に復帰して『来ませんよ!』と進言している……というのが、以前触れたその件の詳細」
Y「母親が死ななかったら、別の策を弄していたかもな」
F「かもな。さて、司馬昭は軍才でいうなら司馬師より上だ。ために、諸葛誕が5万の兵を集め、呉が呼応して数万の軍を動かすことを想定し、しかるべき対応策を講じている。青・徐・荊・豫州の軍と、関中の駐留軍を動員し、総勢26万もの大軍をこの一戦に投入したンだ」
A「……城攻めは3倍の兵を出せ、とかいうオハナシじゃないなぁ」
F「お約束の白髪千丈という気もしなくはないが、陣容は整えられている。西方軍軍団長から中枢に引き抜かれ、云わば『郭淮の代わり』から『仲達の代わり』に抜擢された陳泰が軍政を預かり、先の毌丘倹の乱でも奮戦した王基が先陣となっている。南は荊州に王昶が入り、西はケ艾に司馬望(司馬孚の子)を派遣して防備をかためた」
Y「多方面からの軍事介入を遮断したワケか」
F「ところが、またしても王基がやっちまった。先発した王基が寿春城を包囲していたので、文欽(つーか、たぶん文鴦)はその陣を突破して寿春入りしている。そこで司馬昭は州泰(ケ艾に替わって兗州刺史就任)・陳騫(陳矯の子)・石苞(初登場)らを送って包囲網を強化させた」
A「うん、ちゃんと注釈つけてくれないと、誰が誰だかまるで判らん」
Y「アキラの場合、注釈がついてもそれに注釈が必要なんじゃないか?」
F「そこへ呉の朱異が寿春に入るべく動いてきたので、王基に『諸将を率いて北山(地名)に転進せよ』との命が下ったところ、本人は『いま動いたら兵が動揺します。ここはどっしりかまえて守るところでしょう』と返事をし、実際に動かなかった」
A「だから、いいのかそれ!?」
F「軍事的には王基の意見のが正しかったので、司馬昭も返事を受け入れている。そもそも朱異は、包囲されている寿春城の援護に来たので、魏軍が下がって包囲網が緩むなら目的を達したに等しいンだ。転進しろとの命令が、もともと的外れなものだったと云えよう」
Y「落ちついて考えるとそのものだな」
F「そんなワケで、朱異は戦って魏の陣を抜かねばならなくなった。相手取ったのは州泰で、激突し朱異を破った。敗走する呉軍を追撃し、二千人を討ったとある。そこで孫綝は、今度は丁奉らと5万の兵を預け、もう一度朱異に攻撃させた。都陸(地名)に本陣をおき、決死隊を募って川を渡り、陣を築く」
A「はるか昔に、江夏を攻略したときの戦法か」
F「……よく覚えてたな、50年も前のオハナシを。いや、素直に感心したが、ちょっと違う。州泰・石苞の攻撃で呉軍は崩れ、決死隊の作った陣も抜かれた。朱異はチャリオットを急遽こしらえて戦況を打開しようとするけど、石苞・州泰を抜くことができず、またしても敗れる。やむなく本陣に戻ろうとしたところ、亡き胡遵の孫・胡烈が間道から都陸に攻め入り、呉軍の食糧を焼き払った」
A「渋く動くなぁ」
F「そんなワケで、朱異の攻撃は2度に渡って追い返され、呉軍はいったん引き下がった。もちろん、外に出ようとする諸葛誕らの動きもあっただろうが、包囲されている場合は内外呼応して攻勢に出ないと破れるモンではない。王基らの働きから、寿春城攻囲戦は長期戦を呈し始めた」
Y「長引いたからなぁ」
F「さて、どうするか……この先もけっこうな分量になるンだが、戦闘前だけでほとんど1回分になったな。このまま続けるか、それとも分けるか」
A「せんせー、提案」
F「はい、アキラくん」
A「とりあえず休憩ぷりーづ」
F「……そうするか。じゃぁ、ひと休みしてから後編に入ろう」

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