私釈三国志 156 建安文学
F「さて、今回はアキラが不在のため、例によって短縮版でコラムを一席」
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Y「孔明が、死んで夜講の入りが落ち」
F「江戸の川柳だな。……シチュエーションそのまんまで悪いが」
Y「そんなに減ってるのか? アクセス数。正確なところは知らんが」
F「割と減ってるのは事実だ。メイン級がほとんど退場したし、生き残ってる連中もかなりあっさり退場するしで、人物的に盛り上がりに欠けてな」
Y「討ち死にを、日送りにする講釈師」
F「それをしてないンだってば。この時代には、興味がないというより知らないというヒトのが多い気はするンだが、ともかく、アキラがいるときは本筋のオハナシを、いない場合は落としてきたイベントのフォローを行う、というかたちでしばらく進めるので」
Y「いないのは痛いがそれを口実に方針転換できる、というところか」
F「非道い云い草だが、否定はしない。で、今回のお題は、いつぞや中止した、この時代の漢詩について。といっても『今回は』実際の詩について云々するのではなく、漢詩に対する文化的背景というところだけど」
ヤスの妻「えーじろが訳すと、割とぶっ飛ぶからね」
本日は、前田さんちで講釈・録音しております。
Y「最近、よく来るな」
ヤスの妻「アキラの替わりだよ。わたしじゃ役不足かもしれないけど、お相手してあげる」
F「……うん、役不足であってるンだな。当初の予定だと『土井晩翠』として講釈するつもりだったンだけど、『星落秋風五丈原』をメインにしないようなら、詩歌については魏を中心にしないといけないからね。三曹と呼ばれた建安文学の担い手たちは、いずれも魏に属していたから」
Y「人生ってはかないから歌っても憂鬱だ、酒だ酒だー、だったか」
ヤスの妻「へー、張飛が詩を読んだとは寡聞にして知らなかったな」
Y「曹操の詩だぞ?」
F「『短歌行』だね」
ヤスの妻「……わたしも勉強不足だなぁ。もっとも、この方面はかなり疎い自覚があるけど」
F「民間伝承では、張飛は酒と肉の商人だからなぁ。ともあれ、もともと漢詩には2種類あった。民衆が節をつけて吟じた歌謡と、宮廷人や知識人によって詠まれた詩や賦だ」
ヤスの妻「文字に残されたかどうか?」
F「……調子が出てきたようで何よりです。そういうことです。詩を文字に残せばそれを読んで遺すことはできますが、民衆の識字率はそんなに高くない。そこで、歌いながら覚える一種の口伝として歌というものが発生した……というわけです」
Y「声に出すか出さないか、とも云えるか」
F「ただし、基本的に、詩は宮廷人のものでした。前漢の武帝お抱えの文人に司馬相如がいますが、彼は子虚の賦・上林の賦を著しています。これは、武帝の生活ぶりを壮大に、修飾を凝らして描写したもので、多少の誇張はあっても武帝がどんな生活をしていたのかうかがい知ることができるものです」
ヤスの妻「資料として参考にできるの?」
F「できますが、相如は『こんな豪勢なのは慎んでください』と締めています」
ヤスの妻「いさめるために書いたんだ」
F「ですね。ところが武帝はその意図を聴かず、表現の巧みさを喜びました。ために、文人たちは皇帝に気に入られようと表現を研鑽しますが、本質的にはお抱え芸人のような立ち位置に落ちついてしまいます」
ヤスの妻「まぁ、歴史的に云うなら文学の地位は高くないもんね」
F「それを覆したのが建安文学、というわけです。ちなみに、文学といってもこの場合は詩を指しますのでご注意。曹丕は『文章を著すのは国家経営に匹敵するほど重要で、永遠に朽ち果てることのない大事業』とまで云っています」
ヤスの妻「その割には、文人の弟をないがしろどころか弾圧したよね」
F「その台詞が書かれた『典論』の書き出しをお忘れですか? 曰く『文人は互いに軽視しあう』ですが」
ヤスの妻「……むぅ」
F「俗に、曹操は『悲壮』で『慷慨』に満ちた詩を、曹丕は『優婉』で『華麗』な表現を得意とした、とされていますが、詩才で云うなら三曹でトップの曹植はその両者を併せ持っていたとされます。曹丕との後継者争いで敗れてからは、さらに『悲哀』と『老成』を兼ね備えた作品を書くようになり、杜甫が現れるまで中国文学の神の座にあった……とも云われますね。やや評価しすぎの感はありますが」
ヤスの妻「うーん……芸術分野には疎いから、今回えーじろを相手にしているとは思えないくらい不調だなぁ」
F「オレも、アンタが相手だとは信じられない……あの ときの押されっぷりは何だったンだ? さて、建安文学がその前時代の詩と大きく違うのはみっつ。まず、個人の心情を詠んでいるということ」
ヤスの妻「皇帝の生活、じゃなくて」
F「そうです。もともとは皇帝やその周囲を詠んでいたけど、自らの感情を詩に込めるようになりました。次に、自分のために詠んだということ」
ヤスの妻「これも、皇帝に読ませるためのものじゃなくて?」
F「そもそも皇帝に聞かせるために詠んでいたものから、誰かにおもねる姿勢から脱却したのがこの時代ですね。そして第三には、自身の経験にもとづいたものを詠んだことです」
ヤスの妻「司馬相如も、それはやっていたでしょ?」
F「日常生活、というとちょっと違うンですが……。相如の賦は宮廷という、一種独特な空間でのオハナシです。ところが、曹操は冬の太行山脈山登りツアーの様子を、阮瑀は町はずれで泣いていたひとのことを詠んでいる。特異な環境ではない、もっとありふれた生活での出来事を詠んでいるンですね」
ヤスの妻「うーん……? 理屈では判るけど実感が伴わないというか、何というか」
F「ではここで、曹操が詠んだ『短歌行』の冒頭部分を引用してみます」
対酒当歌 ――さぁ、酒だ
人生幾何 ――人生がどれほどのものだというのか
譬如朝露 ――朝露のようにはかなく
去日苦多 ――去りゆく日々はむなしい
慨当以慷 ――悲しみにくれたとしても
幽思難忘 ――亡き人のことは忘れがたい
何以解憂 ――どうすれば、この憂いは解けるのだろう
唯有杜康 ――酒だ、酒しかないっ!
ヤスの妻「……うん、個人の心情を自分のために、実体験で描いているね。一見すると張飛そのものだけど」
F「こういう等身大の詩が詠まれるようになったのが、曹操ら三曹に代表される建安文学の時代だったワケです。これをして魯迅は『文学の自覚時代』の到来と呼んでいますが、この時代が漢詩に与えた影響は極めて大きかったと云えましょう。まぁ、一度や二度で語れるモンではないので、また今度掘り下げますが」
ヤスの妻「わたしが不得手だと思ってのこと?」
F「さすがに、漢詩を2ページ3ページで講釈できる、知識も教養もないですよ。割とリクエストもあったので、あと何回か、しっかり見ておきたいンですね。何しろ、正史とも演義とも不可分ですから」
ヤスの妻「演義なんか、気がつくと詩が掲載されてるからね」
F「そういうことです。ところで……」
ヤスの妻「はいはぁーいっ」
Y「喜ぶな!」
F「お前、いたのかよ!? 話は変わりますが、本格的な書道がはじまったのも、三国時代とされています」
ヤスの妻「だから、わたし芸術分野は疎いの……」
F「筆を発明したのは始皇帝に仕えた蒙恬とされていますが、戦国時代にはすでに使われていたようです(絵筆なら石器時代からあった模様)。151回で見たように、製紙法の改良もまた後漢時代です。始皇帝は文字についても統一をはかりましたが、紙に書くための簡略化が鍾繇によって成し遂げられたのが、この時代でした」
ヤスの妻「始皇帝から400年を経て?」
F「日本でも書道といえば楷書ですが、鍾繇はこの技術に優れていたンですね。残念ながら真筆そのものは現存しませんが、楷書と云えば鍾繇とされ、晋代では王羲之と並び称されていました。技術的な意味での書道は鍾繇の手によって始まった、と云っていいでしょう」
ヤスの妻「お習字なんて子供しかやらないけどねー」
F「ましてサウスポーにおいておや。ただし、墨はともかく硯が現代のかたちになるのは六朝時代ですから、書道というより書術というところですが。蒼天航路ちっくに云いましょう。書聖王羲之が出現するまで、鍾繇は中国書道界の神の座にあった、と」
ヤスの妻「キレイにまとめるなぁ」
F「続きは次回の講釈で」