私釈三国志 166 呉国戦乱
F「さて、前回は不覚にも新妻に頭悩まされたが、もう出ないので考えないことにして」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「お兄ちゃんのこと、気に入ったみたいだったンじゃけどねェ」
F「……カットした部分であのヒトが何をしていたのか、気づいてない奴はこの際さておいて。えーっと、その都合で前回、個別の戦闘についてはかなりないがしろにしていた。とりあえずそのフォローから」
A「あいよ。えーっと……陳泰?」
F「いや、その前の寿春侵攻戦(255年2月)から。毌丘倹の蜂起と敗戦によって淮南が平定されると、ともに挙兵した文欽親子も敗走し、呉へと逃げ込んだ。孫峻が毌丘倹の蜂起を見届けて10万の兵を出し、途上で逃げてきた文欽を保護したのは前回見た通り」
A「でしたねー」
Y「見届けてから動いたのが呉らしいな。呼応していれば毌丘倹たちには都合のいい展開になっただろうが、呉の利益だけで考えるなら両者相食み疲れ果てるのを待つのは、さほど間違った判断ではない」
F「ところが、疲れ果てるほどの被害が出る戦力差ではなかった。魏軍の被害は文鴦の吶喊によるものがせいぜいで、いつぞや泰永が云った通り、個人の武勇で戦況が覆る、ある意味で牧歌的な時代は終わりつつあったらしい」
A「ふたを開けると一方的にボロ負けでした、か」
F「文欽を収容し、そのまま兵を退いていればよかったンだろうけど、孫峻は進軍した。呉書に兵数は明記がないが、魏書ケ艾伝によれば10万の軍。迎撃の指揮を執ることになったのは諸葛誕だが、ケ艾に迎撃命令を出している」
A「指揮下にあったのか?」
F「司馬師がブっ倒れたゴタゴタで、その辺りがしっかりしていなかったンだろうな。席次としても、鎮東将軍諸葛誕の命を雑号将軍のケ艾が拒めないのは仕方ないことだし。ともあれ、諸葛誕は寿春城にこもり外にはケ艾が出て、呉軍を迎撃することになった」
A「何か、もう負けるのは確定な相手なんですけど」
F「先走るな。当初諸葛誕は、ケ艾に肥陽(地名)で呉軍を迎撃するよう命じたンだけど、現地に赴いたケ艾は、そこに呉軍は来ないと判断。南下すると、配下の諸葛緒を出して呉軍に挑ませている」
A「一族?」
F「だとは思うが、出自は不明だ。この時点での役職は泰山太守だから、兗州出身ではなさそう(本州回避の原則)だが。孫峻がかなりあっさり兵を退いたのには、この男が呉軍と激突して、被害は不明だが魏軍の士気旺盛と見たのと、歴戦の留賛が病を発していたのが原因らしい」
A「留賛……聞いたことないなぁ」
F「前回も云ったが、東興の戦いで先陣を張った武将だ。ある戦闘で片足を負傷し、まっすぐ伸ばせなくなってしまったところ『足が動かせんでは死んだも同じだ。それならいっそ足の筋を斬って伸ばそう。治ればもう一度お役に立てようし、治らずに死ねばそれまでだ』といって、自分で足の筋を斬り、歩けるように治したトンデモじじいでな」
Y「腕なら似たようなことをしでかしたバカを知っているがな」
バカ「歩けると云っても不具合は残ったンだが、淩統に見込まれて下級士官となり、諸葛格の下では先陣を張った。ために昇進できたンだが、この戦いの途中病を発してな。孫峻は、輸送部隊とともに引き揚げさせている」
A「惜しんだのか、足手まといと思ったのか」
F「ところが、それが耳に入ったのか、それとも戦場の常道か、諸葛誕は部下を派遣してその輸送部隊を襲わせている。ケ艾にばかり手柄を立てさせてはおれん、という感情もあっただろうが、留賛は逃げきれないと判断すると、身内の若者(明記はないが、息子ふたりのどちらかと思われる)に将軍の印綬を授けて、自ら迎撃の指揮を執っている」
A「病気なんだろ? でも」
F「うむ。そもそも留賛は敵に出会うと、髪を振り乱して天を仰ぎ、高らかに声を張り上げて歌ってから軍を進める習慣があった。部下たちも歌いながら敵陣に突っ込むンだけど、この時は『病のせいで、今までのやり方ができねェ。こりゃ負けたな……』と嘆息している」
A「敵陣じゃなくてお前にツッコミたいわ! どこの地方の風習だ、戦う前にトランスして歌うなんて!」
F「ともあれ、留賛は死んだ。享年73。黄巾との戦いで片足を失ってから、実に70年の歳月が経っていた」
A「だから、どこからどこまでツッコめばいいの、アキラはっ!?」
Y「計算が合わないのは認めるが、そう書いてあるンだよ。2歳で役人になって賊将の首級を挙げたらしい」
F「何かおかしいとは僕も思うが、とりあえず留賛が戦死しているのは事実だ。一方で呉軍も呂拠・丁奉が曹珍(曹操の一族には確認できない)なる武将を破っているが、戦況の不利は自覚があったらしい。別動隊の朱異も安豊城を攻略できずに撤退したので、孫峻は全面撤退を命じている」
Y「不利なら退くのは過ちではないな。諸葛格殺害といい、決断力はあるのか」
F「それが思わぬ事態を招く……のはのちほど。この敗戦と度重なる暗殺未遂計画失敗、を口実とした皇族弾圧によって、呉の民心は孫峻から離れた。ちょうど255年は呉で旱魃が起こっていたのに、そんな戦争をしたり孫堅の廟を作ったりしていたため『民衆は餓え、将兵も不満を抱いて呉から心が離れた』と正史にある」
A「正史にはっきりそう書いてあるのも相当だな」
F「それでも孫峻は動いた。翌256年8月に、文欽の進言を容れて徐州への侵攻作戦を決行している……が、本人はその中途で死んだ。魏は、陳泰を主将に東方軍が迎撃の準備を整えていたンだが、直接の戦闘は起こらなかったようでな。9月14日とあり、孫峻が思い通りに動かなくなったのに腹を立てた大トラの仕業と見ていいね」
A「日頃の行いが行いだけにな……」
Y「ここでやっと前回のおさらいが終了か」
F「だな。孫峻は割ととんでもない奴で『もともと名声はなかった』と正史で云われている。その最期も『諸葛格に祟られて死んだ』と、演義での曹叡や司馬師のように呪い殺されたと正史が書いているンだ」
A「陳寿、孫峻に何か恨みでもあったのかね?」
F「瑾兄ちゃんの一族を根絶やしにした張本人だから、いい感情は抱いていなかったと思うぞ。それだけに、権力を握って増長し、宮廷の女官に狼藉を働くお約束な小物ぶりも書かれている。そんな宰相が死んだンだから、呉の政治も少しは良くなる……と誰もが期待するところだけど、後を継いだ孫綝が大差ない輩だったから始末に負えない」
A「何者?」
F「孫静の、長男孫ロの長男孫綽の子。孫峻のいとこに当たるンだけど、当時偏将軍、つまり最下級の武将にすぎなかった。何でそんな奴をと云えば、孫峻から後継指名を受けた、ただそれだけっぽい」
A「何じゃそりゃ」
F「そう思ったのは呂拠だった。孫峻存命当時はちゃんと武将していた彼だが、戦地で孫峻が死に孫綝が後を継いだと聞くや、率いる軍をそのままに取って返し、孫綝を廃そうと目論んだ。先の文欽救援戦で勝利を挙げたのに、撤退を命じられて面白くなかったのが一因のようでな」
Y「さっきお前が云った『思わぬ事態』か。孫峻の決断力が、勝っていた呂拠には面白くなかった……か。しかし、呂拠のような武官が孫綝を殺しても、宰相職の後任にはなれまい?」
F「そこで呂拠は、宮中で重きを置かれていた滕胤に渡りをつけた」
A「……えーっと? アキラの記憶では、そのヒトは諸葛格のお仲間じゃなかったかと」
F「その通り。しかも、例の、諸葛格をいさめていた次男は、滕胤の娘を妻にしていた。ために、クーデターのあとに政界から身を退こうとしたンだが『子の罪で親が殺されるものですか』と慰留され、むしろ昇進している。実際のところ、孫峻のせいでガタガタの宮廷がそれでも保っていられたのは、このヒトのおかげと考えていい」
Y「諸葛格の代理として政務を執っていた実績を惜しまれたか」
F「だが、それだけに孫峻との仲は次第に悪化していた。反孫峻派の皆さんは滕胤を昇進させて対抗馬にまつり上げようとし、孫峻の太鼓持ちは滕胤を重用しないよう吹き込む。諸葛格が討たれた当初、孫峻は太尉、滕胤は司徒と、三公に並べられるはずが、そんなワケで孫峻が丞相となり、その副官職の御史大夫は置かれないことになった」
Y「呉書に曰く、ために士人たちは落胆した、と」
F「決定的になったのは広陵城の一件だ。呉から徐州方面に向かう際の前線基地となりうる場所に、孫峻が城を建てたいと云いだしたところ、群臣は孫峻を畏れて誰も発言しなかった(つまり、誰も賛成していなかった)が、滕胤だけは表立って反対の声を挙げている。孫峻は滕胤の意見を無視したンだが、城そのものは完成しなかった」
A「孫峻が死んだから?」
F「そゆこと。呉では元来、合肥(揚州)を抜いて豫州方面に向かおうという基本戦略を執っていたンだが、この方面の守りが分厚いのは、孫権時代から通じてのこと。そこで文欽や呂拠、それに朱異といった武将たちを徐州・青州方面に進ませることを思いついたらしい。これなら東シナ海に出ての海路援護も可能になる」
Y「その場合の拠点として広陵に城が必要だったワケか」
F「呉書には明記がないンだが、この遠征の総司令は孫峻だったと考えられる。ために、孫峻が死んだから……と撤退命令が出た。ところが呂拠はそれに反発し、滕胤を丞相に任じるよう戦地から諸将連名の上奏を行っている」
A「文句があンなら攻めるぞコラ、という意思表示か」
F「孫綝には指揮能力なんてないンだが、孫峻同様決断力はあったようでな。ちょうどよくこの頃、武昌(地名)を守っていた呂岱が死んだので、滕胤をそちらに送りだすという名目で、呂拠と連絡が取れないよう計らった。その上で、従兄(年長のいとこ)の孫憲に呂拠を迎撃させながら、文欽らに『呂拠を討て!』と命じている」
A「従ったの? 文欽たち」
F「これは当然ながら、と云っていいな。まず、孫綝は後を継いだだけでまだ悪事も何もしておらず、討つのに躊躇いがあった。また、従軍していた朱異たち諸将にしてみれば、ここで呂拠が成功したら下風に立たねばならなくなる。確かに呂拠は驃騎将軍だが、孫峻の下では同格に扱われていたンだから、それは面白くない」
Y「ぅわ、凄まじく納得できる。ナンバー2不要論か」
F「そして、残る文欽にしてみれば、孫峻は自分を呉に受け入れてくれた恩人だ。その後継者を討てと云われたら、喜んで反発する。というわけで呂拠は進退窮まった。せめて孫憲を抜ければ戦況は変わったはずだが、前後に敵を迎えるかたちになり、側近から魏に走るよう勧められても『叛臣となるのは恥だ』と自害している」
Y「孫策の代から仕えていた家だけに、意地をみせたか」
F「たまらなかったのは滕胤だった。建業の自宅に留まって、孫綝の軍と市街戦を展開している。武昌に行くよう孫綝から送られてきた宮廷の文官を捕らえて、孫綝を弾劾する書簡を書かせて送りつけ、対決姿勢を示すと、孫綝は孫亮に『滕胤謀叛』と上奏するや討伐の兵を出している。ところが、さっきも云ったが孫綝には指揮能力がない」
A「滕胤を捕らえることも殺すこともできなくて?」
F「うむ、包囲するにとどまっている。滕胤も黙っておらず、例の文官たちに詔を偽装させて、兵を味方につけようとした……ンだけど、文官たちが云うことを聞かなかったから殺してしまっている。それでも滕胤は顔色ひとつ変えず、ひとと談笑していた、とあるな」
A「すでに心は諸葛格のところに、逝ってしまっていたのかね……」
F「呂拠が来ると信じていた、とあるな。彼が呼応してくれればどうにかなると、兵を励まし戦い続けたが、本腰を入れた孫綝が大量の兵を動員すると、数十人の滕胤の私兵では太刀打ちできず、全員討ち死にしている。滕胤とその一族、および呂拠の遺族は皆殺しになって、この一件は幕を下ろした」
A「後味わる……」
F「……ように見えた」
A「何だ!?」
F「ことが片付いたのは10月のことだが、孫綝は11月に大将軍に任じられている。それが面白くなかったのは孫憲で、彼は諸葛格討伐にも加わり、孫峻の頃から厚遇されていた。ところが孫綝の代では重用されなかったのに不満を抱いていて、王惇と示しあわせて孫綝を討とうと計画している」
A「もちろん?」
F「失敗。さすがに従兄は攻め殺せなかったようで、王惇を殺してお茶を濁し、孫憲には自殺を許している。その上で、刁玄(もと孫登配下)を蜀に送って『我が国で叛乱が起こりましたが、鎮圧しました』と報告。内外に孫綝の覇権は示された……という次第だ」
A「かくて、呉は滅びの道を往きはじめた……か」
Y「呉も、だろうな」
F「否定はしかねるな。ところで、孫権が死に臨んで孫亮を託した遺臣というのが諸葛格に孫弘、滕胤に呂拠、そして孫峻だった。今回全滅したが」
A「えーっと、孫弘は諸葛格を除こうとして自滅、諸葛格は孫峻に殺されて……」
Y「滕胤と呂拠は孫綝に、か。そして孫峻は大トラの謀略とみなしていい」
F「直接はそうとしか考えられんが、間接的には呂拠も関わっている。徐州方面への出陣前に、滕胤を連れて陣立ての視察を行っていたところ、呂拠の陣営があまりに見事で、むしろ不安になった……とある。それを理由に引き揚げてから、諸葛格に呪い殺されたンだから」
A「何とも情けないオハナシで」
F「その情けない輩に殺られた連中こそいい面の皮だが、もっと情けない奴もいないワケではない。孫峻・孫綝は孫静系孫一門の中でも出世したが、それだけに他の一門衆にしてみれば面白くなかったようで、身内での反発も割と目立つンだ。孫儀や孫憲が逆らって死んだのは見てあるな」
A「どーかと思うけどなぁ」
F「まったくだ。果たして孫綝が帝位を簒奪していたら、その連中はどんな反応を示したやら」
A「……この先に、そういうオチが待っているワケですか」
Y「まぁ、罪状としてはそんなところだったはずだが、孫綝が死ぬのはまだ先だぞ」
F「続きは次回の講釈で」
A「むぅ……?」