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私釈三国志 141 陸遜憤死

F「アキラはいなかったけど、前回触れた『三国志誕生』巻末年表の246年、コレが陸遜の没年になる。ただし、呉書では245年になっているので、実は間違い」
A「正史だと、曹芳の即位から陸遜が死ぬまでに、目立ったイベントはないってコトか」
F「というか『三国志誕生』の著者はそう考えた、というところだな。実際には、これまで触れてきたような戦役・イベントがあったンだから。……まぁ、メールも来たけどずいぶん地味な時代だ。その辺りまでカットしたのは英断なのか道断なのか微妙なモンだが」
Y「年表と云えば、いつの間にか『私釈』の年表が様変わりしてないか? 孔明の死でひと区切りついたが」
F「実は、当初予定の通りにしただけだ。孔明の死をもって三国志は終焉へと盛り下がっていくワケだから、234年で切るのがいいと思っていたンだけど、トラップの都合で130回まではそれを続けねばならなかった。直すのを忘れていた、というのが実情」
A「まぁ、70年以上をひと区切りでまとめられてもまずいか」
Y「長い長い賢者タイムだぜ」
F「ともあれ、陸遜。曹操・孔明を加えても三国志最高の智将の座にきわめて近い場所にいるひとりだが、『恋姫』では色情狂の化け乳軍師というキャラに仕上がっている」
A「好き嫌いを度外視しても納得いかないというかワケの判らんキャラだモンねェ」
F「僕は割と好きなんだが、胸とめがねはともかく問題は性格でな。状況や相手の都合を鑑みずに欲情する辺り、実史における陸遜を割と反映していて、やはりスタッフ侮れんとか思っている」
A「は?」
F「じきに見る。ともあれ、演義ではほとんど無視されている、呉に事実上終止符を打ったのが二宮の変だ」
Y「大きなイベントなんだがなぁ」
F「大きいというか長い。何しろ、事の起こりは231年なのに、孫権が完全に誤った決着を下したのは250年。正直、扱いに困るくらい長いイベントで、どのタイミングで講釈すべきか悩んでいたが、さすがに一回では収まらんので、2回に分けてみることにした」
A「で、前半部としてちょうど5年、陸遜が憤死するまでか」
Y「……おい」
A「ん? ……む?」
2人『うーん……?』
F「何を悩んでいる、お前ら? ともかく、二宮の変が起こった究極的な原因は孫権にあるンだが、この皇帝サマには夫人が6人、男児だけでも7人を数えた」
A「李厳の罷免、第四次北伐……」
Y「張郃の戦死もこの年か。意外とイベント多いな」
F「……聞いてるのか、お前ら」
A「あ、ごめんごめん。なに?」
F「二宮の変が起こった究極的な原因は孫権にあるンだが、この皇帝サマには夫人が6人、男児だけでも7人を数えた」
Y「それだけでも御家騒動になるのは明白だな」
F「19人きょうだいのお前には云われたくないだろうな。もともと孫登が皇太子に指名されていた……のは、前々から見ているな? それが亡くなったのが241年。そこで王夫人(瑯邪)の産んだ孫和を皇太子に立てた」
A「……すとっぷ」
F「はい、アキラくん」
A「孫登が何年に死んだと云いましたか?」
F「241年。いま、お前らが見てる年表にも書いてないか?」
A「……聞き流してて悪かった。で、カッコ瑯邪って何だ?」
F「聞いてたンじゃねーか」
Y「孫権の妻に王夫人がふたりいるから、出身で『瑯邪の王夫人』『南陽の王夫人』と見分けるのが一般的でな」
F「さすがにABとはつけられんだろう。ところが、この孫和が孫権の娘・魯班と仲が悪かった。孫魯班が『アイツじゃダメよ、パパ!』と孫権のケツを蹴飛ばしたものだから、結局孫和は廃され、憂憤して死ぬ。で、代わりの皇太子には末子の孫亮(潘夫人の子)が立てられた。242年の生まれだから、当時8歳だな」
Y「ずいぶん簡略化してないか?」
F「いや、簡略化じゃない。演義での記述がこんな具合なんだ。僕が常々『演義では二宮の変がほとんど無視されている』と云っているのは、コレくらいの記述しかないからでな。孫和の相手だった孫覇さえ出てこないで、云わば一宮の変になっている。もちろん、事態はもっと複雑だった」
A「呉が孫和派・孫覇派に分かれて、孫権の後継者をめぐる権力抗争を繰り広げたンだよな」
F「順番にな。孫登が死んで、次男の孫慮も232年に死んでいたので、孫権は三男・孫和を皇太子に立てた」
A「順番としてはまっとうだね」
F「ところが、実史でも孫魯班は、孫和の立太子に否定的だった。この魯班、もともと周瑜の息子に嫁いで、それが早死にすると全jに再嫁した、やや問題のある経歴の持ち主。孫和とは母が違ったンだけど、孫和ではなく四男・孫覇こそが皇太子に相応しいと宮廷工作を始めた。それに乗じて、呉臣の一部が『孫覇様を皇太子に!』と暗躍する」
A「ノリのいい連中もいるモンだな……」
F「というのも、孫権が対応を誤ったンだ。孫和を皇太子にした孫権は、遅れて孫覇を魯王に任じている。それなら孫覇は宮廷から離れ、任地に出るのが筋なのに、なぜか宮廷に留まって孫和とほとんど同じ待遇を受けていた」
A「これじゃ揉めないワケがないな」
F「宮廷内にふたりの皇太子が存在したような状態にあったので、この一件を二宮の変と呼ぶ次第だ。当初、孫魯班くらいしか積極的に動いていた形跡はなかったンだが、呉のまとめ役たる丞相・顧雍が243年に世を去ったことで、対立の火蓋は切って落とされた」
A「タガが外れたワケか」
F「後任の丞相には身分・人望・実績、あらゆる面から陸遜が最適とされ、実際に就任しているンだけど、彼は荊州牧・上大将軍という重責を担っている。魏への抑えを朱然辺りが代わっていればよかったンだろうけど、丞相に任じられたからといって後任人事もナシに荊州を離れるわけにはいかない」
A「ほとんど孔明みたいな立場になっちゃったンだね」
F「というわけで孫魯班は、大手を振って孫権にあることないこと吹き込んだ。孫権が病気になっていたある日、代わって祭礼を孫和が取り仕切ることになったンだけど、それを無事終えた孫和は、帰り道に張休の屋敷に立ち寄った。それを聞いた孫魯班は『あの子は祭礼なんてしていません! 王夫人の実家で張休らと組んで、何やら悪だくみをしています!』とがなりたてる」
A「……それを信じたのか?」
F「困ったことに信じてしまった。名指しされた王夫人(瑯邪)こそいい面の皮で、孫権に叱責されて、心労からはかなく世を去っている。これでは孫和派の勢力が衰え、孫覇派の勢力が増すのは自明だな」
A「露骨にねェ……」
F「もちろん、この辺りの事情は荊州の陸遜にも届いてくる。全jから宮廷での混乱を聞いた陸遜は、書簡を送って孫権をいさめるけど、皇帝サマはコレを聞き入れない。いっそ直談判をと勢い込んだ陸遜の帰国願いも却下される」
Y「ボケ君主が」
A「いただけないなぁ……」
F「陸遜が動こうとしているのに危機感を抱いた孫覇派は、二十ヶ条に及ぶ陸遜の罪状をでっちあげて上奏した」
Y「あろうことかバカはそれを信じて?」
F「問責の使者を送っている。詰問された陸遜は、憤ってそのまま世を去った。これが245年のこと。で、後任の丞相には歩隲が就任したことで、(一時的にだが)孫覇派が宮廷権力を握るに至っている」
A「それが巻き返されたのが4年後で?」
F「巻き返せたワケじゃないのは、次回で見るから。さて、陸遜は、割と彼らしいミスを犯している。いつも通り、正しいことを考えてそれを口走ったンだ」
A「待て待て。正しいことがミスって何だ」
F「古い話になるが夷陵の戦いの折、蜀軍に包囲された孫桓に、陸遜は援軍を出さなかった。それも『あのひとは統率力があるから守り抜かれますよ』と、本人の能力を信頼している理由で」
Y「結果としては間違っていなかったはずだが」
F「結果じゃなくて、見捨てられたかたちの孫桓の心情を考えろ。いくら信頼されていても、敵軍に包囲されて何ヶ月だぞ? 勝ってから『見捨てられたのかと思いましたが、大都督の策が当たったのですから何も申しますまい』と云っているからには、恨み事を抑え込んだのが見てとれる」
A「策が当たらなかったら、何を云われたか判らないね」
F「負けていたら陸遜はともかく孫桓は死んでいたと思うが、陸遜という男の怖さと欠点はここにある。当人の能力・力量をほぼ完全に見抜き、状況に応じた戦力配分が可能なんだ。ただし、状況と能力しか考えていないので、たとえ本人が泣き叫んでも現場に手は出さない」
A「……つまり、空気が読めない?」
F「単純に云えばそーゆうこと。状況が利害計算だけで動くようなら、陸遜は正しい。でも、ひとには感情というものがある。包囲された孫桓を『大丈夫だから』と見捨てたように、ひとの心が判らない。ために、状況とずれた言動をしてしまう。当初、あまり介入しない姿勢を見せていた陸遜だが、さすがに皇太子廃嫡の議論が起こってからは、何とか解決しようと、こう上奏した」

『皇太子を立てたなら、他の皇子を同列に扱われるのはいかがなものかと』

A「まったくの正論じゃないか?」
F「そう思うだろうが、この発言は両派から反発を受けるものだ。まず孫覇派は、こう反発するだろう」

『乱世において重視されるべきは、年齢ではなく力量であろう。孫覇様の器量は孫和様を上回っており、ために陛下(孫権)も皇太子たる孫和様よりも孫覇様を重視しておられる。通り一辺倒な血統論で呉の行く末を孫和様に委ねろというのは、宰相たる者の発言とは思えませんな』

Y「もっともだな。娘の入れ知恵とはいえ、孫権が孫和より孫覇を重んじたから、この問題が起こったンだから。孫覇派の主張はこうなるはずだ」
F「入れ知恵したのは娘じゃないと思うが、対して、孫和派も陸遜をこう責めるだろう」

『立太子されたから、などという消極的な理由で孫和様をたてるのは、宰相の言動とは考えられん。我らは孫和様が皇太子だからとお支えしているのではなく、孫和様こそが皇帝に相応しいと考えているからこそお支えしているのだ。丞相は皇太子という地位を軽く考えすぎておられる』

F「陸遜が云ったのは『皇太子に決めたなら孫和様を重んじなさい』というものだ。つまり、皇太子が孫覇であっても同じことを云っていた公算が高い」
A「何で?」
F「生前から孫登は、自分の母がいやしい身分だったので『孫権が可愛がっている孫和に皇太子の位を譲りたいと考えていた』とある。もともと孫登の後見役だった陸遜が、そんなモン認めるはずないだろう。陸遜は、孫登こそ畏敬していたが、生前の孫慮に多少手厳しく接していたことから、孫和・孫覇と積極的に交流していたとは思えない」
Y「孫慮の闘鴨(闘鶏のアヒル版)をいさめておいて、孫登の狩猟はいさめなかったからなぁ」
F「そして、二宮の変における陸遜の言動は、どうにも精彩を欠いている。当初『二派に分かれても才がない奴は役には就けない』とか『そんなことは古人から忌み嫌われていたのになぁ』と云うのみで、積極的な介入をしなかった」
A「確かに『孫登でなければどうでもいい』という態度にも見えるな」
F「というわけでこの意見は、孫和派からは絶対に容れられない。この局面で必要なのは正しい意見じゃない、どちらにつくかの明確な二択だ。消極的肯定は敵に通じると思われている情勢に気づいていなかったようでな」
A「……空気が読めなかったのね」
F「加えて、全jからの『孫覇に与せよ』という誘いを突っぱねているけど、このせいで寿命を縮めたに等しい。何しろ彼は、ことの元凶たる孫魯班の(ふたりめの)夫だ」
Y「空気だけでなく、状況も読めてなかったンじゃないか?」
F「かくて、陸遜は双方から目の敵にされた。実例として、孫和が廃されそうになったら朱拠が理を尽くして反対しているように、陸遜を除こうとしたなら誰かがいさめてもおかしくないのに、さすがに息子が件の二十ヶ条を反論したくらいで、誰ひとり孫権をいさめた形跡がない。連座させられるのを恐れたとも考えられるが、どちらにせよ見捨てられていたことになる」
A「往年の名将も、なんかいつも通り使い捨てになりましたか」
Y「従来、陸遜は孫和派と思われていたンだが、お前に云わせるとそれさえ覆るのか」
F「丞相なら、事態を解決に導かなければならない責任があるのに、介入を避けて放置していたンだから。いくら荊州にいたとはいえ、これはいただけない」
Y「皇帝が起こした火種が、宰相が放置していたせいで燃え広がった状態か」
F「その炎で相手を燃やそうという考えだけは一致していた両派は、上から共倒れするのを回避するため、陸遜の粛清に際して制止の声をあげなかった。結果論から見るとそういう風に見えるが、というわけで孫和派は粛清された」
Y「黙認するのが自分たちの長江を埋め立てることになると気づかなかったのかね」
A「……ふたりで凄まじい表現してるけど、云ってることは判る」
F「陸遜という最大の防壁を失って、孫和派には次々と流罪・処刑が課されていく。顧譚・顧承は交州に流罪、張休に至っては死を賜っている。主だった面子では諸葛格くらいしか残らなかった」
A「何で諸葛格だけはだいじょうぶ?」
F「理由としては、諸葛格の息子が孫覇派に名を連ねていたのを挙げていいだろうな。えーっと、各派閥の主だった面子としてはこんな具合」

二宮の変の各派閥
孫和派孫覇派
陸遜(流罪のち憤死)
顧譚・顧承(顧雍の孫、流罪)
張休(張昭の末子、処刑)
吾粲
朱拠
諸葛恪(諸葛瑾の子):大将軍に就任
孫魯班
全j:右大司馬に就任
歩隲:丞相に就任
呂岱:上大将軍に就任
諸葛緒(諸葛格の子)
全奇(全jの子、ただし母は魯班ではない)
楊竺
孫弘

A「孫和派の有力者はだいたい消えたのか」
F「実はひとり有力なのが残っているンだが、かくて、呉における最後のカタブツ・陸遜は死んだ。二宮の変においては精彩を欠く言動を繰り返し、それでも事態を収拾しようとしたものの、性格と情勢の不一致がそれを許さなかった。歴史の神が彼に与えた最期は、その人生には相応しからぬものだったように思える」
A「あまりにも、智将らしからぬ死に様だモンね……」
F「どうしても呂壱の一件が響いているンだ。陸遜は、話せば判ると思っていた。云っても判らないと一度は見捨てた孫権が、心根を改めたと考えていた」
Y「ところが、やはり野郎のハラの底には猜疑心がうごめいていたか」
F「というわけで、孫和派・孫覇派の双方のみならず孫権にまでにらまれた陸遜は、あらぬ罪を背負い、だが男らしく黙って死んだ。ドロドロの権力抗争のなか、ひとり綺麗でいようとしたのが失敗だったように思える。陳寿は呉書陸遜伝に、こんな記述を遺している」

 孫権は何度も問責の使者を送って責めたて、陸遜は憤りのあまり死んだ。享年六三。家には何の財産も残っていなかった。

A「惜しいひとをまたしても亡くしました」
F「まぁ、年齢がどうなんだろうというのは以前触れたな。ところで……」
A「しんみりしたなら次回に行けよ!」
F「さっきも云ったが、二宮の変が本格化したのは顧雍が死んでからだ。かつて自分をおとしめた呂壱をも、誠実を旨として裁いたこの宰相は、孫権から『畏れられ敬われた』とある」
A「……粛清リストに載っておいて生き残ったのは?」
F「載らなかったンじゃないかな。顧雍を殺したら、呉の民政は崩壊していた。孫権に仕える前から民政のエキスパートと知られ、仕えてからも内政面から呉を支え続けた文官だ。国家経営という立場ではなく民衆の立場に立って内政を行える者は、この二宮の変にこぞって参戦していたことで判るように、呉には少ない」

 顧雍は武将や文官を任用するにあたっては、各々の能力がその任務に相応しいかだけを判断基準とし、自分の感情に左右されることはなかった。ときには民衆の間に入って意見を求め、時宜に適した施策を見つければ、ひそかに孫権に上奏した。その献策が用いられれば孫権自身の発案によるものと公表し、用いられなければ絶対人には知らせなかった。
 なればこそ、孫権は彼を重んじた。(呉書顧雍伝より抜粋)

Y「これか……」
A「え?」
Y「この『私釈』を通じての持論のひとつ『勢力の伸張度合は、裏方として活動する文官の有無で左右される』だ。幸市が孫権の人格と軍才を認めていないのはともかく、政治手腕は高く評価していた。だが、実際に呉を裏から支えていたのは誰なのか……と思っていたが」
F「その役割が、おそらく呉における顧雍の存在理由だ。孫権は、毒薬を呑みたがらなくても、さすがに自分の足を喰おうとはしなかったようでな」
A「云ってしまえば、劉備存命中の孔明みたいな役割か」
Y「だったら、顧雍の死後に呉が荒れるのは歴史の必然だな。二宮の変が起こったのも無理はない」
A「……ことごとく、惜しいひとを亡くしています」
F「続きは次回の講釈で」

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