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私釈三国志 149 宣帝崩御

F「アキラと調子が戻ってきたので、ぶっちゃけよう。さて、仲達が死んだ
Y「今回ばかりは文句も云えんなぁ。死んでしばらく別の話が続いたから、忘れてる輩がいないとは云えん」
A「こん畜生」
自覚のあるいちばんのバカ「正史・演義を問わず、司馬仲達という男の死は極めて大きい。一般には謀略家と知られ、孫の代での天下統一のための道筋を整えて死んだと思われがちな仲達だが、実史ではそうではないと考えていい……のをこれまでで見てきた。今回は、そんな仲達の最期と、歴史における位置づけについて」
A「かなり大きいことを吹くよ……」
F「まず、その最期だけど……えーっと? あぁ、あった」


 ある日、司馬孚が仲達のところに駆け込んできた。
「兄上、喜んでください! 弟は、孔明が著したという兵書のありかをつきとめましたぞ!」
「おぉ、それは興味深い! よし、ワシが自ら往くとしよう」
 隆中に赴いた仲達は、幾重もの罠を突破し、ついに件の兵書を発見した。はやる気持ちを抑えながらページをめくるが、何も書かれていない。不審に思いつつ指を舐めながらページをめくり続けることしばし、簡潔な一文が目についた。
『お行儀の悪い奴は死んぢゃえ♪ by孔明』
 紙に塗られていた毒ごと指を舐めていたと、気づいた時にはもう遅く、仲達はブっ倒れる。
 のちのちの人々は「死せる孔明、生ける仲達を殺す」とはやしたてたという。


A「わはははっ! さすがは孔明!」
F「まぁ、民間伝承なんだがな。正史(晋書)でも演義でも、仲達は孔明には殺されていない」
Y「あたりまえだ。こんなモンが正史に載せられるか」
A「……あれ? 演義だとどう死んでるの?」
F「やっぱり知らんのだな……。演義での仲達の最期は、割と知られていないようでな。というか、過度な期待を抱いて、だが読んでいないヒトが割といるらしい」
Y「期待?」
F「単純なオハナシ」

周瑜:孔明に策を読まれ「天はこの周瑜を地上に生みながら、何ゆえ孔明まで生んだのか」と絶叫し死亡
龐統:自分の手柄を孔明が妬んでいると誤解し、功を焦って落鳳坡で張任に射殺される
王朗:大軍の面前で罵殺
曹真:失敗続きの末孔明の書状に発奮し、そのまま死んだ
李厳:任務失敗から庶民に落とされ、病死

F「すぐに思いだせるのを挙げただけでもこんな具合で、演義で孔明のライバル・敵はろくな最期を遂げていないンだ。他にも、関羽に呪い殺された曹操や呂蒙など、羅貫中がひいきの引き倒しをしまくっていたのが見てとれる」
A「仕方ないよねー、孔明の敵がマトモな最期を迎えられるわけないもの」
F「だったら、演義では孔明最大のライバルとなっている仲達が、どんな最期を迎えているか……と考えると、それこそさっき見たようなものを期待するのが読者感情のようでな。それに羅貫中がどう応えたのか、といえばこんな具合」


 251年8月、病の床にあった仲達は、息子ふたりを呼んだ。
「父は長年魏に仕え、位人臣を極めた。世間はワシが帝位に就くと疑っていたが、ワシはそれを晴らすべく身を慎んできたものよ。ワシの死後、お前たちも国政をしっかり預かるのだぞ。よいな、疑われぬよう身を慎むのじゃ」
 そう云って、息を引き取った。曹芳は諡号を奉り、国葬でまつっている。


A「……えーっと」
F「畳の上でゆったり死んだ、というところだな」
A「何で!?」
F「羅貫中が曹操を嫌っていたのは演義での記述から明らかなんだが、だが、演義を注意深く読み返すと仲達には悪意を抱いていないのが判る。孔明の征途を遮った直接の障害なのだから、周瑜や曹真並みの扱いを受けてもおかしくない。徐晃や郭淮のように最期を戦死に置き換えられても、感情的には納得できる」
Y「できん」
A「ヤスは黙ってなさい! でも、蜀ひいきの演義でも、司馬懿は安楽な老衰死ですか」
F「不思議に思えるくらいにな。そういえば、孔明が魏延もろとも仲達親子を焼き殺そうとして、でも大雨で失敗し『オラがいくら知恵振り絞っても、天ににらまれちゃ上手くいくはずねっぺ』と負け惜しみをほざいたことがあったが」
A「刺すぞ!?」
F「アレは羅貫中が、孔明から仲達を守ったとしか考えようがないンだ。羅貫中が考えたイベント(演義成立前から原型は見られるが)で、孔明に都合の悪い展開を演出したンだから。あるいは、孔明の好敵手に対してある程度の礼を払ったのでは……というのは考えられない。周瑜や龐統の、あの無様な最期を考えるとな」
Y「龐統は半ば実史通りだろうが。まぁ、殺しちゃまずいからな。実際に仲達が死ぬのが17年後で、しかも晋の事実上の創始者では、たかが孔明に殺させるなど許されんだろう」
A「ぐむむうぅ〜っ……!」
F「と、正史派なら思うだろうが、それなら畳の上でゆったり死んだのに説明がつかないンだ。何しろ、似たような立場にあった曹操は、割と根暗い最期を遂げている。演義が成立したのが3世紀なら晋にはばかる必要はあるが、千年後の元末明初で仲達に遠慮したのは何だろうねェ」
A「何って……んー(ちらり)」
Y「そりゃ、お前(じろり)」
ヤスの妻「なんでわたしを見るのかな?」
 本日は、前田さんちで講釈・録音しております。
A「そりゃぁ、義姉さんがいつもお若くてお綺麗だからですよ〜♪」
ヤスの妻「アキラは素直だねー。それに比べて……ちら」
Y「本心を口にしていいンだぞ、アキラ」
ヤスの妻「愛されてないなぁ」
F「アキラ、お前いつの間に仲良くなった……? まぁ、この点に関しては助言を求めたいのが本音ですが」
ヤスの妻「えーっと? 羅貫中が仲達に好意的だった理由、で思いつくのはこの先の展開かなぁ。何だかんだ云って晋が三国を平らげたワケだから、曹操にも孔明にもできなかったことをしでかしたという意味で、曹操よりも孔明よりも一枚上手の人物に演出する必要があった。でも、智略では孔明に敵わないから、天に選ばれたような書き方をした」
F「ゆったり死んだのは?」
ヤスの妻「司馬一族メインに、もう何十回か書く構想があったのかもね。演義は280年で終わってるけど、誰かさんみたいにその先も書くなら『仲達は立派に生きて立派に死にました』と、正史に準じないといけないもの」
Y「そういうモンか?」
F「……連載構成としてそうしなきゃならんのは判っている」
ヤスの妻「そして、その先を書かなかった理由は、えーじろがいちばん判ってると思うけど」
F「はい、痛いほど理解できています。客が呼べないからです。だからえーじろ呼ぶな」
ヤスの妻「演義がもともと講談だったのを考えると、お客さんが来ないのは致命的だからね。孔明さんの死ぬ234年までの50年で104回、その後の46年が16回で納まってるのは、その辺が原因と見ていいもの」
F「今日より正成出ず、か……。つーか、アンタが居ると僕が要らないのが問題だな」
ヤスの妻「喋りすぎたかな? お茶淹れなおしてくるね」
A「あーい、お願いしまーす」
Y「……だから、お前いつの間にアイツに懐いた? ちょっと詳しく話をつけた方がよさそうだな」
F「あとになさい。えーっと、そんなワケで仲達は、演義では意外にも優遇されているというオハナシ。ただし、いつぞや云ったが、孔明と仲達がライバルなんて云ったら、孔明はたぶん怒る」
A「何でか」
F「もの凄く単純に云うと、仲達は儒者で孔明が法家の徒だからだ。その辺の詳細は別に回を設けたが、法治主義を国是とした秦で焚書坑儒が起こったように、この両者は思想的に相容れない。ところが、肝心の曹操もまた法治主義者、つまり法家の徒だった。孔明と曹操の政治的な立場が似通っていたのは先に触れた通り」
A「……それじゃ、曹操の代では重用されんわな」
F「唯才求賢令をもって集めた人材に、曹操がある程度の思想教育を施していたと考えられるのは、148回のラストで見たな。だが、この求賢令は、魏から晋に至る過程で崩壊していた」
A「才能で優遇するか決めるのを、誰か反対したの?」
F「才能さえあれば重用するのは、一見公正なシステムだけど、『親のあとを継ぐのが子の義務』とほざく正気でないバカどもにしてみれば、これほどやりにくいものはない」
Y「一番のバカが誰かはともかく、才はあっても人格的に問題のある連中が、曹爽と組んだ前科もあるな」
F「その前からだね。九品官人法が成立したのには、そんな経緯がある。皇族や宦官の進出を抑えるべく曹丕の肝煎りで制定されたこの法令は、魏から晋にかけて整備され、貴族・豪族の上流階級進出を促した。もともと家柄は高かった司馬一族には都合がよかったワケだ」
Y「曹操と司馬懿、それに孔明を加えてもいいが、幼君の下で国を支えた宰相という立場は酷似している。だが、その政治思想には違いがあった、ということか」
F「その辺りの違いが、司馬氏によって天下統一がなされた原因のひとつなんだろうな。残念ながらと云わせてもらうが、儒教は漢民族の民族宗教だ」
A「法家よりも儒家の思想のが好まれたってこと?」
F「法家の思想は客観的には正しいことが多いが、感情的には厳しいと思われるのが難点でな。曹操や孔明の政治姿勢は、どうにも息苦しいンだ。その上、そもそも強力なリーダーシップの持ち主が失われると、法治主義を実現できないのは、秦の始皇帝が見せた通り。ために、曹操と孔明の死後、魏と蜀は政治思想的に方向性を変えていく」
Y「蜀はともかく、魏の舵を握っていたのが司馬懿か」
F「司馬一族だな。陳羣が構築し司馬一族によって改良された官吏登用制度は、科挙というかたちで漢民族の歴史に君臨するに至る。とりあえず、仲達は能力至上主義からの脱却をはかった。能力よりも人格・忠誠心が重視されたワケだが、孔明の死後に、三国志序盤を彩った個性的な連中と比べると地味な武将が多いのは、そんな理由があると見ていい」
A「……歴史というより歴史書的に大きな影響を残したのか」
F「歴史的にも、仲達がいなければ魏が立ち行かなかったのは事実だぞ。もし仮に、247年に隠居してそのまま死んでいたら、曹爽では王淩の謀叛を鎮めることはできないンだから、魏は大きく分裂していたと考えていい」
A「王淩が上手くできたってこと?」
F「曹彪の生母は孫姫、字は朱虎。孫魯班の字は大虎、魯育は小虎だ」
2人『待て!』
F「これで孫権との関係がないとか云う方が不審だろう。その辺りを察していたからこそ、仲達は王淩を制御できる範囲での挙兵へと追い込んだように思える。しかも、実際に曹彪が立てられたら、曹宇や曹肇も黙ってはおらんだろう。魏は大きくみっつに分かれると考えてよく、そこへ蜀や呉が絡んでくればさらに事態は悪化する」
A「……戦乱の世は長引くね」
ヤスの妻「むしろ、実史より早く異民族に蹂躙されて終わるような気もするけどなぁ」
F「北狄を高く評価しすぎているのがアンタの見立てですからねェ。繰り返しになるが、仲達は、魏に対しては忠臣だった。70まわってそんな剪定と大掃除をしておきながら、自分の階位は省みていない。曹芳クンは、曹爽を討った功により仲達を丞相に任じようとしたけど、おじいちゃんはやんわりと謝絶した」
A「えーっと……(確認中)……演義だと受けてるね、その叙任」
F「曹操のときもそうだったが、野心があると思わせるのには、高い位につけるのが物語としてはいちばん手っ取り早いンだよ。幼君のもとで年長者が高位に叙されれば、本当に行賞人事であっても周りからは疑いの目で見られる。相国や公を打診されても拒んで、あくまで太傳、皇帝の教育係のまま仲達は死んだ。251年8月5日、享年七三」
A「……責任感から先の野心はなかった、というのは事実に思えるなぁ。死ぬ間際まで本心を化かし続けていたとも考えられるけど、この態度では」
F「というか、曹操が丞相になり公になったのが帝位簒奪の意志のあらわれだ、という意見があるが、それならどうして仲達にもそんな意思があったように見えるのか、僕には判らん」
A「うーん……」
F「少し先走ってみると、仲達の死はひとつの契機となった。つまり、司馬一族に従うのを是としない者たちにとっては、総帥の死は大きすぎる好機に思えたワケだ。それが何を意味するのか……はちょっと先で見ることにして。ところで……」
A「あーん!」
F「泣き声くらいひねらんね。今度のは気づいているひともいるが、僕はこの『私釈』を通じて仲達の諱をほとんど呼んでいない。記憶している分では3度だけだ」
ヤスの妻「7回だよ」
F「……だそうです。このヒトが云っているンだから間違いないでしょう。これについては130回で『他意はない』と云っておいたが、やはり僕らしく裏はある。司馬仲達を、陳寿は正史の本文中でも『司馬宣王』と記述し敬意を払っていた。その顰に倣った次第でな。ちなみに、公孫淵の字(あろうことか"文懿")を挙げなかったのは必要ないだろうと考えただけで、そっちは今度こそ他意はない」
A「本当だろうね? ……それこそ陳寿は『晋にはばか』っていたワケか」
F「僕もはばかる。蜀も呉もさらには魏も滅ぼし(順不同)天下統一を成し遂げた晋の、実質的な創始者である司馬仲達こそが、220年の後漢滅亡をもってはじまった三国時代での最高の人傑だったと考えられるからだ。その年1月に惜しまれて亡くなった曹操とさえ、比肩しうる逸材だった、と」
A「三国志ではなく、三国時代最高の人材……」
F「そんな司馬仲達について、正史はこんな言葉を送っている。かなり長いので要約してみる」

 治乱興亡の時代において、宣帝は狡猾な心を隠し魏に仕えた。
 百日で公孫淵を、十日で孟達を倒していたのに、孔明相手には守りをかためて戦わず、敵が死んでもなお逃げた。
 これが、名将のやることだろうか?
 二帝の最期を看取り三代の皇帝に仕えたが、先帝の喪も明けぬうちに皇帝の留守を狙って兵を挙げ宰相を殺した。
 これが、忠臣のやることだろうか?
 どれだけ善行を積んでも世に認められるのは難しいが、悪行は一日で天下に知れ渡る。
 だからこそ、司馬炎が皇帝となったものの、仲達本人は皇帝にならなかったのだ。

F「オレが今まで講釈してきたのは何だったンだ、とさえ思えるくらい酷評されていてな」
A「陳寿、よく処刑されんかったなぁ」
F「ん? 陳寿じゃないぞ。晋書が編纂されたのは唐の時代だ。唐が天下を盗った当時、晋に関する歴史書は18種存在していた。そこで、房玄齢をはじめとする史官が編集しなおした決定版が晋書になる。ちなみにこの酷評は、ひともあろうか唐の李世民が書いたもの」
A「……四百年経ってないか?」
F「五胡十六国どころか魏晋南北朝時代が終わってから編纂されたモンだから、悪意がすでに蔓延していたような状態だ。だが、いちばんの問題はそこじゃない。その時点ですでに『先帝の喪も明けぬうちに』という記述があり、例の魏宮政変が曹叡の死からほとんど間をおかずに起こったという、演義みたいな誤解がはびこっていたことでな」
A「おいおい……」
F「つまり、この評価には多少ならぬ悪意が込められている。はたして仲達は、本当に死の淵までハラの底を見せなかったのか。こたえは割と明らかだと思う」
ヤスの妻「つまり、この辺りの記述を見てから、それを覆すような講釈を続けてきたってことかな?」
F「…………………………」
A「……眼を逸らしたよ」
Y「あの『ぎゃふん』以来、コイツ相手に手厳しいからなぁ」
F「返事はしない。ともあれ、仲達は死んだ。死に臨んで、横山三国志ではこんな言葉を遺している」

『孔明……素晴らしい男だった。あの世ではゆっくり教えを乞いたい……』

F「例によってうろ覚えだが、周瑜の大人げない最期と対比させるために云わせたのが判る」
Y「演義にもねーからなぁ、こんな台詞」
A「やかましいわ!」
F「続きは次回の講釈で」

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