私釈三国志 150 大帝崩御
F「では前回に引き続いて崩御シリーズ。今回は呉の大帝こと孫権の最期と、歴史における位置づけについて」
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Y「あからさまに諡号負けしているように思えてならない」
F「オレもそう思う。本心はさておくが、確か1984年……割と自信はない、に、248年に死んだ朱然の墓が発掘されて話題になったことがある。確か史跡として保護されていたはずだが」
A「そんなモン、ググればすぐ調べがつこうに」
F「近現代のネタだと、史料にも載ってないことが多いからなぁ。僕らは、孫権の墓は見てきたけど、そっちは見てこなかったモンねェ」
A「あの頃は、まだ観光地にもなってなかったンじゃないか?」
Y「さりげなく本題に入ったな。どんな墓だった?」
F「というか、丘の上に石碑がぽつん。他にも何かあったのかもしれんけど、僕らが見た分ではそれだけだった」
A「1800年後なんだから仕方ないのかね」
F「寂しい晩年を送った可能性も高いしな。正史で『陸遜も死んでしまうと、呉の功臣たちで生き残っているのは朱然だけとなった』と書かれている朱然当人が死んだのは、さっき云ったが248年。孫権が心を許せる家臣は、その時全滅したと云っていい。死因の大半は孫権だが」
A「だから、粛清説やめよ?」
F「呉の歴代大都督4人だが、陸遜は完全に孫権のせいで死んでいるだろうが。呂壱騒動と二宮の変で孫権の粛清癖は明らかになっているンだから、このタイミングでアレをブチまけていたら、もう少し受けはよかったように思える」
Y「お前らしからぬ計算ミス……いや、お前らしく、何か企んでいたワケか?」
F「あの時点でやらなかったら、130回以降も続くのがバレていたからな。確実に」
Y「その話もやめろ!」
F「気にしてやがる。ともあれ、問題の朱然は、事実上の第五代大都督だ」
2人『だから、爆弾発言はやめろ!』
F「すでに陸遜の代には、大都督は無実化していたがな。実際のところ、空気読めない陸遜は、孫権はともかく呂蒙からの信頼はあまりなくて、死に臨んで後任に指名されたのは朱然だ。関羽の死後に劉備が動かなかったら、呉の軍権は遺言通り朱然に渡っていた可能性は低くない」
A「いつもとは違う云い草だな? 普段なら公算云々と云うのに」
F「呂蒙は朱然を評価していたけど、孫権は陸遜を買っていたンだ。事実、軍才では陸遜のがはるかに上だし」
Y「比べるのも酷……というフレーズも久しぶりだな」
F「といっても、曹操のように清濁併せ呑むというワケじゃない。孫権が陸遜の人格(性格かな?)に頓着しなかったのは、まずかったら朱然に替えればいいからだ。実際に、周瑜は魯粛、魯粛は呂蒙に替えられている」
Y「曹丕や曹叡健在のうちに替えたら、呉が滅ぶがな」
F「それだけに、孫権でも陸遜をしばらくは切れなかった。二宮の変にかこつけて陸遜が粛清リスト入りしたのは、魏で政権を握った曹爽が軍事的にはロクデナシだと暴露された漢中攻めの翌年だ」
A「曹爽恐れるに足らずと考えた?」
F「246年に朱然が動いて、だが曹爽の判断ミスから戦果を挙げたのは先に見ているが、人事的にはそんな事情があったりする。翌247年にもちょっかいを出して、だが諸葛誕はひっかからなかったのも先に見たな」
A「割と活発に動いたのは、相手が緩いと判断して……か」
F「だからこそ、陸遜も粛清された次第だ。ちなみに、朱然はリスト入りを免れていたと考えていい。もう十年早く陸遜を切れる覚悟と人材が整っていれば話は別だったが、陸遜の替わりは他に残っていなかったワケだし」
Y「陸遜が長生きできたのは、ひとえに本人の軍才と強力な敵あればこそか。その余波を被って、朱然も長生きした」
F「そして、狡兎死して走狗煮らる。ところが、陸遜の死からほどなくして、朱然も世を去っている。享年六八なので、まぁ自然死だな。二宮の変華やかなりし244年に、歩隲(南蛮蜂起の黒幕)と組んで『魏が撤退しても、蜀が追撃しなかったのは、裏で通じているからですぜ(意訳:攻められている隙に蜀を攻めましょうゼ)』と上奏しているが、呂蒙が後継者に指名しただけあって、朱然は蜀にあまりいい感情を抱いてはいなかったようでな。ために、陸遜は荊州を離れようとしなかった……という見方もできる」
A「生き残っていた最後の功臣が対蜀強硬派では、同盟関係を維持する目的から荊州は任せられんか」
F「もうひとつ、純粋な守備範囲の都合もあるみたいだけどね。……しかし、いつかも云った気がするが、丁奉は無視か? それから3年後の252年4月に孫権は死んだ。享年七一、諡号は大帝」
A「……いくらなんでもそれはねーよなぁ」
Y「ないない」
F「この『私釈』を通じてこきおろしてきたノンダクレ、人呼んで『出ると負け皇帝』は、軍事的にはボンクラだが、行政的には呆れるほど高性能だった。晩年ボケたものの、それまで魏に長江を渡らせず、長年に渡って呉に君臨してきたその手腕は、高く評価せざるをえない」
A「褒めてるようには聞こえんぞー」
F「まず、歴史的なものを確認しよう。この時代の呉は、おおまかに云うと春秋戦国時代の呉・越・楚をカバーしている。これら長江南岸地域は、中原、つまり黄河流域から見れば開発途上で、蛮族の住まう後進国と思われていた」
Y「無理もないな」
F「漢代に入ってから発展したことで『江南実れば天下足る(江南の生産力は天下を潤せる)』と云われているが、基本的には長江の南から北へ物資を送る、というか収奪される立場にあったのが江南だ。当然ながら不平不満がたまっていき、不服住民や賊、異民族が幅を利かせるようになる。孫策が侵攻するまでの、呉で最大の群雄と云えば、山賊まがいどころかそのものの厳白虎だったのはそんな地元感情に原因がある」
A「生産地として使われていたワケか。で、それを攻略したのが孫策」
F「孫堅も呉郡の出身なので、若殿が軍を率いて里帰りしてきた……というニュアンスだろうか。だが、それでも山越や不服住民は多く、孫権が皇帝に即位してもその辺りとの抗争は収まらなかった」
Y「そりゃ仕方ないだろう。漢民族の意志に異民族が積極的に従う理由はないンだから」
F「その通り。南蛮相手に孔明のやったのは、軍も太守も常駐させず、地元民のモラルに任せるものだったが、それでも張嶷・馬忠らが張っていた。ところが呉では軍も太守もおいて、たびたび武力討伐を繰り返している。それをやると越人が根に持つのは臥薪嘗胆の時代から明らかなんだが、孫家兄弟は歴史に学ぶことをしなかったらしい」
A「お隣でお手本も見せてたのにねェ……」
F「さて、そんな土地柄のせいで、呉の民衆は豪族意識が強く、また商人気質が強かった」
ヤスの妻「ぽそぽそぽそぽそ……」
A「一族にまとまりがないと、他家や異民族に呑みこまれる。また、間近に自分たちと"違う"ヒトがいれば、交渉上手になっていく?」
F「入れ知恵は控えるように。さらに、やはり漢代に入ってから、長江や海を利用しての水運・流通が整備されたのも原因のひとつ。家柄としては呉でも二流(一流は『呉の四姓』)だった孫堅が出世できたのは、出自が土着商人で、経済的に恵まれていたのが足がかりだったのではないか……と加来氏は見ている」
A「となると、呉の家臣とは主従じゃなくて契約関係みたいなものになる?」
F「そゆこと。利害計算で呉についたモンだから、神輿は曹操でもいいからと降伏するよう主張する文官たちがいる一方で、孫堅・孫策に見出され仕えた武官たちは、それに反発して交戦を主張した……という、呉の内情が露骨になったのが赤壁前のひと騒動なのね」
A「君臣関係に利害を持ちこむなよ……」
F「感情論だけでは、呉に仕えた説明がつかない武将もいるンだよ。たとえば陸遜は、袁術配下時代の孫策に一族(それも、本家筋)の半ばを殺されている。仕えるに至って、その辺の感情は押し殺したと考えねばならんだろう」
A「……身内の被害者意識もそっちのけだったのかなぁ」
Y「どこまで空気読めないンだ、あのおっさん?」
F「ひとからどう思われようと最善と信じた手段・手法を貫く気概を持っている、と好意的に表現してもいいが、人付き合いとひと遣いがなっていないのは明白だな。ともあれ、いつぞやさらっと触れたが、呉では世兵制がとられていた。将軍の一族が配下の軍団を相続していくもので、陸遜の軍は息子陸抗に、淩統(237年没)の軍はふたりの息子に……といったように、世襲で軍を受け継いでいく」
ヤスの妻「ぽそぽそぽそぽそ……」
A「えーっと、親と同じ兵を子が引き継ぐワケだから、将は兵を、兵は将をよく知っていて、団結力は強まる」
Y「魏でも李典がやってたな」
F「だが、李典には曹操への忠誠心があったが、利害から呉に仕えた者にそんなモンをもたせておくとどうなるか、は割と明らかだろう。のちに郭馬という男が叛乱を起こしているが、これを呉滅亡の原因のひとつと見る向きがある。そして、その叛乱の原因と主戦力が、この世兵制だった」
A「……いつも通りの家族制否定じゃなさそうだね」
Y「郭馬……郭馬? えーっと……」
F「いずれ触れないわけにはいかんひとりだ。ともあれ、そこで孫権が用いたのは、領土の配分だ。将軍や地方官に領土を与え、そこからの収入で世兵を経営させるこのプランは、実に周瑜の代から用いられている。お前たちを率いる将の上には、土地を与えた君主がいるぞ……と公言することで、忠誠心を世兵将ではなく孫権に向けさせる狙いがあったと見ていい」
A「そんなに土地があったのか……って、面積は広いンだったな」
F「そう、広い。それだけに、荊州を得たころから領土制はほころびを見せている。狭いうちに与えていた領地土地と新規の領地の配分が上手くいかなくなったモンだから、いちおう呂蒙の頃まではやっていたみたいだけど、陸遜の頃にはもう別のものになっていた」
Y「その『陸遜の頃』は割と長いぞ」
F「違いない。土地ではなく拠点にそれぞれ高位の武将とある程度の軍を配し、互いに競争意識を持たせて治安維持に務めさせるというものだ。周瑜は江陵に封地を得ていたが、夏口から長江沿い9ヶ所に防御拠点を設けている。領土が広がるにつれて薄くなる防御力を強化する目的もあったワケだ」
A「今度はうまくいった?」
F「いや、残念ながら悪化した。なまじ地位の高い武将が外に出たモンだから、建業から遠い地域では孫家を軽んじるようになってな。呂壱騒動で瑾兄ちゃんたちが『知らん』と発言したように、皇帝権力を軽視する姿勢があらわれはじめたンだ。改めてまとめると、孕んでいた分裂する危機を必死に育んていたように見えるのに、それでも呉が保っていたのは、こと軍事面では完全に二極化がなされていたことにある」
A「一極化じゃなくて?」
F「建業がどこにあるか判ってるか? 荊州まで治めるにはあまりに遠すぎるンだよ。そこで、荊州方面の軍権を完全に委譲して、孫権は揚州方面の軍権だけを、呉王ないし皇帝直轄軍として確保するのに専念できた」
Y「誰に委譲したンだ?」
F「歴代大都督」
A「……あー」
F「というか、大都督の地位そのものが、荊州方面軍総帥として設けられたように思える。周瑜から始まって魯粛・呂蒙と受け継がれたが、この3人は大都督になってから揚州方面には従軍していない。大都督を呉軍の総司令官と見るのは、孫権が周瑜配下の軍勢を引き抜き合肥に向けた(56回参照)ことを考えると、最近はちょっと違うように思えてきて」
A「都督の上には孫権がいる、という軍制を作っていた?」
F「呉の最高司令官は孫権なんだ。淩操が死んだ江夏攻めで孫権が失敗して以来、荊州方面は大都督に任されるようになり、孫権はおおむね合肥方面を担当していた。その軍権が、呂蒙の死後一時的に空席だったため、夷陵の緒戦では蜀の侵攻を許している。ところが陸遜が大都督に任じられると、劉備、続く曹仁ら魏軍を退けるのに成功し、以後30年近く荊州を鎮護した。いくら空気読めなくてひと遣いの悪いヘッドでも、従っていれば勝てるようなら不満はなかったらしい。……表面上は」
A「ちゃんとした部下かいれば、軍権が二極化されていても機能を発揮できる……か」
Y「だから、陸遜の死後に荊州を率いることになった朱然が、事実上の第五代大都督なワケか」
F「そう考えられるワケだ。ただし、陸遜の代には、そういう地位ではなくちゃんとした荊州牧に任じることで、大都督の座は無実化している。また、二宮の変で陸遜が帰国を許されなかったのには『丞相は荊州方面を率いる身なのですから、任地を離れるなどもってのほかです!』という正論があがったことも予想できる」
A「……守備範囲ってそういう意味か」
F「こうやって考えれば、孫権直接の戦績がほとんど全部黒星なのも、原因は明らかだろう。君主よりも指揮官を重んじる軍を率いて、呉軍中最高の人材を欠く状態で戦っては、負けるのもまぁやむを得んな」
Y「ちゃんとした理由があって負けていたのか」
F「政治的にはな。軍事的には、最高司令官がヘボだったからだ。やはり孫権は守成のひとで、武よりも文に通じる……というのが実情っぽい」
A「まぁ、明らかだよなぁ……」
F「では、孫権の政治手腕とはどんなものだったのか。大きく5つを挙げることができると思う。まずは、人材の活用」
A「孫堅・孫策から受け継いだ人材と、自身で集めた人材をよく使いこなした」
F「そゆこと。賢者・猛者を集め、手厚く遇して適所に配した。また、自分に取って代わりうる者、自分に逆らう者、国を乱す者は弟や息子でも排除している」
Y「いっそお前がいなくなれ、と思わなくもない」
F「否定はせんな。次に、郡や県の分割・再構成。呉主伝(孫権伝)を見ていて目立つのは、郡や県を分割したり、いくつかの郡県をまとめて郡にしたりしているものだ」
A「州も作ったモンね。広州だっけ?」
F「失敗したがな。行政単位を小さくすれば、経験の浅いお役人でも治めることができるだろ? レベルの低い官吏でも統治できるよう配慮した、ともとれるンだ」
A「……部下を見る目はあった、ということかな」
F「その割には、韓綜をはじめ彭綺・廖式などの叛乱が目立つ。そこでみっつめ、法の軽減。『将軍の罪は三度で問う』『魏に寝返っても家族を処刑したりしない』という感心しかねる布告を出しているンだ。また、疫病や災害に見舞われた民衆には、年貢の免除や種苗の貸与など救済措置も行っているのは、君主として正しい行いだ」
Y「いちばんの災厄が誰なのかはさておいて、か」
F「いい加減怒られそうな発言は慎むように」
2人『お前が云うな!』
F「ごめんなさい。138回で見たように『国中の男手を総動員して魏を攻めよう!』という提案を蹴っているのと、それほど多くの兵を動員していなかったのには、民を大切にしようと考える意思があったとも評価できるしな。よっつには、山越討伐を国家事業としていたことが挙げられる。つまり、国家を挙げて討つことで山越の連中は公的だと弾劾し、国内で起こっているトラブルは『みーんなあいつらが悪い』と押しつける。民衆が抱く政府への不満を一部のマイノリティに逸らすのは、人道的には過ちだが政治的には有効な手段だ」
Y「有効ではあっても正しくはないがな」
F「それを判っていないバカが、世の中と地獄に多すぎるンだよなぁ。そして最後に、この時代最高と云っていい外交能力が挙げられる。劉備と敵対しては荊南の半ばを切りとって和睦し、関羽を討つために魏に通じ、劉備を退けてからは魏と刃を交え、一方で南蛮を使って蜀の背後を襲わせる。節操ナシというよりは、呉のためにあらゆるものを利用し続けたと好意的に考えるべきだろうな」
A「好意的か?」
F「褒めてるよ?」
ヤスの妻「ね」
2人『………………そーかい』
F「何が云いたい? まぁ、これらの長所が呉を長引かせた根拠ではあろうが、問題は、加齢に伴って孫権のボンクラ具合が、悪化の一途をたどったことでな。皇帝に即位したくらいから失政・失策が目立つようになった。海外出兵・燕王事件・呂壱騒動・二宮の変と大ボケ4連発で、呉の屋台骨を揺らがせている」
A「何が孫権を変えたのかねェ」
F「たぶん、呉を率いることになったことだな。繰り返しになるが、呉は江東豪族の寄り合い所帯で、孫家は神輿として担がれただけだ。ために、孫権の君主権が確立された、つまり家臣団の意に沿うことなく孫権が独断専行できるようになったのは、229年4月7日の皇帝即位をもってだ……との意見もある」
Y「ボケたのではなく、ヒトの話を聞かない偏屈が孫権の本性だと?」
F「その人物の本性を探るのにいちばん手っ取り早い方法は、権力を与えてみることだ。昔、後輩に企画を指揮させたンだが、失敗している。そいつは上司への受けはよかったンだが、裏で僕や上司の陰口ばかり叩いていた。リーダーに抜擢されたらその辺の性格が表に出て、周りから孤立し、結局結果を出せなかった。僕のあとで辞めたそうだけど、どこで何をしているやら」
A「長続きしそうもなかったからなぁ」
F「権力を握ると、そのひとの本性が態度にあらわれるものだよ。孫権は、皇帝になって本性が剥きだされた。本当はひとに頭を下げたり部下の意見に従ったりができないタイプだったのに、20年以上それを続け、抑圧されていた感情があらわになって、暴走し始めたンだろう。ところが、それじゃダメだと自制する理性は残っていたようで、呂壱騒動でいちおう反省している」
Y「だが、二宮の変でまたも暴走」
F「朱然の死によって、もはや止められる者が誰も残っていない状態になってしまった。割と寂しい晩年は、251年11月に始まる。都建業の郊外で祭祀を行っていたところ、病を発している。翌年の4月に快復することなく世を去った。享年七一、50年以上呉に君臨した男は、どうにも風邪が原因で死んだっぽい」
A「……いや、まぁ、11月に70過ぎた老人が、外でお参りしていたら身体も壊すわな」
Y「何となく、コイツらしいと云えばらしいが」
F「孫権という男の本性をあらわしているエピソードがある。趙達という占い師がいるンだが、224年に曹丕が攻め入ってきて、徐盛の一夜城にだまされ撤退したことがあった。その知らせが来る前に、孫権は事態がどう進展するのかを占わせている」
趙達「曹丕は逃げましたが、呉は庚子の年に滅びます」
孫権「庚子? 何年後の庚子だ」
趙達「えーっと……58年後ですね」(注 実史での庚子は56年後)
孫権「だったら知らん。オレは今のことで手一杯で、子孫どものことなどかまっておれん」
Y「君主としてより、親としてどうなんだこの台詞」
F「曹丕がかなり優秀な君主なのは、106回で見た通りだ。それを相手にしていた孫権が、弱音のオブラートで包んだ本音を暴露しても、責めることはできんな」
A「気持ちと理屈は判る……かな?」
F「繰り返しになるが、三国時代というのは、ひとりしかいてはならない皇帝が3人も出現し、天下をそれぞれの力量にあわせた大きさに分けて抗争していた時代だ。本来なら袁紹を倒した時点で曹操の独走が始まるはずだったのに、劉備と孫権がそれを阻んだことで、差はあっても独走ではなくなってしまった。曹操に天下を取らせなかった、という意味では、孫権の歴史に対する存在感は大きい」
Y「このふたりがいなければ、曹操が天下を盗っていたからなぁ」
F「三国時代とは、天下を治めうる傑出した英雄がいなかった時代ではなく、別の時代に生まれていれば天下を統一できた英雄が3人もいて、それぞれ足を引っぱりあっていた時代だった……という気もしなくはない」
A「……さりげなく、その3人から孫権は抜けている気がする」
F「ところで、孫権は皇帝の座にあること24年。ただし、孫策のあとを継いだ年から数えると52年君主の座にあったことになる。中国四千年と云われる歴史上、52年より長く在位していた皇帝は、清の康煕帝(在位61年)・同乾隆帝(60年)・前漢の武帝(54年)の3人しかいない」
A「さりげなく凄ェな!?」
F「無理に凄く感じさせているだけだ。在位40年以上というのでさえ10人といないンだから。武帝同様、晩節を汚しているのは評価できないし、そもそも126・127回ではスルーしたが、呉主伝の記述によれば海外に出兵したのは、徐福の渡った島を探しにやったようにも取れる」
Y「お約束の不老不死を求めたのかよ」
F「例の趙達が死ぬと、その占いテクニックを記した書物を探して、娘を拷問し、棺まで暴いているぞ。娘はたぶん趣味で手を出したンだろうが、そーいうものに頼ろうとしていたことも含めて、正史ではかなりこっぴどく書かれている。孫盛・陳寿・裴松之の孫権評を引用してみる」
「孫盛です。孫権のボケ具合は明らかですねー。小人を身近に置き、嫡子を廃して庶子を立てようとし、側室を正室にしたンですから。孫権自身には立派な徳などなく、民衆への恩恵もそれほどなかったのに、長年勝手に王者としてふるまっていたのは、本心を隠して部下や民衆に接していたからでしょう。国が興るときには民の声を聞き、国が滅ぶときには神の声を聞きたがるのが君主というものですが、自分に天命があると認めさせようと瑞兆を偽装して、かえって死神でも呼んだように思えますね」
「陳寿にございます。孫権殿は、身を低くし恥辱に耐え、賢人に職責を任せる度量を備えておいででした。ヒトより優れた才をお持ちで、三国鼎立の基礎を築いたと云えましょう。しかしながら内心は猜疑心にあふれ、容赦なく殺戮を行い、後継者さえ殺されています。讒言で正しい人々を殺したのは、子孫たちの安全と繁栄を願ったとは云えないでしょう。呉を滅ぼした原因が孫権殿になかったとは、云いきれぬように思えます」
「裴松之だ。陳寿はああ云ってるが、俺が思うに、孫権は確かに呉滅亡の遠因ではあるが、原因ではない。孫和を廃したのが悪かったンじゃなくて、孫権が不明で暴虐だったのが悪かったンだよ。孫亮がガンバっていれば、呉は滅ばなかったと思うぜ」
A「いっそ気持ちいいくらいボロクソですね……」
Y「かなり編集されているが、悪意がある記述なのは事実だからなぁ」
F「さて、孫権が死んだ。長年に渡って我らに格好のネタを提供し続けてくれた『出ると負け皇帝』の死は、三国鼎立いまだ収まらぬこの時代においても少なからぬ意味を持つが、三国志としてはさらに大きな意味を持つ。これにより、200年以前の生まれである第一世代の、ほぼ全員が退場したことになるのだから」
Y「着実に進む世代交代。それに逆らい続けていた最後の男が、ようやく退場したワケか」
A「韓遂や馬騰の最期にしんみりしたのは、もう90回も前なんだなぁ……」
F「続きは次回の講釈で」