前へ
戻る

私釈三国志 137 蒋琬政権

F「蜀が天下を盗れる可能性は、234年をもって失われていた
Y「幸市よ、認識を間違うな。そんなものは最初からなかった」
A「のっけから暴言吐くのやめろって云ってるでしょー!?」
F「テーブルが傷むから叩くンじゃありません。考えてみれば単純なオハナシで、楊儀はともかく孔明・魏延という文武の両輪にして大輪が失われては、蜀軍がまっとうに活動することさえ望むべきもない。孔明がやっていたのは『至弱もて至強にあたる』ような無理なものだが、弱体化した軍勢をもって魏に打ち勝つというのは、無理ではなく不可能だ」
A「お前、そのフレーズ好きだね……」
Y「そもそも荊州を失った時点で、劉備の天下盗りは破綻していたに等しいだろうが。219年から長々続いている消化試合を、いまさら再確認したところでガタガタ騒ぐな」
A「……どうすれば、孔明は天下を盗れたんだろう」
F「曹操の死後とはいえ劉備ならまだしも孔明で天下盗りは、かなり難しいと思うぞ。まぁ、キャッチコピーはこれくらいにしておいて、今回は、今までほったらかしにしておいた蜀にようやっと眼を移す」
A「おー(ぱちぱちぱち)」
F「実は、正直なオハナシ、先月までずーっと勘違いしていたことがあってな」
A「? 先月ってコトは、やっぱり孔明さん絡み?」
F「うむ。悪いとは思ったが試させてもらったところ、129回公開から1ヶ月経ったのに誰ひとり気づいていないみたいでな。お前らはともかく、ついさっき確認したら(心底珍しいことに)泰永のカミさんでも見落としていた」
Y「それは相当だな。129回……何だ?」
F「タイトルで判るとは思うが蒋琬だ。当時『実際に丞相に任じられたのは4年後』と云ったが、実のところ、生涯丞相にはなっていない」
A「え?」
F「正式な役職で云えば大将軍・録尚書事、単純に云うと武官と文官のトップの地位には就いたが、丞相そのものには就任していないンだ。ちなみに、蜀における孔明の最終的な地位は丞相・録尚書事・益州牧」
A「……気づかなかったというか、知らなかったなぁ」
Y「いや、女房が見落としていたのに俺が気づくはずなかろう。……そうか、丞相ではなかったのか」
F「128回の前に、223年(劉備の崩御)以降の、蜀における文官・武官の役職を総ざらいしてみたところ、二十年越しの勘違いに気づいてな。誰かツッコんでくるかなーって試してみたンだけど、お前らどころか読者の皆さんも全員スルー。たぶん、ホントに丞相になったと勘違いしてたンじゃないかな」
A「そりゃ、そう思うだろうさ……」
Y「じゃぁ、4年後に任じられたというのは?」
F「大司馬だ。三公の一角を占めたことになるが、コレが大将軍より上なのか下なのかは時代による……と先に云ってあるな。ただし、劉備・劉禅を通じて、蜀で大司馬の座に就いたのは蒋琬のみ。……のはず」
A「はずって」
F「見落としていたら指摘してください、みたいな? 孔明存命中には、蒋琬は尚書令の地位にあった。これは、劉巴・李厳が就いていた、役人を統率し宮中での政務を執り仕切る役割で、対して録尚書事は外地での行政執行権と云える。蒋琬が大将軍・録尚書事に就任したのち、尚書令を継いだのが費禕だったのは、順番としては正しいワケだ」
A「この順番で、政権執行者の地位が移譲されていくわけか」
F「代行者な。ちゃんと上に劉禅がいるから。まぁ、李厳は東への抑えについていたから、実務は尚書の陳震辺りが執っていたンだろうけど、たとえ孔明でも両者を兼任することはできなかった」
A「そりゃ無理だろう。内外で政務を執り仕切るには、身体がふたつ必要だ」
F「というわけで、孔明は最期の北伐を前に、子飼いの蒋琬を尚書令につけた。当時費禕は丞相府付きだったから前線にいて、成都(宮廷)には蒋琬を残した……という見方ができる」
Y「中に自分の分身を残していった次第か。能力では圧倒的に劣るようだが」
F「実際のところ、蒋琬が丞相になれなかったのは、能力の問題ではなさそうでな」
A「ていうと?」
F「蒋琬のみならず費禕・姜維・黄皓も丞相にはなっていないンだ。もちろん、劉備存命中は孔明だけが丞相だったので、蜀に"丞相"は孔明しかいない」
A「……孔明の代わりは誰もいない、と劉禅は思い込んでいた?」
F「傍証もある。孔明は益州牧の地位にもあったが、孔明の死後この座に就いた者は蜀にはいない。蒋琬および費禕が任じられたのは益州刺史だ。孔明が益州牧となったのは劉備の死後だが、というわけで劉禅の下で益州牧となったのも孔明ひとりということになる」
A「州牧と刺史の違いは、軍権があるかどうかだっけ?」
F「そゆこと。劉焉の進言で成立した州牧の地位だが、ほとんどの州では刺史が兼任したため無名有実化していた。劉禅は、孔明を丞相・益州牧に任じ、政治と軍事の大権をマル投げしていたようなものだが、その死後はいずれの地位にも誰ひとり任じなかった」
Y「名実で云うなら、実はやっても名は与えなかった、といったところか」
F「身は売っても心までは売り渡さんぞ、と意地を張っているようにも見える。この辺りに劉禅のえらさがある、と僕は思う。ボロクソ云われても劉備の息子だ、プライドはあったンだろうな」
A「その辺の意地を、もうちょっと別の方向に使えなかったのかね……?」
F「まぁ、孔明の死後に、あらゆる意味で蜀が精彩を欠いたのは事実だ」
Y「劉禅が断じたように、蒋琬では孔明の代わりにはなりえなかったってコトか」
F「うーん」
2人『悩むなよ!』
F「蒋琬がどういういきさつで、劉備一家で昇進したか知ってるか?」
A「孔明の推挙だろ?」
F「事実だが、その辺の経緯は知らないかなぁ。もともと荊州の出自で、劉備が益州に入ると広都(地名)の知事に任じられた。ところが、ある日劉備が地方巡察に出ていた時、仕事をほったらかしてノンダクレていたのを発見されたモンだから、怒った劉備に処罰されそうになってな」
Y「……昔、同じことをしでかした野郎がいたな」
A「水鏡センセの門下生なの?」
F「そんな風にも思えるだろう。しかも、孔明は『彼は国家を担うべき人物で、百里四方を治めさせるその使い方が間違っています』と、龐統の時と似たような(ただし、正史では魯粛の云った)台詞で劉備をいさめている」
A「孔明からは、それくらい期待されていた……か」
F「だが、蒋琬を凄まじく単純に評価すると、残念ながら孔明をひと回り小さくしたような人物だった。ために、自分が出陣して蒋琬を後方に残していた……ようでな」
A「龐統の代わりが務まる器ではない、と判断されたワケか」
F「それだけに、業績は地味というか堅実だ。孔明の死によって、宮廷は誰も不安になっていたとあるが、蒋琬は官僚たちの上に抜擢されても悲喜を顔に出さず、平然とした態度で職務に従事していたため、次第に人々の心服を得た。これは、孔明の死にも動じない平静さと、その後継者としての手腕を認められてのことと見ていいだろうが、後主伝にも蒋琬伝にも、この時期何をしていたのか、具体的な記述はなくてな」
A「……何もしていなかった、ということはないよね?」
F「何進が何もしなかったら後漢王朝はもう少し長持ちしたようには思えるが、蒋琬が何もしていなかったら蜀は滅びの道を暴走しただろうな。蒋琬に課せられた役割とは、さしあたっては蜀軍の再建だ。行政的なものは、政治手腕では蒋琬を凌ぐ費禕が担当していたから、そっちは心配ない」
A「……むしろ不安です」
F「自分で云っておいてアレだが、そこまで費禕を警戒するな。ともあれ、蒋琬の功績が正史に記述されていないのは、実際無理からぬオハナシだ。兵を集め装備・物資を整え、法令を明らかにし訓練を施す。これだけやっていれば精強な兵は用意できるが、そういった仕事は史書には載らないものだ。現に、孔明が第四次北伐で撤退し、第五次北伐に臨む3年間は、諸葛亮伝ではほとんどスルーされている」
Y「地味なオハナシは読んでいる側に飽きられる、という奴だな」
F「僕としても『蒋琬は地味なことをしていました』とは書かなかった、陳寿の態度は正しいと思うぞ。『私釈』でも、当時の食事や食糧事情について触れた87回は割と不評だから」
A「いや、アレは食人のオハナシが不評の原因ですから……」
F「うん、各方面からそう云われた。ただ、劉備が夷陵で敗れたときには多少ならぬ叛乱が発生したのに、孔明が死んだから……という叛乱は起こっていない。孔明が慕われていればいるほど、孔明頼みの統治は瓦解するものだが、死の直後くらいでは蜀で叛乱が発生していないのは、蒋琬の所業がそれなりに認められていた証拠だと思う」
Y「孔明が慕われていなかった、というのはどうだ?」
A「それなら生前に叛乱が起こってるよ」
Y「……ちっ」
F「ただし、孔明から地位と責任を受け継いだ蒋琬は、孔明と同じような境遇をも受け継いだ。孔明が、劉備存命中は後方にあって、ほとんど戦場に出たことがなかったように、蒋琬は、孔明存命中はほとんどが後方にあって、戦場に出たことがなかった。将としての実績に欠けていたワケだ」
A「……何でこんな文官を後継者に任じたンだろう」
F「孔明が云うには『アレは忠義と公正を旨としており、私とともに王業を支えるべき人材だ』とか『臣に不幸があれば、後のことは蒋琬にお任せください』とのことらしいぞ」
A「政治的にはそういうことでも大丈夫だろうけど、軍事的にはどうなんだ?」
F「というわけで、魏延の死が響いているのさ。孔明の死後に起こった蜀軍の内輪揉めは、楊儀は操れても魏延を使いこなす自信がなかった費禕の謀略だったと僕は見ている。つまり、(費禕ではなく)楊儀さえいなければ魏延が健在で、蜀軍の軍事力はそれほど低下しなかった公算が高い」
A「蒋琬なら魏延を使い……こなせ、そうだな」
F「そう、彼は魏延が危ないと聞いて成都から兵を出し救おうとさえしている。まぁ、ンなことになった原因の一部も背負っているンだが、蜀の荊州人で魏延にいちばん近かったのが蒋琬のはずだ」
Y「孔明は、蜀の上層部を荊州人で占めようとしていた、だったな」
F「文武の両輪として魏延と蒋琬を期待していたのかもしれない。自分の死後も、魏延が健在で、蒋琬が後を継げば、蜀も荊州人政権も揺らぐことはない、と。そう考えると、メールで提示された『孔明と魏延は本当に仲が悪かったのか?』は、それほど悪くはなかったように思える。性格はともかく、能力は認めあっていたワケだから」
Y「その割には置き去りにするよう遺言してなかったか?」
F「殿軍というのは、戦場でもっとも過酷にして難しい任務だぞ。切り捨てる者ではなく、能力・忠誠心をもっとも信頼できる者にしか任せられん。そもそも、五丈原で屯田して長期戦を準備していた孔明が、自分が死んだからといって兵を引くよう遺言するとは思えない。あの一件をして『魏延が悪い』というのは、演義由来のタチの悪い思い込みだというのを思い出せ」
A「……何もかも、費禕が台無しにしたのかね?」
F「だからといって、責任を投げ出すわけにはいかないのが蒋琬の立場だ。ここで蒋琬は、孔明時代の荊州人優遇政策からの転換を謀った。益州に重きをおかれていた呉懿を魏延の後任として漢中都督に任じ、馬忠・張翼・張嶷・呉班といった益州人武将を昇進させている」
A「荊・益両州の人士をひとつにまとめることで、軍の再編をはかったのか」
F「そんなところだろう。この辺の人事には、蒋琬(当時は尚書令)の意向が影響しているはずだ。大将軍に任じられたのは235年だが、3年後までには再建作業にある程度見通しが立ったようで、劉禅は『暴虐な曹叡を討つ契機は、遼東が離反した今しかない。呉の動きを待って兵を出せ』と、漢中に向かわせている」
A「準備が整った……と判断したワケではなさそうだね、呉と呼応して動けってコトは」
F「毌丘倹が敗れたタイミングで蜀軍が本格的に動いていたら、さすがに仲達は長安を離れられなかっただろうから、その後の戦況にずいぶん影響したように思える。だが、劉禅でも蜀一国で魏に対抗する無謀さはわきまえたようでな。さすがに慎重になっていたようだ」
Y「5回も失敗したらバカでもわきまえるわ」
A「やかましいわ!」
F「泰永、暴言はやめるように。ともあれ、『呉の動き』を待った蒋琬は、ずいぶん待たされることになる。その間に、"当先鋒"廖化が魏の陣営にちょっかい出したり、異民族が降ってきたり……と、いろいろあったりする」
A「その『いろいろ』には触れないワケな」
F「ところで、と云おう。その『いろいろ』でいちばん重要なのが、皇后の死と立太子かな」
A「ん? お后さま、いたンだ」
F「皇帝なんだから、いてもおかしくないだろうが。劉禅は即位した年(223年)に、張飛の娘を皇后に立てている。ところが、237年にこのお后さまが死んだ」
A「死因は?」
F「不明だ……が、老衰ということはないだろう。年齢の明記がないから張苞の姉か妹かは判らんが、劉禅とはそれほど年が離れていないはずだから。このお后さまを劉禅は至極気に入っていたようで、劉禅は、彼女の妹を改めて皇后とした。……ただし、同じ頃に皇太子にたてられた劉璿は、いずれの子でもないが」
A「誰の子なんだ?」
F「姉の侍女に手をつけて産ませた子だ。手癖が悪いのは、この時期の3人の皇帝に共通のようでな」
A「……何だかなぁ」
F「ともあれ、蒋琬が待ち続けていた『呉の動き』は、実に3年後のことになった。次回『私釈三国志』第138回『呉国兵乱』」
Y「また負けるのか、あのボケ君主」
F「続きは次回の講釈で」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る