私釈三国志 151 時代区分
F「先日、新潟でも地上波で放送が始まった、田中芳樹氏原作のアニメ『タイタニア』だが、時間帯がハルヒと近いンで実は見ていない」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
A「原作からコミックからDVDまで、出てる分では全部持ってるモンねェ」
Y「ハルヒもそうだろうがよ。しかし、原作の続巻が一向に出ないのは、別の作品のときに『アニメを先に出してもらって、それを参考に続きを書く』とか云ってた、あの作者だから仕方ないのかね」
F「いろんな意味で凄い作者だよ……。ともあれ、その『タイタニア』の原作は、こんな文章で始まっている。ちょっと長いが引用してみる」
……時代区分というものは、歴史の教科書を書いたり読んだりするときの便法にすぎない。そう考えられることが多いが、じつは時代を区分することは、歴史研究の最終的なゴールであるといってよい。なぜなら、時代区分をどのように設定するか、その設定のしかたに、その人の基本的な歴史観がストレートに反映するからである。
(田中芳樹『タイタニア 1』序章より)
F「割と、というより露骨に考えこまされる一文でな」
A「えーっと、たとえば三国志の年表を作らせると、そのひとの三国志観がそのまま出てくる、ということ?」
F「そゆこと。たいていのヒトは『はい、年表作ってー』と云われても、黄巾の乱から五丈原までの50年で済ませると思う。僕みたいな変わり者はそれよりはるかに前から、それよりはるかにあとまでの年表を作るが」
A「絶対的少数派だろうな」
F「自覚はある。三国志について講釈しようと考えて、最初に問題として挙がったのが『どこから始めるか』でな」
A「黄巾の乱から、でいいだろうが」
F「そう思うのは無理もないが、正史を重んじる年表だと155年から始まっていることが多い。いつぞや挙げた『三国志誕生』は、曹操の誕生をもって三国志年譜を開始している。ちくま学芸文庫8巻収録の年表が、そうなっているのと無関係ではないと思う」
A「でも、その辺って他にイベントあるのか?」
F「そのときに、併せて挙げた演義年表にも、184年より前は挙げられているぞ。演義でも、孔融が李膺を訪ねたり、桓帝が没して霊帝が即位したりは記載されている。その辺りを無視していいか、と云えば当然Noだ」
Y「触れないわけにはいかんものだな、確かに」
F「では、155年に三国志が始まった……と考えていいかと云えば、コレにもやや疑問は残る。劉表は142年生まれで、実は演義での黄忠さん(148年生まれ)より年長だったりするンだから」
A「……劉表抜きでは、三国志を語れんのは事実か」
F「劉表よりも年長なのが、『真・恋姫』にブっ飛んだキャラとして登場した裁判長こと程c。さらに早い141年生まれで、163年生まれの荀ケ・170年生まれの郭嘉とはずいぶん年が離れているンだ」
A「えーっと……張昭さんは?」
F「驚け。156年生まれで、実は曹操より年下だ。相方の張紘は153年生まれで、実はそっちのが年上」
A「……驚いたよ」
F「というわけで『三国志の始まりとはどこで区切られるべきか』という単純でありながら答えの出ない問題が、ある」
A「うーん……」
F「とは云っても、限度はあるがな。いつぞや触れた通り、太平道の祖師たる于吉(実史では干吉)の弟子が太平清領書を朝廷に献じたのは八代順帝の時代で、コレが125から144年。さすがに、この時代を三国志とは主張できん」
Y「仙人の類を抜きにすると、演義で最年長なのは誰だ?」
F「調べてあるよ、蔡邕だ。董卓の死を悼んだことで王允に処刑されたこの人物は、演義事典では132年の生まれになっているが、史実では113年生まれ」
A「いつだよ!?」
F「六代安帝の頃だな。コーエーの三國志シリーズで登場する史実武将ではもっとも生年が早く、『武将データ大全』によれば『紙の発明で知られる蔡倫が没した頃でもある』とのこと」
A「……さすがにそれを三国志と呼ぶのは無理があるな」
F「講釈してみようか? 蔡倫は、後漢朝四代皇帝・和帝に取り立てられた人物でな。和帝の即位とともに、朝廷実務を執り仕切る中常侍に任じられている。89年とあるから、献帝が即位する100年前だな。あっはは」
A「笑いながら云うな!」
F「笑いたくもなる年次じゃないか。もともとこのポストは漢朝成立の頃から設けられていたが、『宦官で滅んだ』とされる後漢王朝になると、宦官が宮廷に蔓延するとともに、宦官に占められるようになっていった」
A「……あれ? 蔡倫って宦官?」
F「そうだよ。……知らなかったのか?」
A「……知らんかった」
F「がっこうで習うだろう、蔡倫は。まぁ、『紙を発明した』というのは間違いで『製紙法を確立した』というのが正しい。紙の原型そのものはあったが、コストがかさんで質も悪かった。それを、樹皮や麻くずから安く生産できる技術を確立したのが、蔡倫の歴史的な功績だ。漢民族が生み出したものでもっとも文明に寄与したもの、だな」
A「安くって云っても、三国時代でもまだお高いものだったよな」
F「そうだな、貴重品だった。一般の文書は木簡や竹簡に書いた……というより刻みこんでいた。加来耕三氏曰く『漢文のきわめて簡潔な表現は、この木簡・竹簡と無縁ではなかった』とのこと。荷車いっぱいの竹簡を持ち運ぶのは、誰だって嫌になるからな」
A「そんな即物的な理由かよ……」
F「簿記という財政管理手法は、失敗がそのまま処分ないし転売につながった奴隷階級が、自分の身の安全を求めて編み出した……という説があるぞ。歴史ってあんがい単純な理由で動くものだからな」
A「……納得できるような、できないような」
F「さて、話を蔡倫に戻すが、和帝の没後、その息子が生後百日で即位し、摂政となった皇太后の補佐役として公明正大な政治を行っている。その能力は高く評価され、宦官としては史上ふたりめとなる列侯に叙されたほどだ」
A「その頃には、まだ公正な宦官もいたワケか」
F「鄭衆とかな。ところが、そうでない官僚も多かった。皇太后が亡くなり、即位から1年と経たずに殤帝が没して、六代となる安帝が即位すると、政敵に讒言され処刑される。腰斬に処されたンじゃなかったかな」
A「……なんだかなぁ」
F「とまぁ、このように、話題性のある人物を取り上げても盛り上がりに乏しいのが実情でな。きっちり講釈すればできるが、泰永が居眠りをするくらい地味なンだよ」
Y「……いや、起きてるぞ。うん、寝ておらん」
F「宦官で最初に列侯に叙されたのは誰か云ってみろ」
Y「……孫程だったか?」
F「鄭衆だってば。そいつは順帝の代の宦官だろうが、顔洗ってこいよ」
Y「む……」(ふらふら〜)
A「……本当のことを云って人をだますのって、こうやるンだね」
F「まぁ、盛り上がらないのが問題なら、234年以降の話をするのはどうなんだ、という意見には、正直反論できない。孔明の死後はどうにも時代が地味になっているのは事実だ」
A「主役不在ではねェ」
F「加えて、時代を区分するというのは、割ともったいないというのが本音でな」
A「……なに?」
F「昔『100人の20世紀』という企画があったのね。確か朝日新聞で連載してて、後にテレビでドキュメンタリー番組になったものだけど」
A「お兄ちゃんが当時何歳だったのか、ちょっと気になるところなんだけど」
F「今も昔も同い年だろうが。その当時に僕が抱いていた感想が、もったいないというものだった。1世紀の歴史の中から、たった100人しか選ばないなんて……と」
A「そうか? ひとつの世紀を飾るのに、100人なんて多いくらいじゃないかって思うけど」
F「アキラ、16世紀から100人選んでみろ」
A「16世紀……あぁ、ノブナガ時代か」
F「そんな時代区分、聞いたことねェよ!」
A「たった今思いついた。えーっと、世界史だよな? でも関ヶ原までが16世紀だから、戦国武将で20人は……」
F「1501年、アメリゴ・ヴェスプッチ、ラテンアメリカ探険。当地がインドでないことを確認」
A「……16世紀って、1501年からだっけ」
F「1513年、バルボア、太平洋発見。1521年、コルテス、アステカ王国攻略。同年、マゼラン戦死。1522年、デ・エルカーノ、世界周航達成。1532年、ピサロのインカ帝国征服。1565年、ウルダネータ、大圏航路を発見。1588年、アルマダ海戦」
A「あぅあぅあぅあぅあぅあぅあぅ……」
F「16世紀というのは大航海時代がもっとも華やかだった時代だからねぇ。その関連事件で、大きなものだけ挙げてもこんなにそろってる。加えて、オスマン帝国のセリム1世や、ムガール帝国の創始者バーブル、アクバル大帝といった名君たちもこの時代だ。日本から20人? とてもじゃないが100人じゃ納まらんぞ」
A「時代背景って大事なんだなぁ」
F「さらに行こうか? 12及び13世紀から200人選んでみろ」
A「……どんな時代だよ」
F「漢土は南宋・金・西夏の三国時代、インドではゴール朝を経て奴隷王朝が起こり、東南アジアではアンコール朝、中央アジアではホラズムがそれぞれ最盛期を迎え、日本では源平の争乱が起こり、西洋では十字軍がイスラムと激戦を繰り広げていた、そんな時代」
A「200人でも足りねーよっ!」
F「その通り。だが、最初のひとりは決まっている。そんな時代を鎮めるべく、世界制覇を上天より命じられた蒼き狼の末裔、大ハーン・チンギスだ」
A「ぅわあぁ……お前ならどうする?」
F「……素直に500人にしてもらう?」
A「それじゃ意味ないだろっ!」
F「まぁ、書籍が出てから知ったのは、ちょっと僕が考え違いしていたことでね。アレは『100人の20世紀』であって『20世紀の100人』ではなかったということ。つまり『20世紀を代表する100人』ではなくて『この100人が20世紀に何を成したのか』だったんだよ」
A「あ、そーなの?」
F「基本的に、この『私釈』ではふたつの原則を守っている。ひとつ、三国時代はともかく"三国志"という時代区分を明確にしないこと。ふたつ、『三国志を代表する人物・イベントを取り上げる』のではなく『その人物・イベントが三国志に対してどんな位置づけにあるのかを掘り下げる』というスタンス」
A「……だから、マイナー武将やちっこいイベントでも、それなりに掘り下げて講釈してきたワケか」
F「本来ならこの辺りは、第一回で語っておくべきなんだろうけど、いきなり宦官がどーの蔡倫がこーのと講釈かましたら、さすがにドン引くように思えてな。それでも通例通りに黄巾の乱から始めるのは、僕のプライドが許さなかったので、後漢王朝の特異性について簡単に触れるのを初回とした……という裏話がある」
A「いろいろ考えてるンだねェ」
F「そりゃ、頭も使うさ。ともあれ、長い長い戦乱の時代史を見てきたが、まだ終わらぬ三国志、最後までおつきあい願えればな、と思う次第です」
A「うん、つきあおう」
Y(←顔を洗ってきた)「異存はないが、ひとつだけ聞かせろ。ひとは、三国志から何を学ぶべきだ?」
F「では、ところで……と応えよう。死んだ師匠のメモワールだ」
「歴史の意義とは、ひとの行いそのものにあるべきであって、教訓や寓意を伝える手段としてはならない」
F「何を学ぶのか、それを押しつける手段としてはならない。三国志から何を学び、どんな教訓を得るのかは、自分で考えなければならないものだ」
A「……アキラが、そのお師匠さんに面識がないのが悔やまれます」
Y「姐さんには娘はいるが、子はいなかったとも云えるな。お前は夫でも息子でもない、ただの後継者だ」
F「落第気味の後継者で悪かったね。……というところで、半ば雑談に近い『私釈』序文は終わっておこう」
A「では、どうぞ」
F「続きは次回の講釈で」