前へ
戻る

私釈三国志 148 荊州争奪

F「前回見た通り、夏侯覇レベルの武将なら、魏には替わりがいくらでもいる。ために、姜維は敗れた」
Y「夏侯覇本人をどう評価すべきか、という問題はあるがな」
F「コーエーの三國志で云うなら、武力平均は80代後半。ま、馬岱や孟獲同様の演義修正と考えていいね」
A「割と高いンだ。……ていうか、出てるンだ?」
Y「孔明が死んだあとのシナリオもやれよ」
A「ヤスが云わない!」
Y「悪かったな!」
F「だから、仲良くしろよお前ら……。ともあれ、魏の人材層を象徴する一件が、250年に荊州で発生している。王昶・王基・州泰らによる、呉領への侵攻作戦が決行されたものだが」
A「アキラにはぜんぜん判りません」
Y「魏が呉に攻め入ったのは……225年以来になるか? 大規模なものだと223年までさかのぼるか」
F「いや、曹休と王淩が228年・231年に、内通の誘いにだまされて叩きのめされている。……まぁ、ずいぶん経ったのは事実だな。王淩の敗戦からでも19年経ってることになるから」
A「無視すんなー」
F「先に確認すると、魏と呉の国境線は、蜀とのそれと同じく、ほぼ膠着していた。呉では蜀のような対北強硬派(姜維)が軍の要職にいなかったのと、魏でも曹休の敗戦後は満寵・王淩とも積極的には呉に侵攻しようとしなかったのが、そんな状況を演出するに至った原因になる」
A「王淩が叩きのめされたのは、満寵健在の頃だっけ」
F「そうだな、まだ満寵が揚州の指揮を執っていた頃だ。はっきり云うなら、曹丕の死後に、魏は呉へ積極的な侵攻を行っていない。誘い出されて交戦する、というのは何度かあったが、魏の側からの侵攻は225年に曹丕が三度めの、そして最後の失敗をかましてからは行われていないンだ。度重なる失敗に懲りたようでな」
Y「そう考えると、費禕の防御戦略は的外れでもないのか」
A「やかましいわ!」
F「ただし、謀略戦はむしろ活発に展開していてな。えーっと……まずは、230年までさかのぼるか、隠藩の叛逆事件がある。弁舌の際に長けた隠藩は、孫権に気に入られて最高裁判官みたいな役柄に就いた」
A「230年ってことは……張昭はまだ健在で、呂壱の騒動より前だね」
F「そうだな、その辺りとは関係ない。というか、魏の埋伏なんだが」
A「へ?」
F「曹叡の命を受けて、呉に降った人物なんだ。血縁の明記はないが、袁家筋の二代めか三代めで、呉に降るや孫権に気に入られてンな役職に就いた。で、故意に重臣らを手厳しく取り調べ、呉に敵意を抱かせるように仕向けている」
Y「内部混乱を起こさせようとしたワケか」
F「いちおうは中枢に拠るのを成功し、朱拠や郝普ら有力者でもこぞって隠藩に近づいた……とある。ただし、タイムリーに話題を振られた潘濬は、隠藩に食糧(要するに賄賂)を送った息子を『投降者に近づくとは何事だ!』という書状を送り、使者に百叩きさせ、食糧を返還させている」
Y「俺の記憶では、劉備に抜擢され関羽のもとで荊州の事務を執り仕切っていた男の名が潘濬だったはずだが」
A「どのツラ下げてゆってますかー!?」
F「確かに潘濬も郝普も、荊州失陥に際して呉に降った身だ。郝普は呂蒙の計略で降伏したのを泣いて後悔したけど、コイツが降ったせいで南荊州三郡が呉につき、関羽の死の原因を作った。ために、季漢輔臣賛では麋芳らと並んで『敵国に降って笑い者になった』とされている」
A「云わば諸悪の根源ですかっ!」
F「お前も要約するのが上手くなってきたな。ところが潘濬は、郝普ら他の連中が孫権のもとに出仕したのに、病と称して出て行かなかった。見かねた孫権が、ベッドを遣わしてその上に乗せ、無理やり宮廷まで連れて来させ、そこまでされてようやく呉に仕えるに至った硬骨漢でな」
A「……どこにでも変な奴はいるなぁ」
F「おいおい、忘れるなよ。専横する呂壱を『宮廷のど真ン中でブっ殺す!』と豪語した張本人だぞ。孫権がMなのは139回で確認したが、コイツもかなり直言を辞さないタイプでな」
Y「だから関羽に嫌われたのか」
A「やかましいわ!」
F「どうにもその通りではあるンだがな。呂壱騒動では顧雍の次の丞相とさえ目されていたし、荊州の軍政を任され、軍令を預かる陸遜とふたりで呉の西方戦線を張っていた切れ者だけに、身の振り方には気を遣っていたようでな。蜀からの投降者が魏からの投降者に近づいていたら、周りからどんな目で見られるか自覚があったらしい」
A「……郝普や息子には、その辺りが判っていなかった」
F「そゆこと。他にも羊衜なんかは近づこうとしなかったけど、魏の密偵だと発覚したモンだから、潘濬や羊衜の賢明さが賞賛されたとある」
Y「羊衜じゃないな。潘濬かその息子辺りにことを謀って、魏の密偵だと発覚したンだろう」
F「たぶん、そんなところだろうね。隠藩は挙兵しようとしたものの失敗し、魏に逃亡をはかって捕らえられた。誰が関与していたのか、と拷問されても口を割らず、孫権自ら取り調べている」

「なぜ自分が苦しんでまで、他人をかばうのだ」
「阿呆! 事を為すのにひとりで成し遂げられるわけがなかろう。だが、漢が死に臨んで他人を巻き添えにするか!」

A「……孫権より隠藩のが立派に思えるンだけど」
F「隠藩は一族もろとも処刑され、郝普は事態の責任を負うかたちで自殺させられている」
Y「さっき『麋芳"ら"と並んで』季漢輔臣賛で郝普が笑われている、と云っていたが……確かにこれでは、潘濬を並べるのは筋が通らんな」
F「蜀から見れば裏切り者だけど、妻が蒋琬の妹では名指しで非難もできないだろう? ために、呉に降っておきながら魏の投降者に接近して身を滅ぼし死んだ阿呆と並べることで、間接的に悪く云っているンだよ」
A「息子が早めに距離を置いたから、潘濬には飛び火しなかったみたいだね」
F「そうではあるが、まったく影響がなかったわけではない。顧雍より先に死んだこともあって、潘濬は丞相になれなかった。まぁ、豪族意識の強い呉で、降り者が丞相たりうるかという疑問もあるな」
Y「難しいというか、ないだろうな」
F「……この一件だけで割と時間がかかったな。えーっと、245年には孫権暗殺未遂事件が起こっている。これは、王淩と仲違いして呉に降っていた馬茂が、孫権の身辺警護らを巻き込んで暗殺する計画を立案したものだ」
A「計画犯が誰かは判らんが、もう少しひねろうぜ?」
F「後世からならそうとも云えるが、ほとんど同じ経過でも成功すると思ったようでな。もちろん結果もほとんど同じになって、ことが発覚したせいで馬茂ら関係者は一族皆殺しになっている」
A「ダメじゃん」
F「ダメなのはこれからだ。翌年朱然が『馬茂の若造が陛下を怒らせましたが、ワタシが魏を攻めるので機嫌を直してください』と奏上し、魏の朝廷で意見対立があった(144回参照)とはいえ、実際に柤中を攻めて戦果を得ている」
A「……!? 朱然ほどの男が、その計画にかかわっていたと!?」
F「かかわりはしなかったと思うは思うが、そう思われてもおかしくない言動を見せたのはどうにも事実でな。あるいは本当に、孫権の機嫌を取るためだけに出兵したのかもしれんが」
Y「それはそれで感心せんな」
F「直接の血縁は確認できんが、朱桓がおべっかで孫権の粛清リスト入りを免れているンだ。あちらは口舌でこちらは行動で、孫権の機嫌を取っていた……のかもしれない。とりあえず、やられ放題で黙っている孫権ではなかった。247年には諸葛壱なる、このイベントでしか出てこない武将を使って、魏に謀略をしかけている」
A「血縁者?」
F「だと思う。何しろこのヒトが、呉に背いたように偽装して『軍を出して私を迎えに来てください』と連絡すると、諸葛誕はあっさりだまされて、一万からの兵を率いてノコノコ迎えに来たンだから」
Y「そっちの血縁者か」
F「だと思う。例によって避諱だったとも推察できるし」
A「……しかし、何度めよ?」
F「4回めかな。ただし、今回のイベントはさすがに失敗している。諸葛誕が前三回の失敗に学んだ……というなら救いはあるが、前二回で味をしめた皇帝陛下(65歳)が、よせばいいのにわざわざ御自ら伏兵あそばされていたものだから、それと気づいた諸葛誕が撤退したため」
A「敵も味方もバカ軍団か!?」
Y「誰が敵で誰が味方かはともかく、数字がずれているのにツッコむか? 孫権はともかく、3度めで二回だろ」
F「いやいや、そうではない。くくくっ……これをさかのぼること10年の237年。廬江郡(魏領)の呂習というお役人が、呉に『降伏するから軍を出してくれ』と、どっかで聞いた、というか聞き慣れた書状を送って……くふふっ」
Y「涙流して笑いながら喋るな!」
A「気持ちと理屈と数字は判ったけど、出したのか!?」
F「ちょっと待って、笑いがおさまらんの……くふふっ。あーもぉ……ふぅ。いや、コレが驚いたことに、朱桓・全jが真に受けてな。兵を出して当地に向かっているンだ。そして、いつも通り偽報だったのが発覚する」
Y「笑う前に怒りたくなってくるな」
A「気持ちと理屈は判る……」
F「発覚してもただでは帰さないのが通例なんだが、今回は違った。廬江の太守は追撃準備を整えていたンだけど、自ら殿軍に立つ朱桓のいっそ見事な引き際に、つけいる隙を見い出せなくて、手を出す決心がつかなかったとある。14年前に曹仁を破った力量は、還暦のこの頃にも衰えていなかったようでな」
A「還暦って……六十でこんな真似しでかしてたのか? いや、孫権が65で自ら出兵したなら珍しくないのか」
F「地味に重厚な武将が多いからね、呉は。スルーしていたけど、朱桓は2年後(239年)に、潘濬も同じ年に亡くなっている。それから二宮の変が起こって、終結したのは250年のことになるが、その過程で孫権を残して、呉の主要な面子は全滅している。……まぁ、その辺りが全滅したのが呉の衰退の原因になる」
A「次々と死んでいったからねェ……」
F「というわけで、王昶は『呉に攻め入りたいです!』と奏上した」

『呉は、嫡子と庶子による争いから良臣が追放され、抗争が続いております。この機に乗じて呉と蜀を制圧すべきかと存じます。長江北岸の呉領には漢族と蛮族が居住し、新城郡と接しているのですから、襲撃すれば奪取できましょう』

Y「ほぼ反論できん上奏だな」
F「そうだなぁ。さて、この征南将軍王昶は、来年挙兵して失敗して自殺する王淩と同郷で、それどころか年長の彼を兄と慕うくらい親しい仲だった」
Y「并州人か」
A「来年のことを鬼に聞くけど、王淩の叛乱に際しては?」
F「義兄を鬼だの魔王だのと云いたい放題だな、アキラ。その折にどう動いたという記述はないが、王淩が謀叛に際して息子にことを諮っている。となると、弟たちにも協力するよう求めていたと考えるのが筋だろう」
A「だろうね。……でも、王昶はともかく、実弟なんているのか? 長安陥落に際して家族皆殺しだろ?」
F「いや、義弟だ。王淩の妹の夫は郭淮と云う」
Y「待て!」
A「ぅわ、凄まじい人間関係……」
Y「それどころじゃない。征南将軍の王昶に雍州を預かる郭淮、さらに故郷たる并州が王淩に味方していたら、淮南の本人と含めて、洛陽は四方から包囲されるぞ」
A「って、オイオイ……!?」
F「王昶の出兵計画には、それが判っていたからという可能性がある。王淩は、令孤愚が死ぬ前に息子に打ち明けているンだから、順番で考えるなら王昶はそのあとだ。こういう場合、旗色が鮮明な奴ほど後回しになる」
A「王昶なら味方するだろう、と考えていた?」
F「王淩はそう期待していただろう。だが王昶は、呉に出兵することで王淩に味方できないと意思表示したとも見えるンだ。正面から拒絶できなかったから、それどころじゃないという態度で示した」
A「国も兄も裏切れないから、別のことに意識と身体を向けていたかった?」
F「板挟みの姿が見えるのは考えすぎではないと思う。ちなみに、王淩の謀叛に際して、郭淮も具体的にどう動いたのか記述はないが、妻はもちろん連座の対象になった。郭淮はそれを受け入れ、洛陽に送還されるのを同意したのに、部下から羌族まで泣いて諫め、民衆も何とか引き留めたいと願い、息子たち(5人)が地に頭を打ちこんだモンだから、ようやっと郭淮も妻の身柄を奪い返している」
A「いいのか?」
F「仲達に、要約すると『妻を裁くなら私も死ぬぞ?』という脅迫状を送りつけて、免罪を勝ち取ったンだよ。陳泰が一人前になるまでは、郭淮を手放せないのは事実だからな」
A「……替えはすでに用意されているワケな」
F「実はそんなに遠くないンだが、ともあれ王昶は兵を出した。先鋒として自ら江陵に、荊州刺史の王基が夷陵に、新城太守の州泰が房陵(いずれも地名。ただし、魏書では後ろふたりは翌年)に向かっている。対する呉では、荊州を張る朱然が前年に亡くなっていたものだから、息子の朱績が迎撃の指揮を執ることになった」
A「聞いてる分ではいい勝負ですね」
F「これに先立って……つまり、魏の出兵計画を聞きつけて、呉は江陵周辺の水路に堤防を築いて水浸しにし、魏軍の足を止める妨害工作を実施している。ところが、コレが翌年までかかったモンだから、王昶には竹と縄の仮橋であっさり突破され、王淩には『というわけで、軍を動かしたいです!』と上奏する口実にされている」
A「後手に回ったのか」
F「単純に云うとな。その仮橋で渡河した王昶隊は、朱績隊を撃破している。いったん退いた朱績は反撃に転じたものの、待ち受けていた王昶にまたしても退けられ、夜陰に乗じて江陵城に逃げ込んだ」
A「……やっぱりいい勝負で」
F「逃げ遅れた呉軍の数百人を斬り捨てたものの、まだ収まらない王昶は、伏兵を残してさりげなく軍を引き、朱績が出てくるように仕向けた。朱績の側でもうかつには動かず、友軍の諸葛融に援軍を求めた上で出陣している」
A「ふたりとも、頭は使うのか」
F「追いついた紀南(地名)で、緒戦では呉軍優勢だったものの、かんじんの諸葛融が現れない。ために、戦況は魏の側に傾いていき、伏兵があたって呉軍はさんざんに打ち破られた」
Y「魏の大勝だな」
F「朱績は再び江陵城に立てこもり、本国に救援を求める。こりゃいかん、と孫権は陸凱(陸遜の一族)を派遣した。ここまでの戦闘で、さすがに魏軍にも疲れが出てきたのか、援軍来たると聞いた王昶は撤退している。割とどっちつかずな結果になったンだ」
A「正史だと、どう書いてあるンだ?」
F「王昶伝では『追撃してきた呉軍を打ち破り大勝、朱績は逃亡した。配下の部将を斬り捨て、多くの戦利品を得て凱旋した』(正確には、相手が『施績』となっているが、朱績本人)とあり、朱績附伝(朱然伝収録)では『追撃をしかけ緒戦では勝ったものの、諸葛融が来なかったので不利になった』、呉主伝(孫権伝)では『王昶らに攻撃されたので、陸凱らを送って防がせた』とある。陸凱伝には記述がない」
A「どうにも、呉の側の記述は云い訳がましいな」
F「因果関係としては正しいみたいだけどね。ちなみに、この諸葛融は瑾兄ちゃんの三男坊。朱績とは兄(諸葛格)ともども仲が悪かったとあり、その辺りが間にあわなかった原因ではないか……と、朱績ににらまれている」
A「兄ちゃんは息子の育て方に失敗したねェ」
F「弟よりはマシだと思うが。さて、夷陵方面に攻め入ったのは王基で、こちらは『王淩の行政手腕に対する名声は、この王基が助力したことも影響している』と云われた、云ってしまえば懐刀でな」
A「……先に聞くけど、州泰は?」
F「仲達の推挙で昇進した武将だな。演義では徐晃が張った孟達攻めの先鋒を務め(ちゃんと生き残った)、後に後任の新城太守に抜擢された。この男に関して云えば、王淩との関係は見当たらない」
Y「そいつも王淩に与するようなら、危険分子が集まって兵を挙げたようにも見えるンだがなぁ」
F「危険さで云うなら王基がいちばん危険だぞ。何しろ、曹爽の部下だった時期があって、例の政変で免職になったンだから。……その年のうちに官職に復帰したけど」
A「何でか」
F「以前に王朗が『優秀な臣下は役職に取り立てられ、地方官は朝廷に出仕するものだというのに、内閣に列せられるべき逸材をどうしてもと引き留めるなど聞いたことがない』と云って、王淩に王基を朝廷に出すよう求めているンだ。前回も云ったが、この頃の魏では『能力はあっても高い役職にはない』というのを許さなかったようでな」
Y「能力に見あった地位に報いようとしていた……か」
F「そうまで云われても王淩が手放さなかった逸材だけに、その年のうちに官職……李勝の代わりの荊州刺史に就任している。つまり、朝廷からは外に出された」
A「さすがに、手元には置いておけなかったワケか」
F「そんな王基の相手を張ったのは、亡き歩隲の子で歩協。こちらは素直に籠城して、王基との交戦を回避した」
Y「父親は、ほとんど独力で交州を攻略した武将だったンだがなぁ」
F「それでも夷陵だけは守ったンだけど、高く評価はできない。王基は、一軍をもって夷陵城を包囲しながら、別動隊を編成して周辺の都市を攻撃した。なにしろ歩協が閉じこもって出てこないモンだから、迎撃に出た安北将軍が捕らえられ、魏は数千人の投降者と三十万石からの食糧を獲得している」
A「……『それでも夷陵だけは守った』のか」
F「凱旋した王基は、その辺の投降者と住民を移住させて新たな県を作り、城壁を築いて役所を構え、呉への備えとしている。このせいで呉は、軽々しく長江を渡ることができなくなった」
A「歩協の判断ミスのせいで、取り返しのつかないことになってないか?」
F「せめて周辺都市への救済措置を執っていれば、もう少し戦況を悪化させずに済んだとは思うンだけど……ね。この一戦で、残る州泰がどう動いたのかは、魏・呉いずれの資料にもないンだが、かろうじて王昶伝に『戦功を挙げた』とある。地勢的に、蜀が援軍を出したときの備えを張っていたと考えていいだろう」
A「そっか……建業から兵を出すより、蜀から援軍を出してもらった方が到着は早いか」
F「歩協がそれを待っていたとも考えられなくはない。ただ、蜀書で兵を出したような記述は見当たらなかったので、それは徒労に終わっている」
Y「王昶本隊はともかく、全体としては魏の勝利になるじゃないか」
F「まぁ、そうだな。この一連の戦闘では、魏の新進気鋭の武将たちに、呉の二世武将たちがほとんどいいところなく負けている。人材そのものが枯渇するという事態は、疫病か自然災害で人口そのものが激減しない限り発生しないンだから、人材の数ではなく質の差が出たイベントと云える」
A「この時代には大量破壊兵器がないモンね」
Y「蜀では普通に枯渇してる気もするが」
A「そんなことねーよ!」
F「ところで、そうなった原因はどこに求められるのか、といえば、やはり曹操がいたかいなかったかの差がある」
A「曹操が3人もいたら、もう戦乱は終わっていたか世界が滅んでいます!」
F「……ごもっともな意見だな。ともあれ、曹操は『才能さえあればそれでいい』と人材を集めたが、そのあとでも人格を問わなかったのかと云えば、それは違うように思える。集めた人材に、少なくとも国のために相互協力させることは徹底していたようでな」
Y「それはそれで曹操らしくないというか、各自の個性を殺すことにならんか?」
F「そうでもない。現に、李典は『平素から仲がよくなかった』張遼と団結して孫権を退け、夏侯覇は『仲が悪かった』郭淮の下で姜維を退けている。満寵と『仲違いしていた』王淩が後任になった事例もある」
Y「公私の別がついていた……ということか」
F「意外と、仲の悪い組みあわせが最前線張っている事例が目立つンだよ。だが、平素では仲が悪くても、いざ敵に対するときは、個人の感情を捨てて協同している。やはり、曹操は偉大だった。人士を集め、集めた人士に気が合わなくても協同で働くことを教え込んでいたように思える」
A「張遼の頃からそうだったということは……曹操の影響だったと考えなければならないのか」
F「例の唯才令から、魏の後期ではむしろ人格を問う人材登用をするように変わっていたようだが、基礎は曹操の時代にすでに出来上がっていたンだよ。この辺りにこそ、魏の人材層の厚みと深みが呉・蜀を隔絶していた強みを求められると思う。だからこそ、王淩どころではない叛逆を起こした夏侯覇には、魏書に載る資格さえなかったと云える」
A「……諸葛融を見てると、反論できないなぁ」
Y「個人の感情論が先に立つのが他二国だからな」
F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る