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私釈三国志 161 司馬士元

F「さて、司馬師(字は士元)が死んだ」
A「割と、というか露骨に情けない最期でしたね」
Y「目玉が落ちて死んでは、むしろ歴史に残すべきレベルの死に様とも云えるがな」
F「非道いこと云うンじゃありません。とりあえず、正史の注でも文鴦が斬り込んで来て、だが文欽が来なかったために引き揚げた……のは記述がある。ここで、前回名のみ触れた尹大目が出てくるが、さすがに直接の明記はないものの、コレが原因で文欽が遅くなったのではないか、という足止めをしている記述があってな」
A「足止めって、叛乱起こした敵将を?」
F「尹大目は、もともと曹家に仕えて、蒋済の投降勧告文を曹爽のところに持っていった張本人だ。なぜか戦場に連れて来られていたンだが、曹爽と同郷だった文欽とは、顔見知りだったワケだ。その辺りの関係から『私は文欽に信用されているので、説得して降伏させます』と司馬師に申し出た」
A「油断ならん人間関係じゃね?」
F「その通り。この尹大目、曹家をこそ重んじていた。ために、内心では文欽の味方で『どーしてお主は数日の我慢ができないのです!』と叫んでいる。つまり、司馬師の病状悪化が明らかで、数日すれば死ぬンじゃないかと思われていた……ということだが」
A「周りに判るくらい消耗していたのか」
F「ところが文欽はそうと気づけなかった。弓を手に『先帝にお仕えしたお前が司馬師と組んで叛逆するとは何事か!』と怒鳴り返している。尹大目は『お前なんか失敗しちゃえ!』と泣いて逃げたが、文欽がもう少しヒトのことを気にかける性格だったら、割と戦況は変わっていたように思える」
Y「司馬師が病気だったのは事前に判っていたンだから、尹大目の発言から病状が悪化したのに気づければ、動きは変わっていたな」
A「ところがコイツは自分勝手な性格……」
F「智将と呼んでいい(ただし、この一戦で評価を落とした)毌丘倹なら、見抜けたかもしれない。文欽は、尹大目(というか、曹爽)に義理を立てたのか、それとも別の理由でもあるのか、息子に呼応せず、この夜攻撃しなかった。ために、司馬師親衛隊に追撃され、呉に逃げ込んでいる」
A「どーにも、魏に叛する輩は、コイツといい夏侯覇といい、今ひとつヒトの話の裏を見ないね」
Y「だから叛くンじゃないか? 魏の空気になじめなくて」
F「否定はしかねるな。……とまぁ、このように、正史および演義での毌丘倹の乱を見てきた。ただし、タイトル的に正史でのものは積極的には使えないので、正史でどう書かれているかは触れなかったが」
Y「お前の云ってることの半分くらいが判らん」
F「メールで云われた、160回の『正史にも正史にも……』は誤植じゃない。この頃に関して正史と呼べるものはふたつあるってこと。陳寿の三国志および羅貫中の演義で書かれているものは見てきたが、晋書での記述は『私釈三国志』というタイトル的に使いにくい、というところでな」
A「……あぁ、晋書でもこの辺りの戦闘は記述されてるンだ?」
F「そりゃあるだろう、皇帝の伯父君が事実上戦死した戦闘について、触れないワケに行くまい。……が、後漢書や晋書を積極的に使うのは、『私釈』では許されるのかという問題があってな」
Y「ボーダーは切らないンじゃなかったか?」
A「そも、もう何度でも使ってるじゃないかね……」
F「ごもっとも。というわけで、もうひとつの"正史"たる晋書では、この戦闘がどう書かれたのか……を見てみるが、基本ラインは同じだ」
Y「だろうな。負けるわけにはいかんだろうし、文鴦のせいで死んだのも変えられない」
A「あ、文鴦のおかげなんだ?」
F「不思議なことにはっきり書いてあるな」

 文鴦が攻めてきたせいで、司馬師の目玉が出てしまった。全軍が恐慌するのをおそれて蒲団をかぶり隠したが、痛みが非道い。蒲団を噛んでやせ我慢したせいで蒲団はボロボロになってしまったが、周りには知られずに済んだ。(ンなことをしていたから)病が重くなり、司馬昭に後を任せ、許昌で死んだ。
(晋書景帝紀より)

Y「晋書はこれだから……」
A「えーっと……いつものオモシロ翻訳機能?」
F「いつものって何だ。僕は常に三割二厘の脳細胞を活用しているぞ」
Y「使ってない70パーセントを切除したら、もう少し扱いやすくなるのかね」
F「暴言は聞き流すが、いつぞや云った通り晋書は唐代の成立だ。数百年後だけあって、真面目な記述だけではなくこーいうちょっとずれた記述も平気で記載されていてな」
A「その分、信憑性はどうなの?」
F「僕のスタイルとしてはその点に言及できない。とりあえず、正史三国志では司馬師の最期について、直接の描写はない。仲達や司馬昭同様、本人の伝が立っていないから仕方ないンだが」
A「陳寿が晋にはばかった、と」
F「まぁ、そうなる。その王朝の"正史"をまとめるのは滅んでから、というのが大前提にあるので、陳寿は晋とその創始者一族については"三国志"に記載しなかったンだ。その割には司馬朗は伝を立てられている……が、彼は217年に死んでいるからだろう」
Y「前年に曹操が魏王になっているが、まだ後漢時代だな」
F「陳寿が司馬師の最期を正史三国志に書かなかったからには、晋書と演義が伝える文鴦の働きは事実に近い、と逆算できる。晋に仕える陳寿が、司馬師の『歴史に残すべき』『情けない』最期を書けるワケがないが、彼がときどき、故意に書かないことで行間を読ませているのは常々見ている通り。3ひく2は1だ」
A「……云いたいことは判る」
F「が、正史をよく読むと、陳寿は司馬師について、その能力をやや疑問視しているのが読めてな」
A「へ……?」
F「前回云ったが、毌丘倹平定に際して、司馬師はやや精彩を欠いている。動きが鈍くて王基にフォローされたり、文鴦に斬りこまれてむざむざ逃がしたり、だ。もともと宮中で近衛の軍を率いていた司馬師が、自分で大規模な軍を率いて外に出たことは、あまりなかったのが実情でな」
Y「諸葛格に呼応して姜維が北上したときも、演義では司馬師が迎撃に出ていたが、正史では郭淮たちに任せきりか」
F「大将軍自ら動くとしたら、呉に向かうだろう。孔明存命中でさえも、魏は呉を強く警戒していた。そして自ら動いたこの戦闘では、司馬師はほとんどいいとこナシ。病気の影響で思考力が低下していたにしても、ちょっと非道い」
A「……確かに」
F「仲達・司馬師・司馬昭はセットで見られがちだが、器量で云うなら司馬師はやや劣る。陳寿が書いたエピソード、書かなかった(書けなかった)行間を読んでいると、そういう結論が出るンだ」
A「蒋琬・費禕・姜維をひとまとめにしちゃいけないのと似たようなもので?」
F「うむ。3人セットで扱うと大事なものを見落とす……ような気がする。ここで、泰永は知らないことをアキラは思いだすべし。演義での話ではあるが、孔明の空城の計を見破ったのは誰だったか、を」
A「……あぁーっ! ここでそんなモン来たー!?」
Y「俺のいないときにやった、番外編の2か」
F「そう。『私釈』の本筋では完っ全にスルーした、馬謖の敗走後に仲達相手にかました空城の計だ。仲達率いる15万の魏軍相手に2500の兵しか手元にない孔明は、城の門を開け放って童子を従えお琴を鳴らす。これを見た仲達は退却を命じる……のだが『野郎は我らに手も足も出なくて、あんな真似をしているのでは?』と云ったのは、誰だった?」
A「司馬昭でした……ね」
F「繰り返しになるが、陳寿は正史三国志に司馬師の伝を立てていない。ために、司馬師がどんな人物だったのかの評がないンだ。陳寿の司馬師評は行間を読むしかないンだが、軍事的才覚はどうにも父や弟に劣る……というのが、陳寿・羅貫中の共通認識のようでな」
Y「比べる相手がやや酷、という気もするがな。司馬昭はともかく、司馬仲達は孔明を破った、魏後期の守護神だぞ」
F「仲達の指揮能力はもともとたいしたレベルじゃなかったのはいいな?」
Y「ナニを云いだした!?」
F「曹操・曹丕の時代には文官で、自分で兵を率いたのは孟達攻めが最初のはずだ。ところが、続く石亭援護戦では瑾兄ちゃんを抜けず、曹真逆撃戦では為すことなく撤退。そして迎えた第四次北伐、孔明との直接対決でも終始孔明に翻弄され張郃を失っている。デビュー戦でKO勝ちしてからは、判定負けが続いていたような状態だ」
Y「本軍敗走のとばっちり受けた前2戦はともかく、ポイントはほとんど全部取られダウンまで喫しては、第四次北伐も負けと認めざるを得んのか……」
A「勝率で云うなら、そんなに高くないの?」
F「当初はな。その後はしっかり軍功を重ね、孔明・瑾兄ちゃんを陣没させ、公孫淵・王淩を平らげている。孔明同様、もともと後方で官僚張っていた仲達が、いきなり軍を率いても上手くいくはずがない、というオハナシ」
Y「……考えてみればそれだけのことか。そして、お前はまたしても、その辺りを今までごまかしていた」
F「慣れてきたモンだねー。さて、ではここで、毌丘倹攻め・淮南平定戦における司馬師のはたらきを、正史三国志・晋書で見比べてみる」

正史三国志(の記述をまとめたもの)
 当初司馬孚を送るつもりだったが、傳嘏らの勧めによって自ら出陣。ただし、王基にせかされるほど進軍速度は遅く、また南頓の重要性を軽視していた。
 項城を包囲し諸葛誕を動かし、毌丘倹らを孤立させ兵たちを降伏させる。持久戦でケ艾を使って文欽をおびき出し、その隙に王基が項城を攻撃。毌丘倹は敗走ののちに討ち取られた。
 が、眼に見えて病気が悪化し、重体に。許昌まで引き上げて死んだ。

晋書景帝紀(の要約)
 武将(明記はない)を送るつもりだったが、傳嘏らの勧めによって自ら出陣。通常の倍の速度で進軍し、毌丘倹らが項城に入る前に戦場に到着した。
 王基を送って南頓を抑え、諸葛誕・胡遵らも到着。諸将は項城を攻めるよう進言するが「持久戦なら戦火を交えずに勝つことができよう」と降伏を待つ。実際に多くの将兵が降った。
 そこでケ艾を使って文欽をおびき出し、司馬師自らその背後に回ったものの、文鴦の奮戦に動揺する。文欽が動かなかったので文鴦も退却したが、追撃命令には諸将二の足を踏んだ。「連中の勢いはすでに死んでいる!」と督戦し追撃させるが、文鴦はそれを数十騎で退けた。そこで騎兵・歩兵を出して文欽の陣を攻撃させて打ち破ったところ、文欽親子は呉へと逃げ去った。毌丘倹も項城から逃げ、中途で討ち取られた。
 ところで、文鴦が攻めてきたせいで、目玉がポロリ。自分で押し込んでやせ我慢したものの、結局助からず許昌で死んだ。

F「正史三国志と晋書の記述の最たる違いは、司馬師本人の働きがあるかないか、だ。晋書では、魏軍の動きのほとんどが司馬師の指揮で、文鴦に斬りこまれたのだけが計算外だった……みたいな書き方になっている」
A「対して陳寿は、戦略的にはともかく個々の戦術は、諸将、主に王基の動きで勝ったみたいな書き方。司馬師は大局での指揮に徹していた……か」
Y「……妙だな。何で陳寿の方が、司馬師を低く見ている記述なんだ? どちらが真相かはともかく、晋に仕える陳寿がそんな記述をしたらまずかろう」
F「それが事実だったら、晋の宮廷としても文句は云えんよ。というか、云われても史官なら叛く」
Y「むっ……」
F「以前、毌丘倹が仲達に似たような思考を持ち、公孫淵相手に見せた燕攻略戦を参考に高句麗攻略を成し遂げた……と云ったな。侵攻してきた敵には持久戦で、侵攻する場合は速攻で、と使い分けるものだが」
A「さすがな臨機応変ぶり、かな」
F「生前の父の軍中に従軍していたのか明確な記述はないが、司馬師が司馬師で仲達を参考にしたのが判る。今回の毌丘倹攻めには、権謀で投降を誘い敵の将兵を減らしつつ、多勢をもって進軍して追い詰め、ほとんど戦わずに勝利する、仲達の王淩攻めと同じパターンを狙っている」
A「パターンは美徳だねぃ」
F「問題は、司馬師に軍才が欠けていたことでな」
A「……云いきるなぁ」
F「正史三国志には『王昶がよくやった』『傳嘏の策があたった』と書かれていて、作戦は傳嘏や鍾会、本隊指揮は王昶(本隊にいなかったら、他のどこにいたのか判らない)が担当していたようなんだ。王基の進言を容れたり容れなかったりと、司馬師本人は病気の悪化で判断力が緩んでいたのが見てとれる」
A「将には向かない人材だった、と?」
F「晋書に書かれたこの姿に、司馬師の本性が現れているように思える」

 曹爽を討つに際し、司馬懿ははかりごとを密にするため、当初司馬師にのみことを打ち明けていた。前日になってようやく司馬昭にも計画を告げたところ、落ちついていることができないのに対し、司馬師は変わらない様子で寝ており、夜が明けると門を三千からの私兵でかため、洛陽内外の治安を鎮め、混乱を起こさせなかった。

F「計画だてて活動するなら有能だが突発事態(文鴦のような)には弱く、本質的には将ではなく、後方にあって政務・謀略を担当する人材、だな」
A「……好きになれないタイプだなぁ」
Y「同感」
F「お前らと同意見のようで、毌丘倹も『司馬一族はともかく司馬師は許すな!』と檄を飛ばしている。この辺りの自覚があったのかなかったのか、父と同じことをしようとして失敗しているのは、ある種の必然だろう」
A「聞いてる分では、何で毌丘倹が負けたのか判らん」
F「司馬師が官軍で毌丘倹が叛乱軍だったからだよ。毌丘倹が曹芳の身柄を抑え、許昌に立てこもって司馬氏打倒を唱えれば、ある程度同調する者は出てきたはずだ。だが、司馬師に立てられたとはいえ曹髦は皇帝だ。『アレを皇帝にしたのが気に入らない』と云われては、黙っておれん」
Y「客観的に見れば皇室の権威にたてついてるンだからなぁ」
F「同調者が出なかったのはその辺が原因だが、あの檄で痛いところはついているンだ。司馬師が李豊や皇后らを殺し皇帝を挿げ替えたのは事実なんだから、それを大々的に糾弾したのは政略としては正しい。ただし、司馬師は自分への非難を魏帝国への叛逆にすり替え、天下を挙げてこれを討った。ちょっとヤバい発言をしよう。どっかの国の大統領は、自分への非難を黒人全般への差別に置き換えることで支持を集めたが、それと似たようなモンだ」
Y「ヤバすぎる発言するな!」
A「アキラは何も聞きませんでした! えーっと、父譲りの謀略性能は、淮南の太守程度では太刀打ちできるものではなかった、か」
F「どことも誰とも云ってないので、見逃してくれ。司馬師という男は、戦術指揮能力こそ乏しいが政戦両略には通じ、天下を治める宰相として充分な力量を備えていた。端的に云えば、孔明に近い立場と能力だった、とも云える」
A「ぶっ!?」
Y「……道理で気に入らなかったワケだ」
F「ではなぜ、孔明とまるで違う感想を持たれるのか、評価を受けるのか。そうと気づかれていないから、というのが大きいが、やはり曹芳廃立に求められる。君主の挿げ替えなどという臣下にあるまじき行いをしでかしたせいで、功績も人格もひと回り低く見られるンだ。アイツは君主をないがしろにしたぞ、と」
Y「孔明でも劉禅の廃立は考えなかったが、アレの他にもうちょっと……いや、かなりマシな後継者がいれば、除いていた可能性は低くないからなぁ」
F「君たらぬ君であっても臣には臣たることが求められるものだからな。だからこそ、孔明は敗れ、だが賞賛された。司馬師は勝ち、だが批判された。泰永のように客観論で評価するなら、孔明は忠臣で、司馬師は叛臣だ」
A「君主が愚かであってもそれを支えた宰相と、愚かな君主に耐えられなかった宰相……」
F「ことの善悪を問うつもりはないし、そもそもフォローはできんが、この一戦に勝利してなお、せめて孔明ほどの寿命があったのなら、評価を覆すことができたかもしれない。だが、臣たらぬ行いの果てに病を得て、司馬師は死んだ。255年2月28日、享年48」
Y「……赤壁の戦いから、すでに50年近く経っていたか」
A「孔明さんの死から数えても20年だねェ……」
F「ずいぶん遠くへ来たものだが、まだまだ先があるからなぁ……。ところで」
A「やるンだよね、やっぱり……」
F「呉に逃げた文欽だが、どーして負けたのかが明らかなボケをかましている。遠交近攻という外交の基礎に立ち返ったワケでもあるまいが、事実上の対蜀方面軍軍団長たる郭淮に、自分たちに呼応するよう書簡を送ったンだ」

『亡き曹爽殿は司馬仲達殿とともに、明帝曹叡様から天下と天子をお預かりされました。
 だのに司馬家は曹爽殿一派を根絶やしにし、天下の俊才をも処刑いたしました。曹真殿と御懇意であられた郭淮殿は、どれだけお心を痛められたでしょう。また、王淩殿が司馬家の専横を討つべく兵を起こされたのも成功せず、やはり誅殺され、害は曹彪様にまで及びました。思いだすだけでも心が震えます。
 司馬仲達こそ死にましたが、司馬師の暴虐は月日を経るごとに強まり、主君を放逐して皇后を殺し、忠臣を殺戮しております。これを我慢できるなら、世の中に我慢できぬものなどありません。私は地位も名誉も道義も節度も備えておりますので、義憤に燃え毌丘倹ともども兵を挙げました。
 その毌丘倹の息子が、郭淮殿が呼応してくれると伝えてきた折には、天にものぼらんほどに心が躍ったものです。我らは出陣し郭淮殿が動かれるのを待ちましたが、一向にその報せは入りませんでした。
 ともに魏朝の臣同士、なにゆえご自分の名を貶めるような真似をなさるのですか。そりゃ私が負けたなんて噂が流れたせいで毌丘倹まで逃げましたが、私はこの通り生き延びて王基らを打ち破り、ですが後援がなかったのでやむなく呉に身を寄せたのですぞ。これも全て、魏の天下のためを思えばこそです。
 郭淮殿、曹爽殿や王淩殿の恨みを晴らすため、蜀と結んで兵を挙げられませい。司馬家を滅ぼし天下を平定した暁には、ともに子々孫々に続く封国を賜りましょうぞ』

A「魏を救うため蜀に降って、呉に呼応して攻め込んでくれ!? いったい何のために戦ってきたンだ!?」
Y「……まぁ、曹真の副将格で王淩の義弟を巻き込むのは、あながち間違いとも云えん。王淩の妹たる妻をかばって、司馬家にたてついた前科もある。だが、ホントに呼応するなんて応えたのか?」
F「ありえない。そもそも毌丘倹の息子は挙兵計画に否定的で、毌丘倹が計画を実行するそぶりを見せると、難を逃れようと洛陽から家族を連れて逃げ、捕まって皆殺しにされているンだから」
A「連絡取ってる暇はなさそうだね」
F「そして、それ以前で、この頃すでに郭淮は死んでいた。文欽が打ち破られたのは2月16日だが、1月30日に」
Y「……これじゃ負けるワケだ。その程度の情報収集能力で、司馬一族に刃向かうのがおかしい」
A「こんなアホじゃ勝ちめはないね……」
F「続きは次回の講釈で」

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