前へ
戻る

私釈三国志 146 王淩謀叛

F「前回の結論を曲げるが、曹爽一派の誅滅は仲達最後の御奉公にはならなかった。もうひとイベント起こっている」
Y「王淩が謀叛したワケか」
A「あー、司馬懿の存命中のことだったンだ? てっきり死んでからだと思ってたのに」
F「誤解されがちだな。話を逸らして悪いが、今まで正史正史と云ってきたが、歴史的に云うとちょっと違う」
A「正史だからって正しいワケじゃないってこと?」
F「いや。魏書だけが正史で、蜀書・呉書は俗史扱いなんだ。旧唐書での分類なんだが、正統王朝として認められているのは魏なので、蜀と呉はそーいう扱いにはなかった時期があって」
Y「ぶはははははっ!」
A「笑うなーっ!」
F「そのやりとりもいい加減飽きてきたねェ。そんな正史じゃない蜀書の、ナンバー10が『劉彭廖李劉魏楊伝』だが、簡単に云うと蜀の叛臣列伝になる」
A「7人分?」
F「うむ。『重用されながら、自業自得で滅んだ』と総評されている面子だが、6番めは魏延でな。孔明ににらまれて始末された劉封や李厳どころか、楊儀と同じ巻に伝を立てられるという不遇な扱いを受けているンだ」
A「悪い奴扱いは正史から始まっていましたか」
F「本気でどうかとしか思えない扱いでな……。かんじんの正史こと魏書にも、叛臣列伝に該当するものは存在している。第28巻の『王毌丘諸葛ケ鍾伝』がそれだ」
A「えーっと、今回タイトルの王淩に、毌丘倹と諸葛誕、あとはケ艾と鍾会?」
Y「こっちは5人だな」
F「そうなる。ちなみに、いずれも『悪さの度合』ではなく『悪いことをした順番』でソートされているので、楊儀より魏延のが悪い、という意味ではない」
Y「まぁ、王淩が魏最大の謀叛人とは誰も思わんだろうな」
A「知名度が低いしねェ。登場した年次が問題なんだろうけど」
F「ために、ある程度レギュラー化していた次第だ。今までに出さんでおいたら、ここでいきなり『さて、王淩が謀叛した』とか云いだしてもついてこれんだろう?」
A「無理だねェ。その王淩が何者で、どうして叛逆に踏み切ったのかがはっきりしないと、読んでる方は辛いと思う」
Y「その辺の気配りを思い至るのが150回遅かったように思えるな」
F「まぁ、番外編まで入れれば今回で150になりましたけどね……」

注 『私釈』番外編について
 1 酔漢孤死:張飛について。サンクリ41での同人誌に収録。
 2 空城之計:空城の計について。C75での同人誌に収録。都合により泰永は欠席。
 3 後漢滅亡:献帝について。アンケートへの協力お礼。
 4 欠番
 5 諸夏侯曹:夏侯一族および曹一族の主だった面子について。録音済み、ただし公開時期未定(ていうか、見せたくねェ……)。アキラ・泰永は不在で、僕と泰永のカミさんだけで講釈した。

Y「数がたまったら出す予定の、番外編の総集編は遠そうだな」
F「道のりは長いねェ。話を戻すが、魏の叛臣列伝にエントリーされている5人の行いを確認すると、それぞれ性質の違う真似をしでかしているのが判る。その中で、先陣の名誉に与った王淩は、謀叛というよりこれこそクーデターと云わねばならない真似をしでかしているンだ」
A「今までの王淩を見ていると、裏切るのって割と不思議なんだけど」
F「この『私釈』では『その人物を語る際に避けて通れないのに、意識的に避けている』というトラップがある。いつぞやの『張飛はロリコンだった!』のように、それまでの人物評を覆しかねないものだが」
A「王淩について?」
Y「アレは……避けて通っても実害ないンじゃないか? 本人の人格にはそれほど影響しないだろう」
F「とは僕も思うンだが、アンケートで教えてもらったウィキペディアで王淩を見たら、まず真っ先にコレが挙げられていた。影響云々を抜きにしても、云わないわけにはいかないように思えて」
A「その割には、今まで無視してきたオハナシ? ……なんなの?」
F「王淩には、王允という叔父がいてな」
A「……はい、決定。王淩は、魏における最大の謀叛人です」
F「そーいう具合に考えるンじゃありません。聖書にもはっきり『親の罪で子を殺すな』と書いてあるでしょうが。だいたい、受精卵はそれ単体で血液をつくれるから、血を分けた家族なんて生物学的には存在しないンだからね」
Y「それで情理両面に訴えてるつもりか?」
A「家族ってものがろくでもないのは先日思う存分思い知ったけど、それでもお兄ちゃんの云ってることはブっ飛んでいるとアキラは思います……」
F「そうやって考えるなら、何晏だって何進の孫だ。有能では絶対にない血筋なんだよ。それはともかく、王允の家族は例の一件……長安における董卓暗殺と、その後の失敗のせいで、王允もろとも皆殺しにされかかった。ところが王淩とその兄は城壁を乗り越えて脱出し、故郷に帰りついている(故郷には妹もいた模様)」
A「……董卓が死んでから、もう60年近く経ったンだねェ」
F「まぁ、そうだな。で、注に引かれた魏略によれば、ある日刑罰を受けて道路掃除をしていたところ、たまたま通りかかった曹操に目をつけられ『アレは王允の兄の子じゃ』と官職に取り立てられた、となっている。何でこの時代に近代アメリカみたいな奉仕刑が執行されていたのか判らんが、それから次第に昇進していった」
A「話としてできすぎている気もするなぁ」
F「王淩に関しては、本文と魏略の記述が微妙にずれているンだ。魏略だと170年の生まれになっているンだけど、それが正しい場合、正史(年齢の明記はない)の『当時(兄と)ともに年少であった』という記述が通らなくなる」
Y「ハタチまわってたら年少とは云わんよなぁ」
F「ただ、曹操に取り立てられたのは共通で、のちに丞相府の所属となった。曹丕の代には東方戦線で呉との戦闘に従事するようになり、石亭で曹休を救ったのは先に見ているな。兗州を経て青州・揚州・豫州と刺史を転任したが、各地で行政・立法を整え人士を取り立てたことで、民衆からも慕われている」
A「ただの武人ではない、というところか。呉ともきちんと戦闘してるし」
F「ときどき負けたけどな。それでも、満寵が高齢を理由に洛陽に召喚され(238年)てから、淮南を守り抜いたのはこの男の功績だ。241年には全jを退けたのを称され、車騎将軍に昇進している」
A「満寵の推挙があったのかな」
F「そう考えていい。翌年本人は死んでいるが、張遼が死んでから対呉戦線を張っていたに等しい満寵の後継者と見込まれ、高い地位に取り立てられた。248年には在任のまま三公の一隅たる司空に昇進しているが、これなんかは、曹爽も王淩を手懐けようとしていた意思の表れだろう」
Y「当時、司馬懿は隠居済みだったか。例の政変で動きは?」
F「記述されていない。ただ、当時の兗州刺史は王淩の甥(姉妹の子)にあたる令孤愚だったので『軍権はこの叔侄(おじと甥)に預けられ、淮南の権力は掌握されていた』とある。仲達でも放っておけなかったようで、曹爽らを処刑したのち(12月)に太尉に昇進させている」
A「行賞人事ではない?」
F「と、考えるべき。249年当時の太尉は蒋済だったが、彼が仲達の共犯だったのは前回見たな? 実際に、曹爽へ投降を勧める文書を書いたのが蒋済だ。ところが、その書状では『公職追放さえ呑めば助命する』としていたのに、仲達が曹爽らを三族皆殺しにしてしまったことを憂慮して、病気になって亡くなったンだ。これが4月のこと」
A「……いつぞやの合肥城移転計画反対といい、どうにも感情的な男だね」
F「アレも何年前になるンだ? ともあれ、地方で軍権を握っていた武将が、在任のまま高官に列せられたら、よからぬことを考えるのは歴史の必然と云えるンだが、この件……王淩の謀叛に関しては、どちらが主犯か判ったモンではない。とりあえず、共犯者は令孤愚」
A「そのふたりが組んで、司馬一族に謀叛を?」
F「んー、順番にな。令孤愚……令狐愚ともなっているが、もとの名は浚。曹丕の代に田豫の下で烏桓と戦ったンだが、軍令に違反して投獄・免官の裁きを受けた。この際に『浚はなんと愚かなのか』と皇帝自らの詔勅が出たモンだから、令孤愚と名を変えている」
A「へんな名前とは思ったが、そういう事情か」
F「姓も変だが、もともと袁家に属して烏桓に対していた家系だ。そっちの血が混ざっていたことも考えられるな」
A「……袁家?」
F「族父が袁紹配下の武将でな。鄴陥落時に曹操に捕らえられ、降っている。で、各地で郡守・太守を歴任し『氷雪のように清潔で、任地での学業を盛んにさせた』と絶賛された。令孤愚はその一族」
A「そいつに取りたてられて?」
F「いや、族父は『愚は徳を修めずでかいことを望む。いずれ我が一族は、あいつのせいで滅ぶだろう』と評していた。ボケはかましたが才には長ける令孤愚は、王淩伝に曰く『才能で』兗州刺史になっていたけど、族父は『ワシが連座するかは判らんが、最後には破滅するだろう』と云っている」
A「よほど嫌われていたのか、そんなに性格がアレだったのか」
Y「……しかし『氷雪のように清潔』って表現はどうなんだ?」
穢れまくってる雪男「何が不満かねぃ? そんな王淩と令孤愚が企んだのは、曹操の……何番めになるのかよく判らん息子の曹彪を、曹芳に替わる皇帝とし、許昌に迎えたいというものでな」
A「司馬懿一族の傀儡ではない、ちゃんとした魏の皇族をして皇帝を立てようと考えたのか」
F「王允の甥と袁家の禄を食んだその甥が、曹植に通じていたせいで頻繁に国替えされた曹操の子を立てるのが、ちゃんとした魏の国家足りうるか?」
A「……先入観モロ出しで聞いている分では、ちゃんとしてませんね」
F「うん、僕もそれを狙った。王淩らに云わせると、曹芳は若く才もない、しかも仲達に頭を抑えられていて、皇帝の任に相応しくない。そこで曹彪を擁立し、曹家を復興させたい……という考えでな。もちろん、それによって仲達に取って代わる意志もあったと見ていいけど」
Y「例の族父の見識が的を得ていたワケか」
F「そうなんだよなぁ。令孤愚は曹彪に使者を送り、あろうことか曹彪もその気になった。一方の王淩は、朝廷に仕えていた息子にことを諮るけど反対されている」
A「息子は、きちんと情勢が見えていたンだね」
F「ところが、どうしたわけか令孤愚が、その目論見から1年と経たない249年11月にあっさり病死してしまう。それで諦めればよかったンだけど、例によって孫権が、魏の政変を見るや兵を出したモンだから、それを利用しようと王淩は思い立った。251年、非常事態を口実に軍を動員する許可を朝廷に求めた」
Y「あのバカは、また火事場泥棒を思いついたのか?」
F「その辺りの戦闘については少し先で見るが、朝廷は許可を出さなかった。そこで王淩は、令孤愚の後任として着任した兗州刺史に、部下を送って協力を求めたンだけど、部下と刺史が『野郎はこんなことを目論んでますぜ』と連名で仲達に密告しでかしてな」
A「……部下の管理がなってないなぁ」
F「コレは油断ならん、と仲達は自ら兵を率い、淮南へと向かっている。政変から2年しか経っていないのに、地方で大規模な叛乱なんか起こされたら一大事だ。しかも皇族まで絡んでいるとあっては、事態の拡大も懸念される」
A「司馬懿自ら動いた、気持ちと理屈も判らんではないか」
F「というか、事態を甘く見てないか? 王淩は、淮南の軍勢をもって許昌から東を切り取り、魏を二分する革命を目論んだンだぞ」
Y「………………ぅわ」
A「この叛乱って、そこまでのものだったの!?」
F「まぁ、二分というより、東方に曹彪を主とする藩国を打ち立て、そこから仲達を切り崩そうと考えた……というところだが、前回桓範が同じことを曹爽に進言しているンだ」
Y「皇帝を擁して許昌にこもり、仲達が死ぬのを待て……か」
F「曹爽や桓範も考えたようだが、高齢の仲達は放っておけば死ぬ。それまでに関連各位に根回ししておき、仲達の死を待って挙兵すれば、それなりの結果は得られたはずだ」
Y「……読みとしては正しいか。曹芳が若く、曹爽や仲達にいいようにされていたのは事実だ。曹操直系の皇子を立てれば、曹丕の代からの皇族弾圧政策に不満を抱く層を取り込める」
F「仲達にしてみれば、正反対の状況に追い込まれる。曹操の子が『あのガキはあてにならん!』と叫び、不満を抱いていた他の連中も動いて、いち時期は後漢の帝都だった許昌にこもられては、鎮圧するのは並大抵のことではない。加えて、早急に動かなければ、自分こそがいつ死ぬか判ったモンじゃない」
A「……というわけで、いつも通りの電撃作戦に出た?」
F「いや、対処こそ迅速だったが、用いたのは迂遠な策だ。軍を率いて水路で淮南に向かったンだが、例の息子を連れてきて、軍中から王淩に『アホなことを考えるな!』とか『これから太傳のおともで向かうから、ちゃんと謝るンだよ!』という手紙を書かせたンだ」
Y「国を割ろうと目論んだのに、息子の説得に応じるモンか?」
F「王淩に苦悩させるのが目的なんだよ。応じて降伏すればそれでよし、降伏しなくても書状の内容から、息子が人質に取られているのは伝わってくる。悩んで手をこまねいていれば軍勢が到着するし、動こうにも兗州さえ味方ではない。根回し不足のまま事態が発覚したのが王淩の敗因だ」
A「ことが発覚するのが早すぎたのか」
F「そんなワケで、軍勢が迫ってきたのを知り、追い詰められたのを自覚した王淩は、投降を決意。自らの行いを認め罪に服する旨の書状を送り、ひとりで船に乗り淮水を渡ると、船着き場で後ろ手になって仲達を迎えた」
Y「潔く罪に服した、と」
F「ところが仲達は、600からの兵で王淩を包囲し、自分では近づこうとしない」


王淩「太傳様! この扱いはあんまりではないですか!」
芝居「お前さんは、あの書状の通りにするような男ではないからのぅ」
王淩「裏切ったな、ジジイ!?」
芝居「ほっほっほ、ワシはお前さんを裏切ったが、国家は裏切っておらんぞな」


F「結局王淩は、洛陽に護送される途中で服毒自殺した」
A「……えーっと、降伏すると見せかけて、近づいてきた司馬懿を殺そうとか考えていたのかな?」
Y「で、それを読んだ司馬懿は、王淩を化かし返した……か」
F「孔明をも退けた仲達の相手は、王淩程度では務まらなかったというわけだ。ところが、王淩が死んでも事態は収まらなかった。朝廷で『国家を害しようと目論んだなら、たとえ死んでも許せません!』という議論が起こり、すでに埋葬されていた王淩や令孤愚の墓が掘り起こされると、棺桶はブチ壊され、死体は3日間さらしものにされた。副葬品も焼き捨てられたのみならず、その後の死体は棺桶ナシで直接地面に埋められている」
A「……どこまでお怒りですか」
F「もちろん曹彪もただでは済まず、それこそ前漢武帝の三男の故事(131回参照)を持ちだして、自害を求める使者が送られた。関係者や王淩の家族・部下たちも連座で、一族郎党皆殺しになっている。王淩の息子はもちろんだが、令孤愚の族父はすでに死んでいたため難を逃れた。……その妻子は皆殺しになったが」
Y「さすがにやりすぎと思えるな」
A「やっぱり、この野郎は好きになれません……」
F「好きになれとは云わんよ。僕が云うのは別のこと」
A「ん?」
F「ところで……逃げるな!」
A「あぅあぅあぅーっ!?」
F「云ってしまうと、この一件には黒幕がいたように思える。事態があまりにも判りやすく、それでいて収集可能な範囲で暴走していたように思えてな」
Y「……仲達か?」
F「うん。令孤愚ではなさそうだけど他の誰かを使って王淩を挙兵に追い込みそれを叩き潰した、自作自演のように思える。軍を動員しておきながら、結局戦火は交えなかったし」
Y「魏を守る立場としては、内乱でも兵を損なうような真似はできんだろうが……何でそんな真似をする?」
F「見せしめだよ。徒党を組んで魏の朝廷を脅かすような者は、徹底的に叩き潰し一族郎党生かしておかん。そんな強い意思表示を天下に知らしめる目的があったように思えてな」
A「……ありえそうで怖い」
F「王淩……というか令孤愚が、曹芳に叛意を抱いていたのは事実のようだ。それを最大限に利用するため、仲達は智略をめぐらせた。叛逆者を徹底的に弾圧することで、魏への叛意をもたせまいとしたこの目論みは、ひとつの間違いから逆効果に至っているンだが」
A「逆効果……?」
F「単純なオハナシ。仲達は、皇帝ではなかった。それだけに『あの奸臣を討ち果たし、皇帝陛下を救え!』という口実ができるようになってしまったンだ。その後、三人の男が王淩に続くことになるが、王淩や関係者の一族郎党を徹底的に弾圧したのはある程度の結果につながった。その辺りの叛乱が起こったのは、仲達の死後になる」
A「ちょっとだけ平和になったワケか」
F「ちょっとの間だけどな。高齢の身でありながら自ら動いたのが寿命を縮めたンだろう。王淩謀反のわずか3ヶ月後に、司馬仲達は世を去っている」
Y「それなら王淩は、曹芳を廃立することはできなかったが、曹彪を立てようとした目的の半分は達成したと云っていいな」
A「結果論だけどね……」
F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る