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私釈三国志 143 西羌軍団

Y「こん畜生!」
F「何だ、いきなり? 不満でもあるなら聞こう」
Y「このタイトルは以前使っていたのではないかと記憶している」
F「『タイトルは漢字四文字』『人名は1度だけ』との内部規定のいずれにもひっかかっていないと思うが」
Y「同じタイトルは2回使ってもいいのか?」
F「すでに『三顧之礼』の実例があるだろうが、いまさらガタガタ騒ぐな。泰永の白昼夢も蜃気楼も走馬燈もさておいて、今回は、247年の戦役について。二宮の変の決着まで、3年ほどさかのぼってのオハナシだ。さて、突然ですが、ここで問題です」
A「久しぶりに来たなぁ」
F「四相を挙げよ」
A「……まっとうな問題だな? えーっと……ちら」
Y「孔明、蒋琬、費禕、董允だ。四英ともされる、蜀の文臣トップ4人だろうが」
A「あー、その面子なのに姜維はいないンだ」
F「さすが泰永。僕もメールで云われて『……誰だったかなぁ』と素で悩んだモノを覚えているとは」
Y「たまにお前を説教したい」
F「あっはは。ただし、この4人がそのまま蜀で政権を担っていたワケではない。孔明はともかく、その存命中には蒋琬・費禕のいずれもほとんど腰巾着に近い位置づけで、董允に至っては政治の中枢に立ったこともない」
A「ほとんど劉禅のおもりに徹していたンだよね?」
F「そゆこと。もともと、皇太子となった劉禅の守役として登用されたような人物だからな。他の三人はともかく、何で董允がこの中に入っているのか……は、いずれ触れることにして。孔明が死んだのは234年だが、蒋琬は246年に死んでいる」
A「12年経ってからか。死因は?」
F「病死だ。ただし、病気になったのは138回で触れたが、どんな病気かは不明。曰く『持病』とのこと」
Y「いつも通り、怪しめば怪しめるか」
F「そゆこと。蒋琬は、良くも悪くも孔明の後継者だった。劉禅をよく支え、国をよく守り、弱体化した蜀軍の再建に尽力した。だが、先人同様戦には勝てず、志半ばに倒れている」
A「その辺りも費禕に受け継がれた?」
F「いや、そうでもない。蒋琬と費禕はセットで扱われがちだけど、この両者がずいぶん違うのは、性格や個性に限ったことではない。たとえば能力は、多少ならず費禕のが上だったのは事実だ」
A「まぁ……ねェ」
F「孔明から蒋琬、蒋琬から費禕へと政権が受け継がれたのは事実だが、費禕の代……つまり、蒋琬の死後に、蜀では割と大きな政策変換がなされている」
A「そうなの?」
F「うむ。陳寿でさえ記述するのを拒み、わずかに正史の注に残された、その恐るべき事態を白日のもとにさらけ出すと、こんな具合だ」

 蒋琬の死後、劉禅自ら国事を執り仕切った。

A「蜀を滅ぼす気か!?」
Y「蜀が滅ぶワケだ……」
F「云いたい放題だな、お前ら。まぁ、僕も昔はそう考えていたンだが、思えば劉禅も40に手が届く(207年生まれ=39歳)。いつまでも臣下に政治を預けきりでは、君主としての器量を問われるだろう」
A「気がつけば阿斗もいいトシか」
Y「いっそ誰か問うてやれよ、お前には君主の自覚がありますか、と」
F「のちに司馬昭が聞いたが、この頃の劉禅ならどう応えたのかは難しい問題だな。ともあれ、この一件は露骨に無視できない。劉禅時代の初期において、政治と軍事の全権は、事実上孔明が握っていたに等しい状態だった。これは蒋琬にも受け継がれたが、その死によって劉禅親政に移行したことになる」
A「……小さくないな」
F「蒋琬は生前、費禕や董允に役職を譲りたいと上奏していたンだが、董允が固辞して受けなかった(『費禕がどうした』かの記述はない)ので、結局生涯現役だった。ただし、243年には持病が悪化したため、本人は大司馬となって、費禕が大将軍に就いている。その翌年に曹爽による漢中侵攻を退けたが、たぶんこれが寿命を縮めたンだろう、涪(地名)で『病気がますます悪化し』亡くなった、とある」
A「で、費禕が大将軍として軍権を掌握した、と」
F「費禕ももともとは劉禅の守役で、そこから孔明に取り立てられた身だ。尚書令を経て大将軍・録尚書事になったが、後任の尚書令には董允が就任している。割と有名な、この両者の能力差に関するエピソードがあるな」
A「いや、この時代で有名と云われても……」
F「まぁ、聞け。政治・軍事いずれも多事多難な時期だったが、費禕の仕事の早さは他者の数倍にのぼった。何しろ『理解力が違う』と正史の注にも載せられるくらいで、文書をぼーっと眺めただけでその内容を把握してしまう」
Y「いるンだよなぁ、軽く見ただけで文書を覚えられる奴って」
F「ところがどっかの雪男とは違って『その内容を忘れることがなかった』ともある。朝夕に政務を治め、賓客に応接し、呑み喰いしながら博打までしていたのに、仕事を怠ったことはなかった。尚書令となった董允は、費禕の真似をしようとしたのに10日で仕事を滞らせてしまい『こんなに能力がかけ離れているとは……』と嘆いている」
A「……費禕、凄くね?」
F「というか、董允の父は董和というンだが、この父親が『お前(董允)と費禕のどちらが上か測りかねていたが、あちらが上とよく判った』と断じているンだ。呉に使者として赴いた折には、羊衜や諸葛格に議論を吹っかけられても、道理を尽くした論理で返り討ちにしているくらいだ」
Y「あの張昭をもやりこめた諸葛格が、か……」
F「孫権の酒癖が悪いのは有名で、またひとにも呑ませるのを好んだ(諸葛格は、それを渋る張昭に呑ませるのを成功)が、費禕もそのターゲットになった。特上の酒を呑ませ酔っ払うのを見計らって、国事・情勢に関する議論を向けたンだけど、費禕は『わたしゃ酔っていますので』と応えない。ところが中座して戻ってくると、そんな難題への返答が、一部の隙もなく箇条書きになって出てくる……という次第だ」
A「ホントに酔ってたのか?」
F「実は、この時代の酒はそんなに強くなかったという説もある。南征のあとなんだが、孫権は費禕を『きっとお前は蜀の重臣となって、うかつに呉に来れる身ではなくなるだろうな』と絶賛するほど気に入って、帰国した費禕は実際に昇進している。で、劉禅をおいて他に見上げる者なく、蜀に並ぶ者なき重鎮となった現在に至る」
Y「あのノンダクレの人物鑑定眼が正しかったのは、どうにも納得できないものがあるな」
F「実は、この人事によって微妙な立場になった者がいる。もったいぶらずに云えば姜維だが」
A「? 何で?」
F「もともと姜維は魏の武将(より正確に云えば、せいぜい部隊長クラス)だった。知っていると思うが。それが降伏してきたところ、孔明が気に入って部将に取り立てた。軍略には秀でていても実際に兵を率いるのはやや不得手だったようにしか見えない蒋琬の下で、部将として奮闘していたのは140回で見た通り」
A「それなら、費禕からも重用されるンじゃないか?」
F「何のために?」
A「いや、何って」
F「もともと孔明が姜維に期待していたのは、簡単に云えば魏延の代わりだ。つまり、蜀軍を背負えるだけの将才。当初それを期待していた馬謖が自業自得で死に至ったモンだから、孔明さんも反省して、最初から重要局面に放り込むOJTを放棄し、まずは兵の教練という地味な任務に充てて実績を積ませることにした」
Y「はいいが、蜀に降ったあとの姜維については、異常なまでに記述が少ないぞ。少なくとも孔明が死ぬまで」
F「137回で、僕が何を云ったか覚えてないのか? 地味なしごとは史書には載らないものだ。孔明存命中の姜維は、兵の訓練や孔明の本陣警備、あるいは諸部隊の監軍などに従事していて、目立つような任務には就いていなかったことがうかがえるンだ」
Y「ほぅ、そういった任務に就いていたと記述があるのか?」
F「孔明が『まず兵の教練を任せようと思う』と書状を送ったり、護軍や監軍に任じた旨の記述が、姜維伝にあるぞ?」
Y「……あるンか」
F「姜維について『参軍した後の北伐ではほとんど語られる事がありません。忘れられてるとしか思えない扱いです』というメールが来ているンだが、記述がないのはこういう事情だと思う。蜀の次代を担うために、まず地味な任務を重ねて実績を積んでいったンだろう。傍証になるが、孔明は息子について『早熟などせず大器晩成に育ってほしい』という趣旨の手紙を、瑾兄ちゃんに送っている」
A「よほど、馬謖の起用失敗を懲りたンだねェ……」
F「で、先の『兵の教練』云々の書状を受けたのが蒋琬なんだ。そんなつながりで、蒋琬は姜維を実働部隊として手元に置いていたけど、費禕はあまり姜維に期待していなかった感がある」
A「何で?」
F「楊儀と組んで魏延を始末した折にも、姜維が具体的にどうしたという動きがなくてな。まさかその状況で訓練をしていたとは思えないので、この時に目立った働きをできなかったのが原因の一端にあると思う」
Y「実際に魏延隊に向かっていったのは、王平だったか」
F「加えて、涼州人の姜維には確たるバックがなかった。荊州人の孔明・蒋琬が生きている間は彼らの権勢を借りていられたが、益州閥の費禕とは権力志向の方向性がずれていたようでな」
A「そうか……費禕がトップに就いたということは、蜀の政権史上はじめて、益州人政権が樹立されたのか」
Y「純粋な益州人だったか?」
F「実は違う。江夏の出身だったが、父を早くに亡くして族父(一族の年長者)に育てられた……とある」
Y「荊州人じゃないか」
F「ところが、この族父のおばにあたるのが劉璋の母でな。劉璋は族父を益州に呼び寄せ、費禕もそれについてきた。で、劉備に攻められ、劉璋とともに降伏しているンだ。云わば益州閥の生え抜きなんだよ」
A「劉璋の一族か……」
F「僕はここに、荊州を失った蜀内部での、出身派閥による暗闘を見る。つまり、荊州人+涼州人対益州人、という対立だ。その被害者が魏延だったのは先に触れたが、孔明・蒋琬という荊州人の代表格を失って、蜀では益州人の発言力が増大しきっていたと見ていい」
A「割とアレな人間関係だな。……で、蒋琬の死後に荊州人閥のトップにいたのは誰なんだ?」
F「劉禅だ」
2人『……………………おい』
F「忘れてたのか? アレは、劉備が荊州でもうけた子だぞ。だからこそ、蒋琬の死後には劉禅自ら政治を執ることにし、姜維も衛将軍に昇進している。大将軍たる費禕とのバランスを取ろうと腐心したのが見える人事だ」
Y「……ホントに、お前の見立てには恐れ入るな。劉禅が国政を執るのを、ここまで詳細に分析する奴はいないぞ」
F「あっはは。ただし、先に云っている通り、費禕は姜維をあまり高くは評価していなかった。ために、姜維が北伐の兵を出したいと望んでも、それを思い通りにはさせなかった、とある」

『亡き丞相でも中原を平定することはできなかった。丞相に遠く及ばない我らに至っては、中原回復など話にもならないだろう。まずは国を保って民を治めるのが先決だ。功業などは天下の才が出現してから考えればいい。僥倖を頼んで勝敗を決し、もし思い通りにいかなかったら、後悔しても間に合わんぞ』

F「繰り返すが、費禕が大将軍として軍権を握った蜀では、大きな政策変換がなされている。費禕は、中原回復の意志を放棄し、蜀を守ることに専念したのだから。かつて4度の北伐を懲りた孔明が、3年間兵を休めているが、それとこれとはまったく意味合いが違う。要するに、蜀では天下を盗れないと考えたに等しい」
A「……なんて野郎だ」
Y「云っていることはそのまま正論だが、そこまで云うか……」
F「唐突に、そしてようやく本題に入ろう。そんな費禕の治める蜀に、西羌から出兵要請が来た。247年(姜維が衛将軍に昇進した年)のことだが、隴西や西平といった懐かしい地名に住む羌族が結託して挙兵したので、それに呼応してほしい、との招聘だった」
A「何でそんなことになったの?」
F「理由は記述がないンだが、3年前(244年)に曹爽が蜀へ侵攻して失敗したときに、労役を課された民衆は漢人も異民族も泣き叫んだ……のは無関係ではないと思う。積もりに積もっていたモノがあったンだろう。まして、韓遂や麹演といった野心家連中が拠点とした地だ」
Y「叛乱の土壌は魏によって培われていたワケか」
A「相変わらず、台詞が凄い……。迎撃に出たのは?」
F「当然ながら郭淮だ。実は3年前の蜀侵攻戦において、先鋒の名誉に預かりながら形勢不利を悟るととっとと撤退したこの男は、この時も冷静かつ着実な判断を見せた。従軍した諸将、たとえば夏侯覇などが『まずは羌族の叛乱を平らげ、そのあとで蜀軍を討とう』と進言したのに、それを退けている」
Y「まず蜀軍に当たることにした?」
F「蜀軍への抑えとして夏侯覇が、南方に陣を張っていたンだけど、蜀軍は西羌と合流せず、まずこの陣を叩くと考えたのね。読みは当たって、侵攻してきた蜀軍は夏侯覇の陣を攻め、でも郭淮本隊が到着したモンだから撤退している。そのあとで、郭淮は兵を返して叛乱を平定して回り、頭目を斬った。降伏した者は万余にのぼったという」
A「……コイツはコイツで地味に強い」
F「いつか云った通り、このレベルの部将にさえ能力が備わっているのが、曹操の築いた魏の人材層の厚さだ。翌248年にも、西羌の治無戴(人名)が叛乱を起こしている。前年の叛乱にも加わっていたこの男は、川を盾に抵抗していたンだけど、郭淮は『はにはに』をもって打ち破っている」
A「何を云いだした、何を!?」
F「三十六策の第六計『声東撃西(声撃つの西)』だ。単純に云うと『東から攻めますよー』と陽動しておいて西から攻める計略だが、郭淮は、治無戴の拠る川の上流から攻めるというポーズを見せておいて、下流から兵を出して打ち破ったンだ。打ち破られた治無戴は、命からがら蜀に逃げ込んでいる」
A「ムダに受けを狙うのはやめてほしいところなんだけどなぁ」
F「その治無戴を姜維が迎えに出て、ついでに郭淮と対陣した。"当先鋒"廖化を成重山(地名)に配し、姜維本人はそこから西に陣を構えた」
A「というか、そのフレーズやめない?」
F「そのまンまの状況になってきたじゃないか。諸将、たぶんまたしても夏侯覇は『ここはまず西に向かい、姜維と西羌の結託を防ぐべき』と主張したンだけど、郭淮はそれを退けている」
A「今度は?」
F「成重山を攻めたンだ。現状でいちばん怖いのは、姜維が西方に向かって羌族と結託することだ……というのは事実だけど、それならわざわざ姜維を討つ必要はない。廖化を攻撃すれば、退路を確保するために姜維は引き返さざるを得ない。背後を衝かれないよう備えておけば、遠路はるばるやってきた姜維を余裕を持って迎えうてる、というワケだ」
A「……策としては問題ないのか」
Y「俺が姜維の立場にあったら、廖化には撤退命令を出して、引き返さずに羌族と結託するがな。どうすれば魏を苦しめられるか判っているなら、それを取らない策はないだろ」
F「ところが、郭淮は手持ち最強の札を切っていた。自身が成重山を攻める一方、姜維には夏侯覇を差し向けているンだ。結局郭淮の計算通りになって、成重山に駆け戻ってきた姜維は、郭淮と夏侯覇に挟みうちにされ、撤退した」
A「……割とこっぴどく負けましたね」
F「この辺りから姜維の北伐は始まっていた……という見方もできるが、それは費禕の死後に姜維が軍権を握ってからと考えるべきだろう。だが、いずれにせよ姜維時代の北伐は、どうにも局地戦の印象がぬぐえない。孔明の頃とは違い、どうにも魏の側に危機感が感じられなくてな」
Y「確かに、ここで郭淮が敗れてもあとがあるからなぁ。どうせ姜維で勝てたとは思えんし」
F「ところで、と云おう。今回に関して云えば、姜維が勝てなかったのには原因がある」
Y「負け惜しみか?」
F「いや、純粋な兵数不足だ。以前から云っている通り、魏の側の防衛戦力は3万以上と推測できるが、この出兵に際して姜維が率いていたのは多く見ても1万。費禕存命中に、姜維は1万の兵しか与えられなかったのだから」
A「……それじゃ負けるのも無理はないな」
F「費禕が姜維をそれほど評価していなかったのは、この人数に顕著なんだ。かつて魏延は、孔明と出陣するたびに1万の兵を預かって別動隊になりたいと申し出て、実際に功績をあげたこともある(230年)。その魏延にできたことが、お前にはできるのか……と試しているように思えてな」
Y「ところが姜維には、それができなかった」
F「そう、実際に失敗している。結局、費禕が多勢を与えなかったのは、無理からぬオハナシなんだよ」
A「……魏延最強伝説は、本当だったンでかすね」
Y「つくづく惜しい男を亡くしたな、オイ」
F「続きは次回の講釈で」

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