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私釈三国志 160 淮南平定

F「貧血ー」
Y「乏しいのは理性か反省か。かなりへばってるな?」
F「妊娠してそっち系が強くなるのはどうなんだろうねェ……上の子のときもそうだったけど、夜が激しくて」
A「えーっと……姉のそーいうオハナシを聞かされるのは、アキラとしては何とも」
Y「むしろ、アレで勃つお前の感性が判らん」
F「可愛いところもあるンだって」
2人『どこに!?』
F「血相変えるな! 特にアキラ」
A「だって〜……」
Y「アレを我慢できればどんな女でも我慢できるという逆算も成り立つが、5つも年上の女相手に可愛いはないだろ」
F「5つも年下の女と結婚したお前に云われたくないわ。夫婦円満ならいいだろうが」
Y「いいかアキラ、夫婦円満に過ごすには、ひとつの呪文を覚えておけば充分だ」
A「じゅもん?」
Y「眼を閉じて唱えろ。コレは女房じゃない、コレは女房じゃない……」
F「僕もひとつ教えてやろう。汝が後ろに」
ヤスの妻「愛されてないなぁ」
Y「何でお前がここんちにいる!?」
(ずるずるずる……ばたん)
A「えーっと……義姉のあーいう姿を見せられるのは、アキラとしては何とも」
F「当初予定では前回のうちに、毌丘倹の挙兵を最後まで見るつもりだったンだが、そーはいかないのが発覚したため、予定変更して分割。ために、毌丘倹がブチまけた司馬師の悪行を見たワケだが」
A「……ヤスをそうしたのはともかく、軽くスルーしてもよさそうだったからねェ」
F「ヒトは、諦めることを覚えて大人になるンだ。毌丘倹がどんな考えで兵を挙げたのか、確認する必要はあったのでな。加えて、この一戦に関する正史の記述を総ざらいしたところ、割と大きい戦闘だった。ために、実際の戦闘シーンに1回を割くことに」
A「そんなに大きいの?」
F「まず、意外に思うかは人それぞれだろうが、魏ではこれまで内戦が起こらなかったという事実がある」
A「内戦って……」
F「政治や中央への不満から、家臣や民衆が叛乱を起こし、それが戦闘にまで発展したことがなかった、という意味だ。涼州で麹演らが起こしたのは、西羌の蜂起のような民族的なものに近く、曹操死後のまめがら紛争は正史にない」
A「その話やめろ。……というか、云われてみれば呉でけっこー頻発する民衆反乱が、魏ではなかったのか」
F「蜀でも起こってケ芝が鎮圧した……のも以前見たな」
A「やかましいわ!」
F「強いて挙げるなら218年、曹操討つべしとした関係者(文欽含む)が処断されたが、あれだってあっさり鎮圧されたからには、規模としては大きくない。曹操から三代続いた賢君の働きは、そういう形にも表れているワケだ」
Y(割とイキイキ)「蜀の叛臣列伝は劉封から始まってるのに、魏のそれは王淩からだからなぁ」
A(不機嫌)「蜀の叛臣列伝は楊儀で終わってますが何か?」
Y「……つまり、蜀とは違って魏には、つけいる隙を見いだせなかったということだろうな」
A「孔明の死後に蜀で叛臣が現れなかったのは?」
Y「そんな真似をしでかせる輩さえいなくなったからと云えよう。費禕ならまだしも、別して蒋琬の働きなどではない」
A「どこまで蜀が嫌いだ、お前は!?」
F「はいはい、仲良くしなさいよアンタたち。ともあれ、先の王淩の謀叛にしても、実際に戦火を交える前に降伏していたモンだから、魏国内での内乱、そして鎮圧劇というのは、はじめてのことになる。少なくとも大規模な戦闘に発展したのはこれまでになかった……と思う。僕の記憶では」
Y「南と西と北の叛徒どもは数に入れんのか?」
A「誰のこと云ってる!?」
F「呉と燕はともかく、蜀は魏に臣従したことがないからなぁ。というわけで、と云うべきかもしれない。当初魏の宮廷では、司馬一族内の反主流派筆頭・司馬孚を送って鎮圧(=勝てばそれでよし、負ければ処分できる、共倒れならサイコー)しようとしたが、傳嘏らがこれに反発。司馬師自ら出陣することとなった」
Y「魏朝始まって以来の変事だけに、大将軍自らの出馬が必要とされたワケか」
F「まぁ、前回にアキラが云った通り、見せしめの傾向も強いようだが。ただし、先に云った通り、この頃司馬師は病いにかかっていて左眼の下にこぶができ、それを取り除く手術を受けたばかりだった。この辺りの事情は、どーしたワケか毌丘倹にも知られていて、罪状の11番でそれを挙げている」
A「その時点では、毌丘倹はマークされていなかったってことかな」
F「そうなる。それを押して出陣するとなると、本人の容体こそがむしろ不安になろう。ために、人事には気を遣った。荊州方面で対呉戦線を張っていた王昶と王基に、傳嘏と鍾会を本隊において、不測の事態に備えているのね」
A「人的に申し分のない布陣を整えたのか」
Y「……はいいが、司馬師いくつだった? どんな病気かはともかく、それで身体を持ち崩すほどの年齢か?」
F「えーっと、この年数えで48歳だな。赤壁の戦いが起こった208年の生まれだ。若くはないが、父親が父親だっただけに、身体そのものは割と丈夫でもおかしくないンだが」
A「不摂生だったのかな」
F「その辺りは正史にも正史にもない。まぁ、年齢はさておいて、本筋に戻るよ。もちろん、迎える毌丘倹も、坐して見ているワケではない。本拠地の寿春城を出た毌丘倹と文欽は、西進して項城に入り、城は毌丘倹が守って、文欽は息子を連れて城外に布陣した」
A「どの辺り?」
F「揚州と豫州の境界近く。寿春の北西、汝南(地名)の北だな。この城の南西に南頓という城があったンだが、そこには食糧が貯蔵されていた。毌丘倹たちはとりあえずそれを狙ったらしい」
A「それじゃ放っておけないね」
F「ところが、司馬師の動きは鈍い。その動きは放置して、諸方面の軍が到着するのを待つつもりだった……とあり、王基が『南頓を放棄すれば敵を利することになります!』と主張したのに、動くのを許さなかった。南頓に貯蔵されている食糧はそれほど多くなかったとあり、判断としては間違いでもないンだが」
A「放っておいても実害のない分量なのか」
F「だが王基は『君命有所不受(意訳:シビリアンコントロールなど知ったことか)』という孫子の記述に従って、独断で動いて南頓を確保している。この判断は正しく、項城から出ていた文欽は先を越されたと知るや、項城に撤退した」
A「……いいのか、それ」
F「戦場で武将が動くのを、後方の主君が制限するのがむしろまずい。まして司馬師は、上官ではあっても主君ではない。戦前に毌丘倹が『司馬師の云うことなんて聞いちゃいけません!』と云っているのは影響していないと思うが、敵に食糧を渡さないのともうひとつの意味で、王基の動きは評価されるべきだ」
Y「もうひとつ?」
F「ちょっとあとでな。さて、司馬師は、この場面では待ちに徹した。項城の西に司馬師本隊はいたが、基本的には防御を固め、交戦するなと通達している。時間が経つにつれて戦況は自軍に有利になると判断してだが」
A「司馬懿の息子だから……ではなさそうだね。なんで?」
F「単純な理由。毌丘倹の軍から、降伏者が相次いでいたンだ。そもそも出陣前に王基が『この叛乱は毌丘倹の主導によるもので、民や兵は彼に心服しているわけではありません。大軍が迫れば敵は瓦解するでしょう』と述べているが、それが当たってな。家庭が魏の内地にあったモンだから、淮南出身の兵しか残らなかったらしい」
A「……楽観論かと思えば、ただの正論か」
F「項城にこもったことについても『兵たちが毌丘倹に偽りの口実で煽動されたのをいい加減察して、士気が下がっているからです』とも看破している。この王基、智略にはかなり秀でているンだ。ただし、司馬師の容体が容態で、下手な強行策や緻密な作戦より、安心できる材料を提示した方がいいと考えた……との見方もある」
A「司馬師の動きの鈍さを王基がフォローした、みたいな」
Y「実際に、毌丘倹はしっかり抵抗していたからな」
F「抵抗と云っても項城に立てこもっていたンだけどね。ところが、そんな毌丘倹たちのところに驚くべき報告がもたらされた。汝南にあった諸葛誕が兵を出して東進し、寿春に向かったという。これに両名はパニックを起こし『退いたら寿春が攻撃されないかと不安になって帰ることもできなくなった』とある」
A「意味が判らん。すぐに寿春は攻撃されるンだろ?」
F「正常ならざる思考でな。自分たちが寿春に退いたら今度は寿春が攻撃される、とでも思ったようだが、何でこの期に及んで寿春にこだわるのやら。寿春に兵が向いたなら、司馬師を突破して許昌に攻め上ればよかろうに」
A「(地図確認中)……そんなに遠くないのか」
F「ただし、パニックになる伏線はあった。司馬師の動きが鈍かったのは諸将を待っていたからだ……と云ってあるが、そのひとつで、東から胡遵が青・徐州の兵を率いて軍を展開し、退路を遮断しているンだ。司馬師本隊と併せて、東西に軍が来た状態では、そもそも劣勢なので動揺が生じてもおかしくない」
A「それでいて、どちらの軍も守りをかためて動こうとしない」
F「籠城というのは援軍が来るのを前提としているが、毌丘倹の味方は魏にはいなかったからね。いちおう根回しはしていたンだが、誘いをかけられた諸葛誕は使者を斬り捨て、天下に叛逆を告知して、毌丘倹らの孤立に一役買っている。一方で、呉の孫峻が援軍を出していたンだが、諸葛誕にはそれを抑える役目もあった」
A「まぁ、文欽と仲が悪かった諸葛誕を引き込もうって考えたのが間違いさね」
F「というわけで、兵は逃げるわ進むも退くもできんわと、かなり行き詰まった毌丘倹に、司馬師はさらなる一手を打った。兗州の兵を率いてきたケ艾に、わざと弱い部隊を楽嘉(地名)に出させて、文欽が打って出るよう仕向けさせたのね。ちなみに、ケ艾も毌丘倹から誘いを受けたクチだけど、やはりきっぱりと使者を斬り捨てている」
A「続々と増援が来ているな」
Y「兗州……?」
F「気づいたな。司馬師本隊は項城の西に、胡遵隊は東にいる。王基隊が西寄りだが南(正確には西南西)を張っていて、北にケ艾隊まで到着したンだ。つまり、ややいびつだが四方から項城を包囲したワケだ」
A「……あー」
F「司馬師が胡遵・ケ艾の到着を待っていたのも、こうなってみれば正しい判断だと判るだろう。諸葛誕が帰る場所を奪い、本隊で包囲する。ただし、王基の読みはさらに上を行っていた。ちゃんと南にではなくやや西寄りに陣取ることで『包囲戦では必ずどこか一方を開けておく』という原則を演出している」
A「そこから逃げない?」
F「先生、できの悪い弟にひとこと」
ヤスの妻「アキラ、完全に包囲すると、逃げ場をなくしたネズミが開き直って死力を奮う恐れがあるの。関門捉賊(ぜってー逃がすな)という考え方もあるけど、追い詰めすぎないためにどこかを開けておくのは正しいよ」
Y「窮鼠かえって猫を噛む、だな」
A「なるほど、さすが義姉さん」
ヤスの妻「ヤスと違って、アキラはモノ判りがいいねー」
F「……だから、何でお前らそんなに仲いいのさ? というわけで、包囲された毌丘倹・文欽は活路を拓こうと、誘いとは判っていてもケ艾隊との交戦を決行した。文欽が八千の兵を率いて、1万のケ艾隊に向かう。この文欽の息子が文俶、一名を文鴦と云うが、幼いうちから武勇をもって知られていた。そんな文鴦、文欽に『敵の態勢が整わないうちに攻撃すれば破れます』と進言する」
A「夜襲をしかけよう、と?」
F「うむ。文欽隊が動いたのを察した司馬師は、ケ艾隊の外周に本隊を配備している。親子で兵を二分した文欽・文鴦は、夜にまぎれて動いた。文鴦は精兵を率いて司馬師の本隊に『大将軍はどこだー!』と斬り込み、勢いに呑まれた魏軍は慌てふためいた。演義百十回に採用されたこのシーンは、文鴦の武勇を遺憾なく発揮している」

 文鴦は陣地に斬り込むや、右に左に目まぐるしく奮戦する。遮ろうとした者は槍に突かれ鞭に打たれ、ことごとく死んだ。暴れながら父の到来を待つ文鴦だったが、その父がなかなか駆けつけない。本陣に迫っては矢を射かけられて引き返すことを繰り返していると、やがて夜が明け、北から軍勢が駆けつけた。
 はて、南から来るはずの父上が、なぜに北から……と見れば、その軍勢はケ艾隊。まっすぐ文鴦へと突き進んできた。文鴦が勇を奮い四十、五十合打ちあううちに、兵たちは散り散りとなり、周りは魏の兵ばかり。これではとてもかなわじと、南へと身をひるがえす。追っ手を蹴散らし突き倒し楽嘉橋までたどりつくと、突如馬を返して魏軍へと斬りこんだ。鋼づくりの鞭がうなり、当たるを幸いねじ伏せれば、追っ手の足は嫌でも鈍る。文鴦を囲んで、だが手を出せないでいれば、若武者はゆっくりと引き返していく。
 そこで、一同は額を寄せあった。いくら何でも一斉にかかれば、討ちとれないことはあるまい。百人ほどが一団となって追いかけたところ、文鴦は毅然と振り返り、声を張り上げた。
「薄汚いネズミども、そんなに命が惜しくないか!」
 たちまち数人を薙ぎ倒せば、倒れた者は即死する。四度五度と襲いかかりながらも四度五度と返り討ちになり、ついに追う者はいなくなる。
 その槍さばきは鬼神の舞か、それとも趙雲の再来か。単人独馬の一騎駆けに、文鴦はおおいに名を挙げた。

A「くあぁ〜〜っ! カッコええ!」
F「まったく、どうしてあと70回早く出てくれなかったのかと不満でならんね。三国志終盤ではろくな武将がいないと思われがちだが、この通り、純粋な意味で武勇に秀でた武将だってちゃんと残っていたンだよ」
Y「個人の武勇で戦況を覆せる、ある種牧歌的な戦争の時代が終わったってことじゃないのか?」
F「日本では千年後でもそんな真似をしていたように思えるが、確かにカッコええ……はともかく、文鴦ひとりの働きでは戦況を覆すことはできなかった。正史の注でも、司馬師本隊に斬り込み奮戦していたのは記述されているが、夜が明けても文欽が来なかったモンだから文鴦は撤退。それと知った文欽も兵を退いている」
A「お前、何やっとんね!?」
F「尹大目という文官が従軍していたンだけど、そいつに足止めされていたようでな。しかも、退いたところに司馬師の親衛隊が追撃してきてさんざんに打ち破られた。本人こそ逃げに逃げて呉まで逃げ込んだけど、兵たちは討たれるか魏に帰順している」
A「情けない最期だな、オイ……息子見習えよ」
F「いや、まだ最期じゃないンだが。さらにさらに、文欽隊が項城から離れたのを見届けて、王基が項城に攻めかかっている。ちょうど文欽敗走の報が届いた……たぶん、魏軍が本当のことを教えてあげたンだと思うけど、それを聞いた毌丘倹は、ついに逃げた。夜を狙って城を抜け出している」
A「こっちもこっちで情けない最期ですね!?」
F「うん、こっちは最期だな。城を出たところ側近たちにも見捨てられて、安風津(津は渡し場の意)までたどりついたところで、渡し守の配下に射殺されている。その配下は首級を都に届けたことで、列侯に取り立てられた。生き残った残党も呉に逃げ込んだので、兵士たちも魏に帰順し、この戦闘は幕を下ろした」
Y「司馬師の大勝利によって、だな」
A「終わってみれば圧勝ですか……」
F「もともと、司馬師がこの一戦に懐疑的で、司馬孚を送って済ませようとしていたのは最初に見た通りだ。ところが、傳嘏ら、はっきり云うと傳嘏と王粛(王朗の子)が、司馬師自ら鎮圧するよう進言している。淮南の兵は精強で、マトモに戦う相手ではない。もし一将を送り敗れでもしたら、天下の事業は崩壊しますぞ、と」
Y「つまり、毌丘倹らは強い、と」
F「そこで王粛が勧めたのは、かつて関羽を相手に呂蒙がやった、兵の家族を確保することで士気をそぎ、敵軍を内部から瓦解させるものでな。これがあたって、毌丘倹の軍は戦う前から降伏する者が相次いでいた」
A「……戦争前に、すでに勝敗は決まっていたようなモンか」
F「そゆこと。孫子曰く、勝者はまず勝ってから戦いを求める、と。王基もそうだったが、兵法を理解していると動きが違ってくるンだよ」
A「人材層の厚さと深さが、内戦でも発揮されるのか……」
F「ところで、俗な云い方をすると、司馬師は試合に勝っても勝負では負けている」
A「は?」
F「毌丘倹の挙兵は255年1月12日、射殺されたのは21日だが、司馬師本人も2月28日に死んでいるンだ。半ば文鴦のせいで」
A「よくやった! 何やったの」
Y「先に聞けよ」
F「例の、こぶを切除した傷が痛むので、幕舎の中で寝ていたところ、文鴦が攻め込んできてな。とても歯が立たないなどと情けない報告が来たモンだから、怒りのあまり傷が裂けて、目玉がそこから出ちゃったンだ。自分で押し込んだものの、洛陽まではもたず、許昌でもう一度目玉が飛び出して死んでいる」
A「……どいつもこいつも情けない最期ですね」
F「かくて、かなーりあっけなく司馬師は父の御許に旅立った。演義では夏侯玄や李豊の亡霊に祟られての最期だったが、ある種の戦死と云えなくもない。情けないのは変わらんが」
Y「さすがにフォローはできんか」
F「続きは次回の講釈で」

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