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私釈三国志 152 国際情勢

F「はいっ、というわけで今回は……」
Y「先週のうちにツッコんでおけばよかったのか? 何だ、152って」
F「アキラがいないタイミングで最後の二大イベントかますワケにはいかんだろう。アキラが来るまで150回は保留して、とりあえず先を進めておくことにした」
Y「回がずれたらどうするンだ?」
F「内容が明確だからそれは大丈夫だよ。それに、いざとなったら複数ページに分割できるネタだし」
Y「……回の先取りができるなら、前からやっておけばよかろうに」
F「あっはは。加えて、ほぼ同じ理由で、今回と次回は短縮版になります。旧来の、ワードファイル2ページ分だな。で、今回見るのは当時の国際情勢について」
Y「国際なんぞと呼べる状況はなかったように思えるがな」
F「いちおうは交流もあったからね。えーっと、コーエー(当時は光栄)の三國志演技・リプレイ集に、この時代の国際情勢を簡単にまとめた記述がある。124ページから引用してみる」

 また西方に目を転じれば、ローマ帝国はその全盛期を終え、50年に26人の皇帝が乱立する軍人皇帝時代に入ります。イランではパルティアにかわってササン朝がおこり、東はクシャーナ朝を破り、西はローマを苦しめています。中央アジアと北インドを支配し仏教を重んじたクシャーナ朝は、苦戦を強いられ、やがては滅亡します。
 全世界的な再編の時期でありました。

F「愛知県の吉法師さんからの質問に答えて、という形式なので、実際にはこれに先立って日本(邪馬台国)の説明があったンだが割愛」
Y「まぁ、日本から東には、まだ文明らしい文明はなかった時代だし」
F「オセアニアでようやく土器が使われはじめたのが2世紀のことだけど、つまり文化レベルは農耕どころか狩猟にさえ発展していなかった可能性が高い。採取生活を送っていた当時では、さすがに講釈のネタにできんね」
Y「……だったらどうしてそんなに詳しい?」
F「姐さんが死んだからやむなく全世界をカバーするようになったけど、もともとオセアニアが担当だろうが、僕は。……んー、この流れで東から順に見て行くことにするか。えーっと、日本では縄文から弥生時代への過渡期で、卑弥呼が呪術で民衆統治していたのは133回で見たな。高句麗はあのあと(246年)、毌丘倹に事実上叩き潰されている」
Y「繰り返しになるのと"三国志"の範疇から外れるから、その辺はカットする、と」
F「だ。南に進むと、2世紀後半に、中ヴェトナムでチャム族がチャンパ朝を興しているが、これが西南夷、俗に云う南蛮のさらに南に位置する。1世紀くらいにメコン川流域で扶南が、3世紀にはイラワディ河流域にピュー族(ビルマ系)が城塞国家を築いていて、主にこれらが東南アジアの覇権を賭けて争っていた」
Y「その辺りとの交流があったのは、蜀ではなく呉だったな」
F「戦争が交流なら蜀もあったかもしれんがな。先に見た通り山越はヴェトナム系なので、呉は北ヴェトナムを徹底的に弾圧し、中ヴェトナムとは交易するという関係をもっていたことになる。ただし、当時マレー海域周辺の制海権は扶南にあったので、孫権は西方との交易のために得意の二枚舌外交をしていたようで」
Y「遠交近攻は外交の基本だが、アイツのはやりすぎに思えるな」
F「否定はしない。南アジア、インドに目を移すと、チョーラ王国などの小王国が抗争を続けていた。もともとデカン高原西部で興ったサータヴァーハナが北インドに食指を伸ばして衰退した隙に、小さいものの小さいなりの抗争が繰り広げられたのがサンガム文字で残されている」
Y「小さいちいさい云っても、日本の総面積に匹敵する規模だろ?」
F「実はその通り。また、この頃のインドで特筆すべきは大乗仏教の成立がある。単純に云うとナーガルジュナは『自分が救われるべきか、ひとを救うべきか』との問いに後者を選び、みんなで乗れるバスに乗って悟りを啓こうと考えた。古来からの『悟りのために妻帯も葬式もしません』という連中はちっこい乗り物だ、と」
Y「中国への仏教伝来……も、昔見たな」
F「そうなる。ただし、大乗仏教の成立は2世紀後半なので、漢土にシルクロード経由で伝わったのは"ちっこい乗り物"こと上座部仏教の方だが。小乗云うと怒られるからな」
Y「誰に」
F「中央アジアは北狄関係で割と触れたのでスルーする。視線をさらに進めて、西アジア。現代の感覚で云うならアラブ地方だが、イスラームの成立は7世紀なので、侮辱するつもりはないが、この時代にはアラーのあの字もありゃしない。大事なことなので2度云います、イスラームを侮辱するつもりはありません」
Y「だから、誰を警戒してるンだお前は」
F「紀元前のことだが、ディアドゴイ戦争(アレクサンドロス大王の後継者争い)で興ったセレウコス朝から、騎馬民族国家パルティアが独立している。セレウコス朝がローマ帝国との戦いに敗れて次第に衰退したので、それに取って代わるかたちで西アジアの覇権を握ったのが、この国になる」
Y「何回か前に出てたな」
F「うん、東はインダス川から西はメソポタミアまでの強大な王国でな。シルクロードや海洋航路での交易で栄え、ローマとも互角の勝負を繰り広げていた。ところが、1世紀中ごろに興ったクシャーン帝国(上記『クシャーナ朝』)が次第に中央アジアに広がりを見せ、パルティアの背後を脅かすようになったンだ」
Y「魏に朝貢した?」
F「それだ。そういえば、ウォゲセス5世が死んで後継者争いが始まったのが207年で、それが原因でパルティアは224年にササン朝ペルシア帝国に滅ぼされていてな。ヴァースディーヴァが魏に使者を送ったのは、ペルシアとの関係を警戒してのものだった、と云い直そう」
Y「いや、どっちでもたいして変わらんだろう」
F「ずいぶん違うぞ。実際に、250年ごろからペルシアの圧力に屈するかたちで、クシャーンは衰退していくンだから。ちょうどローマ帝国も衰退期に入っていたモンだから、エフタルやアッティラをも退け、ペルシア帝国はイスラームの成立まで西アジアに君臨し続けているンだ」
Y「だが、ペルシャが中国と交流するのは唐代そこらだろ? 三国志という視点で見るなら、大きくは影響せんよ」
F「むぅ……割と好きなんだけどなぁ。それはいいが泰永、フィリピンと云ってみろ」
Y「フイリッピンがどうした?」
F「僕の耳じゃなくて、お前の発音に問題があったみたいだな(注 カナではうまく書けませんでした)。ともあれ、順番でローマ帝国を見よう。ヴェトナムまで使者を送った(166年)ことで知られる哲人皇帝アントニウス(大秦王安敦)の死によって、五賢帝時代は終わりを遂げた。235年から284年までを軍人皇帝時代と呼ぶが、この期間で実に26人の皇帝が立っては降りており、必然的に国力は衰退する」
Y「長いこと留まっていてもろくなことにならんのは呉で誰かさんが証明したが、短いのは短いのでまずいわな」
F「そゆこと。五賢帝時代にはヴェトナムや長安と交流があったみたいだけど、すでにこの時代のローマにはそんな余力はなくなっていたようでな。ちょうどペルシアが興隆したモンだから、漢土との交流はあまりなかったと見ていい」
Y「ために、積極的に見る必要はない、か」
F「幸いにもローマ帝国に関する史料は、日本国内では本国に劣らない量が出ているので、興味があるなら調べてみるといい。いちおう、この頃のローマで見るべきイベントとしては、マニ教の禁教令(297年)がある。245年くらいに成立したマニ教は、ペルシアの庇護を受けインドからエジプトまで広まったンだが、ゾロアスター教が国教になると開祖マニは捕らえられ、277年に処刑されている。ローマ国内でも信者が増えていたため、ときの皇帝ディオクレティアヌスはわざわざ禁止令を制定した」
Y「宗教的なイベントは扱いに困るな。お前に触れさせると危険なのは明らかだが、触れないのは触れないのでまずい」
F「危ない橋は真ン中を歩こう。コレで終わってもいいンだが、いちおうところで……と云っておこう。大雑把に当時の世界情勢を見てきたが、基本的には三国時代の漢土とかかわりがあるイベントのみなので、交流がなかったアフリカやアメリカは、完全にスルーしている」
Y「当時のあの辺りに文明はないだろうよ」
F「日本と同レベル程度のものしかなかったようだね。いちおう見てみると、アフリカでは、のちにキリスト教国と知られるアクスムが紅海沿岸に領土を広げている(エジプトはまだローマ帝国のいち領土)。北アメリカではようやく定住と農耕が始まった頃で、中央アメリカではマヤがテオティワカンに圧迫されていた。南アメリカではティワナコ・ナスカ・モチェといった国家が興っていた、そんな時代」
Y「アフリカはともかく、南北アメリカはコロンブスの出現まで世界史に関わってこないしなぁ」
F「それが難しいところだな。かの鄭和がアフリカどころかアメリカ大陸まで到達していたという説があるンだから」
Y「……どっちにせよ、千年以上先の話じゃねーか」
F「そうなる。しかも、鄭和が何度も何度も航海した目的のひとつには、南京から逃げたとされる建文帝捜索もあった……なんて説があるくらいだ。そんな単純な理由も、あるいは永楽帝にとっては切実なオハナシだったのかもしれんが」
Y「いっそ不老不死を求めて徐福を出航させた、始皇帝のがまだマシだな」
F「マシかどうかは疑問だがな。では、シャバ帰りなのでこんなところで」
Y「シャバ云うな」
F「続きは次回の講釈で」

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