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私釈三国志 157 費禕政権

F「では、アキラが来たところで本流に回帰する」
A「ご迷惑をおかけしてますなー」
Y「まったくだ……。お前がいないからアイツが来るンだぞ」
A「義姉さんなら問題ないでしょ? むしろアキラがいらないいらない」
F「呼んでないけど、来たのを追い出すのはね……。ともあれ、155回でさらっと触れたが、253年、諸葛格に呼応するかたちで、蜀は兵を出している。演義では……えーっと、9回? になる北伐の2回めに当たる」
A「初回は249年の奴になってるンだっけ」
F「そうなる。あの時姜維が負けたのは兵数不足だと云ってあるが、今回のは数万からの兵を率いて、だが負けている」
Y「……? おい、費禕はどうした? アレがいる限り、姜維には1万の兵しか与えられんはずだろう」
F「それが、この年の正月に死んでいるンだ。諸葛格からの使者は早くても2月になるから、その頃にはすでに蜀の軍権は姜維のところに移っていたようでな」
A「……そういえばこの年にだったね」
F「覚えとけよ。状況を確認しよう。253年正月、新年を祝う慶賀の席で、酔っていた費禕は魏からの降将・郭循に刺殺された。享年不明(生年の記述がない)」
A「何者なんだ?」
F「ぶっちゃけ、判らん。それこそ249年に、姜維が西平に出兵した折に捕らえられてな。蜀に降るよう姜維は説得し、劉禅は官位を授けたンだが、心中では屈服していなかった。いつか劉禅を殺そうと企んでいたンだけど実施できなかったので、費禕を殺した……とある」
A「微妙だなぁ」
F「ひとつ云えるのは、郭嘉の血縁者ではなさそう、ということだ。郭嘉の字が奉孝で、郭循のは孝先だ」
A「じゃぁ、血縁はないな」
Y「云い切るな?」
F「親と似た字は子につけられんよ。蜀の大将軍刺殺の報は、そう簡単には外(少なくとも魏)には出なかったが、姜維の軍から捕虜でも出たようで、8月には曹芳が『よく殺った!』と詔勅まで出して公を追贈している」
A「時期的にぴったりだな」
Y「というか、死んだのか?」
F「そりゃ殺すだろう、大将軍殺されたらその場で。詔勅では、費禕が諸葛格に呼応して、魏が呉に翻弄されている隙を突こうとした……みたいな書き方をしているが、本人の性格と戦略構想からしてそれはないだろうな」
A「まず、自分から動こうというタイプじゃないからね」
Y「じゃぁ何でこのタイミングで……と考えるのも無粋か。蜀の大将軍なら、いつ殺されてもおかしいとは云えない」
F「だな。さて、ちょっと話をずらすぞ。赤壁での追撃戦が『オイオイ、何でここに趙雲?』『そっちじゃない! 曹操、そっちじゃない!』『ホントに荊州人ですか、孔明さん?』とか思えるルートをたどっているように、羅貫中が、地理にはあまり精通していなかったのはいいと思う」
Y「まぁ、フィクションだしな」
F「それが発展して、正史の記述をそのまま使えばいいのに、いらん手を加えたせいでボケたことになった……というものがある。関羽のオハナシなンだが」
A「なんかあったっけ?」
F「曹操の下にいた当時、顔良を討った功で漢寿亭公に任じられたのは、正史にも演義にも見られる。羅貫中は、その記述を膨らませて、当初曹操が"寿亭公"に任じようとしたところ、関羽が辞退したので、上に漢をつけて"漢寿亭公"にして受けさせた……というエピソードだ」
A「関羽の出した降伏の条件、最初のひとつを無視するからだよ。……で、何かおかしいの?」
F「地名なんだよ、漢寿って」
A「……は?」
F「後漢末に荊州の地籍変更があった……というのは130回の1で云ったが、それまでに治所があったのが漢寿なんだ。益州との州境に近い郡なんだが、これが益州に組み込まれたせいで治所が襄陽に移った。つまり、正史で関羽が受けたのは『漢の寿亭公』でなく『漢寿の亭公』なんだよ」
A「何でそんなの与えるのー!?」
F「いちおう漢の皇族を名乗っていた劉備の、兄弟に近い部下だったら、漢の字がついた地名のが喜ぶと思ったから、じゃないかな。ほとんど演義の通りだが、関羽については羅貫中も好意的だから、その辺りは大違ないと思う」
Y「ワタシが官職に就くのは兄者にとっても御家にとっても喜ばしいことではないですか、とか何とかと」
A「それ、勧進帳だから!」
F「聞き流すぞー。で、費禕が死んだのがこの漢寿の地でな。コレを地名と知らないヒトがいるのは、孔明の死後ナニがどうなったのか知らないヒトが多いのと、イコールで結んでいいと思う」
Y「単純な間違いだな、オイ」
A「……つーか、もと荊州の治所にいたってことは、呉との国境近くにいたワケ?」
Y「云われてみればそうなるのか? となると、蒋琬と同じように、水路で魏に攻め入るつもりだったとも考えられるンじゃないか?」
F「だから、孔明の死後に何があったのか、少しは予習してくれよ……。孔明の死後に、蜀の東方方面軍を率いていたのが、孫権曰く『我がケ芝』ことケ芝だ。呉との関係よりは、孫権個人に非常に気に入られていたからの人事、と思われがちだが、民衆叛乱を鎮圧したりしている」
A「ある程度の軍才はあった、と?」
F「北に王平、南に馬忠、そして東にケ芝……と云われていたからな。李厳や魏延には及ばなくても、(正史でも演義でも)趙雲の副将を張ったのは伊達じゃなかったというワケだ」
Y「魏から見ればたいしたレベルじゃないだろうがな」
A「やかましいわ!」
F「そんなケ芝の没年が251年。漢中にいた費禕は、いったん成都に戻って漢寿に移動しているンだ」
A「……ケ芝の死で空いた穴にも、漢中にも向かえる場所に駐留した、ってこと?」
F「そう考えていいな。自分から兵を出すことは性格的にないが、守りを強化する努力は惜しまなかったようだ」
Y「大将軍自らそんなことをしなければならないくらい、人材が逼迫してきたのかね」
A「そんなことないよっ! 王平とか馬忠がまだ健在……だよな?」
F「いや。王平は、前にも云ったが248年に、馬忠は249年に死んでいる」
Y「ぶはははははっ!」
A「あああ、事実だけどもー!?」
F「とりあえず落ちつけ。こうして考えると、費禕は、孔明からの遺産を受け継げなかった……という見方もできるな。何もかも受け継いだかたちの蒋琬は、それでも魏への侵攻を謀り、蜀の方向性を維持していた。だが、費禕は北伐を断念し、国力の増強と専守防衛に努めている」
Y「国家戦略の転換がなされたンだったな」
A「孔明の後継者たる自覚はなかったのかね……?」
F「単純に云おうか? 蒋琬や姜維は孔明の後継者だったが、費禕は諸葛亮の後継者だった、ということだよ。軍を率いて戦場を往くタイプではなく、いかに内政を充実させ国を富ませるのかを考えていた」
A「……軍師ではなく、宰相だった」
Y「魏延や楊儀、姜維を遠ざけたのは、かつて『諸葛亮』がやったように、国を自分のもとで一枚岩にするためか」
F「やはり、立場が影響しているンだよ。蜀に攻め入った孔明や寝返り組の姜維とは違って、費禕には益州人の立場を守り、利益を主張することが求められた。国を挙げての北伐に益州の民を動員するのには、否定的であっても無理はない……というよりも、否定的でなければならなかった」
A「気持ちはともかく、理屈は判った……」
F「それでも費禕は、孔明を尊敬していた。それは事実だと思う。尊敬し、自分や姜維では及ばない自覚があったからこそ、孔明の後を継いで無謀な北伐に向かうことをせず、それをなしえる賢者の出現を待とう……と主張していたンだろう」
Y「無謀というより、無駄な出兵をしなかった辺り、宰相としての資質は孔明を上回っていたようにも思えるがな」
A「やかましいわ!」
F「費禕は、蜀を富ませた。劉禅の在位は40年(中国史上11位タイ)、うち孔明時代11年、蒋琬時代13年、費禕時代7年、その後が9年になる。期間としてはいちばん短いが、魏からの侵攻を防ぎ、積極的には無用の士を起こさなかったことで、9度に渡る北伐のための資産を整えるかたちとなった」
Y「孔明が3年でやったことを、費禕は7年かけたようなモンか」
F「また、この時代の魏や呉では、何度か飢饉とか疫病が起こって、民衆に救済措置……租税の免除とか、食糧の配給なんかをやっているンだが、どうしたワケか蜀では災害が少なく『民衆に食糧を配布した』という類の記述は、蜀書には見られない。費禕ひとりの功ではないが、自然災害は天意と考えるのが漢民族なので、これは意外と大きい」
Y「しかし……(確認中)その蜀書の費禕伝には、宰相としての働きなんてほとんど書いてないが」
F「本文の記述そのものが短い、というのを気づいてくれ。陳寿でなくても、地味な内政業務は史書には残さないって何度も云ってるじゃないか。費禕伝は、蒋琬の死後に、費禕が宰相として果たした行いより、大将軍としての行いにこそ記述が偏っている。地味な、だが堅実な業務を果たしていたのがうかがえるンだよ」
A「地味なオハナシは興味を持たれにくいから、やむなくカットする……か」
F「それでも、記述の端々から費禕が只者じゃないのは伝わってくるがな。質素で蓄財を好まず、人柄は奢ることなく、降伏してきた者にも分け隔てなく接していた……とある」
A「その割には、姜維には態度悪かったンじゃないか?」
Y「正確に評価し遇していただけにも思えるが」
F「張嶷から『寝返り者に心を許されるのは、一国の宰相としていかがなものかと……』という書状を受けていたのに、本当に降将に刺し殺されている辺り、余裕が油断になったとしか云いようがなくてな。どーにもこの最期はみっともなかったと云わざるを得ない」
A「ちょっと残念だよねェ」
F「というか、そんな死に様をするという予測はなされていたンだ。ある日、費禕が魏の迎撃に出陣するところに、来敏が訪ねてきたことがあってな。文書入たる細葛が飛び交い人馬が動き回る中、費禕は平然と応対し、囲碁までしでかした。この姿に来敏は『これなら安心……』と胸をなでおろしている」
A「余裕を見せていた?」
F「これについて呉書では、割と手厳しい評価をしている」

 事に臨んでは心に畏れがなければ、計略に隙が生じる。費禕の行いは、諸葛格となんら変わるところがない。

F「余裕はいいが、それが油断につながった、と云われているンだ」
A「酷評だけど……」
Y「妥当な評価じゃないか?」
F「ところで……」
A「やるのかよ!?」
F「いや、正直やりたくないンだ、今回は」
A「……は?」
F「無視できないのにこれが何を意味するのか判らないものが見えてな。きのう、あのヒトがいるうちに確認したンだが、納得のいく答えが出なかった」
Y「アイツでもお前を説得できなかっただと!?」
A「えーっと、何なの!?」
F「費禕がなぜ死んだのか、説明できんのだ」
Y「刺されれば人は死ぬだろうよ」
F「そりゃそうだが、費禕は酒に酔わんぞ」
2人『………………は?』
F「話を振られたときは完全にスルーしたが、あの諸葛格や孫権を向こうに回して議論するのに、酔っていたとは思えん。この男は酒を呑んで、酔ったふりはしても素面だったと考えられるンだ。まして、自分で前後不覚に陥るまで呑むとは到底思えない」
A「素面で……? でも、えーっと……?」
F「かくて、費禕が死んだ。だが、この最期が何を意味するのか、僕には説明できない」
Y「連載続けて2年半で150回、ついにボロが出始めたか」
A「ボロとゆーか……なんか、悩まなくていいものを悩んでいるようにも思えるけどな。いつも通り」
F「続きは次回の講釈で」

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