私釈三国志 158 曹芳廃立
F「……なんだかなー」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「どーかしたの? こんな時間に、誰か来るなんて……なにそれ」
F「うちのばーさん入院してるだろ? ご近所のヒトが見舞いに行ってくれたンだけど、『盗まれると悪いからえーじろに渡せ』って云われたそうで、病気見舞いをこっちに持って来てくれた」
A「……非道いこと云うねェ」
Y「お前の母親なら病院からでも平気で持っていくからな。お前に預けるのは判断としては正しいか」
F「このところ、ばーさんの思考がお袋に似てきたのが感心できないが……親子だからって下から上に伝染るのかなぁ。ともあれ、『私釈』するぞー。いつぞや云った通り悪い意味での平和、つまり静謐というより停滞と云える膠着状態を、歴史の神はお気に召さなかったようでな。わずかずつにだが、時計の針は動きはじめていた。その先頭に立っていたものの、足下から突き崩されて転げ落ちたのが曹芳だ」
A「司馬師が、皇帝をもすげ替えるほどの権力を握っていたというオハナシだな」
F「前回のタイトルを『天罰覿面』としなかったのは、費禕は政治的・政略的に取るべき手段を取っただけで、魏延や楊儀を除き、姜維を重く用いなかったのは、彼の立場からして間違いではなかったからでな」
A「費禕の死には、本人を責めるべき理由はなかった、と?」
Y「殺されたのは立場的なものが大きいか」
F「そゆこと。そして、今回のタイトルは、正直『自業自得』としたかったのが本音だ」
A「つまり、曹芳クンの側に問題があると?」
F「単純に云えばな。2年半150回以上の『私釈』でも、これほどの暗君はそうはいなかったというレベルなんだ。先日惜しまれて死んだ孫権に劣るとも勝らん」
A「劣ってどーする。……つーか、そーなの?」
F「孫権に『出ると負け』という印象がないのは、羅貫中の巧妙なセンスのおかげだが、曹芳に暗君との認識がないのは、そもそも曹芳とはどんな君主だったのか知らないヒトが多すぎるからだ。そこで、まずは曹芳くんとはどんなヒトだったのか見てみる」
Y「えーっと、254年か? この年、いくつだ」
F「そこからだな。239年の即位当時8歳なので、この年すでに在位15年、23歳だ。即位してまず行ったのは、建設中の宮殿工事を中止し、官庁が所有していた奴僕(奴隷)のうち60歳以上の者を解放して平民にすることだった」
A「一見マトモ」
Y「というか、曹爽の考えが曹芳名義で告知されただけじゃないのか? そのトシでンな真似ができるかどうか」
F「そうでもないと思うがなぁ。243年に曹芳は元服して、自ら政治にあたるようになっているンだが、246年に『70を過ぎた奴隷は解放しろ』と、今度は『道路工事はしなくていい』という詔勅を出している」
A「7年後にほぼ同じことしたンだ」
Y「じゃぁ、本人の意思か、最初から曹爽の操り人形だったか」
F「そして、操り人形ではない。145回でさらっと云ったが、例の魏宮政変に際しては、仲達ら司馬家の皆さんと裏で手を組んでいたとしか思えない動きをしている。つまり、何もしなかったンだが」
A「……曹爽を見捨てたワケね」
F「皇族に重大な共犯者がいたンだ。134回で見た郭夫人が、その頃には皇后を経て太后となりおおせていた。仲達はこの郭太后に、曹爽の免官を求めている。郭太后がそれに乗ったのは、以前云った通り、曹爽の目論んでいた帝位簒奪を察していたからと考えていいな」
A「曹芳にも話は回っていて、だから曹爽に協力的な態度はとらなかった」
Y「陛下の御身には危害を加えませんので黙って見とけ、みたいな提携が裏でなされていたワケか?」
F「そう考えなければ、クーデターを起こした者が、本来なら最大の目的たる皇帝の身柄を気遣って、夜営テントから食器まで進呈するのに説明がつかん。繰り返しになるが、実際にはクーデターではなく、司馬一族(主犯)と皇族(従犯)が組んで曹爽を除こうとした、が実情と考えるべきだが」
A「仮にも仲達隠居後の国政を預かっていた曹爽を、自分の地位を守るためとはいえあっさり切り捨てた……か」
F「王淩の、今度こそクーデターと呼ぶべき一戦を鎮圧して仲達は死に、司馬師がその地位と権力を継いだ。これが251年、曹芳は20歳になっていた(司馬師44歳)。その後に何をしたのか記述は少ないが、前回見た郭循(魏書では郭脩)や、諸葛格の合肥新城攻めで呉に捕らえられながらも魏への忠節を守った兵士2名を称賛したりしている」
A「ほめるところはほめたンだね」
F「ただし、その治世において設置・廃止・変更・回帰された地籍は極めて数多く、正史を著した陳寿でさえ『曹芳の即位から253年までの地籍改正を記録するのは不可能だ』と投げちゃっている」
Y「態度としてどうなんだ、それ」
F「そんなこんなで254年2月、李豊と外戚(皇后の父)が、司馬師を廃して夏侯玄を大将軍としようと企んだ。この李豊というのが曲者で、司馬師に信任されていながら夏侯玄にも接近し、息子には曹叡の娘を娶っている。おまけに弟は兗州の刺史だ」
A「潜在的な危険人物じゃねーかっ!」
F「というわけで、曹芳が司馬師を謁見する隙を狙って殺し、李豊の弟に軍を率いて来させ、司馬一族も討ち果たす……という計画を立てた。事態の性質上、つまり、かつての曹爽のとき同様に、皇帝も裏でつるんでいたと考えていい」
A「やってること一緒ではね……」
F「まぁ、かつて自分でやった謀略にひっかかるバカはいない……と思ったら、揚州には1ダースもいたな」
Y「互いにそンな計略をしかけあっている間抜けがな」
F「実はあの後も何度かあったンだが、司馬師はひっかからなかった。その計画を聞きつけると何喰わぬ顔で李豊を呼びつけ、ホイホイ来たところを問答無用で斬り殺す。鍾毓(鍾繇の子、鍾会の兄)が『李豊らは陛下を脅迫し、宰相を殺そうとしました!』と上奏したので、この時点では曹芳には累が及ばず、関係者一同が三族皆殺しになっている」
A「なんか、献帝の頃に何度かあった構図なんだけど」
F「……あ、違った。連中の死刑執行令状にサインを、と求められた曹芳くんは、李豊の息子の妻が曹叡の娘であることから、その娘3人だけは助けよと詔勅を出している。息子本人も死刑ではなく、獄中で自害するのを許された」
Y「意地をみせたか」
F「父親は処刑されたものの殺されなかった皇后は、3月に廃され燕に流されている。4月になって別の皇后が立てられたンだが、5月にその父親が三公に次ぐ役職に特進し、9月になって司馬師は郭太后と謀議のうえで曹芳を廃立することにした」
A「そのオヤジと組んで、また何か目論んだの!?」
F「そう見えるよなぁ……。最初は曹爽に云われるまま仲達を隠居に追い込み(引きとめた形跡がない)、曹爽の態度がでかくなると司馬一族と組んで皆殺しにした。仲達が死んで3年たらずで司馬一族が邪魔になり、排除しようとして失敗すると李豊や外戚を見捨ててお茶を濁す。その上、まだ何か企んだら、許すバカはいないだろう。司馬昭なら殺すぞ」
Y「ごもっとも」
F「というわけで、曹芳は廃されている。さっきも云ったが在位15年、23歳。さてアキラ、曹芳くんをどう思う」
A「司馬師を除こうとして返り討ちにあった、ちょっと身の程知らずだけど自覚はあった皇帝?」
F「では、その評価を叩き潰していくことにしよう。曹爽在りし日のことだが、何晏と孔乂がそれぞれ、曹芳に上奏している。ちょっと長いので要約して書き下し、引用する」
何『国を治める者は身を整え、平生の生活を慎むものです。君主たる者は身近に正しい者を選ばねばなりません。庭園で遊ばれる場合でも大臣をお連れになり、宴の場でも政治について語られることで、後の世の模範となられますよう』
孔『宮殿に飾りをつけるのはよろしいが、色を塗られるのはやりすぎです。また、天子みずから馬に乗られるのはもってのほか、輿か馬車を使われませ』
Y「身だしなみが整っておらず、生活は派手で、ろくでもない連中を間近に招いては、政治も大臣もそっちのけで宴にひたり、宮殿を派手派手しく装飾して馬を乗り回した、後世の見本にならない君主……か」
F「上奏文はその裏を読め、と云っているな。それらのことをしていなかったから、臣下は一命を賭していさめるワケだ。曹芳くんは、私生活が割とろくでもなかったようでな」
A「私人としてだらしなかった……はいいが、それを公人としてのろくでもなさに直結するのは危険だろ? いちおう政治的なものは見てきたけど、詔勅そのものは割とマトモで」
F「いや、そうでもない」
A「云いきるなよ!」
F「曹叡のときも云ったが、宮殿の工事には経済の活性化をもたらす公共事業という側面がある。曹叡はそれをやって結果を出せなかったが、曹芳はそれをやらなかったどころかやめさせたンだぞ。どちらが下かと云えば、どう考えても曹芳のが下になる」
A「むっ……」
F「加えて、246年の道路工事中止令はさらに非道い。外出した折に、雨で道が悪くなったのを直しているのを見て『どうせ、雨が降ったらまた整備し直さねばならんのに、そんな無駄なことをしてどうなる』や『民衆には他に労役があるのだから、そんなことに駆り立てるのはやめよう』と、そういう詔勅を出したンだから」
Y「一見民を気遣っているようではあるが、曹叡の宮殿造営に民衆が不満を抱いたのは、自分たちでは使えないもののために農繁期の労力を駆り出されたからだぞ。自分たちも必要なもののために労力を使うのをやめろとは、民心というものをまるで判っちゃいない」
F「加えて云えば、このとき曹芳は祭祀の準備で外出したンだ。で、監督官が労働者を鞭打っているのを見てそんな詔勅を降した。それだけ聞いた分ではちゃんとした考えとも思えるだろうが、そうではないと僕は断ずる」
A「その心は?」
F「ひとつには、道路は民衆にも必要だというのを判っていない。ふたつには、皇帝陛下が来られるからと気を遣った下級官吏の気持ちも判っていない」
A「……気を遣って見舞いに行ったのに『持って帰って孫に渡せ』と突っぱねられた、か。面白くないだろうな」
F「加えて、馬ならある程度の悪路でも走れるという考えもあったかもしれない。馬を乗り回すことそのものはそれほどの問題ではないが、官僚や司祭は乗れないから、その辺りの気遣いもなっちゃいない」
Y「ちょっと待て。馬に乗れない、と云い切れるか? ある程度の乗馬スキルは、現代のサラリーマンにゴルフの腕前が求められるの同様、武将への接待のために必要と思えるが」
F「面白いことを云いだしたな……ふむ。突然ですが、ここで問題です。アキラ、孔乂とは何者か」
A「え? 知らないよ、聞いたこと……は、ある、かな? でも……」
F「実はそのヒトだ。この時代の、孔子直系の子孫だよ(孔融は傍系)。乗馬の習慣は、北狄のそれを武霊王(加来耕三氏曰く『始皇帝を待たず』に『天下をとる可能性のあった』戦国時代趙の王)が取り入れたことで広まったから、儒者にはあまり受けが良くなかった。そして、宮中の祭祀といえば儒教の礼にのっとっている」
Y「だから孔乂は反発した、か。……畢竟、関係者は馬には乗れないことになるのか」
F「積極的には学ばなかったはずだ。こうして、いろいろと曹芳の問題行動を見てきたが、その最たるもの……裴松之をして『意味が判らんわ!』と云わせているのが、奴隷の解放についてだ」
A「えーっと? 即位したての頃に、60歳以上の奴隷を解放して平民にしていて、その7年後には70過ぎた奴隷も解放した。どっかおかしいの?」
Y「何もかもおかしいな。官公庁所有の60過ぎた奴隷を解放して平民にした7年後に、民間で売られている70を過ぎた奴隷を解放させるのは、数字があわん」
F「そう、裴松之も『最初の詔勅が永続的なものと扱われるべきなのに、十年経たずにこんな詔勅などを出すのは意味が判らん』と云っている。考えられるのは、官公庁で飼っていた奴隷を民間に下げ渡して転売させ、それが発覚して問題になったから慌てて詔勅を出してごまかした、という情けないものだが」(注 奴隷は『使う』ではなく『飼う』が正しい)
A「君主としてあからさまに問題あるわ!」
Y「いや、君主云々以前に思える」
F「とまぁ、これらの事例で判るように、曹芳は、空気が読めないのを通り越してひとの心が判らない。周囲の状況を考えずに我が道を行く傾向があった。ために、郭皇后はこんな文書を下している。ちょっと長いが以下同文」
「現皇帝は、亡き先帝陛下より大業を受け継がれ、すでに成年に達したというのに、いまだ政治にかかわろうとせず、お気に入りの婦人に溺れて女色にふけり、乱痴気騒ぎを起こしている。挙げ句に役者を呼びこんで、宮殿の前で裸踊りをさせ、女官とセックスさせては妃たちを引き連れそれを見物して楽しむ。学問はしないし学者は疎んじる、道理にもとる傲慢さは日に日に増すばかり。これでは先祖の功を継ぐなど不可能である! 退位せよ」
F「どこからどこまでと云えばかなり大部分が本当に思えるのは、日頃の行いからして割と明らかでな。かくて曹芳は帝位から廃され、別の宮殿に移された」
A「……暗君、なんだねェ」
Y「司馬師の側の発案とはいえ、汲むべき事情はあるか。こんな奴帝位に置いておいたら、魏が滅ぶのが早まる」
F「まぁ、実質的には滅んでいるに等しいがね。これで判っただろう、司馬仲達が死ぬまで魏に仕え、最期まで太傳(皇帝の教育係)だった理由が。おじいちゃんは、バカな子を放っておけなかったンだ」
A「単純すぎて反論できねェ」
Y「バカな子ほど可愛くて、おまけにそれが孫ではなおさらに可愛い、か……いいのか、そんな結論で」
F「もちろん、よくないと考えた者がふたりいた。つまり司馬師だが、仲達とそれぞれ考えを書き起こすとこうなる」
仲達「ワシは曹操様に見い出され、曹丕様と曹叡様から若君と天下をお預かりした身じゃ。息子たちよ、ゆめゆめ魏に背くでないぞ……」
司馬師「父上はああおっしゃったが、曹芳様はいかん。あの方はボンクラで家臣を大事にしないからな。魏は大事だが、それを治める器さえあれば、誰が皇帝でもいいんじゃないか?」
A「……あれ?」
F「司馬師の考えは、かつて袁紹が唱え孔明が実践した、革新派の主張とほぼイコールだ。この時点では、まだ曹家の血筋を引きずり下ろす、簒奪までは考えていなかったようで、ボンクラ君主を除けば魏はもう少しマシになる……と、曹芳を退位させるにとどめている」
Y「おいおい、ここでそれが来るのか」
F「実際のところ、司馬師が決行した曹芳おろしは、王淩がやろうとして失敗したものとベクトルとしては変わらん。曹芳が気に入らないから別の曹家の者を立てよう、と考えたンだから。これに失敗していたら、魏の叛臣列伝『王毌丘諸葛ケ鍾伝』は『王司馬諸葛ケ?伝』となっていた可能性が高い」
A「どちらも曹芳が君主の器ではない、という意見では一致しているのか」
Y「そして、保守派の思想に凝り固まっている司馬仲達は、王淩を許さなかった」
F「父の考えを知っていた司馬師が曹芳をおろすと決めたのが、喪が明ける3年めのことだったのは、偶然か、それとも陰で挑発し、李豊らを使っての決起に走るよう誘導したのか。ともかく、司馬師は曹芳を退位させた」
A「……えーっと、司馬一族は儒者だよな? 父の教えに背いていいのか?」
F「その父が、南は荊州から呉へ、西は長安から蜀へ、北は燕へ軍を率いて駆け回り、ついに王淩を討つべく東に向かった頃にはもう70を回っていたンだぞ。そんな年寄りに大陸中転戦させたような君主の血筋を、子として許せるワケがないだろうが」
Y「親への孝と主への忠、いずれが重いかと考えて、孝を取ったのか」
A「……儒者なんだなぁ」
F「もちろん、もうひとりの司馬昭には司馬昭の考えがあったと考えられる。その辺りの政策変換はまたいずれ見ることにして、ところで……」
A「今度はちゃんと結論を出せるンだろうな!?」
Y「逃げ腰で強がるな」
F「曹芳くんがこんな発言をしたと、裴松之は注で引いている」
『私は皇帝だぞ! 皇帝が好き勝手して何が悪い! 皇太后の云うことなど聞くものか!』
『魏の王室では、自分の愛情だけで皇后を立てていいのだ! 皇太后は私の心がどこに向いているかご存知か!』
『皇太后は私の愛する女を殺してしまった。やはり、母ではないからな』
『私は自分の意思で生きる! 誰が私に指図できるものか!』
A「どンだけ仲悪いの、曹芳くんと皇太后サマ」
F「こうやって考えると、曹芳はそれほど身分の高い出自ではないように思える。下民が権力なり財力なりを得ると、気が大きくなって増長するのは前々から指摘しているが、この皇帝にはそれがはっきり当てはまるように思えてな」
Y「それでいて、軍国ジジイが甘やかしに甘やかしていたから、なおさらにつけあがったのか」
F「最強ランクの保護者がついていたせいで曹芳の性格がねじ曲がったのか、それとももともとそういう性格だったのか、はさておいて。君主権力の持ち主が家臣を殺そうとするのは、別に珍しいことじゃない」
A「劉邦……ていうか、呂后がバタバタと殺しまわってたモンねェ」
F「事例には事欠かんね。が、曹芳には、呂后のような『コイツらを生かしておいても、息子では使いこなせん』という危機感や、孔明のような『私がやらねば蜀はダメになる』という責任感はない。曹芳の行いには、たったひとつ『オレは偉いのだ』という考えしか見えない」
A「自分は偉いから、現実を見ずに、政権を握っている司馬師を殺そうとした……」
F「あえて好意的に云うなら、曹芳の志したものは、司馬師が握っていた政権の奪還とも云える。だが、それを成し遂げる自力と、何より人望が曹芳には欠けていた。日頃の行いがどう評価されているのか、自覚がなかったのが曹芳の敗因だ。個人で済むなら悲劇とも云えるが、李豊や夏侯玄を巻き込んでまだこりていなかったのを考えると、司馬師や郭太后にこきおろされたように、帝位にはふさわしくなかった」
Y「親の子だからと云って、しかも実子でもない子が帝位についていたのが不幸だったのかね」
F「本人よりは、そんな阿呆のために死んだ夏侯玄たちこそがむしろ不幸だろうな」
A「……自業自得だなぁ」
F「続きは次回の講釈で」