私釈三国志 138 呉国兵乱
F「曹操の人生でいちばん大きかったのが官渡の戦いで、コレに勝利したことで天下への一歩を得た……と以前云った」
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A「赤壁のが大きくないか?」
F「規模よりは歴史的な意義だ。曹操の王業を飛躍させたのが官渡で、その征途を喰いとめたのが赤壁なんだ。このふたつに漢中争奪戦と比べると、他の戦闘は(勝敗を度外視しても)歴史的な意義はやや劣るように思える」
Y「漢中争奪戦……はどうなんだ? 確かに負けはしたが、局地戦にすぎんだろう。ブログでも思うところがあるような発言をしていたが」
F「お前のカミさんは、こっちには気づいていたぞ、泰永。僕は、『正史での漢中争奪戦』をほとんど講釈していない。本来ならその辺りで『漢王即位』とか銘打って一回を割くべきだったが、69・70回は演義ベースだ」
Y「……なに?」
F「実は、正史においてあの戦闘がどんな位置づけなのかというのは講釈していないンだな、これが」
Y「えーっと……待て、どういうことだ?」
F「アレに負けて劉備に漢中王即位の契機を与えたのは、歴史的に考えるなら曹操最大の失敗なんだ。いくら漢王朝の末裔という名があっても、漢中という実がなければ、劉備が皇帝を自称しても大義名分が整わなかった。自身の死後に三国を鼎立させる口実を作ったことに比べたら、赤壁の敗戦なんて物の数じゃないンだよ」
A「……何でそんな大事なこと講釈してないの、お前は」
F「アンケートへの返信では応えたけど、1周年企画が近づいてたから。加えて、黄権にできなかったことが法正にできた理由が、今ひとつ釈然としなくて」
Y「本人の能力だろうが」
F「実はそうでもない、とヤン・ヒューリック様とやりとりしていて思ったンだが、その辺りは回を改めて触れよう。一方、劉備の人生ではやはり漢中争奪戦だろうけど、孫権の人生における、歴史的に最大の戦闘とはどれだったのか」
A「赤壁……と、関羽相手の荊州攻略戦じゃないかな。人生の大半が負け戦だから、勝った戦闘が歴史への影響としては大きいと思う」
Y「というか、アイツの人生には無駄な敗戦が多すぎる」
F「相変わらず暴言が非道いが、意見そのものは否定しない。西に向かい長江流域を平定しようとするとおおむね勝てたのに、長江を渡って魏に挑もうとしたらたいがい負けているからなぁ」
A「やかましいわ!」
Y「しかし、他ふたりは勝ち戦が大きいのに、曹操の場合はその負けが大きいのか?」
F「官渡で勝利した後に赤壁と漢中でつまづかなければ、曹操が天下を平定していた、という意味だよ」
Y「ふむ……」
A「……こん畜生」
F「さて、"出ると負け皇帝"が、正史にさえ『曹丕の死につけこんで兵を挙げた』と評される江夏攻めを行ったのを前に見た。そんなモン歴史書にはっきり書いていいものかと思わないでもないが、書いてあるンだから仕方ない」
Y「同情はしないが、仕方ないで済むのか?」
A「陳寿は、孫権が嫌いだったのかな」
F「嫌ってたのは裴松之だと云うに。ただ、やっていることは覇業としては間違っていない。孫子にも『敵の隙を攻め、勢いのある敵は避けること』とあるから」
A「孫子の兵法って……」
F「だが、呉軍が動いたのは曹叡の死から2年後のことだった。以前触れた通り、遼東で公孫淵が頑張っていた238年には呂壱の騒動があり、翌239年10月には廖式の叛乱が発生している。これは、荊州南方で異民族(とだけあり、山越か武陵蛮かは不明)討伐にあたっていた廖式が、厳綱を殺して平南将軍を自称し、弟とともに叛乱したものだ」
A「どれくらいの規模なの?」
F「かなり大きかったな。何しろ交・広州の諸郡で動揺が起こり、この叛乱に数万人が呼応した、とある。呂岱らが差し向けられて一年余りでその全てを打ち破ったが、つまり1年あまりかかったンだ。孫権に対する叛乱としては、生涯でも最大規模のものだったと考えていいぞ」
Y「客観的に云うなら、今までそんなモンが起こらなかったのが不思議な負け君主だしなぁ」
F「治世としては劉表にも引けを取らない行政能力をもっていたからねェ、この皇帝サマ」
A「……高いンだか低いンだか」
F「翌年4月に大赦を行い、各郡・県に『城郭を修理し物見櫓を建て、塹壕や堀を深くして群盗に備えよ』との詔勅を出しているのは、そんな詔勅でも出さなければ各郡・県が陥落しかねない、との危機意識からだろう。どうやら、この叛乱がそれくらい根強かったもののようでな」
A「呂壱の件が尾を引いていたのかね?」
F「そう考えていいだろうな。同じ年(240年)に『ろくでもない役人は上聞しなさい』との詔勅を出している」
Y「ろくでもない皇帝ならそこに」
F「……えーっと、こんな具合なんだが」
『そもそも主君は民衆ナシでは成り立たず、民衆は食糧ナシでは生きていけない。だが、近ごろ民衆はしばしば軍役に駆り出され、水害や日照りも重なって穀物は不作。さらにろくでもない役人が、農繁期の民衆に労役を課して、飢餓困窮を助長させている。これから郡守は法を守らぬ者を察知し、農繁期に労役を課すような者は摘発して上聞しろ』
Y「張昭に代わって云おう、誰のせいで民が苦しんでいると思っている」
F「どれくらいの飢餓だったかといえば、11月に官庫を開いて救済措置をとったくらいだ。人災と天災が重なって、呉は割と深刻な状況に陥っていたようでな。話を戻すと、曹叡の死につけこんで兵を出さなかったのには、この辺りの事情があったと考えていいだろう」
A「ちょっとは懲りたのかと思えば、また内部事情からかい」
F「さて、廖式の叛乱で激戦区となったひとつが零陵なんだが、そこの太守が翌年、孫権に上奏してきた」
『天はすでに曹家を見捨てられ、魏を滅ぼそうという兆しは明らかであります。幼い君主を立てて権力者たちが覇権を争っているのですから、今こそ陛下が魏を平らげられる時ですぞ。
荊・揚州に住まう全ての者を動員し、強い者は武器を取り、弱い者は糧食を輸送させ、併せて蜀には隴右に兵を出させましょう。諸葛瑾・朱然を襄陽に、陸遜・朱桓を寿春に、陛下は淮水から徐・青州へ向かわれませい。魏は各方面を防ぐのが手いっぱいで、長安以西は蜀軍に対抗するので大わらわとなり、許昌・洛陽の軍勢もバラバラになりましょう。そうなれば民衆も我らに呼応するはず。
魏が迎撃に出てきても、どこか一ヶ所でも抜けば全体としての統制は失われます。陛下はその機に乗じて兵を出し、天下を平定されればよろしい。全軍を動員することなく、これまで通りの小規模な作戦を展開しても、大きな成果は得られません。民は疲弊し国威は失われ、時間とともにジリ貧に陥りますぞ!』
Y「割と無茶な上奏をするな?」
A「かなり無茶だね……」
F「ブっ飛んでいるのは事実だ。ほとんど全国規模での叛乱が起こった翌年に『国中の男たちを総動員して、敵国に攻め込みましょう!』と云われて、その気になる君主はいないだろう。だが、この上奏の注目すべきは下段一節。『これまで通りの小規模な作戦を展開しても、大きな成果は得られません』と発言しているが、つまりこれまでの戦役には大規模な動員令は出していなかったということだ」
A「……ふむ?」
F「常々見てきたように、(揚・交州時点の)呉は、頻繁に人狩りをするほど人口が少なかった。少ない人口で養える兵はさらに少ないから、その兵を失わないような戦闘を心がけていたのかもしれない。正史の注には『敗れること少なし』と寝ボケたことが書いてあるが、被害を抑えるような負け方を」
A「孫権の指揮能力がまずかったというより、消費意識がまずかったのか」
F「兵を大事にするのはいいことなんだが、だからといって使わずに負けるのはさらにまずいと思う。というわけで、この上奏は用いられなかった。孫権は『これまで通りの小規模な作戦を展開』することを決意する」
A「つくづく思うのは、ちゃんとした勝算があって動いてるのか? 呉軍は」
F「今回に関して云えば、基本的には先の上奏がマスタープランだ。人選は少し違うが……えーっと、揚州方面が、全jが淮南の芍陂に、諸葛格が六安(廬江郡の治所)に。荊州方面には、朱然が樊城を包囲し、瑾兄ちゃん・歩隲が柤中に、それぞれ向かっている。ただし、魏書には諸葛格に関する記述はない」
A「そこは無視されたってコトか」
F「順に見ていこう。芍陂というのは春秋時代に作られた溜め池で、87回で云った『寿春の南の灌漑用の貯水池』の最たるものだ。正史の記述によれば、合肥の統治を任された劉馥は芍陂をはじめとする灌漑施設を改修・整備し、実用化にこぎつけた209年以降はコレを利用して屯田を行っている(ただし、劉馥は前年に死去)」
Y「歴代王朝による改修を受けながら、現在でも使用されている……だったか」
F「あろうことか全jは、コレをブチ壊した。周りの溜め池を決壊させると、安城(地名。寿春の近郊)の食糧貯蔵庫を焼き、現地の住民を呉に強制連行している」
A「……戦争なんだから仕方ないと云えば云えるけど、孔明が五丈原でやったことに比べると露骨にアレだな。蜀軍は略奪・暴行をしなかったから、地元民からも安心されただろ?」
F「方向性の違いだろうな。孔明は占領を旨としたから地元民の支持を必要としたけど、呉軍がほしかったのは土地じゃなくて人口だ。だから、溜め池をブチ壊すのも食糧庫を焼くのも躊躇わなかった」
A「さらっと出せる辺りがお前らしい」
F「ありがとう。もちろん魏軍は黙っておらず、王淩が迎撃に出て呉軍と対峙している」
Y「最近、レギュラー化しつつあるな」
F「割と重要な武将だからねェ。さすがに劉馥が眼をつけ曹操が活用した芍陂は、ブチ壊せなかったのかそれとも占領するつもりだったのか、王淩と全jはこの堤防で激戦を繰り広げている。戦闘そのものは十日とかからなかったのに、呉軍の部将が十数人戦死したため、全jは撤退を余儀なくされた」
A「完全な負け戦だね」
F「たぶん、諸葛格もこれに呼応して兵を引いたンだろう。その父親が侵攻した柤中というのは、漢水流域の肥沃な地域で、襄陽から南百五十里に位置する。治めていたのは梅敷という異民族とその兄弟らしいが、魏に属していた彼らは、220年秋には曹操の死から呉に寝返ったはずなのに、この頃には魏に戻っていたようでな」
A「確かなところは記述がない?」
F「というか、この瑾兄ちゃん部隊の行動そのものがほとんど書かれていない。呉主伝で云うなら、歩隲が従軍したとの記述もないくらいだ。コレがどういうことかは……あとで触れる」
Y(今回の『ところで』が来たぞー)
F「さて、最後の朱然隊は、全jや諸葛親子が撤退した後も踏みとどまって樊城を包囲していた。魏の宮廷(曹爽か、劉放か)は『孤立した朱然はすでに自滅を待つのみだ』と楽観していたけど、仲達は『柤中・樊城が包囲されて、国境は混乱し人心は動揺している。これは国家の一大事である!』と主張し、自ら兵を率いて救援に向かうと主張した」
A「意見としては仲達が正しい……よな」
F「その通り。ために意見は容れられて、曹芳自らに見送られて出陣している。おりしも夏の盛りで持久戦はできないと考えた仲達は、軽騎兵を出して挑発したけど、朱然は乗ってこない。そこで、精兵を選抜するとその中からさらに決死隊を募り『挑発に乗らんなら、まぁ仕方ないな。攻めるか!』という姿勢を見せる」
Y「俺なら逃げるな」
A「アキラもです……」
F「朱然も逃げたが追いつかれ、思う存分斬りまくられたとある。かくて、呉軍は全方面での撤退となった」
A「やっぱり勝算はなかったンじゃないか?」
F「孔明でも、魏のディフェンスラインを突破することはできなかったからな。正攻法で魏軍を打ち破ることはできないンだよ。撤退すると見せて魏軍に追撃させ、カウンターで叩きのめす……という戦法でならある程度以上の戦果をあげられたけど、国力に劣る蜀や呉では、正攻法で魏に勝つことは不可能と考えていい」
A「陽動と奇襲を駆使する?」
F「そゆこと。今回の呉軍は力攻めに頼った感があり、つまり最初から方向性を間違えていたと云わざるを得ない。対陣している魏軍にも手こずっているのに、朝廷から強力な援軍まで出されては、戦闘継続さえおぼつかないだろう」
A「せめて……あれ? えーっと……ねェ、陸遜は? アイツがいれば、どこかでは勝てたと思うンだけど」
F「たぶん、決戦兵力だ。先に云った通り、今回の作戦は先の上奏がマスタープラン。どこかで魏軍を打ち破ることができれば、そこから防御線は崩壊する。そして、繰り返しになるが、防御線の強度はもっとも弱いところで決まる。まず兵を出し、どこかの部隊が勝利をおさめたらそこに陸遜率いる本軍が斬り込む予定だったンじゃないかと」
A「全jや朱然が開けた穴を、陸遜が広げる……か」
F「だが、魏の防衛力は呉の攻撃力を上回っていた。加えて、もうふたつ重大な問題が起こったせいでだろう、結局全軍撤退ないし敗走となってしまっている。……ところで」
A「中途半端なタイミングで来たねー?」
F「前回見た通り、漢中にあった蒋琬は『呉が動いたらそれに乗じる』というプランだった。二方面四部隊が魏に侵攻したと聞いた蒋琬も兵を動かそうとして、さすがに非凡と思える策を講じている」
A「というと?」
F「孔明が何度となく北伐の兵を挙げながら結果を出せなかったのには、道が険阻なのとそのせいで輸送が困難なのが原因の一端だ。そこで『水路をもって荊州に向かってはどうだろう』と策を弄した。問題の上庸への襲撃計画を立てたンだけど、これなら呉軍と呼応するなり共同作戦を張るなりが期待できる」
Y「……考えとしては面白いが、実現はしなかったよな」
F「そゆこと。本人が病気になったのと、何より大多数から反対されたモンだから、結局沙汰やみになっている。東西から挟撃されていたら、魏もある程度苦戦したように思えるが、そもそも呉では戦闘継続どころではない事態が発生していた。5月には皇太子孫登、6月には大将軍(に、なっていた)瑾兄ちゃんが死んでいるンだ。仲達の到着は瑾兄ちゃんが生きているうちだったけど、呉主伝にはない歩隲の名が魏書にあるのは、たぶんこのせいだろう」
A「諸葛瑾が陣中で死んだから、歩隲が指揮を引き継いだ……ってコトか」
F「そんなところだろうと思う。呉を支え続けた忠臣と、次代を担うべき皇太子が相次いで倒れては、戦闘どころではなかったンだろうね。陸遜が動いていなかったのも、孫登の容体が悪かったから……という見方もできる」
Y「もともと、皇太子の守役だったからなぁ」
A「呉も蜀も、割と人為的に為すことなく終わったンだねェ」
F「悲しいことにそれは事実だな。かくて、孫権はいつも通り、蒋琬は初めて、軍事的失敗を喫した。正攻法で魏を打ち破ることがほぼ不可能だと、孔明が身をもって示していたのを忘れていたのはいかがなものだろう」
A「やかましいわ!」
F「続きは次回の講釈で」