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私釈三国志 142 二宮之変

F「というわけで、張昭・瑾兄ちゃん・顧雍に次いで、呉の主柱たる陸遜まで死んだのが前回。ここに二宮の変は悪化の一途をたどっていく」
Y「ろくでもない君主を仰いだのが失敗だったとはいえ、後継者争いがここまで混迷するとはなぁ」
F「ことの元凶は、孫権が皇子の扱いを誤ったことに求められる。曹丕や劉禅がやったように、皇太子を除く皇帝の子弟は、宮廷から出されて封地を賜り、王として現地を統治するのが一般的だ」
A「曹丕のは、親族を朝廷に参画させるなという政策のためだったろ?」
F「その通りではあるが、たとえば後漢王朝末期でも、少帝の弟(のちの献帝)が陳留王になっているように、行いそのものは珍しくも的外れでもないンだ。むしろ曹操や曹丕に遠ざけられてなお『どうしても使っていただきたい!』と主張し続けた曹植こそが、どっかずれている感があって」
A「うーん……」
F「ところが、呉ではコレがなかった。生前の顧雍(丞相)が『孫慮様を王に封じるべき』と上奏したのに、孫権は突っぱねている」
Y「曹丕の轍を踏むまいと考えてか?」
F「経済的な事情だと考えられているな。呉には、土地はあるのにそれに見あった人口がない。国土を切り分け王侯に封じていては、国庫収入が低下する。ために、王ではなく鎮軍将軍という名目で土地こそ与えたものの、税収は上前をはねていたと思われる」
A「将軍なら収税権はないだろうからねェ」
F「この辺りの事情が判っていれば、孫覇が魯王に任じられても外地には出されなかったことも、あながち間違っていないと判るはずだ。何しろ呉では、王を立て封地を分ければ分けるほど、国全体の収益は下がるンだから」
A「そっちでも上前はねるワケには?」
Y「劉協が陳留王に封じられても宮廷にいたようなモンか。まだ若い王子では、まっとうな税収を見込めなかった」
F「そゆこと。孫覇は年齢不詳で、それどころか母親がどの夫人かさえ定かではないンだが、封地を預けるのにはまだ不安があったのがうかがえる。宮廷に残して、ある程度の教育を行っていた記述があるな」
A「孫和は……いくつだっけ?」
F「えーっと……太子に立てられた242年に19歳だから、223年の生まれだな。弟の孫休が234年生まれだから、孫覇は224年から233年までの間に生まれたことになる。ただし、あまり年が離れていると競争相手となるのは難しいので、孫和との年齢差が10歳あったとは考えにくい」
A「若い方が扱いやすいとか考えないか?」
F「ない。現に、孫登在りし日に、競争相手として成立していたのは3歳違いの孫慮だ。すでに孫権の意識が、15歳年少の孫和に向いていたような記述はあるが、その時点ではただの部屋住みにすぎなかった」
Y「となると、孫和と孫覇の年齢差は3歳から7歳くらいだな」
F「バランスで考えるならそれくらいになるね。また、生母が判らないのは、実は孫登も一緒だ。演義では徐夫人の腹になっているが、実史では生母が明らかでなく、母の身分が低かったのを気にしていた記述がある。それでも長子だったのと、孫堅の妹の孫の徐夫人が育ての親となったことで、皇太子に立てられたが」
A「えーっと……いとこの子を夫人にしたの?」
Y「倫理観が乱れてるなぁ」
F「古代エジプトやハワイ王家では、血統を保存する目的から近親結婚がいちばんいいとされていたが、どうにも僕には理解できん世界だ。この徐夫人は、孫登の育ての母だったので、孫権が帝位につくと群臣は彼女を皇后に立てるよう勧めている。でも孫権は歩夫人を皇后にしたかったので、それを突っぱねた」
Y「歩夫人……問題の孫魯班の母親だったか?」
F「そゆこと。ところが、この歩夫人には男児がなかった。生まれた子供はいずれも女児で、姉が魯班。重鎮たる歩隲の一族が出自なんだけど、死後に皇后の位を追贈されている」
A「死んでからしか立后しないのはどうなんだろうな」
F「それを孫権も気にしたようで、今度は生きているうちに王夫人(瑯邪)を皇后に立てようと考えた。この夫人は、孫登死後に立太子された孫和の生母なので、状況・順番としては間違いではない。孫登本人は『皇太子より先に皇后を立てるべきです』と孫権に直接言上しているが」
A「……そこへ魯班が噛みついた」
F「順序立てて考えると判りやすいな。孫魯班と王夫人(瑯邪)の確執、というか王夫人(瑯邪)への孫魯班の一方的な敵視は、かつて寵愛された母への愛慕が原因だったとみられる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとばかりに、皇太子に据えられた孫和をその座から引きずり降ろそうと画策し、孫覇を立てるのを思いついたようでな」
A「私怨かよ。……で、何で孫覇ならいいンだ?」
F「たぶん年齢だろう。孫魯班も実年齢は判らないクチだが、孫和は年長、孫覇が年少と仮定すれば、状況に単純な説明がつく。加えて、魯班・全jに乗せられてあっさり皇太子への色気を見せている性格も、扱いやすいと思われてもおかしくない。ちなみに裴松之曰く『孫覇にはいい評判がない』とのこと」
Y「状況証拠だが、筋は通っているか」
F「そして、余人ならぬ顧雍が生きていれば、孫覇派に与していたのが挙げられる」
A「は? 孫ふたりが孫和派なんだろ?」
F「顧雍も孫和派だったなら、孫覇派そのものが成立しないンだ。皇帝にして父たる孫権が皇太子を定め、丞相がそれを支持していたら、そもそもの争いが起こりようもない。強大な発言力を持つ誰かが『孫覇に王位を』と勧めたからこそ二宮の変が発生した、という単純な引き算だ」
Y「……単純であるからこそ、反論できんな。全j程度の発言力では、顧雍には到底及ばん」
F「孫覇に王位を勧めたのが誰かは正史に記述がないが、冒頭で云った通りの前科がある、顧雍が最有力だ。かくて、亡き宰相の肝煎りで強力な勢力となった孫覇派は宮廷に幅を利かせ、護国の英雄たる陸遜まで死に追いやっている。ただし、演義では『陸遜も瑾兄ちゃんもとっくに死んで……』としかないが」
Y「この一件に連座して死んだ、との記述もなかったワケか」
F「そんなワケで死んだ陸遜の、後任の丞相には歩隲が立った。かつて士燮を降し交州を平定した、呉における武の主軸の一員だが、呂岱は上大将軍の後任に、全jは朱然と並んで大司馬に任じられているからには、単純に行賞人事だったと見るべきだね」
A「上層部は孫覇派で占められたか」
F「いちおう、諸葛格が大将軍に就任しているし、朱然も孫覇派とは云いがたい。でも、後に朱然は歩隲と組んで、蜀を敵視する発言をしているので、孫覇派に引き込まれた形跡がある。それでも、まだ皇太子は孫和だったけど」
A「何で?」
F「凄まじく単純な理由だ。孫和が皇太子なのを気に入らないのが皇女の孫魯班だが、孫和派にも有力な皇族がいたンだ。名を孫魯育という」
A「……妹がいるンだっけ?」
F「うん、妹。何が気に入らないのか孫魯育は、姉の孫和おろしに加担せず、孫権が孫和を廃しようとすると、それに同意しなかったとある。姉妹仲が悪かったのと、朱拠の妻だったことが影響しているのは明白だ。同じ歩夫人の娘だけに、魯班も魯育も可愛いようで、孫権でも無碍にはできなかったワケだ」
A「娘ふたりの意見が一致していなかったワケか」
F「さすがに一致していたら、孫和も粘れなかったと思うぞ。そんな援護射撃のおかげで、孫和は皇太子の座に踏みとどまっていた。そして状況は再び急変する。247年に、右大司馬全j(1月)・丞相歩隲(5月)が相次いで亡くなってしまう」
A「タイミングが悪いというか、よすぎるというか……」
F「249年には朱然も死んで、膠着状態に陥った二宮の変は、さりげなく全ての元凶だった孫権がようやっと動いて収集を謀った。250年、孫和を皇太子からおろして、庶子に落とし流罪。一方の孫覇に至っては死を賜った」
A「喧嘩両成敗だね」
F「僕が孫権を嫌っている根源が、このバカな処断にある」
A「……云いきるなぁ」
F「たとえば、突然後ろから切りつけられ怪我をして、実行犯が退学になったところ『喧嘩両成敗だからお前も退学』と云われたら、納得する奴はいないだろう?」
A「さすがに、それを正しいと思う奴はいないだろうよ……」
Y「実行犯の家族だけだな」
F「そゆこと。孫和が廃され流罪になったのは、そんな状況だぞ。本来なら皇太子たる孫和は帝位を継げた。それなのに、顧雍や孫魯班のいらぬ策謀のせいでとんでもない抗争が起こって、陸遜・張休が死ぬわ、顧譚・顧承が流刑になるわだ。二宮の変とは云うが、孫和がやっていたことを簡潔にまとめると『孫覇派の暴力・圧力に屈さず、皇太子としての地位を守り抜いた』だけだ。そんな孫和がどうして処分されなければならなかったのか、誰か教えてくれ」
A「でも、孫権の意思は孫覇に移っていたンだろ? だったら自分から身を引けば、それで事態は解決……」
F「じゃぁ、孫和より先に処分されなきゃならん奴がひとりいるな」
A「皇帝を流罪に処せと?」
Y「確かに、ことの元凶は孫権だが……」
F「二宮の変はもとを糺せば、魯班の私怨私情だぞ。孫権は、娘可愛さから自分で立てた皇太子をないがしろにし、さりとて娘可愛さからその皇太子を廃することもできずに、10年の混乱を生じさせている。国家の元勲も死に追いやって、結局息子ふたりとも処分したのだから、この頃の孫権の愚かさには呆れを通り越して怒りを覚える」
A「でも、孫覇を殺して孫和が無罪だったら、それはそれで問題だよ」
F「孫和は自分の身を守っただけだ。その孫和を処分しろというのは、孫覇の味方をしているということだ。孫和流罪をいさめた朱拠を宮中に引きずり込んで百叩きにし、吾粲ともども殺したのが、孫権が孫覇の味方だった動かぬ証拠だ。だったら孫和を廃していればことは済んだのに、それをしないで混乱を放置した」
Y「……野郎のバカさ加減も相当なモンだな」
A「フォローの余地はどっかにないの!?」
F「ない。この件に限らず、どんな状況でも喧嘩両成敗は極めて不正な結論だ。本来なら賞されねばならん勝者が負け犬と同列に扱われるような卑怯な処分は、ヒトとして絶対に許されん。功を功、罪を罪と裁けぬ者に、ひとの上に立つ資格はない。本来なら坑儒コーナーかまして実例を示すところだが、故人への配慮から裴松之の注で済ませよう」

 袁紹・劉表は、もともと袁尚・劉jが聡明と考え、彼らに後を継がせるつもりだった。孫権が、一度孫和を皇太子に立てながら、孫覇を寵愛して混乱のもとを生じさせ、自らの一族に禍いをもたらしたのとは違う次元のものだ。わたくし裴松之が思うに、袁紹や劉表の件と比較しても、孫権の愚かで道理の通らないことは、より非道い。
(呉書孫和伝の注より抜粋)

A「……どこまで孫権が嫌いなんだ、お前らは?」
F「僕と裴松之を同列に並べるなよ。ともあれ、孫覇が死刑になったことで、全奇(全jの子)・諸葛緒(諸葛格の子)は殺された。陸遜が憤死した原因の楊竺に至っては、殺されただけでは済まず、死体を長江に放り込まれている。250年11月、二宮の変は、孫亮が皇太子となって幕を下ろした」
A「関係者のほぼ全員が死んだか流刑にあって幕引きかぁ……後味悪いね」
F「ところで、前回何やら騒いだり納得したりしていたようだが、二宮の変は231年に幕を開けたと僕は見ている」
A「判っていたはずなのに! 判っていたはずなのに! コイツが云い間違いとか記載ミスとか、するはずないと判っていたはずなのに!」
F「いや、そこまで云われると困るンだが……誤字が目立つって指摘も受けてるし。ともかく、お前らは見つけられなかったようだが、この年に何があったのかは、実は冒頭で触れた」
A「なに!?」
F「演義では、孫権の男児は登・和・亮の3人しかいない。だが、実史では登・慮・和・覇・奮・休・亮の7人だ。で、229年の孫権即位に伴って、もともと王太子だった孫登はそのまま皇太子に立てられている」
Y「だったな」
F「ところが、顧雍が孫慮を王に取り立てるよう進言している。その場では突っぱねた孫権だったけど、他のヒト(誰かは不明。フルネームの記述がない)にも勧められて、鎮軍大将軍に任じ、宮廷から外に出して任地に役所を開かせたンだ。これが231年のことでな」
2人『…………………………』
F「宮廷の孫登と外地の孫慮とで、孫権の帝位を受け継ぐのがどちらかの暗闘が、発生していてもおかしくない状態になっていた。現に、顧雍が孫慮を引きたてたり、諸葛格・張休・顧譚らが孫登の補佐につけられたり……と、十年後に見られる状況がすでに発生していてな」
Y「その当時からボケが始まっていたのか、あの野郎は……と思ったら、ボケが発覚した燕王騒動はその頃か」
A「なんかもぉ、笑いだしたくなってくるンですけど……」
F「ところが、お家騒動の予行演習はあっさり翌年(232年)終了している。どうしたワケか孫慮が、若干20歳で死んでしまい、子がなかったから封地も解かれたンだ」
Y「状況悪化を恐れた孫権が闇に葬ったのか?」
F「孫登の台詞からして病死らしいが、犯人がいるなら、むしろその孫登だと思う。何しろ孫権は、孫慮の死を悲しんで食事がのどを通らなくなり、駆けつけた孫登に叱責されてようやく食事を摂るようになったンだから。孫慮に対して孫権はシロだ。だが、競争相手をおそれたという動機が孫登にはある」
Y「この親にしてこの子あり、かね」
F「こうなると孫登の死まであやしく見えてくるのが、孫権の人徳のなさだな。孫登が『母の身分が低かったのと孫権が孫和を可愛がっていたのを気にして、孫和に皇太子を譲りたがっていた』のは、あるいは孫和に害されるのを恐れて自ら身を引こうとしていた……とも考えられる」
A「もぉやだ、この一家……」
F「だが、予行演習があったことに気づけば、孫権が二宮の変を収拾するのを放棄し、ほとんど悪化させていた理由が判るはずだ。つまり、かつて泣いてハンストするほど孫慮を重視していたのと同じように、陸遜を死なせるほど孫覇を重視していた一方で、孫登の遺言も無視できなかったから、だ」
Y「状況の裏の裏の裏の裏まで読むから嫌なんだンだよ、コイツらは」
F「そう考えると、羅貫中がこの辺りを無視したのも、無理からぬオハナシでな。演義での孫権はおおむね名君として呉に君臨し、惜しまれて死んだ。それなのに、呂壱騒動と二宮の変を取り上げて、なお孫権の声望を維持するのは、たとえ羅貫中でも難しかったからだろう」
A「気持ちと理屈は判ったから、もう終わってください……」
F「続きは次回の講釈で」
A「こん畜生!」

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