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私釈三国志 145 魏宮政変

F「えーっと、前回謀らずも公開録音なんぞしでかしてしまったので、俗に司馬仲達のクーデターと思われているものに関する講釈、それを前後編で触れるつもりが2週に分けることになってしまいました」
A「あー、2日連続でやるつもりだったンだ?」
F「うむ。アレがなければ泰永の台詞の色を修正する作業に1日充てられたンだがなぁ」
Y「一日かかるか、やっぱり」
F「かかるぞ。というか、責任取らせる口実で作業は翡翠にやらせているから、いつ終わるか判らんし」
Y「……誰に似たのかね、アイツは」
F「母親ではないな、間違いなく僕だろう。さて、249年に発生した魏における政変劇、の後編。本音を口にするなら、今回のタイトルを『曹魏滅亡』としたかったところでな」
Y「これまた20年くらい早くないか?」
F「番外編3『後漢滅亡』は234年付で講釈している。つまり、山陽公・もと献帝劉協の死をもって、だ。後漢王朝は220年に幕を下ろしたが、董卓に少帝が廃された段階ですでに滅んでいたようなモンだから、実に45年遅かったことになる」
A「半世紀近くだねェ」
F「実際に滅んだ、魏が晋に禅譲したタイミングよりは、曹爽が処断され実権が司馬氏に移行した249年こそが、このタイトルに相応しいように思えてな」
A「……またしても、評価が難しいところだね」
F「割と単純だぞ。蜀や呉は攻め滅ぼされたが、後漢や魏は禅譲しているんだ。政治的・軍事的背景から考慮するなら、禅譲に至った年が滅亡の年だとは云えない場合がある、ということだから」
Y「ゆえに、魏の滅亡が決定的となった249年をもって、曹氏の王朝は滅んだ……という見方か」
F「結果として決定的となった、かな? ちょっと断言はできんが。というわけで、『蜀漢滅亡』と『孫呉滅亡』はそれぞれの年にやる。納得してもらったところで本題に入ると、曹爽という男はどうにも高く評価できない。たとえば劉備だったら、まず重用はしないタイプでな」
A「相手が悪かっただけ……とは云えないくらいだな、確かに」
F「そして歴史は止まらない、そして歴史は繰り返す。247年に仲達が自分の屋敷にこもったのは、曹爽らの油断を誘うための擬態だった……という見方が主流だが、よく考えればコレが擬態ということはありえないのに気づくはずだ」
A「お前の考えについていける奴がどれだけいるンだよ」
F「常識で考えろ、仲達はこの年69歳だぞ」
A「……お前に常識を云々されたくはないが、確かに尋常ならぬ年齢だな」
F「孫権よりも年長なんだ。本人が云っている通り『トシもとったし病気も非道い、死ぬのは今日か明日か』という年代なんだから、仲達にはもう『待つ』という選択肢は残っていないンだよ。野心があったなら、もっと早いうち(というか、若いうち)に動いていてしかるべきだった」
Y「考えてみれば、孔明が死んだのもすでに15年前か」
F「無視されがちだがな。70近い仲達が、野心をひた隠しにして牙を砥いでいると考えるのが、ずれているように僕には思える。曹爽が権力を握るのにベストの手段は、身を低くして欲を控え、仲達が死ぬのを待つことだぞ」
A「でも、司馬懿にはそれができない」
F「老いという避けがたい病におかされているのは、仲達の側だ。だいたい、擬態だとしたら247年に隠居したのもおかしい。実史で仲達が太傳に任じられたのは曹芳の即位間もなくなんだから」
Y「だったか?」
F「年代の明記はないが、曹芳伝では、241年時点ですでに太傳になっているのが確認できる。演義では太傳にまつりあげられるとそのまま隠居しているが、だから10年経っているのに気づきにくいンだ。実は『そんなに時間が経っていたなんてはじめて知った』というメールも来ている」
A「……孔明の死んだあと、か」
F「そんな仲達が、若い曹芳や曹爽が、国政はともかく防衛論で失態を犯そうとしたら、真っ向から反対し制止していた……のはすでに見ているな。つまり、太傳になってからも、まだ朝廷に留まっていた」
Y「じゃぁ、何で隠居した?」
F「それについては、前回云った通りだよ。妻の張春華さんがその年の4月に亡くなってるンだ。曹爽らのせいで居心地が悪かったのは事実のようだから、妻の死を口実に宮廷から身を引いた」
A「これによって、曹爽が宮廷を牛耳るようになった?」
F「うむ、割と控えめに暴走をはじめている」
A「控えめって」
F「正史曹爽附伝(曹真伝に収録)から引用すると『政府が管理している土地を自分のものにしたり、おかみの物資をくすねたり、州や郡に賄賂を要求した』とか『気に入らない奴に罪を着せて官職を取り上げた』とかでな」
A「……小役人レベルの悪事じゃね?」
F「いつぞやの呂壱レベルなんだ。いちおう『曹爽は皇帝のような食事・服装・乗り物で生活し、御用達の職人が作ったものが家にはあふれていた』とはあるが、これなんか成り上がり者(曹真が質素だったのは122回参照)が気が大きくなってしでかすことの典型だし」
Y「身分が高くなったら、それに伴って生活レベルを必要以上に上げてしまうものらしいな」
A「もう少し、悪事はしでかしてないの?」
F「いちおう、曹叡の女官を奪ったり、良家の子女を手に入れたりしてるけど、人数で云えば40人(明記されている)だから、それほどの悪事とは思えない」
A「……規模の問題じゃないという意見はどうだろう」
F「しかも、なんか目的が判らん。その40人を自分付きの芸人に仕上げたのみならず、宮廷の女官に芸を仕込んだり、官制音楽隊の楽器を私物化したりでな。自分ちの地下室に彫刻施して宴会しながら音楽を演奏していたらしいが、これじゃ悪代官とか奸臣じゃなくて、ただの酔っ払いだろうと思ってしまったくらいだ」
A「音楽が好きだったのかな?」
Y「そういう問題じゃねェだろ。……何晏は何をしていたンだ? というか、例のブレーンたちは」
F「宴会に加わってた。曹爽の次弟(五人兄弟)曹羲は、そんな兄をしばしばいさめたとはあるが、兄のナニをいさめたのかはまるで判らん。あえて好意的にフォローするなら……何で曹爽相手にそんなフォローしなきゃならんのかよく判らんが、隠居したとはいえ仲達の存在が内心ビクビクで、あまり大手を振っての暴挙はできんかったというところか」
Y「小心者の子悪人か」
F「それでも仲達は警戒し備えをかためた、とはあるがな。そんなある日、正確な日次をあげれば248年12月28日、何晏は高名な神卜管輅を屋敷に招待した。実は、演義では完全に無視しているンだが、管輅は208年生まれだ」
A「なんですと!?」
F「256年に48歳で亡くなった、とあってな。曹操が左慈にからかわれた216年は『星座を見上げるのを好み、傍に人がいればしきりに星の名を尋ね、夜も寝ようとしなかった』7つか8つの頃合だ。だから僕も、86回では、実際に卦を立てた相手の名は、演義での曹操くらいしか挙げなかった」
A「……60回先を見越してそんな伏線を張っていたとは」
F「そんな管輅に何晏は『ハエが私の鼻にたかる夢を見るのは、どういう意味だろう』と尋ねている。応えて管輅は『鼻というものは高くても危ういことはありませんが、ハエがたかるのは好ましくありません。己を卑下する勇気を高め、道に外れぬよう努めれば、ハエを追い払うこともできましょう』と立てる」
A「? どゆこと?」
F「同席していたケ颺が『そんなモン、年寄りのたわごとだ』と笑い飛ばせば、管輅は『年寄りの云うことには深い意味があるものです』と取りあわない」
Y「つまり、ケ颺らを遠ざけて身を慎むよう心がけろ、と云ったワケだ」
F「演義で曹操相手にも積極的には交流しようとしなかったのは、この辺が原因だったと見ていい。天機を知るだけに、その末路が見えていた……という演出」
A「さすがは羅貫中ですなっ♪」
Y「いい加減にしろよなぁ……」
F「どうにも曹操を嫌っているのが判るな。思うところがあったらしい何晏は『年が明けたらもう一度会おう』と云っている。家に帰った管輅から、そんなことをしたと聞いたおじ(母の兄弟だが、演義では妻の父になっている)は言葉が過ぎるとなじるけど、本人は平然と」

 死人を相手にしているのに、何をはばかることがあるのです?

F「おじは『ダメだあいつ、狂っちまった』となじっている」
A「すでに名声を博していた管輅の占いを、このおじは信じていなかったワケか」
F「まるで劉子敬でな。さて、その248年冬に、曹爽はある思いきった人事を発令している。自身のブレーンのひとり李勝を荊州刺史に任命した」
Y「思いきってるか?」
F「正史・演義のいずれにも記載されているその辺りのイベントを、書き起こしてみる。荊州に赴任する前に、仲達の屋敷に挨拶伺いに出向いたシーンだ」


李勝「太傳様、わたくしこのたび本州を治めることになりましたため、いとまごいにうかがった次第です」
芝居「おぅ、おぅ。并州に行かれるか。あそこは蛮地に近いで、気をつけられるようにな」
李勝「いえいえ、本州に帰らせていただくので、并州にはございません」
芝居「并州に行かれたら、二度とお会いできぬでしょうなぁ」
李勝「だーかーらー! 荊州でございまして、并州ではございません!」
芝居「……あー、あー。ワシもボケてしもて、君の言葉が判らなんだ。いやいや、本州を治められるとは晴れがましいことじゃ。……ところで春華さんや、メシはまだかいのぅ?」
李勝「奥方様は先年にお亡くなりでございましょう……」
メイド「お待たせいたしました、ご主人さま。こちら、おかゆでございます」
芝居「はい、いただきます」
メイド「あらあらご主人さま、こんなにこぼして」
芝居「おぅ、おぅ。これは大変じゃ。春華さんや、着替えを持って来ておくれ」
メイド「はい、お着替えでございます。……あらあらご主人さま、しっかり着替えなきゃダメですよー」
李勝「……世間の噂では、太傳様のご病気が再発されたとのことでしたが、まさかこれほどとは思いもしませんでした」
芝居「いえいえ。ワシももうすぐ70、トシもとったし病気も非道い、死ぬのは今日か明日か……。どうか息子どもと仲良うしてやってくだされ」
李勝「お大事に、どうぞ……」


F「曹爽のもとに帰った李勝は、涙ながらに『太傳の御病気は、もう回復などのぞめません。あの姿は見る者の涙を誘います』と報告した」
A「コレが司馬懿の芝居だとは、李勝とかいう奴には見抜けなかったワケだね」
F「繰り返そう、この人事は魏朝成立以来となる思いきったものだ。出身の州を本州と呼ぶが、魏において本州の刺史となった者は、李勝ただひとり」
2人『……はい?』
F「魏では、地方長官にはその地出身の人物を除外する本州回避の原則が貫かれていた。目的がどの辺にあったのかは不明だが、州刺史で云うならこれが唯一にして最後の事例だ」
Y「……ただごとじゃないのかそうでないのか、俺では判らん。これは何を意味する?」
F「劉氏でない王が立ったら天下を挙げてこれを討て、という漢王朝の国是に背くかたちで、曹操は魏王に就き、それに反発する者は少なくなかったとされている。裏の目的はそこだろう。曹爽は、この人事に対する仲達の反応をはかった。自分の権勢は魏の国是を超えるものだぞ、と」
A「それに司馬懿がどう応えるか、試してみた……か」
Y「だが、司馬懿の方が役者が数枚上手だった。ボケたふりをして李勝をだますのに成功している」
F「繰り返しになるが、隠居そのものは擬態ではなかったように思える。年齢からして、曹爽らがまっとうに政治を行うならそのまま隠棲していただろう。ところが、そんな魏の国是に反する人事を行い、眠れる老虎を挑発したことで、事態はクライマックスを迎える。249年正月、曹芳は曹叡の御陵に詣でるため洛陽を出立し、曹爽兄弟らもそれにお供した。西北から強い風が吹き、塵ぼこりが空を覆った年明けだったという」
A「波乱を演出するような空模様で……」
F「6日早朝、仲達は洛陽の城門を閉鎖。武器庫に次いで城内を占拠し、南の洛水のたもとに兵を押したて布陣した。そのうえで、曹爽兄弟を公職から追放する旨の弾劾書を当人のもとに送りつけている」
A「孟達を討ったとき同様の、電撃作戦に出たね」
F「これまで、曹爽兄弟はたびたび城の外に出ていたンだけど、ブレーンのひとりの桓範が『政治を執り仕切る立場にある者が、連れだって城外に出るのはいかがなものかと。城門を閉鎖されたら、誰が中に入れてくれましょうか』と諫言したのに、曹爽は『誰に、そんなことをしでかす勇気があろうか』と相手にしなかった。ために、桓範は曹爽に同行することをしなくなったという」
A「バカ正直な奴だね」
F「ここでひとつの布石が活きている。当時司馬師は、近衛軍団の指揮権を握っていた。仲達が動けば、即座に洛陽を封鎖できる権限そのものが、司馬氏の側にあったンだよ」
Y「ここでその辺りの人間関係が発揮されるのか」
F「ところが、司馬仲達ともあろう者が予想していなかった事態が発生した。危機感からかやはり同行しなかった桓範が、仲達が動いたと聞くや詔を偽装して南門を開けさせ、そこらにあった武器と門に詰めていた兵を引き連れ、曹爽のもとに駆け込んでいるンだ」
A「ぅわ」
F「仲達は、共犯の蒋済に『知恵袋が行ったぞ』とぼやいているが『曹爽では桓範を使いこなせませんよ』とあっさり。事実、曹爽は、桓範の『陛下を許昌に移し、都の外にいる軍勢を招集して司馬一族に対抗すべし!』という進言に、ぐずぐず躊躇って決断できなかった」
A「……ダメじゃん」
F「これじゃ埒が明かんと、兄弟でいちばん目端の効く曹羲に『しがない犯罪者でも人質ひとりいれば生きる望みがあるものです! 天子を擁するあなた方が天下に号令をかけるのなら、誰が逆らいますか!』と重ねて進言しているけど、曹羲でも決断できなかった」
A「ホントに切れ者なのか? その弟」
F「だろう。魏では人質もろとも敵を撃て、という声明が曹操サマから出されていたンだから、そんなこと云われても曹羲は躊躇うだろう」
Y「別にいいが、通例通り三男の曹訓を挙げないのは何でだ」
F「下三人は出さなくても実害ないように思えてな。いちおうは陣地を築いて兵を集め、対抗する姿を見せた曹爽だったけど『公職追放さえ呑めば助命する』との蒋済からの書状に心が動いた。何しろ仲達は『陛下に野宿はさせられぬ』と、弟の司馬孚にテントから宮廷の食器からを運ばせているンだ」
A「害を加える意思はない、と明確に示したンだね」
F「これなら仕方あるまい……と、曹爽は兵を解散させ、仲達に投降することにした。それを聞いた桓範は『亡き御父上(曹真)はご立派であったのに、お前たちと来たら仔牛も同然のボンクラだ! こんな連中に連座して一族皆殺しになろうとは!』と慟哭している」
Y「憐れな奴」
F「曹爽の見立てが甘かったとしか云いようがない。自分から『世を乱した罪で死刑にしてください』と申し出たが、先の約束通り免官のみに留まり、自宅に軟禁されている」
A「その時点では助かった、と」
F「それでも、仲達の真意をはかろうと『こんなことになったせいか、当座の食にも事欠いております』との書状を送ったところ、即座に『それは存じませんでした! 申し訳ない!』という詫状と大量の食糧が届いたことで、命は助かると思い込んで大喜びしている」
A「……136回で見た功臣絶滅って、やっぱり曹爽のせいじゃないンじゃね? とてもそうは思えないンだけど」
F「曹爽が帝位簒奪を目論んでいたのはいいな?」
A「だーかーらー!」
F「正史曹爽附伝にはっきり『何晏らと謀議を交わし、兵を訓練して、3月になったら挙兵しようと計画していた』とある。確かに、仲達が公職から引退し、曹宇らが宮廷から追放され、孫資・劉放を抱き込んでいた曹爽が『天下に号令をかける』なら、誰が逆らうか……という状態は、すでにできあがっていたンだ。曹爽が帝位に就いた暁には三公どころか丞相となる何晏が、自分のことを管輅に尋ねたのも、成否を諮ったともとれる」
A「濡れ衣ではなさそうだけど、状況証拠だろ?」
F「それなら状況証拠さえない仲達に、野心があったというのはどういう了見だ?」
A「……ぐむぅ」
F「どうやら曹芳や郭太后(曹叡の后)は、曹爽の野心に感づいていたようで、この混乱において曹爽をかばうような言動をしていない。曹芳がどう動いたのか記述はないし、太后に至っては仲達に通じた」
A「……曹芳が陣頭に立って『おじいちゃん、下がりなさい!』とか云ったら状況は逆転していたな」
F「そゆこと。太后の動きについては何回か先で見るが、皇族が曹爽を見捨てた理由が簒奪の意志にあったと考えれば、ことはほとんど決着するンだよ。というか、この249年の魏宮廷における政変は、帝位への野心があったのは曹爽だったのに気づくと、旧来の先入観とは違った見方ができる」
A「……なんだろうなぁ、このもやもや感は」
F「僕としては、はっきり正史に書いてあるのに、どうして曹爽の野心を気づいていないヒトが多いのかがむしろ不思議だ。かくて、父の死から18年。天下への階はあと一歩に迫っていたが、仲達によって曹爽の足は払われた」
Y「60年前に、ほとんど同じことがあったな。あとは実際の帝位に就くだけ……という絶頂にあった董卓が、あっさりと足元を払われ、そのまま死んだ」
F「そっちもあるが、僕としてはもうひとりをこそ思い出さずにはいられない。謀略・計略に長け、一時は仲達の無力化に成功したのに、才気走って増長し、周りの意見を聞かず、実際の戦場で追いつめられると何もできずに失敗した、20年前に死んだ愚か者を」
A「……泣いて斬られた馬謖に対し、今度は惜しむ声はなかったようだね」
F「一時的に無力化して遠ざけるだけであとは放置しても問題ない……と、馬謖と全く同じ過ちを犯したとは自覚はなかっただろう。その辺りを考えると、劉備なら曹爽を大将軍にはしなかっただろうな」
Y「まぁ、馬謖が策謀したのは演義での話にすぎん。正史での馬謖はただのバカだ」
F「そして歴史は止まらない、そして歴史は繰り返す。かくて、曹芳即位10周年を記念した、仲達最後の御奉公は成功裏に幕を引く。帝位簒奪を目論んだ罪で、曹爽・曹羲・曹訓、何晏・丁謐・ケ颺・畢軌・李勝、そして桓範は、一族郎党皆殺しになっている」
A「これにより、司馬一族の時代が幕を開ける……か」
F「ところで、何晏やケ颺が処刑されたと聞いて、例のおじは管輅を見直したという」
A「そのおじ、名は?」
F「当然だが、伝わっていない」
A「だろうね……」
F「続きは次回の講釈で」

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