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私釈三国志 165 孫峻死去

F「では、何事もなかったように、今回のお題に入る。前回まで2回使って、第二代"出ると負け"の称号を授与すべきかどうか、割とこっぴどく見てきたが」
A「何の話だ!?」
F「蜀が滅んだのは、どっちの『生涯勝率2割』の所為か、というオハナシ」
Y「単純計算だとそれくらいになるのか、出ると負け麒麟児」
A「授与すんなぁ!」
F「それはさておいて、時は255年」
Y「進まないのか? それとも姜維が年内に2敗めを?」
A「がるるーっ!」
F「このトシは微妙に密度が濃くてな。姜維じゃないンだが、前にも云った通り、呉の孫峻が寿春に兵を出している。毌丘倹の乱に乗じるかたちで出兵した次第だが」
A「呉を巻き込んでの挙兵じゃなかったンだ?」
F「事前の協議はない。少なくとも、表立ってはな。手近なところに呉があったから逃げ込む先には検討していただろうけど、最初から呉を巻き込もうという意思はなかったはずだ」
A「あったらまずいわな」
F「云うまでもないだろうが、態度としてよろしくない。それでは実際に司馬師を討っても、呉が魏に対して発言力・影響力を持つことになり、魏国内に内紛の火種を残す。……違うな、火種というより爆弾か」
三妹「自分ががっこうでいじめられているからと云って、がっこうそのものを叩き潰そうとする奴は少数派よね」
した奴「やるとしたら、あとあとのことを考えていないかたくらみ過ぎているかのふたつにひとつだ。つまり『もうどうなってもいい! 魏も自分も滅んでいい!』と思いつめたか、それとも『呉を前に立て、せいぜい働かせてやろう。殺しあわせたあとで両方まとめて叩き潰せば、天下はオレのものだ……ククク』と考えているか、だが」
A(……2番?)
三妹(珍しく1番)
誰かさんが絡むと感情的になって頭使わずに暴走する奴「しかも、ンなことをしでかすと周囲の理解は得られない。前者なら『そんなに追い詰められてたのか。こりゃ、地獄にまでおつきあいしないとなぁ』と同情してくれる場合はあるが、後者に至っては、もともとの味方に加えて利用しようとした相手まで敵に回すのがオチだ」
Y「感情論で暴走する奴の方が、感情的には同情しやすいか」
F「理性で考えると、両者とも同情の余地がないからな。それはそれとして、孫峻は諸葛格を殺し、呉の実権を握った……と思われているが、実はちょっと違う。諸葛格の死後、すぐに孫峻が権力を握れたワケではない」
A「違うの?」
F「違う。まず、諸葛格の死は253年だが、この年に孫和が粛清されている」
A「え、まだ生きてたの?」
Y「そこかよ」
F「孫慮とは違って生き延びてるよ……。その孫和には張氏という妻がいて、張昭の長男の張承の娘だ。二宮の変で死んだ張休は末子なんだが、張承の字は仲嗣、張休は叔嗣でやや違和感がある。それはともかく、張承の妻は瑾兄ちゃんの娘。諸葛格の姉か妹かは記述がない」
A「……おいおい」
F「さらに、張承の息子は諸葛格とともに死んでいる(張承本人は244年=二宮の変の真っ直中に死去、ただし死因の明記はない)。これでは孫峻が放っておかなかったのも無理からぬオハナシだろう」
A「孫峻でなくても放っておかんわ!」
Y「手は打つだろうな……どこまでやるかの個人差はあるだろうが」
F「というわけで、ことは孫権崩御のあとくらい。諸葛格が実権を握っていた頃に、孫和の部下があいさつ回りにやってきた。そこで諸葛格が『お妃に伝えてくれ。もう少しで位階を取り戻せますよ、と』と云ったという。どうしたワケかこれが世に流れていて、孫峻はそれを口実に孫和を粛清した」
A「完全に濡れ衣なんじゃね?」
F「僕もそう思うし、呉の民衆もそう思ったようでな。当初は流罪だったンだが、配流先に使者が来て自殺を迫った。拒めなかった孫和が張氏に別れを告げると『夫婦なんだから、幸も不幸もいっしょにね?』と、張氏も自殺している。これには、呉の民衆みなふたりの死を悲しんだ……とある」
A2(きゅっ)←アキラの手を握った
Y「おや」
A「あの、見てるから。みんな見てるから」
ヤスの妻「むぅ……」
F「仲のいいことで。つまり、孫峻は、孫和だけに死を迫り、他に累が及ばないようにしたワケだ。個人的な見解を述べるなら手ぬるいと思えるが、濡れ衣だけに強くは出なかったンだろう」
A「まだ思い切りが悪いンだな」
F「その翌年、つまり254年のことだが、孫英による孫峻暗殺計画が失敗している」
Y「孫英……知らんな。今までに出てきたか?」
F「出してないと思う。孫登、つまり亡き孫権長子の子だ。ちなみに次男で、長男と弟ひとりは早死に。さっきも云ったが、孫和の死には(諸葛格のときとは違って)同情の声があがっている。そこで、この場面にしか出てこない桓慮という武将が、孫和のことを想う面子を糾合して、孫峻を討ち孫英を立てようと目論んだ」
A「……孫英、ホントに関わってる?」
F「裴松之に云わせると『知らなかったようです』とのこと」
A「オイオイ……」
F「つまり、桓慮が孫峻を討っても、それで自分が取って代われるワケではない。そこで孫和を口実に孫英を立て、裏から孫英を操ろうと目論んだ……という経緯だと裴松之は見ている。対して陳寿は『いや、孫英本人が義憤から孫峻を殺そうとしたンです』と書いている」
A「もちろん発覚して?」
F「もちろん失敗した。今度こそ関係者は皆殺しになっているが、孫英は自殺している」
A「どっちにせよ情けない最期で……」
Y「違いない」
F「孫和・孫英とも、諸葛格に近い立場にあったのはいいな?」
A「諸葛格は、二宮の変では孫和派に属してほとんど唯一生き残り、もともとは孫登のおつきだったから孫英とも親しくないワケがない?」
F「そゆこと。諸葛格から孫和・孫英と相次いで死に、孫和派はほぼ途絶えたに等しい。これによって孫峻の権勢が増したのは云うまでもないが、もちろん健在の大トラも喜んだであろうことは考えるまでもない」
Y「孫魯育はどうした? ……いや、小トラだが」
F「そっちが魯育であってる。孫魯育(字は小虎)が死んだのは255年で、もちろん孫峻のせいなんだが」
A「毎年ひとりずつ皇族殺してたのかよ!?」
F「規則正しく、と云っちゃいかんだろうな。この年の7月に孫峻暗殺計画が発覚し、関係者は処刑されたンだが、孫魯班(字は大虎)は魯育が二宮の変で自分に逆らったのを根に持っていた。ために『あの子も計画に参与していたわ!』とあらぬことを云いだし、その気になった孫峻は魯育を殺している」
Y「潔い悪役になりつつあるな」
F「ただし、今回は関係者皆殺しとはいかなかった。孫峻伝によれば死者は数十人で、首謀者にも自殺が許されている」
A「コレは素で判らない。何で?」
F「首謀者の孫儀が孫静の孫なんだ。孫峻としては手を出しかねたようでな」
A「……孫峻は?」
F「ひ孫。正確に云うと、孫静の、長男孫ロの三男孫恭の子が孫峻で、孫静三男孫皎の末っ子(五人兄弟)が孫儀」
Y「叔父か?」
F「祖父の甥、だな。日本語には堪能でないので、それを何と呼ぶのかはよく判らんが。ともかく、こうして旧孫和派は全滅した。孫和の夫人のひとり何姫が、孫和の子供を引き取って育てることになった……が、それはまた別のオハナシ。ここまでの、孫峻の振る舞いはおおむね魯班がけしかけていたのはいいか?」
A「……まぁ、な」
Y「見えるな、確かに。孫峻にではなく、孫魯班に都合のいい連中が次々と死んでいる」
F「大トラが孫峻と組んで宮廷を牛耳った、というか、孫峻を使って邪魔者を次々と始末した……というのが、どうにも正しいように見える。なぜ孫峻が権力を握れたのかが、どうにも判らんのだ。確かに正史にも『孫静のひ孫』で『若くして弓馬の技を持ち、決断力があった』とあるが、呉主伝(孫権伝)には一度も孫峻の名が出てこない」
A「魯班が、自分に都合のいい男を表に立てるために選んだ?」
F「そんなところだろうな。ちなみに、陳寿ははっきり『孫峻は魯班と密通していた』と書いている。年齢の明記はないが、初婚の相手が周瑜の息子だ。それなりの年齢だっただろうに……あんがい、僕と気が合ったかもしれんな」
男ども『……………………』
M「いま、ワタシを見なかった?」
J「とんでもない」
Y「見たぞ」
A「大事なものはなくさないように普段は片づけておかないといけないって、お兄ちゃんが云ってました」
F「正直な心ってのは大事なモンだからな。というわけで、孫魯班という女は自分の都合しか頭にない。腹違いの兄でも同腹の妹でも平気で切り捨て、呉の臣下がどれだけ死んでも気にしない。呉が滅んでも自分だけ生き残ればそれでいい、みたいなあさましい考えがはっきり見える」
A「云いすぎじゃないのが大トラの怖いところだな」
F「となれば、孫峻が大トラから逃れる手段として外征を選んだのは、無理からぬオハナシだ。呉の国内では魯班の手が届くのは、亡き孫和が身をもって証明している。外に活路を見い出すことで、魯班の束縛から逃れようとした」
A「いっそこのろくでもない女から殺してしまうべきだったンじゃないか?」
F「そこまで思いきる度胸はなかったようでな。そして迎えたのが毌丘倹の乱だった。淮南で毌丘倹・文欽が魏に謀叛したと聞いた孫峻は、自ら呂拠・朱異・留賛らを率いて出陣している。2月9日のことだが、途上で文欽がやってきている辺り、タイミングが遅かったとしか云いようがない」
Y「事前協議なくそれをやるのは難しいが、もう1ヶ月早く動くべきだったな」
F「とりあえず文欽を連れて寿春(地名)までは向かったンだが、すでに諸葛誕が城に入っていたのは先に見た通り。ために、呉軍は撤退しているが、諸葛誕は追撃した。割と激戦だったようだが、かつて東興の戦いで先陣を張った勇将留賛が討ち取られ、別動隊の朱異が魏の城を落とせなかったので、やむなく撤退している」
Y「軍才では諸葛格にも劣るのか。アレはいちおう緒戦で勝ったが」
F「時期が悪かったとはいえ、やや情けないな。そのあと、孫儀の暗殺計画失敗を経て、翌256年に魏への侵攻作戦真っ最中に『病死』している。享年三十八、だが、これほどタイミングが怪しい死に方は呉でも珍しいな」
A「どう考えても誰かによる……というか、誰かさんによる暗殺じゃないか」
F「オレもそう思う。ところで、この侵攻作戦の迎撃の指揮を執ったのは陳泰だった」
A「え? あのヒト、西方軍の軍団長だろ?」
F「そうだったンだが、司馬昭は彼を中央に召し寄せている。つまり、毌丘倹の敗死や文欽の離脱、諸葛誕・ケ艾の配置換えなんかが相次いで、東も西も軍事的にやや不安があったンだ。そこで司馬昭は陳泰を中央に置き、どこかの前線で問題が起こったときに出せる遊軍として使うことにしたようでな」
Y「西にはケ艾が行っていたンだったか」
F「この男の強さはまた今度確認するが、西はケ艾に任せていいという風潮ができたようでな。ために、陳泰は主に東部全線に回されている。まぁ、ケ艾が予想以上に働いたからの使い方で、もしケ艾が王経並の武将だったなら、陳泰はかつて仲達がやったように、大陸を西から東に走り回ることになっていたかもしれない」
A「そんな働きを見込めるのか?」
F「司馬昭の陳泰評だ」

『かつて孔明が為さんとした志は、姜維で為せるものではない。陳泰はそれを未然に防ぎながら兵員の補充は要請せず、通信手段を整え敵への対処方策を整えた。決断力と沈着な判断力を兼ね備えていることからも、都督や大将というものは陳泰のようでなければならない』

A「絶賛じゃね!?」
F「ある面では父(陳羣)に及ばんとも評されているが、それはまた今度見ることにして。では、今回はここまで」
A2「(わくわく)ナマでアレを見られる」
三妹「喜ぶものかしらね……?」
F「続きは次回の講釈で」
A2(ぱちぱちぱち)

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