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私釈三国志 155 三征侵攻

F「前回と今回は、正直区分が難しいところだ。本音としては3回に分けたかったンだが、それをやると分量が2:3:1くらいになるので、とりあえずこんな具合で」
A「いられるうちはつきあうから、どんどん続けて?」
F「ありがとな。さて、前回に諸葛格の経済政策を見たが、これは割と重い意味を持つ。裏を返せば孫権時代には、率はともかく関税や物品税が課せられていて、納められなかった税には利子がついていたことになる。また、監督官が置かれ、正当性はともかく官吏はそれに監視されていた」
Y「政治的には優れた君主、じゃなかったのか?」
F「経済的にはそうでもなかった、というところかな。孫権は、私人としては割と庶民的なんだが、頭ン中が浮世離れしていた。馬と引き換えに珍宝を、それも敵国に売り渡したくらいだ。いつか云ったが民政は顧雍が担当していたから、経済や流通には縁が薄かったとも云える」
Y「それならしばらく放っておけば、呉は経済的に破綻していたンじゃないか?」
F「そうならないように、顧雍が奮闘していたってことだろう。国を守るために出費を惜しまない君主の下には、経済的にしっかりした見識を持つ家臣が必要だ。客観的に云って、孫権の治世において呉がいちばん荒れていたのは、顧雍の死後だったという事実がある」
Y「原因は顧雍じゃないような気がするが」
F「そう、原因は孫権だ。というわけで、孫亮に代替わりしたから、諸葛格が経済政策に乗り出すにはちょうどよかったンだ。10歳そこらの坊やが使える金額には上限があるべきだし、あるだろう」
A「張昭みたいなしまり屋がいなくても、その辺はしっかりしそうだね」
F「そのために、諸葛格は選ばれたワケだからね。ただし、諸葛格の政策の根底には、叔父の影響を無視できない。政治を整え内需を促進し、来るべき北伐に備え国力を高める意思があったのは明白だ」
A「意識しないワケがないか」
F「そんな政策の一環として、北方防衛力の強化を謀っている。241年に、全j(大トラの夫)が寿春(地名)周辺の灌漑施設を破壊したのは以前見たが、この中に、孫権が230年に作らせた東興隄もあった」
Y「つまり、魏に奪われていたと」
F「そうみたいでな。全jがまとめて叩き壊していたようで、諸葛格は兵を出して、これを11年ぶりに復旧している」
A「自分で工事しろよ、だっけ」
Y「やかましいわ」
F「はいはい、仲良くなさい。長江から合肥に向かう途中に巣湖という湖があってな。それに堤防を構え、山につないで城を築き、将兵を配置しているンだ。これを怒ったのが魏で『領内で勝手なことをやらせるな!』と兵を挙げている」
Y「妥当な反応だな」
F「これに先立って、孫権の死を聞いた魏では『この機に乗じて呉を討つべし』との声が上がっている。代表格が征南大将軍王昶で、征東将軍胡遵・鎮南将軍毌丘倹らだが、この三者をして毌丘倹は、のちに"三征"と呼んでいる。見て判る通り本人は1ランク下だが、それぞれ作戦案を提出していた」

プランA:軍船をもって長江を渡り、敵の食料を奪いながら各地を攻略したいです。
プランB:複数の軍を発進させ呉に攻め入り、城市を攻略しようかと思います。
プランC:国境地帯で屯田を行い、穀物を集積しながら、隙を見て兵を出しましょう。

F「誰がどれを、というのは明記がないが、判らなくはない。プランA、つまり呉を甘く見ている行き当たりばったりの提案は、同じことを考えて公孫淵に負けた、毌丘倹しか考えられん」
A「懲りてねーのかよ!?」
F「懲りた様子がなくてな……。その公孫淵討伐の際に、演義では夏侯覇が張った魏の先陣が胡遵だ。残りのどちらを奏上したのかは今ひとつ読めないが、プランCは、王昶が呉との国境でほぼ同じことをしている。たぶん、Bが胡遵案で、Cが王昶案なんだろう。もっとも、プランBもかつて王昶が王基たちとやった作戦ではあるが」
Y「断定はできないか。いちおうはまっとうな策だな」
A「Aを除く?」
Y「いや、孫権の死の直後なら、呉の側の防御体制が整っていないことが期待できる。それに乗じるなら、ただ攻めてもそれなりの戦果を挙げられた可能性は高いだろう」
F「どっちにせよ、傳嘏という文官が反対している。もともと曹羲(曹爽の弟)に与していたが、何晏ににらまれて免職させられ、仲達に登用された人物でな。プランCをさらに慎重に行うならまだしも、60年続いた戦争が一朝一夕で収まるものですか、と」
Y「それはそれで正論か」
A「……思えば、もう60年以上経っているンだねェ」
F「だが、当時、大将軍・録尚書事というどっかで聞いた組み合わせの役職にあった司馬師は、その諌めを聞かずに軍を出している。王昶には2年前攻略しきれなかった江陵を再度攻めさせ、毌丘倹はいち時期呉が首都としていた武昌(地名)に向かわせた。そして胡遵に勇将諸葛誕をつけ7万からの軍をもって、肝心の東興隄を目指している」
A「大攻勢だな」
F「当然ながら東興が主戦場になった。築かれた城を任されていた武将たちは胡遵らの攻撃をしっかり抑え、呉都建業に救援を求める。諸葛格は4万の軍を整えると、丁奉や呂拠らを率いて自ら迎撃に乗り出した」
A「叔父やそのライバルを意識しているのがみえみえだねぃ」
F「ところが、この軍の歩みが遅い。何しろ呂拠らは『太傳殿自ら出陣されたと聞けば、敵は恐れをなして逃げ出しましょう』と、魏を軽んじる発言をしている。呂拠は呂範(228年死去)の子で、山越や武陵蛮討伐など荊州での軍功を重ねていたンだけど、この時点ではちょっと油断があったみたいだ」
A「何でまた?」
F「前年に大風があって被害が出たンだけど、その中で呂拠は船をつないで被害を抑えるのに成功している。また、どこぞで敵の陣地を破ったとの記述もあって、そういう大規模工事に通じていたのが見えてな。たぶん、東興の工事にも参加していて『ワシの作った城がそうやすやすと陥落るかい』と高を括っていたンだろう」
Y「考えとしては間違ってないンだよな。実際に、陥落しなかったンだろ?」
F「うん、援軍の到着前に冬になり、雪が降り出して攻撃の手が緩んでいる。でも丁奉は『国を挙げて攻めてきた連中が、援軍の到着くらいで退却するか!』とか『こんなにノロノロ動いていては、敵に有利な陣を築かせる時間を与えてしまう!』と云って、自分の部隊だけでとっとと進軍してしまう」
A「周瑜が聞いたら『お前がノロノロとか云うな!』って怒り出しそうだけどねェ」
F「残念ながら相方の徐盛はすでに故人だ(没年不明だが、229年までに死去)。それが原因でもなさそうだが、丁奉隊は東興にすばやく到着。だが、数が少ないのを侮って、魏軍は警戒も攻撃もしないで雪見酒に興じていた」
Y「何しに来たンだ?」
F「それを知った丁奉は、兵士たちに鎧を脱がせ、兜だけの裸体で獲物を持たせて魏軍の陣地に向かわせる。魏の諸将は笑いながらそれを見ていたが、丁奉(裸)自ら先頭切って斬りこみ、兵士たちも決死で奮闘する。後続の本隊も到着したモンだから、水に落ちるわ斬られるわ、逃げ惑って互いに踏みつけあうわで、数万からの死者が出た」
A「どこまで油断してたのさ……」
F「魏の名のある武将もこの乱戦で死亡しているが、呉の諸将をひときわ喜ばせたのは、25年前に魏に寝返った韓綜(韓当の子)を討ち取れたことでな。たまたま従軍し前衛となっていた韓綜を討ち取ると、諸葛格は、孫権の墓に詣でてそれを報告したほどだ。久しぶりの大勝利と相まって、呉が大喜びしたのは云うまでもない」
A「熱狂しただろうね」
F「ところが、しなかった。勝った諸葛格が凱旋し『この機に乗じて、魏に攻め入りたい』と云いだすと『兵が疲れているから……』と反対の声が多数を占めたンだ」
A「……なんで?」
Y「本人たちが云ってる通りじゃないのか? 勝ったとはいえ被害が少なくなかったとか」
F「この場合の『本人』に相当するのは、実際に戦った兵士か、範囲を広げても丁奉たちまでだ。戦争を否定していいのは前線にいる兵士だけだぞ」
Y「シビリアンコントロールって知ってるか?」
F「そのために諸葛格がいたンだろうが。状況をまとめると、シビリアンの筆頭が12月に戦争に勝って、翌253年1月にはそれを聞いた王昶らも兵を退いた。そこで2月に凱旋した諸葛格が『追撃したい』と云うのを引き止めている、ンだぞ」
Y「……考えてみると少し変なのか」
F「というか、20年くらい前に似たようなことがあったのを思い出せないか? 勝っていた孔明が、李厳の計略で退いたのを」
A「あったなぁ。今度は……孫峻辺りの計略?」
F「李厳のは自己保身のためだったが、今度のは完全な権力欲だ。諸葛格の勢力が増して、困るのは孫峻。だから、宮廷では諸葛格の出兵案に反対の声が上がった。対して諸葛格は、何が何でも出兵したいと云い張り『叔父が書いた出師の表を読んでみろ!』とまで云っている」
A「孔明まで引きあいに出すなよ!」
F「とにかく、諸葛格は動いた。20万からの軍勢を動員したと呉書にはあるが、人口からしてちょっと考えられない数字だ。その上、蜀に使者を送って姜維にも出兵を依頼している」
A「どこまでやる気なんだ、このボン」
F「それを危惧したようで、率いていた部将から『むやみに進軍するのではなく、合肥新城を攻めるべきでしょう』との進言があった。誰かは記述がないが、それなら呉から遠く離れるワケでもないし、成功しても呉にメリットがある」
A「失敗するのが前提か?」
F「現に今度は失敗した。魏の揚州方面は、先に東興で破れた諸葛誕に替わって毌丘倹が張っていたンだけど、合肥新城に入っていたのは張特という武将と3000の兵だった」
A「何でそんなに少ないのさ!?」
F「それくらい、胡遵や諸葛誕がボロ負けしたってことだよ。最重要拠点たる合肥新城にさえ、その程度しか兵を残せなかったンだから。新城が包囲されると、張特は必死で防ぐものの多勢に無勢、3ヶ月で半数以上が戦死している」
A「まさかの合肥陥落……?」
F「いや、ここで張特が頭を使った。魏の法では『攻撃されて100日以上が経過』し『援軍がやってこない』場合には、敵に降伏しても家族に罪は連座しない。そこで自ら呉の陣営に乗り込んで『あと10日で罪に問われなくなりますので、それを待ってから降伏させてください』と申し出た」
Y「……俺でも疑うか微妙な申し出だな」
F「しかも、城主の印綬を差し出しているンだ。そのうえで『降伏を是としない者もいるでしょうから、説得できるものは説得し、できない者をリストアップしてきます。明日またうかがいますので、その連中は好きにしてください』とまで云いだした。これでは諸葛格も信じてしまい、張特を城内に帰している。それも、印綬を受け取らずに」
A「詰めの甘さがここで出た?」
F「そゆこと。城内に戻った張特は、たった一夜の猶予期間を利用し、城内の家屋を壊して柵を作り、城壁は補修して二重にしている。朝になったら『さぁかかって来い、死んでやる!』と啖呵を切った。やっとだまされたと気づいた呉軍は怒り狂って攻め立てるけど、防御を固める時間を与えたのはまずかった」
A「攻め落とせなかったワケだね」
F「さらに、呉の軍中で疫病が蔓延した。何ヶ月も続いた包囲戦に疲れた兵が生水を飲んで、病気になる者が相次ぎ、死者も多発したのね。おまけに、ようやっと軍勢を整えた毌丘倹が援護に回り、洛陽からも司馬孚率いる軍勢が駆けつけたモンだから、ついに諸葛格は兵を退いた。この撤退の途上でも、追撃を受けて討たれる者、捕虜になる者が相次ぎ、魏軍からは逃げおおせたものの力尽きて帰国できなかった者もいた」
Y「ゴリ押しで兵を出したのに負け戦では、諸葛格の評判は地に落ちるな」
F「そゆこと。帰国した諸葛格を官民問わず非難で迎えた……とある。もともとは評判が高かっただけに、それが覆るのも一瞬だった。政治的に追い詰められた諸葛格は、精神的に一線を踏み越えてしまい、恐怖政治を敷くようになる」
A「それこそ孫峻の思う壺じゃね?」
F「そうなんだけど、そうするしか生き残れないと諸葛格は判断したようでな。遠征中に人事の変更があった部署では、それをすべて廃止し、自分で任命しなおした。多くの人々を断罪して問責した……とある」
Y「それほど恐怖政治というものでもないな」
F「だが、孫峻にはそれで充分だった。たきつけられるまま孫亮は、諸葛格処断にGoサインを出す。253年10月。8月に終結していた遠征から帰国した諸葛格は、まだ宮中に参内していなかったので、その日宮殿を訪れた。ところが、顔を洗おうとすれば水が生臭く、着替えようとすれば服も生臭い。水も服も替えたのに臭いは相変わらずで、外に出ると犬に着物のすそを引かれる始末だ」
A「あからさまな死亡フラグだねぃ」
F「臭いは我慢して犬を追い払い、ようやっと宮門にたどりついた諸葛格を、宴席での準備を整えていた孫峻が出迎えたンだけど『……具合が悪いなら、帰っていいよ?』とむしろ気を遣う発言をしている。といっても、実際に心配したンじゃなくて、計画に感づいていないかカマかけてみたンだが」
A「顔を見て心配になったとかじゃないワケな」
F「傍目にも様子がおかしかったのは察せられるがな。いちおう諸葛格に心を寄せる者もまだいて、張約はこっそり『きょうの宴席は尋常ではありません、何かよからぬたくらみがあるようです』とのメモを渡している。それを見せられた滕胤は、家に帰るよう勧めたけど『孫峻ごときに何ができる、せいぜい毒を盛る程度だろう』と参内した」
Y「呉書の記述だと、滕胤が、帰ろうとした諸葛格を引き止めているンだがな」
F「注に引かれた『ふたりは親密な関係だったンだから、そんなメモが来たら諸葛格は滕胤に見せるだろう』との記述のが正しい、と裴松之は書いていて、僕もそっちのが正しいように思える。剣を履いたまま参内する特権をさりげなく得ていた諸葛格は、孫亮に拝謁してから、自分の席についた」
Y「役職や地位からして、孫峻の席はそう離れていない」
F「ために、毒を盛られるのではないかと諸葛格は不安になり、酒にも手をつけない。そこで孫峻は『まだ具合が悪いみたいだね? じゃぁ、無理にお酒じゃなくて、薬酒を呑んでいればいいよ』とフレンドリーに騙りかける……もとい、語りかける。諸葛格はちょっとだけ警戒を緩め、持ってきた薬酒を呑み始めた」
A「どーにもこのボン、詰めが甘いね」
F「酒が回ることしばし、孫亮は奥に下がり、孫峻もトイレと偽って席を立つ。そして武装して戻ってくると『詔により諸葛格を捕らえる!』とブチかました。慌てた諸葛格は剣を抜くことができず、孫峻に斬り殺される。黙っていなかったのは張約で、孫峻に斬りかかったものの左手を傷つけただけで、文字通りの返す刀で右腕を斬り落とされている」
A「……そんなに捨てたモンでもなかったワケか」
F「まだそんな輩がいたらたまったモンではない……現に、滕胤はその場にいるワケだから。孫峻は警備兵を呼び『諸葛格が死んだのだから、もう誰も傷つけるな!』と命じている」
A「さすがに、その状況では動けなかったのか」
F「諸葛格の長男は、すでに孫覇に連座するかたちで(諸葛格に)処断されていたが、下に息子がふたりいた。父の死を聞いたこの息子たちは、母を連れて逃げる。もともと次男は行いを控えるよういさめていたンだけど、諸葛格がそれを聞き入れなかったので、いつかよからぬことが起こるのでは……と危惧していた」
A「ダメだろ」
F「孫峻は追っ手を出して息子たちを追いかけ、次男はあっさり斬られる。ところが、残る一行は、もともと諸葛格の部下だった徐平に捕らえられた。この徐平、諸葛格からないがしろにされていたから、不満を持っているだろう……と孫峻に見込まれて、追っ手に出されたと思われる。ところが、彼は捕らえた一行を解放した」
Y「それでも、諸葛格を慕う者はいたということか」
F「何とか長江を渡った一行は魏に向かうが、数十里進んだところで再び追いつかれ、全員殺された。荊州にあった諸葛融(瑾兄ちゃんの三男)は、朱績に城を包囲されるとおろおろして、結局服毒自殺している。姻戚にあった者たちもことごとく斬られ、呉における諸葛一族は根絶やしにされた」
Y「あからさまな三族皆殺しだな」
A「そこまでやる必要があったのか!?」
F「ところで……と云おう。必要性で云うなら、あった。正当性で云うなら微妙なラインだが」
A「聞こう」
F「もともと諸葛家……瑾兄ちゃんの一族は、曹操の徐州殺戮から逃れて呉に仕えた、いわば外様だ。呉では孫権に重用されたため、江東の有力豪族でもないのに出世を遂げている。ために、讒言されているのは以前見たな」
Y「周りからにらまれていた?」
F「もともと、自分たちの権益さえ守られれば、呉ではなく魏に仕えてもいいと考えていたのが少なからずいたからな。それなのに、民衆を駆り立てて魏を討ち、天下を盗ろうと目論む者が上に立ったら、団結して省くのは明確じゃないか」
A「それでも天下への野心はあった孫権の頃とは、状況が変わっていた?」
F「残念ながら諸葛格には、その辺りが判っていなかったように思える。呉が天下を盗れなかったのは、この頃すでに盗る意思を失っていたのが最大の要因だ」
Y「江東豪族を守るためには、諸葛家を除くのは必要だった……ということか。確かに、意見が正しいかはともかく、必要性は認められるな。では聞こう、なぜ孔明は除かれなかった? 蜀の民衆にしてみても、急に攻め込んできて支配者層に納まり、民衆を魏との戦闘に駆り立てた孔明は、除かれるべき対象だったことになるが」
F「それが、諸葛格が失敗し、孔明が生き残れた原因だろう。孔明は自分が出征するときに、宮中に蒋琬を残した。蒋琬が漢中にあった時には費禕を残している。自分の分身として宮中で与党を率いることのできる者がいるかどうかが、両者の生存を分けたンだ」
A「滕胤には、それを望めなかった?」
F「滕胤は、諸葛格の代理として政務を執るのが精一杯で、孫峻の相手が張れる器ではなかったようでな。しかも、三征侵攻戦はともかく、その後の出兵には反対しているンだ」
Y「意見の相違があったワケか」
F「そゆこと。かくて、呉を支えた大黒柱の息子は、呉自らの手によってへし折られた。のちに孔明の血筋から家は再興されているが、呉の滅亡はそれほど遠いことではない」
A「……地味というよりダメな奴が多くなってきてるな」
Y「云い過ぎではあるが、意見そのものは否定しない」
F「続きは次回の講釈で」

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