私釈三国志 140 漢中戦役
今週はアキラがいないので、前田さんちで講釈・録音しています。
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
ある意味大人気なヤスのカミさんは、お仕事が忙しいとのことでいませんが。
F「最近、時系列という建前が崩れつつある」
Y「理由は?」
F「イベントが入り組んでいるンだ。この事件ではこっちのコレが、あのイベントではあの国のアレが……と相互関係があるモンだから、どこで何をどう講釈すればいいのかスケジュール立てが難しくて。ために、しばらく読みにくいものが続いていた次第」
Y「お前の調整不足だな」
F「云うな。まぁ、今後はきちんと気をつけていきたいな、と。さて、演義しか知らないヒトだと、曹芳の即位から仲達のクーデター……本音としては、そうは呼びたくないもの、が発生するのにほとんど間がないと思いがちなんだけど、実際には10年経っている」
Y「(確認中)……確かに」
F「泰永がいま確認しているのは、新人物往来社の『三国志誕生』の巻末年表。魏寄りの記述が凄まじい正史派の参考史料になります。それと併せて……えーっと、その辺に演義の事典あったな。両方の年表をよく見てみろ」
Y「ん? ……演義の年表では、曹爽の政権奪取が翌年扱いになってるな」
F「そして、その下の段がすでに249年、司馬仲達のクーデターにまですっ飛んでいるンだな、コレが」
Y「……おいおい」
F「演義では、冗談抜きでそんな事態になっている。曹芳の即位から仲達の政権奪取までが、何の間もおかれずに発生しているモンだから、その10年という時間に年表が対応できないンだな」
Y「云われてみれば10年経っているンだが……だからって、こんなにあからさまでいいのか?」
F「悪くはないと思う。何しろ『三国志誕生』の年表でも、239年の次は246年にすっ飛んでいるンだから」
Y「……確かに」
F「飛び具合はやや抑えめだが、それでも、大きなイベントがないと思われがちでな。……まぁ、正直云ってその通りではある。大きめの戦闘は241・244・247年に起こっているくらいだし、歴戦の武将たちが次々と死んでいくこの時代、大規模なイベントは(演義ではほぼ無視されている)二宮の変くらいしか起こっていない。北方謙三氏が『孔明の死後にはロマンがない』と云ったのも無理からぬオハナシなんだ」
Y「戦乱の時代が停滞していた、と?」
F「核を失っていたからね。三国志の前半は曹操、後半は孔明が主役だというが、そのいずれも失われ、残った仲達が動く249年まで、悪い意味での平和がはびこっていたワケだ」
Y「悪い平和というのもお前らしい表現だな」
F「二宮の変に代表されるように、この時期に起こるイベントはたいがいが内部抗争だ。来たるべき天下争奪のための準備期間としての平穏ならまだしも、呉も魏も国内での権力闘争のために他を見る余裕がなくなっているだけなんだから。熟成ならともかく腐敗は好ましくない」
Y「手厳しいな」
F「現在241年だから、あと70年くらい。残り30回だから……」
Y「30?」
F「いや、もとい。アキラがいないから公言はできんな。聞き流してくれ。ともかく、残り回数からしてちょっとペースを上げないといかん……のにアキラがいない」
Y「タイミング悪いな」
F「違いない。では、今回は244年の戦闘について」
Y「……どことどこだった?」
F「お前ね……。アキラならまだしも、お前がそーいうことを云うンじゃありません。魏が蜀に侵攻したンだよ。実はこの一件、当時の魏の宮廷模様を割と如実に剥きだしていてな」
Y「最初に云っていた奴か」
F「うん。事の起こりは明帝曹叡が、毛皇后を寵愛していた頃までさかのぼる」
Y「どんだけー」
F「いや、ホントに……。この毛皇后には弟がいたのは134回で云ったな? 姉の七光で荷が勝ちすぎる役に就いていたンだが、それは皇后の父にしても同じで、もともとは御用車の技術者だったのにいきなり高い身分に取り立てられたモンだから、立ち居振る舞いが『はなはだ愚かしくお笑いだった』と正史に明記されている」
Y「ろくでもない家柄の女、か……。しかし、そういう出身ならむしろ増長しそうなもんだが」
F「割と判りやすい。成り上がり者だけに、貴族階級からは受けがよろしくなかったンだろう。口を開けば自分のことを『侯身』と呼んでいたとあり、保身のために笑い者になって周囲との軋轢を回避していたのがうかがえる。兄がどんな男だったのか記述はないが、皇后が誅殺されても左遷で済んだことから、こちらも腰が低かったのが察せられる」
Y「そういういやらしい人間関係は苦手だな」
F「判りやすいと思うンだけどなぁ。夏侯尚の子の夏侯玄が、ある日曹叡に拝謁したンだが、この弟が同席したところ『なんでェ、成り上がり者が……』みたいな侮蔑の視線を向けているンだ」
Y「実際にンなことがあったのか」
F「コレを根に持っていた曹叡は、夏侯玄を左遷した……とある。つまり、まだ毛皇后に寵愛が寄せられていた頃のことだ。曹爽のブレーンといえば有名な何晏を筆頭に何人かを挙げられるが、曹叡は、彼らがうわべばかり華やかで内実には乏しいと、出世はさせても中央での役には就けなかった。たぶん、夏侯玄も似たような扱いだったと見ていい」
Y「曹爽は、曹叡に退けられていた面子を取り立てて、自分の側近にしたのか」
F「うむ。239年に曹叡が没し曹芳が帝位につくと、曹爽は大将軍となって幼い皇帝を補佐することになった。それくらいから、人材集めを始めたようでな」
Y「夏侯尚の子と曹真の子が組んだのは、やはり権力欲か」
F「と、考えるべきだろうな。演義では情けない姿の目立つ夏侯尚だが、実史では魏における武の柱のひとつだった。その息子なんだから、中央から遠ざけられて含むところがあったのは明白だ。そういった面子を集めることで、曹爽は朝廷内に自分の与党を作り上げたという次第」
Y「曹叡時代に冷遇されていた面子を重用するのは、政策としてどうなんだろうな」
F「晩年の曹叡が評判を落としていたことを思い出してくれ。若くして亡くなったとはいえ、皇帝でも失策をしでかすとは天下に知られている。その皇帝に遠ざけられた面子を、死後に取り立てるのは、人事案としては悪くない。何しろ何晏たちは、世に名声を馳せ出世した面子だ」
Y「曹叡こそが誤ったのだと思わせるような行動だろう? 仲達は面白くなかっただろうに」
F「夏侯玄のことは評価していたように思えるが、その辺りは、それこそ249年頃に触れる。ともかく、曹爽の周囲は、ある程度の名声を持ちながら中央から遠ざけられていた面子が集まっていた。ちなみに曹爽は、剣を佩いたまま昇殿したり、宮中で小走りしなくてもよく、呼び出しの際にも実名で呼ばれないという特権も賜っている」
Y「50年くらい前に聞いた記憶があるンだが」
F「董卓と見間違えるよなぁ……。さて、タイミングよく質問をもらっていたンだが、曹芳即位の当初、曹爽と仲達の関係は悪くなかった。意外に思うかもしれないが、いくら曹叡御幼少のみぎりからとりたてられていた曹爽でも、三代に渡って魏に仕え、曹真・曹休亡きあと最強の軍事力を有する仲達を、敵に回す度胸はなかったようでな」
Y「まぁ、仲達と戦えと云われて素直に戦う奴は少ないだろうな」
F「双方の腹積もりが、実は正史に書かれている。曹爽は、仲達のが年齢・実績いずれも上だったことから、仲達を父とも敬っていた。一方で仲達も、曹爽が王室の一員だったものだから気を遣って、彼を立てていた。この協調関係は、当時の人々に賞賛されている」
Y「その時点では、か」
F「そゆこと。ただし、何晏ら……実名を挙げれば何晏・丁謐・ケ颺・畢軌・李勝だが、この面子を重用するようになって関係がこじれている。丁謐や畢軌が『野郎は野心を抱いて、人心を得ています。アレを信用して大役を任せてはいけませんぜ』と讒言したモンだから、曹爽も仲達を警戒するようになっていった……とあってな。曹叡に遠ざけられていた面子が、事実上曹叡の後見人だった仲達を敵視しているだけなんだから、コレはコレで判りやすいオハナシだろう」
Y「まぁ、判るな。しかし、仲達の野心はともかく、人心を得ていたのはある意味不思議だな」
F「仲達にあって曹爽にないものが実績だ。曹叡の代から大陸各地に転戦していた仲達と、陰謀で権力者に成り上がった曹爽とでは、権力を裏づける権威に格差があるンだよ。宮廷内である程度以上の重きを置かれていたのは想像に難くないだろう? 軍事的な案件なら、何かあっても『仲達がいれば大丈夫』みたいな空気があった」
Y「仲達の軍才には、魏は宮廷を挙げて信頼を寄せていた、というところか」
F「それが明らかになったのが、241年の呉軍侵攻のときだ。名指しこそないが曹爽が『孤立した朱然はすでに自滅を待つのみだ』と楽観していたのに、仲達は『これは国家の一大事である!』と自ら援軍に出るや、朱然・瑾兄ちゃんを打ち破る大功を挙げているンだ」
Y「完全に、キャリアの差がむき出しだな」
F「しかも、幼い曹芳自ら見送りに出ている。本人も来ていたかは定かではないが、曹爽の側でも、その件を気にしなければならない状態になるだろう?」
Y「……曹爽には、権力の座に収まる支持基盤が欠けていた、というところか。確かに、本人が軍事的に評価されていなければ、大将軍として何かと不都合があるのは蜀で見たな」
F「そう、蒋琬と似たような立場にあったワケだ。では、曹爽が実績を得るにはどうすべきか。仲達を上回る功績を挙げればいい……というか、挙げなければならない。というわけで『野郎が呉ならこっちは蜀だ!』と、ケ颺は蜀を討伐するよう曹爽をそそのかした」
Y「凄まじく判りやすい発想だな」
F「この進言に曹爽が乗ったのはなぜか……というのにも、実は判りやすい理由がある。かつて父・曹真が蜀攻略を目論んで、失敗している(230年)だろう? コレを成し遂げれば仲達どころか父をも超える名声を得られる、と考えたンだろう。そして、そのときに一軍を率いていた仲達が、おそらく実体験から反対し、やめるよう勧めている」
Y「じゃぁ、なおさら攻めたがるだろうな」
F「というわけで、曹爽は自ら蜀に攻め入るのを決意し、長安に向かった。かつて父やその部下(仲達・張郃)がなしえなかった蜀攻略を成し遂げれば、宮中での立場は逆転する……と考えていたのは明白だ」
Y「俺、コイツ好きだわ。考えが判りやすい奴って心が洗われるみたいで」
話していると心がよどむ奴「やかましいわ。動員されたのは6万ないし7万とあるが、蜀サイドでは10万超との記述がある。規模で云うなら官渡級の一戦になっているな。大将軍曹爽を主将に、ケ颺・夏侯玄らが従軍している。対する蜀では、漢中に張っていた呉懿が237年に死去し、王平がこれに代わっていた」
Y「蒋琬が漢中に来たのは、その翌年だったか」
F「そゆこと。副将扱いで姜維も漢中に来ていて、たびたび涼・雍を犯した……とある。その蒋琬の出兵計画が、周囲の反対と本人の持病で頓挫したのが241年、は前に見たな。この年には費禕も漢中に赴いていて、蜀軍の首脳陣が一時的に勢ぞろいした辺りからも、実は蒋琬の計画がずいぶん注目されていたのが判る」
Y「だが、迎撃の指揮を執ったのは蒋琬じゃなかったよな」
F「うむ。どうしたワケか243年、蒋琬は発病して漢中から涪(地名)に異動している。再び指揮権が王平に戻っているが、姜維も前年には涪に移っていたモンだから、244年時点では3万程度の兵しかいなかった」
Y「半ばないし3分の1か。攻城戦では3倍の人数が必要なんだったか?」
F「劣勢を悟った諸将が『関城(出城)は放棄し、本城の守りを固めるべきです』を主張したのも無理はないな。だが王平は『敵に関城を渡してはなおさらに問題だ。ここは討って出て守るのが良策であろう』と、山道に兵を配して魏の進軍を妨げ、本人は決死隊一千を率いて遊撃に回った」
Y「魏が兵を分けて、一方が山道の蜀軍を防ぎ、残りが進軍して来たら、その背後を叩こうとした、と」
F「何しろ王平は、張郃に二度の煮え湯を呑ませているほど、寡兵でのゲリラ的な戦闘を得意としていた。その分、大兵力を率いる才となるとやや疑問を覚えるところだが、この戦況では適材適所と云っていいだろうね」
Y「そんな奴に、最前線の守りを任せなければならんのだから、蜀の人材不足は顕在化してきてるな」
F「いや、蒋琬・姜維の本軍が涪に残っていたようで『涪の本隊も駆けつけるだろう』との王平の言葉がある。加えて、243年に大将軍となった費禕が成都から兵を出し、ほぼ万全の防御態勢が敷かれていたンだ」
Y「……対する魏軍は?」
F「内部で混乱を起こしていた。補給・輸送の計画がなっていなかったようで、関中の民衆や羌・氐ら異民族が動員され、軍勢に食糧を運ぶ責務を負わされている。ところが軍勢が多かったのと道が悪かったのとで、漢人も異民族も道中で泣き叫んで嫌がった、とあってな」
Y「世の中でいちばん有害なバカは、補給なしで戦争に勝てると思い込んでいるバカだ、だったな」
F「はい、そこから先は口にしちゃダメ。王平が派遣した部隊が山道をしっかり守って前には進めず、進軍してきた費禕が山嶺に陣取って退路もふさがれた。王平ゲリラ隊がどう動くかも不安になって、魏軍内部では撤兵論が噴き上がっている。参軍の楊偉(曹叡の宮殿造営をいさめた硬骨漢)は曹爽の面前で『帰還せねば敗北する! ケ颺らは国の大事をなんと心得るか!』とブチかました」
Y「見立ては正しいが発言のタイミングが遅いな」
F「ことここに至っては夏侯玄も抗戦を断念して撤退を進言し、曹爽は(不快がった、とあるが)過酷な退却戦を余儀なくされた。険しい山道を突破し、やっとのことで抜けた頃には、徴発した輸送用の馬も牛もロバもラバも死んだり逃げたりしてしまい、羌族は怨み嘆いた……とある」
Y「判りやすい負け戦だな」
F「実際、仲達はこんなことを云っている」
『亡き曹操様が二度に渡って漢中に侵攻なされ、危うく大敗を喫しかけたことは、君も知っているはずです。険しい道には先手を打った蜀軍が配備され、進んでいっても戦うこともできないでしょうし、退こうにも退路を断たれたら全滅は間違いないでしょう。そうなったら、いったいどう責任を取るつもりです?』
Y「やはり、キャリアの差が著しいな。全滅はしなかったが、ほぼこの通りに状況が推移しているンだから」
F「かくて魏軍は撤退し、実質的な負け戦でこの戦闘は幕を下ろす。以後曹爽が、マトモに兵を率いることをしなかった辺り、この敗戦がよほどのトラウマになったのがうかがえるな」
Y「アキラに代わって云おう、気持ちと理屈は判る」
F「違いない。ところで、この戦闘とは関係がないと思うが、魏では曹芳の兄(実兄ではない)(らしい)の曹詢が、蜀では劉禅の弟の劉理が、244年に亡くなっている」
Y「偶然だろうな。出陣していないなら、劉理はもちろん曹詢に関しても、曹爽が外に出ている状態で何者かの手にかかるとは思えん」
F「うん、曹芳の関与はないと思う。数えで13歳だしな。ちなみに、この戦闘が行われていた当時、曹芳が何をしていたのか……が、正史に書かれている」
『5がつ8にち はれ
きょうは、きょうかしょをさいごまでよみました。かんどうしたぼくわ、いけにえをささげてこうしさんをおまいりしました。それから、おでしさんにも。
かんしゃのこころをわすれないように、せんせいとおじいちゃんにおれいのしなをよういしました。いま、わるいやつらをやっつけにいっているおにいちゃんにもです。おにいちゃん、はやくかえってきてくれないかなぁ』
F「当日の天気は知りません」
Y「いや、ツッコみたいのはそこじゃない」
F「つまり、曹爽が蜀でボロ負けしている真っ最中に、この13歳は『尚書』を最後まで読んで、孔子と顔淵に生贄を捧げて祭っている。講釈した教師と、仲達・曹爽に下賜品を用意している辺り、この坊やはいったい状況が判っているのかと不思議に思えてならない」
Y「……まぁ、アレだ。戦争の話をするにはまだ幼いから」
F「戦場に出ないだけまだマシかね。かくて、仲達の読み通り魏軍は敗れ、曹爽は宮廷に逃げ帰ってきた。これ以後、曹爽は仲達への対決姿勢を明らかにしていく……が、それはまだ先のオハナシになる」
Y「では、どうぞ」
F「続きは次回の講釈で」