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私釈三国志 144 司馬仲達

F「とざいとーざい! 本日(03月11日)は、イオン新潟南店3階フードコートにおきまして『私釈三国志』初となる、公開講釈・録音を行います」
A・翡翠『えぶりでぃ、やんぐらいふ、じゅ・ね・す♪』
M「子供たちは元気ねェ」
ヤスの妻「テレビに頭突っ込んじゃダメだよ?」
Y「……ムダに人数多いな」
F「なお、店には無断なのであまり騒がないように」
三妹「アタシたちのことは気にしないで、いつも通りやってなさいよ」
F「いつも通りなら苦労はないわ! というわけで、今回のタイトルは『司馬仲達』」
Y「いまが何年かよく判らんが、仲達について講釈するには早くないか? 基本的に、フルネームは死んでから使ってたろ」
F「全体の連載構成を考えて講釈するタイミングを決めた次第だ。仲達への追悼セレモニーとしてよりは、曹爽が処断され実権が司馬氏に移行した249年こそが、このタイトルに相応しいように思えてな。加えて、今回は臨席者がいるンだから、ある程度インパクトのあるものを見ないといかん」
A「評価が難しいところだね」
Y「仲達の天下盗りが始まった魏宮廷でのクーデターを、その人生のハイライトに指定したのは間違いではないな」
F「この一件をクーデターとは呼びたくないのが、僕の本音なんだがな。ともあれ、突然ですが、ここで問題です」
A「またかい」
F「いや、実は問題じゃないンだが。アキラ、司馬仲達は好きか?」
A「……アキラは、またそれを覆されるようなものを聞かされますか?」
F「今回はさすがに覆す自信はない。400年の歴史に勝てるだけのものは提示できんと思う」
Y「1300年ずれてないか?」
F「その辺は計算している。だいたいそれくらいでいいと思うぞ」
A「何にせよ……あまり司馬懿は好きじゃないなぁ。誰のせいで孔明が本懐を遂げられなかったかと思うと、とてもじゃないけど好きだとは云えない」
Y「俺も嫌いではないが、好きではもっとないなぁ」
F「だろうな。仲達はあまり人気がないのが実情で、アンケート8番でも上位につけていない。このままだと『HM』にはエントリーされない可能性もあるくらいだ」
Y「そんなこと考えてたのか?」
A「うん、8番9番の上位陣からって聞いてた。……でも、抜くわけにはいかないンじゃないか?」
F「そうだよなぁ。外すわけにはいかないから、他の面子には悪いが、票が入らなくてもやるだろう。いちおう第4回までは人選が済んでいるけど、そこから先は割と融通できるし。とりあえず、状況の経緯を見よう。曹爽が蜀に攻め込んで、返り討ちにあったのは244年のこと。曹叡の死から5年後になる」
A「この頃までは、仲達と曹爽の仲は悪くなかったンだよね?」
F「そうだな、一般的に思われているほど政敵という状況ではなかった。ただ、曹爽のブレーンたちが、仲達の讒言を吹き込んだのと、当人同士の力関係から、次第に対立構造へと発展している」
A「力関係?」
F「簡単に云うと両雄並び立たずという奴でな。権力で云えば曹爽は仲達を上回っているけど、権威や実績では及ばない。何かの間違いが起こって、合肥・襄陽・祁山の三大防衛拠点のどこかが抜かれそうになったら、防衛司令官として出陣するのは、過去の実例で判る通り曹爽ではなく仲達だ」
A「権力はあっても実績がない、か」
F「その辺りは138回で見たが、246年には朱然が兵を出して柤中(地名)を攻めている。この時も曹爽と仲達の意見が対立しているンだ。数千人が殺されたので、官民問わず万余の民衆が避難したンだけど、仲達は『彼らを戻したらまた朱然が攻め入ってくるだろうから、このまま逗留させよう』と云ったのに、曹爽は『これでは南方の守りが手薄になる』と主張した」
A「どっちが正しい、とは一概には云いがたいか」
F「仲達は、この民衆を帰す危険性について理を尽くして説明したンだが、曹爽は聞き入れなかった。結局柤中に帰してな。もちろん朱然がやってきて、小さくない被害を出しているンだ」
A「……こう度重なると、曹爽でなくても仲達に敵愾心を抱くようになるわな」
F「こういう場合には、通常ふたつの対策がある。自分の実績を高めるのと、相手の実績を貶めるのだ。漢土では歴史的に後者が用いられることが(もの凄く)多く、手柄を立てた将軍があらぬ罪であっさり処刑されるのはそんな事情による。狡兎死して走狗煮られ、なんて言葉が一般化しているくらいだ」
A「そんなことしてるから、国が弱体化するンだろ?」
F「そゆこと。曹爽も、当初はその辺りが気になったのか、仲達を貶めずに自分を高める努力をして、失敗した。で、すねてしまったようでな。丁謐の策を用いて、仲達を人事的に無力化しているンだ」
A「人事?」
F「太尉(三公の一)だった仲達を太傳に昇進させて、上奏文や政治案件は仲達のところまで渡さず、自分たちで処理するようにしてしまったンだ。演義に曰く『地位は高いが実権はない』この役職に就いた仲達だったが、それでも軍務についてはきちんと的確な発言を続けていたものだから、ますます煙たがられる。どうにも居心地が悪くなったようで、ついには病と称して屋敷に引きこもった」
A「それがクーデターへの布石だったワケだ」
F「唐突だが、ここで仲達のプロフィールを確認しようと思う」
A「……ホントに唐突ですね」
F「唐突ですよー。タイトルがアレなのに少しも触れないってのはおかしいだろうが。司馬家は河内郡の有力氏族で、後漢代では郡太守を輩出し、同郷の名士と婚姻関係で結びついていた。四世三公の袁家には及ばないにせよ、かなりの名家だったことがうかがえる。また、代々に渡って家学として、礼を中心に儒教を修めてきた」
A「儒者なんだ?」
F「そうだな。で、仲達には兄ひとり弟6人がいて、全員の字に"達"の字が用いられていたので『司馬の八達』などと呼ばれていた」
A「司馬の八達、狼顧いちばん良し?」
F「身も蓋もないな。仲達本人は179年(黄巾の乱の5年前)に生まれ、208年に、丞相に就任した曹操の招きに応じて丞相府に出仕している。数えで30歳か」
A「招いたって云うより、脅迫じゃね?」
F「アキラでも知っていたか。晋書宣帝紀(仲達伝)によれば、仲達はしぶしぶ出仕している。201年に荀ケの推挙を受けた仲達だったけど、本人は病気を理由に拒んでいる。すると、仮病と見てとった曹操は刺客を送り、送りこまれた仲達はベッドに横になって身動きしない。針で刺しても動かないから『コレは仮病ではないな』と引き揚げている」
Y「詰めが甘いな」
F「殺されても困るがな。ところが、その刺客が帰ったら、にわか雨が降り出した。たまたま蔵書を虫干ししていた仲達は、慌てて起き上がるや書物を取り込む。すると、その姿を下働きの女に見られてしまった」
A「ダメじゃん」
F「それを知った妻の張春華さんは、口封じのためにその女を殺している。もし誰かが仲達に『あなたの怖いものは何ですか?』と聞いたら、彼は迷わずに『女房!』と応えただろう」
Y「気持ちと理屈は判る」
F「まったくだ」
M「どういう意味かしら?」
三妹「誰のこと云ってンのよ」
ヤスの妻「愛されてないなぁ」
Y「外野、うるさい!」
F「ともあれ、この数年後に曹操はもう一度、今度は『ガタガタ云うなら首に縄かけて連れてこい!』と、使者を怒鳴りつけて出仕を求めている。曰く『漢王朝の衰えは実感していたが、曹氏に屈するのは潔しとしなかった』とは晋書の記述だが、実は、コレが仲達の本心だったかと云えばたぶん違う」
A「正史の記述は、積極的には否定しないンじゃなかったのか?」
F「魏略にこんな記述があってな」

『曹洪は自分が粗野なのを気にしていて、学問に優れた仲達に、自ら膝を屈して交際を求めた。ところが仲達は訪ねていくのを恥じて、仮病を使い杖をついて逃れようとする。コレを恨んだ曹洪は曹操にチクり、曹操は仲達を招いた。すると仲達は、杖をなげうって命に応じた』

A「……あれ?」
F「仲達の仮病云々は、この辺りの記述が元ネタじゃないのか、という説があるンだ」
ヤスの妻「でもえーじろ、それ阮瑀の故事じゃない?」
F「実はその通り。三国志の正史で、曹洪の任用を拒んでいるのは、仲達ではなく阮瑀です。この辺りの記述が、そもそも信用できるものなのかという疑問がまずある」
Y「……というか、何でお前ら、そんなモン素で出せるンだ?」
ヤスの妻「事前にひと通り読んだから」
A「じゃぁ聞くけど、なんで仲達が曹洪との交友を拒むのさ?」
ヤスの妻「どーぞ」
F「考えてみれば当然だろう。仲達は曹丕の御学友なんだから」
Y「そうか……曹丕と曹洪は仲が悪いンだったか」
F「金銭問題で処刑まで取りざたされたほど、曹丕は曹洪を敵視していた。陳羣らとともに曹丕の四友に数えられた仲達が、大手を振ってつきあえる相手じゃないンだよ。まぁ、どちらにせよ晋書で見た消極的な姿勢は、完全に嘘だと断言できるが」
A「持論を放棄しましたよ、奥様」
F「ここで重要なのが、司馬防という人物でな」
A「何番めの弟?」
Y「確か父親じゃなったか?」
F「そう、京兆尹(長安周辺の民政長官)にまで昇進した父で、若き日の曹操を洛陽の警備主任に取り立てた張本人だ」
ヤスの妻「あ……!」
残り全員『………………は?』
F「正確な役職で云えば洛陽北部都尉。コレに就任した曹操は、『西園八校尉』のトップ(霊帝が寵愛していた宦官)の叔父を規則違反で殴り殺し、昇進して宮廷から外に出されている。曹操が出世した足がかりを作った人物であり、のちに尚書にとりたてられている辺り、曹操は司馬防に恩義を感じ、ある程度の交流をもっていたと見ていい」
A「となると……」
F「曹操から仕官要請があったら、仲達に限らず司馬の家にある者が、それを拒むとは考えにくい。現に兄の司馬朗(伯達)は、召し寄せられるとあっさりそれに応えている。司馬防と曹操の人間関係を考慮すると、晋書の記述が正しいとはどうしても思えんのだ。魏略は魏略で、正史の注で阮瑀が同じことをしている辺り、信じていいのか疑問だが」
ヤスの妻「いっこいい? えーじろ」
F「はい、どうぞ。その前にえーじろやめろ」
ヤスの妻(軽く両手を挙げて)「ぎゃふん」
Y「お前でも反論できんのか!?」
ヤスの妻「時間と史料があればする自信はあるけど、すぐには無理だよ……。人間関係から事態の裏を見抜くのって、えーじろの十八番だもん。魏略が正しいのかはともかく、晋書が正しくないってのにはぐうの音も出ないよ」
F「ありがとうございます。晋書の記述に関しては、従来から云われる『曹氏から帝位を簒奪するのだから、両者の関係の端緒を本意ではなかったとすることで、裏切りの後ろめたさを軽くする狙いがあった』のが原因でしょうね」
A「積極的に嘘を書いた、か」
F「残念ながらそう考えざるを得ない。曹操の死後に曹丕が官職・役職をそっくり引き継いだのは、洛陽で没した曹操の遺体を仲達が鄴まで運んできて、相続のゴタゴタを鎮めたからだぞ。ちなみに、220年当時、仲達は42歳。司馬朗は217年に47歳で、司馬防は219年に71歳で亡くなっていて、仲達が司馬一族の総領に立っていた」
A「曹丕は36歳だから……6つ違いか」
F「その後も曹丕から『後方は全てお前に任せる』と、蕭何を引き合いに出されるほど信頼されていた仲達が、曹丕には忠実で曹操には不忠だったとは考えにくい。何しろ司馬家は儒者の一家だ。子に対する礼と同等かそれ以上のものを、親に向けると考えるべきだろう」
Y「驚くべき方向に持論を曲げたのはいいが、では、なぜクーデターを起こした?」
F「アレをクーデターとは呼びたくない、と云っているだろうが。先日、ヤン・ヒューリック様と意見交換したんだが、結論で云えば仲達が野心家というのは多少ならぬ誤解があるように思えてな」
A「そんなコメント来たっけ?」
F「いや、メールで。誤解というより先入観が強い、というのが僕の見立てだ。晋王朝の実質的な創始者でありながら、曹操・曹丕にとっては有能な家臣、戦場では孔明を退けた智将……と、主君・宰相・武将の三つの顔を併せ持つのが、仲達という男の面白さでな」
Y「有能なのは揺らがぬ事実だな」
F「そう、有能だ。それだけに『こんな有能な男に野心がなかったはずがない』という先入観が先行して、後世からはあらぬ誤解を受けている。孫の司馬炎が帝位に就いているモンだから、仲達の代からすでにそんなことを目論んでいた……と思われがちでな」
A「実際に簒奪しておいて、野心がなかったとは思えないけど」
F「仲達の先入観には、ふたりの有名人が少なからぬ影響を与えているンだ。そのひとりが曹操」
A「おいおいおいっ!?」
F「実は、仲達は曹操と似たような立場にあったので、曹操が簒奪者と考えるヒトはそのまま仲達も簒奪者だと思いがちなんだ。ために、曹操を誤解していると仲達のことも誤解する、という悪いルーティンができていて」
Y「……魏王朝の実質的な創始者でありながら、漢王朝にとっては有能な家臣、戦場では並ぶ者なき智将だな」
F「固有名詞を抜くとどっちがどっちか判らんだろう? 曹操が簒奪者だったという誤解を解くのには80回かかったが、その点が理解できていると仲達への誤解はすぐに解消できると思いたい」
Y「云っていることは判らんでもないが……」
F「実例を挙げよう。曹芳時代の仲達の行いには、非を唱えることができないンだ。太傳になったからといって、もともと国軍の責任者たる太尉だったンだから、軍事的案件に口出ししないのは廷臣として間違っている。まして、軍事的に正しいことを云っているンだから、責めるのが間違いだ」
Y「曹爽の人事的圧力から、隠居を装って自宅に引きこもったのはどうだ? 責任放棄ともとれるが」
F「隠居した直接の口実は、247年に問題のカミさんが死んだからだぞ。70近い老人が長年連れ添った妻を亡くしたため政界から身を引くのを、どうして責められる」
A「……本気で隠居を考えたのかもしれんなぁ」
F「陸遜とは違って空気が読めるから、自分から身を引いたようにも見えるだろう。自分が身を引いて、曹爽が国政をうまくやりくりできるようなら、そのまま隠居していた公算が高いンだ」
A「うーん……でも、やっぱり司馬懿仲達ともあろう者が、そこまであっさり身を引くとは考えにくいンだけど」
F「やはり、云わねばならんか。――ところで」
A「正座した方がいいですかね?」
F「そのままでいい。仲達の行跡・人柄を先入観なく評価するのは、日本人には難しいのかもしれない。たいていの日本人は、どうしても仲達の背後にタヌキが見えているようでな」
A「まぁ、化かしあいで云えば孔明にも引けを取らなかったからねェ」
F「徳川家康だ」
Y「……………………あー」
F「傍から見てると、死の床にある主君から幼い我が子を頼むと懇願されながら、結局天下を盗っちまった古ダヌキに、仲達を重ねて見ているように思えるンだよ。確かに、幼い主を挟んで若い競争相手と政争を繰り広げたその姿には、家康の行いに通じるものがある。だが、だからといって仲達まで野心家だったと考えるのは、ホントにどうなんだろう」
京都生まれの大阪育ち「……いや、まぁ、だって」
F「うん、アキラにその辺りを改めろと云ってもまず無理だろう。400年の歴史を覆すようなものは、僕には書けない。だが、繰り返そう。多くの日本人には、仲達が野心家だったという思い込みがある。それは、曹操と家康というふたりの、似通った立場にあった有名人から来る先入観が原因だ」
A「……どうしても気に入らなかった理由が、なんか判ったのはいいけど、納得はしても心変りはできないなぁ」
F「だろうな。繰り返すが、お前ら関西人が400年に渡って受け継いできた家康への反感を覆せるものを講釈する自信はない。だが、仲達なら話は別だろうと思っている」
A「野心が、なかったと?」
F「彼は、亡き曹操から曹丕の学友たることを命じられ、その曹丕から曹叡を預かり、その曹叡から曹芳を預かった身だ。三代に渡って天下を預けられた仲達に、孔明同様の、責任感という名の野心があったことは否定できない。が、それは私欲でなかったことなら、歴史的に証明できる」
A「その心は?」
F「249年は、曹芳が即位してちょうど10年後だからだ。実に70歳で野心に駆られたというより、先が短いのを自覚して、若い主君のために朝廷を大掃除しようと考えた……とする方が、筋が通るだろう」
Y「即位十周年記念の、血の粛清劇か」
F「それがどんなものだったのか……は次回に触れることにして、初の公開録音は終了とします」
三妹「まぁ、そろそろ動かないと、店に怪しまれるわね」
A「さっきからパンピの視線がアレだからねェ。では、どうぞ!」
F「続きは次回の講釈で」

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