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私釈三国志 162 神医華佗

F「はいっ、アキラ不在のためコラムですー」
ヤスの妻「華佗センセなんだ」
Y「……何喰わぬ顔でここにいるし」
ヤスの妻「御不満?」
Y「とんでもない」
ヤスの妻「はいいけど、えーじろ。わたしいつまで『ヤスの妻』表記なの?」
F「難しいところです。アイツ(三妹)もアンタもTですから、1文字だと区別できなくて」
ヤスの妻「ちーちゃんはCにするとか」
F「まぁ、こだわらないでください。えーっと、左慈・管輅については講釈したのに、華佗をスルーしていたのは……ぶっちゃけ忘れていたからなんですが、リクエストもあったので1回を割こうかな、と」
Y「何であの場面でやらなかったのかとは思っていたが、いつもの突発性間抜け症候群か」
F「ほっとけ、病原菌。欲を云えば翡翠ちゃん(祖父母が医者)がいてくれればよかったンだが、相変わらずあのがっこうはガードが堅くてな。ともあれ、突然ですが、ここで問題です」
Y「医学的な知識はないぞ」
F「僕も乏しいからそこは安心しとけ。病気が治る見込みのない状態に陥ることを……」
ヤスの妻「はいっ(ぽくっ)」
Y「どこから出した、その木魚」
F「はい、陶双央さん」
ヤスの妻「病膏肓に入る〜」
F「と云いますが、では、この言葉の出典をお答えください」
ヤスの妻「むっ?」
Y「問題は最後まで聞こうな。俺も判らんが」
ヤスの妻「むぅ……?」
F「意外にも春秋左氏伝です。左伝癖と云われる関羽や杜預なら答えられたでしょうね」
ヤスの妻「……なんかすっごく悔しい」
Y「あとが怖いンだから、そういう真似はやめとけよ……」
F「危ない橋は真ン中を歩くが、往々にして落ちるのが僕の人生だ。えーっと、ちょっと見てみるか」

 BC581年。
 晋の景公が、病気が悪化したので、秦に名医・緩を派遣してくれるよう頼んだ。幸い、すぐに緩が来てくれることになったので、しばらくぶりにゆっくり床につく。
 ところが景公、病魔が話し込んでいる夢を見た。
「オイ、今度来るのは名医だそうだぞ。どーしたらいいかな」
「なぁに、横隔膜の上、心臓の下にもぐりこんでしまえば、どんな名医でも怖くないって」
 到着した緩は、景公を診察すると首を振った。
「病は横隔膜の上、心臓の下に入り込んでおり、薬も鍼も効きません。面目ありませんが、打つ手がございません」
 そう云われた景公だが、むしろ感服したように、
「先生は、本当に名医ですなぁ」

ヤスの妻「皮肉を云ったンじゃなくて、景公はいい患者ってオハナシかな」
F「ですな。いつぞやアンタが云った通り、この時代の漢土における医療技術は、ギリシャのそれに引けを取りませんから。まぁ、紀元前の頃からすでにプレインカでも頭部切開手術は行われていたそうなので、非文明地域(日本含む)と西ヨーロッパの医療水準が低かった、と見るのが正しいようにも思えますが」
ヤスの妻「文明って言葉の定義にもよると思うけど」
Y「おい歴史ジャンキーども、三国志から離れるな」
F「失敬。そんな高水準だった医療技術の、さらに上を行っていたのが華佗です。裴松之に云わせると『字が元化なら名は尃(IEだと字が出ない)が正しい』とのこと。譙(豫州)の生まれですが、徐州で学問を修めました。ただし、正史・演義のいずれでも生年が不詳のため、年齢は不明」
ヤスの妻「ちょっと残念」
F「ですか。沛(地名、徐州)を治めていた陳珪老に孝廉に推挙されたり、太尉時代の黄琬(董卓に登用されたものの、王允とともに董卓を殺し、王允とともに残党に殺された)に招かれたりしているので、学問の結果が出はじめたのは190年前後と計算できます」
Y「また懐かしい名前が並ぶな」
F「ここで注目すべきは、陳珪老に孝廉に推挙されたことでな。徳目に優れた者を中央に送り下級官吏として養成する仕官の第一歩なんだが、優れた人物(つまり、有力者の子弟)でなければ四十歳以上という規定があるンだ」
Y「つまりが少し間違っている……いや、間違ってないのか? やや違和感があるが、その規定によれば40歳以上か」
F「有力者との血縁があったとは正史・後漢書のいずれにも記述がない(『誰某の子孫』や『父は〜』との記述が一切ない)ので、190年時点で四十代後半というところだろう。逆算すると140年代の生まれになり、『孝廉は40歳以上』との規定を設けた順帝(八代、125〜144)の頃にちょうど生まれたことになる」
ヤスの妻「あるいは……という気もするけどね。正史に『当時の人々は華佗が百歳くらいになると云っていたが、外見は若々しかった』とあるのは、本当に若かったってことも考えられるよ。現に、陶謙さんの死後に劉備が立てられたけど、当時劉備は三十代だから」
F「若手を立てるのを否まない……か。……うん、それはちょっと見逃せないかな。ひとまず、この場では華佗の年齢は不明として通します。結論の出せるオハナシじゃなさそうなので」
Y「相変わらず、俺やアキラでは届かんレベルのやり取りを……」
F「ただし、この両方の誘いを、華佗は断っています。推挙されたからにはすでに名声を得ていた反面、仕官しなかったからには後漢朝廷を見限っていた、と考えていいだろうね」
ヤスの妻「ということは、その頃にはもう医術を身につけていたことになるね」
F「でしょうね」
Y「……なんでだ?」
ヤスの妻「仕官しなくても生活していけるスキルが、すでに身についていたってこと」
F「手に職があって断った、という見方ができるンだよ。正史の記述は、断ったあとは外見(上記)について触れて、そのまま医療行為に入っている。そのまま下野して医師としての生き方を進んだようでな」
Y「ふむ……」
F「さて、華佗については正史三国志と後漢書のそれぞれに収録されていて、その医療行為について後漢書では7つ、正史では16の事例(後漢書の7つ含む)が書かれている。ただし、いつぞや云ったと思うが、関羽や周泰を治療した事例は見当たらない。関羽は民間伝承の段階ですでにあるが、周泰を治療したオハナシは羅貫中の創作だ」
Y「それをお前は、笑えない話のネタにしている、と」
F「そゆこと。さて、個々の事例……をどこまで見るべきか。えーっと、華佗は薬を調合するとき、秤は使わなかった。それも、大量の薬剤は使わないで数種類だけだったのによく効いた。あるとき、ふたりの役人が頭痛と発熱を併発したが、華佗はそれぞれに別の治療を行った」
Y「ふむ?」
F「当然、それはどういうことだと気にしたヒトがいたが『病因が身体の外にあるのと中にあるのとでは、別の治療を行わねばならんだろう』と軽く応えている。事実、翌朝にはふたりとも治癒している」
ヤスの妻「2世紀そこらですでに病原菌の存在を把握していたのかな」
F「ありえない気もしますが……。また、鍼治療は数が多いほど御利益がある、みたいな風潮が現代でもありますが、華佗は1ヶ所2ヶ所に打っただけで治しました。この際に『刺しているのを感じたら云ってねー』と伝えておき、患者が感じたらそれで抜く。するとすぐに効果が出たとあります」
Y「便利だな」
F「そうだな。また、現代では子供の背中に火傷で字を書くのに使う拷問道具の灸ですが、当時では医療道具として用いられており、これも1ヶ所2ヶ所に7か8回で終えていたそうです。とある子供が、ひと晩で49ヶ所を16セットやられたことを考えると、驚異的な数字だと云えましょう」
ヤスの妻「えーじろの背中のがよっぽど驚異的だよ……」
F「えーじろ云うな。さて、最初に病膏肓に入るを見たけど、華佗はそれを超越している。麻沸散と称する麻酔薬を使って患者を仮死状態にし、おなかや背中を切り開いて病巣を取り除く手術を行っていたのね。部分麻酔は紀元前のプレインカでもすでに行われていたけど、全身麻酔となると19世紀まで失われていた」
Y「だから、インカから離れろ」
F「む。そんな医療行為で名声を馳せた華佗を、曹操が召した。持病の頭痛が起こるたびに胸が詰まるわめまいがするわだったが、華佗が横隔膜に鍼を打てばすぐに治ったという」
ヤスの妻「膏肓はどこに行ったのかな」
F「違いない。話はちょっと変わりますが、華佗がどこで、あるいは誰に医術を学んだのか……というのは完全に不明。後漢書・正史三国志のいずれにも記されていません。ただ、鍼灸を重視せず、薬剤も数を使わず、90まで生きた呉普という弟子に『養生のため、動物を模した健康体操を行い血脈を整えるべし』と教えていることを考えると、私見ですがインド系の医療技術を学んだ可能性があります」
ヤスの妻「あ、ヨーガの業?」
F「中国を上回る歴史と技術を持つ国は、アジアにもあるンですよ。華佗がどうやって医療技術を学んだのかは判らないので、そんな可能性もある……と発言しておきますが、なぜ学んだのか、も不明です。後漢王朝の三公からの仕官をはねておいて曹操には仕えた辺り、説明がつきにくい人生を送っているンですね」
ヤスの妻「後漢王朝の衰えは誰の目にも明らかだったから黄琬からの誘いはつっぱねて、でも曹操に仕えることで次の時代への誼をつなごうとしたのかな」
Y「医者がンなこと考えていいのか?」
F「いつぞや士燮を生き返らせた仙人だが、名は董奉という。実は呉の名医で……」
Y「それはそれで聞きたくない!」
F「孫家とのつながりはさておくよ。このヒトは、治療はしても金は取らず、代わりに、重病なら5本、軽症なら1本の杏の木を植えさせたンだ。いつしか杏の木は十万本を越えたが、董奉は杏の実を穀物と交換して、穀物は貧しい人々に分け与えていた。医に属する者を杏林と呼ぶのは、董奉に由来しているンだ」
Y「……それで?」
F「この董奉、虎を連れ歩き300年を生きた仙人とされているが、それが原因でもなかろうけど、当時の医療従事者は民衆からある種の尊敬を受ける半面、社会的な身分は低かった。……まぁ、技術者全般に云えることだが。だが、もともと学問(つまり、儒教)を学んだ華佗が、董奉のような仙人生活を好とはしなかったのは仕方ないだろう」
Y「まぁ、正史にも『医者としか扱われないのが不満だった』とあるな」
F「そこで華佗は、曹操が重い病気になったのを見計らって『実家から書物をもってきます』といって休暇を取って帰郷すると、そのまま戻らず、妻が病気になったと云って休暇の延長を申請した。曹操は書面で、あるいは譙の役人を通じて、戻るよう説得するンだけど、自分の技術があれば処罰はされまい……と高を括って相手にしない」
Y「曹操を見限った、というところか?」
F「ところが、曹操は人材を愛してやまない。取り調べの使者を送るンだけど『もし妻が本当に病気なら、小豆四十石を与え、休暇延長を認める』と、酌量の態度を見せているンだ。で、妻の病気が嘘だったら捕らえて連行してこい、と」
Y「疑ってはいても、その腕を惜しんだのかね?」
F「医者に『病気です』と云われて疑う奴は少ないだろう」
Y「……考えてみればそれだけの話か」
F「本来なら80回の『曹操孟徳』でやっておくべきだったが、この件に関して曹操が責められる謂われはない。曹操が華佗を殺したのは、曹操が残忍だったからだ……みたいな見方があるが、正史の記述を見ている分では、どちらに非があったのかは明らかなんだ」
Y「俺が曹操責めてどうする、という気もするが、明らかと云っていいのか?」
F「主君に医者として仕えておきながら、高官になれなかったのを逆恨みして、病気を治すためと偽って逃げ、腕を恃んで出頭要請に応じない。それでも『本当なら見舞いの品も送るし、休みも延ばす』と云った主が、どうして責められねばならんのか、僕には判らん」
ヤスの妻「……うん、フォローの余地はないね」
Y「この一件に関して、曹操を責めるのは筋違いだ……というところか」
F「そんなワケで、技術に溺れて曹操を欺いた華佗は捕らえられ、獄につながれると命が惜しくなったのか罪状を認める供述をした。荀ケが『他にふたりといない名医を殺されるのはいかがなものかと……』と命乞いしているが、曹操は『あんなネズミが他にいないなどあるか!』と聞き入れない。208年、獄中で華佗は死んだ。繰り返しになるが享年不明」
Y「同じ年に溺愛していた曹沖が死んだことについて『華佗を殺したせいで、この子を死なせてしまった』と後悔しているな。結局、死ぬまで頭痛の持病は治らなかったし」
F「曹沖はともかく頭痛については『華佗を生かしておいても、これを治しはしなかっただろう』と云っているけどね」
ヤスの妻「えーじろ触れなかったけど、荀ケさんが華佗センセをかばった理由は?」
F「荀ケの男児は正史で4人確認できますが、末っ子除いて全員若死にとあります。親心から医者をかばっても、無理はないでしょうね。だからえーじろやめろ」
ヤスの妻「……若死にとはあるけど、それなりのトシにはなってたと思うな」
F「問題は208年時点での健康状態でしょうね。その辺りが確認できる資料があればいいンですが。まぁ、それはさておき。ところで……」
ヤスの妻「音羽屋ー♪」
Y「喜ぶのお前だけだよ!」
F「曹操が唯才令を布告したのは2年後だけど、才能があれば人格を問わなかったワケではないと、148回で云っている。改めて考えると、華佗は曹操の部下には向かない人材だったのが判るな」
Y「才覚だけあっても、協調性や忠誠心に欠ける者は魏に相応しくない……か」
F「華佗をネズミ呼ばわりしたのは、医の力量ではなくその薄汚い人格だろうね。曹操に殺されたことで悲運の名医扱いされているけど、性根が腐っていては医者として大成できない。医は仁術なんだから」
Y「……この調子で、禰衡の死を正当化してくれると期待していいのか、それとも覆されるというのだろうか」
ヤスの妻「なかなかに興味深いオハナシで」
F「続きは次回の講釈で」

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