私釈三国志 159 仲恭挙兵
Y「おい、幸市」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
実は裁縫が得意「はい、何ですか? 僕、アキラのウェディングドレスの仮縫いで忙しいンだけど」
Y「女房の間抜けた趣味につきあってやらんでいい! ともかく、昨夜お前が『王司馬諸葛ケ伝』と云っていた箇所が『王司馬諸葛ケハテナ伝』になってるぞ」
F「伏線だ」
Y「堂々と云うな。……それならツッコまない方がいいか」
F「そーして。ついでに、云い忘れていました。154回タイトルの元遜は、諸葛格の字です」
A「陸遜からかな」
Y「ちゃんと着替えてから来い!」
F「だろうと思う。で、仲恭は今回の主役たる毌丘倹の字。次男坊だね」
Y「思えばコイツも割と長く出てるか」
F「131回がデビューのはずだが……その前に出してたかなぁ。ともあれ、状況の確認から。司馬師が、仲達の『ワシは忠実な家臣でありたい』から、かつて袁紹・王淩がやろうとして失敗した『皇帝の血さえ引いていれば、誰が皇帝でもかまわない』へと路線変更したのを見たのが前回」
ちゃんと着替えた「その両者とは違って、今度はうまく行った」
F「袁紹がうまく行かなかった理由は割と明白で、立てるべき劉氏の者を得られなかったからだ。曹操擁する献帝の代わりとして期待した劉虞は本人に断られ、劉表とは同盟段階から突っぱねられた。いち時期手元に置いていた劉備にも逃げられており、どうにも劉氏一族とは相性が悪かったようでな」
A「相性の問題なのかね」
F「まぁ、ひとを裏切ることに関しては呂布にも劣らない劉備に頼った時点で、先は見えたという考えもできる」
A「そのフレーズやめろ!」
F「そうとしか云いようがないわ、あの野郎の人生は。対して王淩は、袁紹の失敗を教訓としたとは思えないが、曹彪にきちんと渡りをつけ、だが、実力不足から失敗している」
Y「こちらは完全に実力不足か」
F「これまた、そうとしか云いようがない。河北四州を支配下に置き北方異民族とも通じて天下をうかがっていた袁紹ならまだしも、淮南のいち地方の領主が部屋住王子を立てようとしても、ついていく奴のがおかしいだろう」
Y「正論だな」
F「せめて呉を巻き込んでいれば成功する兆しがなくもないが、それで成功したら成功したで魏国内での不満は高まり、曹宇が『先帝はワタシに天下の宰相たれと命じられた!』と本当のことを云いだしかねない」
Y「そもそも王淩が挙兵した口実は、曹芳が君主に相応しくないからだったからなぁ」
F「そゆこと。というわけで、袁紹の失敗は権威を得られなかったから、王淩の失敗は実力不足。司馬師には、もちろん実力は備わっていたし、皇族への根回しも忘れていなかった。郭太后と曹芳の仲が悪いのは前回見た通りだが、太后も曹芳の素行を苦々しく見ていたらしい」
A「ために、曹芳は見捨てられた……か」
F「関係のない話だが、李豊一党が処刑された後で引き立てられた次の皇后だが、その父親は奉車都尉、つまり車番だ。孔乂と関係があったかどうかは不明」
A「……なんだかなぁ」
F「さて、曹芳を除いた司馬師だったが、当初予定では曹拠を立てるつもりだった。曹宇の弟、つまり曹操の実子なんだが、この人選には郭太后が反対している。親が判らないとはいえかたちの上では曹丕の孫にあたる曹芳のあとを、曹丕の弟が継いだとしたら、自分の立場はどうなるのか、と」
Y「そこで利己的な発言をされてもな」
F「利己的な発言で突っぱねるくらいしか、反論する口実が見つからなかった……というところだと思うぞ。太后が曹叡の弟の子(これまた曹丕の孫)にあたる曹髦を指名すると、司馬師が群臣に諮った上でそれを受け入れているのは、気を遣ったからだろうし。この時点では簒奪の意思はない、という前提を忘れるな」
A「どの時点からはあるンだ?」
F「翌年。何しろ、割と重要なオハナシだが、司馬師のもとでは宮廷どころか司馬一族さえ一枚岩ではなかった。宮殿を去りゆく曹芳を群臣数十人が見送りに出たが、その中には例のトリックスター・司馬孚(当時の儀礼担当官)までいた。しかもコイツが大泣きしたモンだから、他の面子も涙を流している」
A「亡き仲達の弟自ら泣いては、曹芳の見送りに出たのをとがめるワケにはいかないな」
F「そゆこと。かくて後任人事がなされ、曹芳が正式に退位したのが254年9月19日。22日には曹髦を後継とする詔が郭太后から出されている。本人が洛陽に到着したのは10月5日になるが、出迎えた群臣が拝礼するとそれに答礼し、輿から降りて宮殿に入ろうとしている」
A「何かまずいの?」
F「案内役(たぶん司馬孚)が云うには『答礼はしないものです』『輿に乗ったままお入りください』とのこと。ところが曹髦は『わたしは皇太后のお召しを受けただけで、その先のことはまだ判らないのですから……』と徒歩で参内した。太后が云うには面識があったそうだが、こういう控えめな性格が指名された原因のひとつだろう」
A「ふーん。トシは?」
F「えーっと……260年に数えでハタチだから、241年の生まれだな。12か13という年だ。郭太后はこの若君にいたく期待していて、司馬師が皇帝の印璽を求めても『わたしが自分で与えます』と突っぱね、実際に渡している。というわけで10月5日、魏朝四代皇帝は即位した」
Y「お若い皇帝とそれを支える謀略型宰相、か。アキラの云った通り、後漢末の状況が再現されつつあるな」
F「……ちなみに、曹髦をどう思うかと司馬師に聞かれた鍾会は、こう応えている」
会「才略は曹植様に、武勇は曹操様に似ておられます」
師「なれば、魏の社稷にとって幸いだな」
F「この反応からしても、司馬師に害意がなかったのは見えると思う」
A「うーん……」
F「ところが、そうは思っていなかった者が淮南にいた。155回で触れたが、諸葛格の侵攻に際して、魏は諸葛誕に変えて毌丘倹を揚州に送りこんでいる。コイツが『司馬師の専横許すまじ!』と、郭皇后の詔勅を偽装して挙兵している。255年1月とあるので、新帝の即位から3ヶ月しか経っていなかった」
A「何で野郎がそんなことしでかすのさ?」
F「まず、単純に司馬家に不満を抱いていたから」
Y「司馬師が曹芳を廃したからか?」
F「いや、そのずっと前だ。かつて望んで燕攻略に乗り出した毌丘倹の、手柄を横取りしたのが仲達だった」
A「横取りって……えーっと、コイツが負けたから司馬懿が出張ったンじゃなかった?」
F「客観的に云うとその通りなんだが、毌丘倹にしてみれば『ジジイの助けなんぞいらんのに、余計な真似をしおって……』と逆恨みする事態なんだ。以前から見ている通り、この男にはやや思慮の足りない面があり、考えナシに燕に攻め入っては負け、呉への侵攻作戦は容れられず……とろくな戦果がない」
A「そういう奴ほど自意識が強いのはお約束か」
F「それでも高句麗を討ち果たしているのは、百戦錬磨の司馬仲達の戦いぶりを目の当たりにして、多少は学ぶものがあったからだろう。あとで見るが、この頃の毌丘倹は、仲達に好意的になっていてな。南方戦線に移ってからは、王昶や胡遵よりは低いものの鎮東将軍に昇進し、呉への抑えを張っていた」
Y「蜀の政策変換があってからは、武官にとって最大の稼ぎどころに赴任できたワケか」
F「というか、もともと王淩の後任だった諸葛誕を、現地に置いておけなかったのが大きい。呉に侵攻して負けたのと、同族の諸葛格が政権を握っていては扱いにくいからだ。ちなみに諸葛誕は、孔明存命中には魏国内でほとんど用いられることがなかった」
A「……それはそれで当然なんだろうね」
F「さて、理由その2。毌丘倹は、実は夏侯玄や李豊と親しかった。……らしい」
A「らしいって」
F「そう毌丘倹伝に書いてあるだけで、夏侯玄伝にはそれっぽい記述がないンだ。それが事実だったから、そうと判らないようふるまっていた……とも考えられるが、とりあえず他にそういった記述がないので、この件は弱い」
A「あと付けかなぁ」
F「そして第三に、共犯者の存在。文欽という勇将がいたンだが、この男、たびたび手柄は立てるのに戦功を水増しして報告し、報奨を余計に得ようとする小悪党でな。腕は立っても貪欲で粗暴な武将だったンだが」
A「魏の武将の質も落ちたな……」
F「対して諸葛誕は、部下には公正を通り越して甘い男で、死刑にしなければならない罪人でも命を助けてやり名声を博した。それでは文欽と気が合うはずもなく、諸葛誕が揚州の軍を率いていた頃には互いに憎みあっていた……とある。実際に、諸葛格と戦って負けたのは、このふたりの意思疎通がなされていなかったからにも思える」
Y「……質が落ちているようだな」
F「そんなワケで、諸葛誕が西に異動することになっても、文欽は現地に残された。代わって赴任してきた毌丘倹は、文欽を手懐けようと厚遇し、文欽はそれに応えて毌丘倹には忠実な姿勢をみせる。ちなみに文欽は曹爽と同郷で、在りし日の王淩が『あの野郎を国境に置くのは危険です!』と免職するよう求めても、曹爽はむしろ昇進させて現地に戻している。そのせいで増長した……ともあるな」
A「典型的な小悪党で……」
F「そんな小悪党は、216年の曹操への叛乱計画に連座して死刑になりかけて以来、魏に多少ならぬ不満があったようでな。先に見た水増し請求の失態と重なって、宮中を逆恨みしていた。どんな職責にあっても、上官をバカにしては法を軽んじていた……とある。司馬一族でも扱いかねて、曹爽に連座させずに昇進させて飼い殺していた」
A「勇猛さを惜しんだ?」
F「そんなところだろうな。そんな勇猛で頭の足りない文欽と、思慮不足だけど微妙に切れる毌丘倹が手を組んだら、魏への不満が暴発するのは明らかだと云えよう。寿春(地名)の城にあった両名は、各地に弾劾書を送っている」
「亡き司馬仲達殿の心は忠節に満ち、二賊(呉・蜀)を討ち天下を安定させようと粉骨されておられた。それを知っていればこそ、明帝陛下は後事を託され、曹芳様も信頼を寄せられていた。
二賊を滅ぼす策を練っておられた仲達殿が亡くなられた折には、その忠節を評価し、司馬師に後を継がせたが、野郎は軍を抱えこんで動きもせず、臣下の礼を軽んじた。天下に知れ渡っている、司馬師の罪の第一である。
仲達殿は食糧の収集・輸送計画も立てていたが、司馬師は、公としては国難を除くことなく、私としては父の事業を果たそうともせず、その計画を放棄した。不忠にして不孝なるのが、司馬師の罪の第二である。
諸葛格が東興にあった折には、不肖毌丘倹を含む"三征"を進発させたが、敗北を喫し兵器や食糧も多数を失っている。多くの兵を損ねたことこそが、司馬師の罪の第三である。
その賊が調子に乗って攻め入ってきたのを、不肖毌丘倹が守り抜いたが、魏建国以来の大戦であったのに司馬師は恩賞を与えようとしない。他人の功績を横取りしたのが、司馬師の罪の第四である。
司馬師に節度がないのを知っていた李豊らが、彼を退けようとしているのを知り、李豊を殺した。皇帝の腹心たる者を殺すのは皇帝をないがしろにすることにほかならいのだから、司馬師の罪の第五である。
仲達殿は曹芳様を高く評価されておられたのに、でっちあげの事件で廃立した。自分の叔父をも泣かせておいて大義を顧みようとしないのが、司馬師の罪の第六である。
皇后やその父には何の罪もないのに三族皆殺しにしておいて、悲しみに打ちひしがれる曹芳様に、のうのうと『コレで天下は安泰』などとほざいた。司馬師の罪の第七である。
曹髦様は即位なさってすぐに質素倹約を旨とされたが、司馬師は臣下にあるまじき態度を改めず、兵を集めて徒党を組んでいる。法や制度を軽んじるのが、司馬師の罪の第八である。
鎮北将軍許允を謀殺したのが、司馬師の罪の第九である。
魏の北方・西方・南方の守りから精鋭を引き抜いて己の軍に編成し、天子の陣営が手薄になっても補充せず、武器も私物化している。それでいて『そんなことないよー』などとほざくのが、司馬師の罪の第十である。
兵たちに恩賞を与え私物化する一方で、王公を軽んじて殺害せんと目論んだ。天は悪をはびこらせまいと片目を奪ったが、それでも主君を廃したのが、司馬師の罪の第十一である。
我らは曹操様の時代から戦い続け、累代の恩恵を受けてきた。それはまさに、今の世の中を安定させるためであったのだろう。司馬師の罪は重いが、仲達殿の功を思えば裁くのも不憫であろう。幸い弟の司馬昭は誠実にして寛大、司馬孚は忠節にあふれ、その子も公正で有能であられる。どうか司馬師を隠居させ、彼らを代わりとなさるよう。
もし司馬師が軍を手放さぬのなら、我らが駆けつけ叩き潰しましょう。我らは私心で動くのではなく、魏を永遠ならしめるため戦うのである。
諸公よ、もし洛陽より関を固め兵と物資を集めるよう詔勅が下ったとしても、それを書いたのは陛下ではなく司馬師である。そんなモンを受ける必要はない」
F「ながかったー」
A「まぁ、司馬師のことをボロクソに……というか、司馬懿にはかなり好意的だな?」
F「仲達が魏に忠実だったのは、同時代の人々には見えていたようでな。ために、親の忠を称賛することで、子の不忠をとがめているワケだ。また、さっきも云ったが、燕を攻略して高句麗攻略の手本を見せてもらってからは、仲達への意識がある程度緩んでいたのもうかがえる。ひょっとすると、最初から司馬師こそが気に入らなかったのかもしれんが」
A「どこまで嫌っているのやら……ってところだモンねェ」
F「見て判る通り、かなり誤解と先入観で感情的に語られていて、説得力は乏しい。たとえば3番4番辺りは毌丘倹にも原因の一端があるンだが、その辺りは完全にスルーされている」
A「ホントに思慮が浅いな、この男……」
F「1番と2番は割と興味深い。仲達が王淩平定後に、呉および蜀に兵を入れるのを考えていたなら、毌丘倹は対呉戦線に従軍するのが確実視される。本人がその計画を語っていた可能性は否定できないから、それを中止したなら司馬師の行いはとがめられても仕方ない」
Y「だが、大将軍が兵と食糧の配備を変更するのを、地方のいち将軍がとがめる権限はなかろう?」
F「実はその通り。というわけで、1番2番と8番10番は『お前が云うな!』で反論終了。司馬師には、国内の軍事力を動かす権限が認められているのだから、たかが鎮東将軍程度が口出しする領分ではない。無論、皇帝をないがしろにしているという姿勢は否めないが、こと軍事に関しては専門職の意見が優先されるべきだ」
A「軍令ならそれでもいいだろうけど、軍政分野じゃないか? それなら政治が絡んでくると思うけど」
F「ところが司馬師は大将軍であると同時に録尚書事でもあった。司馬師には軍政面における専断権も認められていたと考えるべきだろう。そうなると11番も、父の七光という評価を覆すため兵たちへの人気取りでやった、とも云える。王公云々は完全な濡れ衣だしな」
Y「正当性はともかく、事情は汲むべきか」
F「6番は、司馬師が簒奪の準備として行ったと思っているようだが、魏を永らえるためには曹芳ではいかん、というのを無視している。君主だから正しいと考えるのが保守派で、君主でもやってはいけないことがあると考えるのが革新派の発想だが、その辺りの意見の相違を、毌丘倹は理解も自覚もしていなかった」
Y「要するに、この男は思想的に仲達に近いのか」
F「そゆこと。仲達をほめているのには、その辺りも影響しているようでな」
A「意外な人間関係で……」
F「その辺りを理解していれば、残る5番7番を責める道理はないのが判るな。たとえ皇帝であっても、司馬師が権力を握っているから……と殺すことは許されん。司馬師を除いて国のためになると思っているから計画したンだろうが、放っておけば自分が殺されるところだったンだから、殺すのは当然の処置だ」
A「遺族感情としては治まらんだろうけどね」
F「9番に至っては並べるのもどうかと思うよ。ことの是非はともかく、たかだか地方将軍ひとり殺したのを、俗にクーデターと思われている皇帝廃立と並べられては、むしろ曹芳が怒るだろう」
Y「数合わせだろうな。昔、劉邦が項羽の罪を10挙げたが、それを超える大罪を司馬師は背負っている、と」
A「……あー」
F「皇帝を追放し天下を牛耳った項羽に、司馬師を重ねているワケだ。『漢楚演義』の第1回で云ったが、漢王朝成立に先んじて起こった一連の抗争を判っていると、三国志をより深く楽しめる。この辺りの歴史的駆け引きについて『なるほど……』と納得できるからね」
A「かくて歴史は繰り返す……か」
F「だが、あの時の項羽と同様に、こんなモンをブチまけられて黙っているわけにはいかない。当時司馬師は、左眼の上にできたこぶを取り除く手術を受けたばかりだったが、自ら討伐に向かうことにした。かくて、4年ぶりとなる叛乱シリーズ第二弾の幕は切って落とされた。勝つのは司馬師か毌丘倹か……と締めよう。ところで……」
A「締めろよ!」
F「第一弾の、王淩戦とまったく同じパターンだというのはいいと思う。司馬一族が天下を盗ろうとしたのに反発した地方領主が挙兵して、自ら討伐に向かう」
A「自己の存在を強く焼きつけるため、自ら討伐に向かう……か。過分に見せしめの傾向が強いワケだ」
F「ただ、今回は司馬師が裏で糸を引いているというのはなさそうだ。前後でのひとの動きを見ていると、どうにも司馬師に都合の悪いタイミングでな。司馬師が誘導するなら、自分の手術が終わってすぐというのは避けるだろう」
Y「それで死んだら世話ないからな」
F「そゆこと。まぁ、実際の戦闘の推移は次回見よう。今週はここまで」
A「はいよ……では、どーぞ」
F「続きは次回の講釈で」