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私釈三国志 139 諸葛子瑜

F「そんなワケで241年、瑾兄ちゃんが死去している。弟に遅れること7年にして、享年は68」
A「生きてたら61だから……孔明とは7つ違いだっけ」
F「演義では水鏡先生と同い年だ、というのを以前見たな。年下なのにまるで年長者に対するようにへりくだって接することができる劉備なのだから、劉備から孔明を訪ねたのが事実なのだ……と、羅貫中は暗に云っていたワケだ」
A「……なるほど」
F「実際のところ、瑾兄ちゃんはどうにも誤解されがちでな。演義では、魯粛と並ぶおひとよしに描かれ、頼りない兄という印象が強い」
A「露骨な事実じゃね?」
Y「比べるのも酷な話だが、孔明に比すべき兄ではないな」
F「まぁ、正史でも『才略で云えば弟に及ばない』と書かれているくらいだからねェ。ただし、見るべきものは演義でも見られている。赤壁を前に、呉に乗り込んできた孔明を張昭たちが迎え撃ったのを49回で見たが、覚えてるか?」
A「うん。張昭を皮切りに虞翻、歩隲、薛綜、陸績、厳o、程徳枢を論破して、張温・駱統が控えてたンだよね」
Y「何で演義だとこんなに詳しいのかね……? というか幸市、お前当時『江東十賢人』とか云わなかったか? 9人しかいないみたいだが」
F「出典が何だったかあやしいが、最後のひとりが瑾兄ちゃんなんだ。9人までちゃんと論破して、ついに迎えた最終対決、勝つのは兄か弟か……というオハナシだったンだが、黄蓋が入ってきて流れる。なお、程徳枢は程秉(徳枢は字)」
Y「割と勝敗は明らかだと思うが」
A「だよねェ」
F「……劉備や関羽を外交官として訪問しては失敗続きで、情けない面は目立つけど、合肥を攻める太史慈に張遼を警戒するよう忠告したり、南郡で曹真を相手に防御戦を展開したりと、智将としてある程度の働きも見せているぞ」
A「もともと文官として孫権に仕えたンだから、本業をおろそかにするべきではないと思うンだけどなぁ」
F「記述がないところで活躍していたとしか考えられんな。でないと、どうして『神交』なんぞと自称するほど孫権に信頼されていたのか説明がつかん」
Y「だから、情けない側面しか表に出ないンじゃないか」
A「ある程度の智略と水準程度の政治力は備えていた、というところかな」
Y「知勇兼備と云い文武両道と云うが、智略と政治力の双方に秀でた者は何と呼ぶべきなのかね?」
F「僕はこう呼ぶ、政戦両略に通じる、と」
Y「武将としては弟同様合格点はつけられなかったから、まぁ妥当な評価かね」
F「うーん……」
2人『だから、悩むな!』
F「いや、割と聞き流してるンだなぁ、とちょっと呆れたところでな。135回、見なおしてみ?」
A「ん?」

諸葛瑾「ンなことは陸遜か潘濬にでも聞いてください。私は文官じゃないンですから」

Y「ナニ身の程知らずなコト云ってンだ、コイツは?」
F「本人が云った通り、正史における兄ちゃんは純然たる武将だ。魏書で名が挙がるときはたいてい兵を率いている」
A「軍事的な功績のが大きい、と?」
F「功績……ではないな。軍事的な業績、だ。残念ながら勝率は、惨憺たる有様で」
Y「夷陵に続く魏軍三路侵攻で、この兄が何をしたのかは以前に見ているな。曹真ではなく夏侯尚にしてやられている」
A「で、合肥攻めでの忠告どころか、太史慈がすでに死んでいたのも確認済みか」
F「ただ、呂蒙の死後は荊州で重きをおかれ、それなりの軍権にあったことは事実だ。孫権も陸遜・歩隲らと並べて、武将として使っていた。だからこそ、左将軍を経て大将軍に任命している」
A「ある程度以上の評価と信頼を向けられていた、か」
F「ちなみに、問題の息子・諸葛格は、文官としてはまるでダメだと叔父に評価されていた。食糧監督の地位にあった徐詳が死ぬと、諸葛格がその座に充てられることになった。ところが、それを聞いた孔明さん、陸遜にわざわざ書簡を送りつけている」

『兄ちゃんが年を取ってお役に立てなくなったのはまだしも、あのいい加減な息子に、軍の要たる糧食を管理させるのはいかがなものでしょう。ワタシは遠方の人間ですが、それは不安でなりません。どうかアナタから陛下に申し上げて、お役目を変えさせていただきますよう』

F「というわけで、諸葛格は前線勤務に回された」
A「いくら孔明だからって、呉の人事に口出しするのはどうなんだ?」
F「呉において孔明の発言力というのは、割と大きいようでな。今回のコレは妥当な評価だったようで、しかも陸遜経由だったモンだから、あっさり通っている」
Y「発言」
F「……はい、前田兄」
Y「孔明が諸葛瑾と不仲だったという説はどうなんだ? 何かで読んだ程度のものだが、気になっていてな」
F「"この"僕に向かって兄と弟の仲を聞くのも、なかなか無謀というか豪気というかだな。まぁ、それについては触れないわけにはいかないとは思っていたが、悪くはなかったと考えられる。瑾兄ちゃんは正史でも劉備のところに使者として赴いているが、孔明とは、公の場で顔を合わせても私的な面談はしなかった、とある」
A「悪かったンじゃないのか?」
F「公私の分別をつけるのは、社会人として最低限のマナーだぞ。まして、弟が宰相に近い地位にあったせいで『野郎は劉備と気脈を通じていますぜ』と讒言された旨、正史にさえ明記されている。本当に私的な交流をもっていたら、たとえ孫権から信頼を受けていても呉での立場(つまり、命)が危うかったはずだ」
Y「その辺りをわきまえていたから、諸葛瑾の側からは孔明に接近しなかった、か」
F「例によって(積極的には)と補足してくれると助かる。ただし、孔明の側からは『次男を養子にくれ』と持ちかけたり、『息子が聡明で可愛くて仕方ありません』などとほざいた書簡を送ったりと、プライベートな交流を謀っているのが見受けられる。ちなみに、孔明が呉に使者として直接赴いたのは、赤壁前の同盟締結の際だけのはずだ」
Y「人格としては兄の方が少し立派なのかね?」
F「実は、割と見逃せないような記述が正史の注にあるンだ。瑾兄ちゃんの若い頃について、都に出て遊学したとあるンだが、そのあとに『母親が死去すると心を尽くして喪に服し、継母にも慎み深く仕えた』とあって」
A「継母……?」
F「孔明および均クンとは母が違った可能性があるンだ。明記はないが、そう考えると、この三兄弟がひとつところに収まらず、長兄だけ呉に仕え、下ふたりが叔父にくっついていった理由が明らかになる。母親の面倒を長男に押しつけたンだろう」
Y「最近の日本の御家庭か?」
A「同腹だったと素直に考えろ! で、継母との折り合いが悪かったから、孔明と諸葛均は荊州に逃れた! 以上!」
F「諸葛珪は孔明の幼いうちに亡くなっているンだから、7歳差ならそんなところになるのかね? ちなみに、洛陽に遊学しておきながら後の魏、つまり曹操軍に仕官しなかったのは、たぶん孔明と同じ理由だろう。割と思考パターンや立場は似てるから、この兄弟」
Y「軍事的才能はないのに、軍を預かる立場になった辺りとかか」
A「ないってゆーな。……でも、それならどうして、お兄ちゃんは蜀に仕えなかったのかな?」
F「だから、宰相として位人臣を極めた弟がいるのに、その兄を周りはどう扱えばいいんだ? 本人はそれを気にしないだろうけど、少なくとも孔明が丞相となった後に、瑾兄ちゃんが蜀につく道はなくなったと考えなければならん」
A「……単純だけど無視できない人間関係だね」
F「実際に劉備と面談したことがあるのは正史にも明記されているが、その折に、劉備とは合わないのを察したのかもしれんがな。ともかく、瑾兄ちゃんは呉軍を率いて、魏軍と何度となく戦火を交えている。武将としての働きは思わしくなかったようだが、それでも孫権から行賞されている」
Y「正史の注では『計算ずくで動こうとし、臨機応変の戦術はとらなかった』とある辺りに、この兄弟の限界があるな」
A「やかましいわ!」
F「222年に左将軍に就いたのは、夷陵の戦いで何らかの功績があったものと思われる。孫権が皇帝に即位すると大将軍・左都督に任じられたが、陸遜は上大将軍・右都護だ。いずれにおいてもひとつ下、ということになる」
A「大将軍の上に上とかつけるなよ……」
F「荊州で起こした呉の侵攻作戦にはだいたい従軍しているようだが、だいたいは撃退されている。でも、魏の侵攻作戦にはきちんと対応し、石亭の戦いでは、曹休の援護に宛から出陣した仲達と対陣した。この一戦では魏軍総退却となっているからには、仲達も瑾兄ちゃんを抜けなかったンだろう」
A「守りは堅いけど攻めると弱い、かな。その辺りは孔明とちょっとずれてるね」
F「そんな大将軍が死んだのは241年、前回見た二方面四部隊の一軍を率いて、柤中を攻めていた頃のことだった。孫権が各部隊に撤退を通達したのは6月で、軍が帰還してから死去した……とあるけど、問題はその遺言」

 我が屍は白木の棺に、普段着で納めよ。葬儀は大仰にはしなくていい、簡略を心がけるように。

Y「質素な人柄が見えるようだが、コレがどう問題なんだ?」
F「わざわざ『普段着で納めろ』と遺言しているということは、普段着を着ていなかったということだぞ」
A「……大将軍なら公式な服装は軍装になるか」
F「そもそも呉主伝にはない歩隲の名が、魏書のこの部隊に記されているのは、瑾兄ちゃんが陣中で死んだからではないか……と考えているのは前回云った通りだ。この遺言は、そういうことだと裏付けできる。おそらくは負傷しての戦傷死だ。年も若くないから、助からなかったンだろう」
Y「討ち取られたなら、その旨魏書に記述があってもおかしくないな」
A「いや、お兄ちゃんが戦死って……どうにもイメージが湧かないンだけど」
F「毎度おなじみ『三國志X事典』の、瑾兄ちゃんの項は冒頭から凄まじいぞ。キャッチでやろうかと思ったが、前回も怒られたのでやめておいた」

『字は子瑜。(中略)孫権に仕え、張昭・顧雍らと並んで呉を支えた重臣、というよりも大黒柱である』(111ページ)

F「陸遜とともに荊州を張っていた功績を、見るひとは見ているンだなぁ……と嬉しくなった」
Y「コレが柱じゃ家も倒れるか」
F「非道いこと云うンじゃありません! ともあれ、かくて瑾兄ちゃんは68歳で死んだ。その最期はおそらく、孔明同様の陣没と思われる」
A「いずれも対陣相手は司馬懿そのひとだった……と」
F「さて、『私釈』を通じて評判が悪いのが、孫権による家臣団粛清を唱えた120回。これより『面白くなかった』票が多い回もあるが、粛清説について『むしろ、瑾兄ちゃんが仲謀に気に入られて、天寿を全うできたのかが気になってしまう』とのご意見をいただいている」
A「最近、そういうののフォローを積極的に見てる?」
F「宿題がたまっていてな。瑾兄ちゃんが粛清リストに挙がらなかったのは、蜀との関係を維持するためだろう。いち時期敵対していたとはいえ、その国の宰相の兄が死んだら、その死が不審であろうとなかろうと問題視される。現に呉書では、瑾兄ちゃんの最期に関する記述は、どうにもぼかして書かれている」
Y「……なるほど、女房の云っていた通りだ。よく考えると、お前の講釈には隙があるンだな。諸葛瑾が粛清されるべきなら、タイミングはどう考えても夷陵前だ。劉備健在のうちに蜀に通じたとして殺されていれば、孔明は最高権力者ではなかったのだから、蜀との関係にはそれ以上の悪影響はなかったはずだぞ」
F「孫権がMなのはいいな?
Y「なぜいきなり『恋姫』の話になる?」
F「違う違う、蓮華じゃなくて孫権本人。マゾと云うか、直言してくれる家臣がいないととんでもない方向に暴走していくので、張昭みたいな諫言を辞さない家臣を必要としていた、のはいいな?」
Y「その云い方なら……その通りだと認める」
F「本人も呂壱のゴタゴタでその辺の自覚が(齢五六にしてようやっと)出てきたようで、瑾兄ちゃんたちに『俺の悪いところを云ってくれ!』と泣きついたのは135回で見た。一度は渋る態度を見せながら、その反省が本心だと考えたようで、瑾兄ちゃんはすぐにアレが悪いコレが悪いと道理の通った諫言をしている」
A「その辺りを重宝されたってコト?」
F「瑾兄ちゃんが劉備に仕えなかったのも、この辺に理由があると考えていい。あの男が直言する家臣をあまり好きでないのは94回で見た通りだが、実際に会ってその辺を察したンだろう。対して孔明は、相手に併せて態度を変えるのが割と得意だ」
Y「三顧の礼での劉備への態度と赤壁前の孫権への態度は、ずいぶん違うからなぁ」
F「そゆこと。そして、その話だ。孔明は初対面の折に、孫権に何をしでかした?」
Y「いきなり『命と領土が惜しかったら降伏しろ! うちの大将は漢の皇族だ、曹操ごときに降れるか!』とブチまけ、孫権が『お前、オレにケンカでも売りに来たのか!?』と反発したンだったか」
F「孫権が孔明を気に入っていたのは、どっからどー見ても明らかなんだよ。演義では魯粛の勧めで周瑜がやった、瑾兄ちゃんを使った勧誘も、正史では孫権が自ら瑾兄ちゃんに持ちかけている。皇帝自ら孔明を称揚する発言をしていたので、それにおもねって呉の家臣たちも孔明を称賛していたのは130回で見た」
A「何で一度しか会ったことがない孔明を、そんなに気に入ってるのー!?」
F「だから、孫権はMなんだって。面と向かってはっきり前後策をブチまけられて、ほとんど一目惚れしたような状態だ。劉備時代には反復つねなく、実際に戦火さえ交えているのに、孔明との盟約には一度たりとも背いていない。役に立っていなかったおよび皇帝になったのは、どう評価すべきか悩むところだが」
Y「誠実なのかそうでないのか、まるで判らん男だな」
A「いや、孔明が好きだって気持ちと理屈は判るけど……」
F「そんな大好きな孔明の兄を、殺せるワケがないだろう? 兄ちゃんも孫権をいさめるタチなんだから、公私に渡って諸葛兄弟を高く評価しているのは事実だ。というわけで、弟ほしさと相まって重用しているうちに、自称『神交』を瑾兄ちゃんと結んでいた」
A「……いずれその気持ちが孔明にも届くのを夢見て?」
F「残念ながらそれは届かず、孔明は五丈原で没した。その死から3年後の正月に『3年の服喪の規定は、ひとの心の悲しみに根づいた天下の制度だ』と公言し、また、末の息子に亮と名づけている」
Y「……どこまで孔明が好きなんだ、コイツは?」
F「まぁ、朱然や顧雍が粛清リストに挙がらなかったのはじきに見る。ところで……」
A「みぎゃーっ!?」
F「正史でも『諸葛瑾は大将軍、弟の諸葛亮は蜀の丞相、息子たちも兵馬を指揮し、族弟の諸葛誕も魏で名声を得ていた。一門の者がみっつの国でそれぞれ代表的な立場にあることを、天下の人々は輝かしい栄誉だと評判した』とある。なお、この後ろに冒頭で見た『才略で云えば弟に及ばない』が続いている」
Y「考えてみれば凄いことだな」
F「ただし、呉であれ蜀であれ、その諸葛家は諸葛一族としては異端に類するものだ」
A「異端って……」
F「そもそも瑯邪(青州)の出自だが、父を亡くして戦火から逃れ、墳墓の地を捨て流浪した……と瑾兄ちゃんが発言したのはすでに見てある。氏族一門で云うなら、諸葛誕の諸葛家こそが主流と考えざるを得ないンだ」
Y「墳墓の地を捨てた諸葛瑾と、その兄からも離れた孔明か。孝で考えると孔明がいちばん悪いな」
A「やかましいわ!」
F「ただし、世俗での評価はこんな具合だ」

『蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得た』

F「孝とは真逆になっている辺りに、孔明の真価が見える」
A「……なんだかなぁ」
F「続きは次回の講釈で」

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