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私釈三国志 163 張嶷戦死

F「突然ですが、ここで問題です」
A「いきなりかよ」
F「ただし、タイトルの張嶷とは関係ないもの。次の中から、盧植と師弟関係にない人物をすべて選んでください。A 劉備 B コーソンさん C 馬融 D 郭泰」
A「張嶷とセンセに関係があられても困るがな。えーっと……CとD?」
Y「だと思うぞ。後ろふたりは記憶にないが」
F「正解は、Dのみ。Cの馬融は盧植センセの師匠にあたります」
A「……劉備はそのヒトの孫弟子だね」
Y「お前挟んだ翡翠と姐さんみたいな関係になるのか。しかし、騙されたのは認めるが、何を云いだした」
F「三国志検定の問題例見てたら、何となく思いついた。ちなみに、Dの郭泰は『HM』へのエントリーが内定しております。かなり面白い人物だ」
ヤスの妻「でも、直接の師弟関係はないけど、盧植センセに影響与えてないかな」
F「その発言は『林宗頭巾』を講釈しろと云っていますね!?」
Y「ネタが判らん!」
A「義姉さん、へんな方向に誘導しないで……」
ヤスの妻「アキラがそー云うなら、義姉さん大人しくするね」
Y「なぜに!?」
F「本気で頭巾やりたいところではあるが、まぁ自重して、今回の『私釈』はーじめーるよー。本筋に回帰して、しばらくほったらかしていた蜀について」
Y「その前に、コイツ追い払え!」
A「なぜに?」
ヤスの妻「愛されてないなぁ。じゃぁアキラ、ヤスにいぢめられたら義姉さんに云うのよ?」
A「あーいっ」
Y「……だから、お前らの間に何があったンだ?」
F「考えないことにしよう。えーっと……約1ヶ月ぶりになるのか」
A「孔明生前は毎週のように講釈してたのにねェ」
F「費禕が死んで以来になるか。費禕がなぜ死んだのかは今ひとつ結論が出せていないので流すけど、彼の死によって姜維の立場が強化されたのは事実だ」
A「だろ?」
F「相対的には」
A「……?」
F「まず、確認しよう。姜維は蜀の元勲ではない。あくまで、魏から投降したいち部将にすぎなかった。それが軍権を預かるようになったのは、亡き孔明に認められていたのと、魏延の死後に漢中を預かった呉懿・王平が相次いで死に、最前線を預かれる人材が他になかったのが根拠だ」
Y「純粋な人材不足が原因か」
A「実力じゃないと……?」
F「孔明や蒋琬からは認められたワケだから、それなりの力量はあったと考えるべきだろうが……まぁ、力量に関するオハナシは178回(予定)の『豪胆姜維』(仮称)まで流すことにして」
A「先すぎますよ! 15回先だぞ!?」
F「7月中にはそこまで行く予定だから。ちなみに188回(予定)は『石印三郎』でタイトル決定済み
2人『するンじゃねェ!』
A「3バカ最後のひとりが満を持して登場するまで、あと25回しかないンですね、義姉さん……」
Y「祈る相手を間違うな!」
F「というか、久しぶりに云うが、先を競って話の腰を折るなよ。今回全然進めてないぞ。原因の半分は僕だが。えーっと……魏延の死後漢中を預かった、呉懿が死んだのが237年。最前線が手薄になるのを恐れ、翌238年に蒋琬は漢中に赴任している。姜維が一軍を預かるようになったのはこれに随行してのこと」
A「やっと本題に入れましたよ……」
F「蒋琬が病気で漢中を離れると、呉懿の副将だった王平が鎮北将軍に昇進して漢中を預かることになった。これが243年のことだが、同じ年に姜維は鎮西将軍に昇進している。つまり、この頃の姜維は有力武将ではあっても第一人者ではなかった、ということになる」
A「蒋琬存命中は、どうしても蒋琬の部下としか扱われなかった?」
F「まぁ、そうなる。ちなみに、同時期に、鎮南将軍の馬忠はともかく、張翼は1ランク上の征西将軍、ケ芝に至っては車騎将軍と、大将軍の費禕を含めて、姜維の上位者は少なくなかった」
Y「だが、費禕まで含めて全員死んだ」
F「全員ではないな。王平・馬忠・ケ芝そして費禕は死んだが、張翼・廖化に張嶷が健在だ。また、董允の死後に国政に参与するようになったのが陳祗で、王平の死後に漢中を預かっていたのが胡済」
Y「地味と云うか、小粒と云うか、雑魚と云うか、木端と云うか」
A「……質が落ちまくってるのは否定できない」
F「ただし、この頃になると姜維はかなり上になっている。247年に衛将軍となったことで、上には大将軍・驃騎将軍・車騎将軍しかなく、しかも費禕の死によってその辺りもいなくなり、姜維を抑えられる人材がいなくなったンだ。漢中を預かる胡済さえ鎮西将軍では、衛将軍の行いに口出しできなくても無理はない」
A「上の方がいなくなったから、姜維の立場は相対的に強まった……か」
F「ただし、と云おう。ケ芝の後任の車騎将軍が姜維に協力的だった半面、張嶷は姜維に否定的だった」
A「……なんで?」
F「張嶷が費禕に『裏切り者を信じるな』と進言していたのは以前云ったが、実は、それがいつのことが記述がないンだ。夏侯覇投降後(249年)の話だとは思うが、あるいは……という気もする」
A「姜維を信じるな……とも云っていた、と?」
F「アレだって魏からの寝返り組だろうが。僕と泰永のカミさんが、費禕の死に姜維が関与していると考えにくいのは、張嶷の存在に由来する。実際に費禕が刺し殺されたあとに、張嶷が『裏切り者を信用するなと常々云っていたではありませんか!』と強く主張すれば、姜維から軍権を取り除くことは無理ではない」
Y「下手をすれば自分が失脚していたバクチをするか、という話か」
F「そゆこと。まぁ、それはともかく、費禕の死によって姜維の立場は相対的に強まり、その北伐を止められる者はいなくなった。実際にはまだいたンだが、少なくとも漢中方面軍は北伐一色の空気になっていた。ちなみに、呉懿の親戚筋にあたる呉班の死後(没年不明)、蜀では驃騎将軍がずっと空席」
A「皇帝を別にすれば、大将軍の死後に姜維を制止できるのは車騎将軍だけか」
F「そして、その車騎将軍は、ひともあろうか夏侯覇だった。張嶷でなくても諌めるような人事だが、コレはさすがに劉禅に任命責任があると云わざるを得ない」
A「お前、何やっとんね!?」
Y「どこまで人生ナメてんだ、あのボンクラは」
F「より正確に云えば、根本原因はロリコンの張飛だが、それはともかく。というわけで、と云おう。費禕の死んだ253年から、257年まで、毎年姜維は北伐を行っている。費禕によって専守防衛に改められた蜀の国家方針が、再び外征軍事政策に切り替わったワケだ」
Y「タガが外れたのか」
F「やや好意的に云うなら孔明の遺志を継ごうと志した、否定的に云うなら後ろ盾を亡くした姜維が自己の権益拡大のために軍を掌握すべく動いた……というところになる。ともあれ、姜維は北へ向かった。まず253年の戦闘だが、これが諸葛格の出兵要請に応じてのものだったのは先に見ている」
A「だったね。……しかし、諸葛格が死んだのももう1ヶ月前か」
F「時代の流れには逆らえんが、ここで蜀軍に思わぬアクシデントが発生している。20年ぶりに食糧が不足したンだ」
Y「云ってることの意味が判らんが、笑えるのは確かだな」
A「笑いごとじゃねーよ」
F「孔明の北伐は食糧不足からの撤退がつきものだったが、孔明の死後に行われた北伐では、これまで食糧不足は起こらなかった。何しろ、費禕の時代を通じて1万の兵しか動かさず、蒋琬の代にはそれより少なかったワケだから、その程度の兵数なら充分養える物資は用意できていたンだ」
Y「話の腰を折って悪いが、云ってることの意味が判らん。俺の頭が本格的にうっかりしてきたのか、蒋琬が姜維に費禕より少ない兵しか出さなかったというのはどういうことか、理解できんのだが」
F「えーっと、蒋琬時代に姜維がどれくらいの兵を率いて『一軍を率いて西方に侵入し』ていたのか、明記はない。が、この時代の姜維は蒋琬の副将ないし部下であって、独立した指揮権を有する武将ではなかった。蒋琬が死んでようやく1万の兵を指揮する立場になった、とも云えるンだ」
A「大兵力を与えなかった?」
F「ヒトにそれを与えるくらいなら、蒋琬は自分で動く。蒋琬存命当時の姜維は、あくまで『大将軍の別動隊指揮官』という立場にすぎなかった。孔明が魏延にも許されなかった、1万以上の兵を率いていたとは考えにくくてな」
Y「……壮絶に正論だな」
F「その辺を納得してくれれば、正史によれば数万の軍を率いての北伐で食糧不足に陥ったのは至極とーぜんの展開だと云えよう。曹爽迎撃戦にどれだけの兵数が動員されたのかは不明だが、それから数えても10年近くだ。補給計画の立案と実施に小さからぬ溝があったようでな」
Y「それは当然、魏にも見切られていて」
F「うむ。当時健在だった司馬師は、姜維の向かった狄道(地名)に付近の食糧を収集させてから防御を固めさせる一方、郭淮・陳泰を蜀軍の帰路に向かわせた。魏の食糧を接収して使おうとしていた姜維の計画は頓挫し、一方で諸葛格も敗走していたので、割とあっさり兵を退いている」
A「退き際をわきまえるのは名将の条件だからな」
F「退き方を知らないのを名将とは云わんが、退き方を知っていれば名将というわけではないからな。まぁ、上手く退いたのは確かなようで、魏書曹芳伝・蜀書後主伝・姜維伝のいずれでも被害の報告はない。以前云ったが、多少の戦闘はあり蜀軍から捕虜が出て、費禕が死んだのが魏にも知られた、と見ているが」
A「それほど大きくは負けなかった、と」
Y「一度大きく負ければ懲りることもできただろうに」
A「やかましいわ!」
F「こりなかった、のは事実っぽいな。翌254年、つまり曹芳くんが廃立されて曹髦が立てられた年だが、姜維は兵を出している。ただし、魏の皇帝交替劇は9月から10月にかけてだが、後主伝によると出兵は6月なので、魏宮の混乱につけこんで……という意味あいはない」
Y「つまり、機を見て敏に動いたワケではない、と」
A「どこまで姜維が嫌いだ!?」
F「が、この戦闘で姜維がある程度の勝ちを収めたのは、どう考えても皇帝交替が原因だ。許昌にいた司馬昭を『姜維を迎撃させる』との口実で洛陽に召還し、司馬師もろとも皆殺しにしようと曹芳・李豊は企んだンだから。魏にしてみれば西は郭淮に任せておけば迎撃できるから、その間に政争を終えられる……と考えたンだろう。曹芳も司馬師も」
Y「読みとしては間違いじゃなさそうだな」
F「ところが、思わぬ事態が発生する。昨年蜀軍に包囲された狄道の太守・李簡が、蜀に内通を申し出てきたンだ。先の戦闘で蜀軍が撤退を余儀なくされたのは狄道周辺の食糧が撤収されたからで、その地と食糧が手に入るなら戦闘できる、と考えるのを浅慮とは云えんだろう」
A「……えーっと、でも、呉と魏でそーいう計略を何度も何度も何度も何度も何度も繰り返してたよね?」
F「うむ。触れていなかったが250年、文欽が朱異に『降伏するから迎えに来てくれ』といういつもの書状を送り、だが朱異・呂拠が慎重に動いたため文欽が来なかった事例もある。周魴から数えて22年だ、いい加減懲りてもいい頃合で、それだけに蜀の皆さんも『罠じゃね?』と警戒している」
Y「隣が竹垣に竹立てかけたのを見て自分たちも竹がほしくなったワケか」
F「タイピングする苦労を考えて喋れよ! それなのに、群臣こぞって疑う中で、何を血迷ったのか張嶷が『いえ、信用できます。行きましょう!』と云いだした。いちばん疑いそうな奴が自説をひっくり返して賛成に回っては、誰も姜維を止められない。そして、なぜか李簡はマジで郡県挙げて降伏しているンだな、コレが」
A「……魏に何か不満でもあったの?」
F「正直、判らん。李簡について、正史では蜀に寝返ったことしか記述がないし、演義には出てこないから、なぜ降ったのか理由は判らん。司馬師の専横を心苦しく思って……というところだろうか」
A「そんなところだろうねェ」
F「その司馬師が皇帝を廃立したり挿げ替えたりするのに忙しく、宮廷からの指示がなかったのに加え、翌年に死んでいることから郭淮も衰えていたようで、即座に迎撃できる態勢が整っていなかった。以前、麹山攻防戦に従軍していた徐質が、何とか攻撃をしかけているものの、本人は討ち取られ、蜀軍の倍以上の死者を出した……とある」
A「大勝利じゃねっ!」
Y「大敗か……だが、手をこまねいている魏ではあるまい?」
F「いや、こまねいていたようなんだ。それどころじゃなかった曹芳伝・曹髦伝は仕方ないにせよ、郭淮伝・陳泰附伝(陳羣伝に収録)のいずれにも、迎撃に出たという記述がない。対して蜀書では、後主伝・張嶷伝・姜維伝で、徐質を討って勝利し、狄道など三県の住民を蜀に連行してきた記述がある」
Y「辺境三県程度の被害、記録にとどめるまでもない……ということじゃないか? 前にもあっただろう」
F「実情がどっちだったにせよ、郭淮・陳泰に動いた気配がなく、姜維が勝ったのは事実のようでな。徐質隊の被害がどれほどかは不明だが本人を討ったことからも、しばらくぶりどころか姜維本人としては初めてとなる勝ち戦に、蜀軍の勢いが増したのは云うまでもない」
A「この調子で勝ち続けてもらいたいですなっ♪」
F「そうもいかないのが姜維なんだが、それはおいおい見て行こう。ところで、この一戦で張嶷が死んでいる」
Y「やっと死んだか、タイトル武将」
F「本業としては馬忠の下で南方の抑えを張っていた張嶷だが、夏侯覇(や、たぶん姜維)に否定的な態度を取り、費禕に『降り者を近づけるな』と進言していた。蜀国内における反姜維派の急先鋒とさえ云えるが、晩年には姜維に従って北伐に従軍している」
Y「心変りがあったのか?」
F「いや、自分の死期を悟って、死に場所を求めたようでな。南方の風土に身体を壊して、成都に出てきた折には杖なしでは起き上がることもできないありさまだった。李簡の降伏を信じるよう強弁したのも、最期の御奉公となる戦場を求めて、自説を曲げたと考えれば筋は通る」
A「通るは通るけど、そういう武将かな」
F「そういう武将だと思っているぞ。一つ所に命を懸けると云うか、どうにも不器用な武人。寝返ってきた武将だからと距離を置いたり、死に場所を求めて自説を曲げたりと、戦場での駆け引きに比べて世渡りは下手な、だがそれだけに世人からは慕われる、そんな人柄」
A「地味な、というか……ひと世代くらい前の武将みたいな雰囲気だね」
F「それだけに、徐質隊との戦闘で死んでいるけど、出陣前にしっかり死亡フラグを立てている。成都に戻ったばかりで、おまけに身体もそんな状態では、従軍などとんでもない……と周りが止めても、本人は意地でも行くと云い張った。それを止めることは劉禅にもできなかったが、そんな張嶷は劉禅に言上している」

『自分は先帝に見い出され、身に余る恩寵をお受けしておりましたのに、病に身をやつし御厚遇に応えられず死ぬのではないかと、常に恐れているであります。幸いにも天が自分の願いを叶え、北伐に参加させていただくことになったのであります。この上は粉骨砕身し、もし涼州を平定したならば国境を守り、勝利を得られねば一命を捨てて御恩に報いる所存であります』

F「劉禅はその心意気を感じ取り、彼のために涙を流した」
Y「実際に死んでりゃ世話ないが……こういう不器用な漢は長生きできないモンだ」
A「惜しいヒトを亡くしました」
F「続きは次回の講釈で」

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