私釈三国志 134 明帝崩御
F「時系列という建前で云うなら、すでに呉の呂壱について触れていなければならないンだけど、それはひとまずさておいて、歴史を少しさかのぼる。孔明の死を誰よりも悲しんだのが誰だったのかはともかく、誰よりも喜んだのは曹叡だった」
A「いくら敵とはいえ、ひとが死ぬのを喜ぶなよ……」
F「無理もないと云えばないだろう。何しろ、西側の軍事的脅威が喪失されたンだ。単純に四方に敵がいるとした場合でも、その一方が無力化に近い状態に陥った。総帥・副司令・文官のトップが死に、戦闘継続どころか長期に渡って出兵できないだけの人的被害を出したンだから」
Y「もともと国力としては劣勢だったンだから、補填のしようもないか」
A「劉備の死に前後して、人的資源の層があまりにも薄くなってしまったからねェ……」
F「というわけで、曹叡は西方方面軍の縮小を実施。総帥・司馬仲達を洛陽へと召喚し、軍勢もある程度連れて来させたらしい。……もっとも、コレは孔明の死から数年後だが」
Y「だったな」
F「曹操が死んだ折には、劉備は弔問の使者を出した。劉備が死んだ折には、魏の文官たちが孔明に降伏を勧告している。だが、孔明の死後に外交的なものは起こっていない。弔問が来ないのはやむを得ないにしても、喪に乗じた降伏勧告もしていない」
A「孔明が死んだからって、蜀が降伏するはずないじゃないか」
F「孔明存命中に、曹叡自らの名義で降伏勧告文を送りつけているのに、効果がなかったようだからな。とりあえず、曹叡は孔明の死を喜びはしても、その気に乗じるような真似は軍事的にも政治的にもしなかった」
A「というか、喜んだのか?」
F「でなきゃ説明がつかないことを始めるンだ。まず、許昌・洛陽に宮殿を建設する。それも、ひと棟ではなく大量に」
Y「君主権の象徴として宮殿を設営するのは間違いではないだろう?」
F「いつだったか、蕭何が『皇帝ってのは立派な建物に住んでないと威厳が保てないんですよぉ』と云ったのを見たが、考えそのものはずれてはいないな。ただ、孔明は死んだが蜀はまだあり、呉・燕も健在の当時だ。急いで宮殿を設営する理由や必要性があったかというと、やや疑問がある」
A「タイミングとしてはおかしいンだ?」
F「かなりな。いちおう、説明がつけられないこともない。許昌は曹操時代の本拠地で、献帝をこの地に留めていたことで許都とも呼ばれていた。その後、魏朝成立後に帝都は洛陽に戻ったが、この二大拠点で宮殿設営という公共事業を行うことで、経済の活性化を図った……という見方もできる」
A「……現代用語で説明されても、ちょっと反応に困るンだが」
F「曹叡は、馬鈞を総監督に任じて、建設工事にあたっている。演義の記述『建設業者三万人以上、民間の労働者三十万人以上を動員して、昼夜を問わずに工事を行った』はさすがに云いすぎだろうけど、正史でも『労働者は5ケタにのぼり、大臣から小役人まで労力を提供しない者はなく、曹叡自ら土を掘って運んだ』という記述がある」
A「お前、何やっとんね!?」
F「実際に曹叡がスコップを手に工事に加わっていたかはともかく、当然、工事にかかる費用は国庫から出さねばならない。が、魏にはそれを賄える経済力があった」
A「国力があるからねェ……」
F「もともとの地力もそうだが、西方軍の縮小で軍事費も抑えられるンだ。張茂という文官が『軍はいるだけでも金がかかります』と上奏しているが、軍にかかっていた金を公共事業を通じて民間に還流し、経済を活性化させようとした、国家プロジェクトによる経済政策だった、という考え方だ」
A「ピラミッド建設は奴隷の手によるものではなく、国家事業だったって説と似たようなもの?」
F「というか、そのもの」
Y「曹叡は、経済的にも名君と呼べるレベルだったと?」
F「……残念ながらそうは云えんのだよなぁ」
Y「何でか」
F「単純な話だ。本心としてそういう考えを抱いていたとしても、残念ながら結果に結びつかなかった。ピラミッドとは何だったのかはともかく、宮殿の場合は、あっても民衆の生活には寄与しない。魏の民にしてみれば、作ったら作るだけ生活にはマイナスなんだよ」
A「産業にも生産にも関わってこない建物を作らされているンだからねェ」
F「モンゴル軍が、アラブの街を征服した折に、モスクの中で馬を飼っていた……という説話があるが、宮殿だとそういう使い方もできない。しかも、タイミング悪く農繁期で、この事業に人手と時間を奪われた民衆は、演義に書かれたように、曹叡への不満を募らせてもおかしくあるまい」
A「逆恨みとは云えないね」
Y「……むぅ」
F「弱り目に祟り目は世の常で、その年のうちに洛陽で火事が起こり、宮殿のひとつが炎上。その前から大臣たちが『戦争が終わったばかりなのですから、いまは民衆を休ませるべきです』と奏上していた(つまり、『民衆を休ませ』ていなかった)けど、曹叡はそれを聞き入れなかった。……奏上した者を罰したりもしなかったが」
A「さすがに、それをやった時点で暗君だよ」
Y「やかましい」
F「火事があったのは235年だが、237年には地震と兵火の両方に見舞われている。5月12日に洛陽で、規模・被害状況は不明だが地震があった。正史に記載されるくらいだから、小さなものではなかっただろう。また、7月には朱然率いる2万の呉軍が江夏を攻撃し、コレは退けたものの、直後に第一次遼東討伐戦の失敗がある」(131回の該当箇所は修正しました)
A「天災と人災が相次いだワケか」
F「さらに、遼東を討伐するパフォーマンスとして、北方の州で船を造らせたのは132回で見た。その237年9月に、魏の東部が洪水に見舞われている。冀・兗・徐・豫州とあるから淮水があふれたようで、水難にあった者や財産を失った者に官庫からの救済を行った……とある」
A「作った船が救助に大活躍かな?」
F「外洋船でもこういう災害に使えるか判らんが、ちょうどよく船があったのは事実だな。238年の末にやもめ・未亡人・孤児・老人に食糧を配給しているのは、それまで救済作業は続いていたという考え方もできる」
A「尋常ならぬ被害だったみたいじゃね」
F「曹叡の治世は13年だが、ほぼ毎年起こっていた人災・兵乱はともかく、天災も少なくないンだ。230年には雨が降らずに旱魃が起こり、231・233年には日食が起こったとある。234年には疫病が流行し、この年にも地震があった。火元は書かれていないが、火災で宮殿が焼けたのも一度ではない。……ちょっとまとめるか」
曹叡の治世(年内では順不同)
226年 即位
江夏・襄陽に呉が侵攻227年 孟達の叛乱発覚(討伐は翌年一月) 228年 第一次・第二次北伐
石亭の戦い229年 第三次北伐
孫権が皇帝を自称
大月氏の朝貢230年 曹真らによる蜀侵攻
魏延の雍州侵攻
10月以降雨が降らず旱魃が発生
卞太后(曹操の后)が死去231年 第四次北伐
阜陵の戦い
日食が起こる
皇子が誕生232年 皇子が死去
曹植も死去
廬江の戦い233年 第一次合肥新城の戦い
弟が死去
日食が起こる
宮殿で火災発生
軻比能の兵乱234年 疫病の発生
宮殿で火災発生
第五次北伐
第二次合肥新城の戦い
地震が起きる
献帝・孔明が死去235年 洛陽で疫病が発生
関連は不明だが郭太后(曹丕の后)が死去
隕石が落下
宮殿の造築ラッシュ
宮殿で火災発生236年 陳羣・董昭が死去
高句麗の朝貢237年 毛皇后に死を給う
地震が起きる
呉の江夏侵攻
第一次遼東討伐
洪水発生238年 第二次遼東討伐
倭人の朝貢239年 正月一日、死去
Y「改めてまとめると、ずいぶんと激動な生涯だったンだな」
A「でも、災害が頻発するのは、ろくでもない君主が世を治めているからだ……だっただろ?」
Y「云うな」
F「地震や日食はともかく、疫病や旱魃は魏での天災だ。ほぼ毎年の戦火と重なって、民の怨嗟が募っていたのは想像に難くないな。自分に反発した大臣たちを、それでも斬らなかったのには、どこか後ろめたいものがあったンだろう」
Y「うーん……」
F「さて、曹叡の犯したフォローの余地のない過ちが女性問題だ」
A「血筋じゃないのか?」
Y「……やかましい」
F「云われてみれば、祖父や父に原因を求められるか? ふたりとも女癖はずいぶん悪かったが、曹叡も思わしくなかった。帝位につく前は平原(地名。劉備がいち時期治めた)で王位にあったが、王妃ではなくお気に入りの女官を、即位後に皇后に立てた。それも、平原王時代から、王妃ではなくその女官を車に同乗させていたとある」
A「手癖の悪さは親譲りか、祖父譲りか」
Y「いらんところまで似なくてもよかろうに……」
F「皇后に立てられなかったもと王妃は、当時健在だった卞太后(曹丕の母。230年没)に慰められても、機嫌を直さなかった。まぁ、並の説得ではおさまらないのも判るが、こうまで云って反発している。判りやすく書き下して引用しよう」
『そもそも亡き武帝陛下(曹操)といい文帝陛下(曹丕)といい、ろくでもない家柄の女を皇后に立てるのがお好きですものね! 皇后は奥向きを取り仕切る重要な役割であり、皇帝の政務にも匹敵する重責です。道理に従って后も立てずに、王業を成就させ良い結末を迎えるなど、いまだかつてありません! きっとこのことが、国家を滅ぼす原因になります!』
Y「台詞長いよ」
F「もと王妃は、国元に帰された」
A「それで済んだだけ御の字だよ……」
F「かくて立てられたのが毛皇后だが、もともと、後宮の女官だっただけに『ろくでもない家柄』というのは、あながち間違っていないのかもしれない。のちに皇后となる郭夫人はどこぞの豪族の出自とあるが、家柄がどれくらいのものか判らないンだ」
Y「地方とはいえ王にある者が、どうして女官に手をつけるかね? いや、歴史的では枚挙にいとまがないが」
F「パターンとして、下々の素朴さが高貴な男に受けた、とかいう話じゃないかな。ところが、男が帝位についてしまうと、その素朴さがむしろ粗野に思えるのか、寵愛が薄れるのもひとつのパターンだ。さっき云ったが、地方の豪族だったのに身分を剥奪されて後宮に入っていた郭夫人を、曹叡が気に入ってしまう」
A「で、同じことが起こる?」
F「毛皇后への寵愛は日に日に薄れ、曹叡は郭夫人にべったりになってしまう。ある日(演義では237年3月)曹叡は、後宮の庭園で花見の席を催し、女たちを集めて乱痴気騒ぎを起こしていたが、その場に毛皇后はいなかった。皇后さまを呼ばれては……と勧める郭夫人に『アイツがいると酒がまずくなる』と突っぱね、皇后には教えないよう通達したほどだ」
A「愛されてないなぁ」
Y「その台詞やめろ!」
F「ところが、どこから漏れたのか毛皇后はその宴会のことを聞きつけた。演義では、曹叡が顔を出さないから鬱々して、気晴らしに花見をしていたところ、曹叡のいる花見の席を見とがめ、だがそのまま引き下がっている。都合が悪いのかご都合主義なのか、翌日曹叡に出くわした毛皇后は、あろうことかこう云った。判りやすく書き下して引用しよう」
『ゆうべはおたのしみでしたね』
Y「ドラクエか?」
F「毛皇后は、侍女(が漏らした、と曹叡は誤解した)十人以上もろともに死を賜った」
A「……男って奴は」
F「それでも諡号を与えて陵に葬られているし、弟も昇進している(後年、左遷されたが)から、毛皇后への愛は薄れていても惜しんだ形跡はあるね。皇帝としてよりは、ひとりの男としての過ちだな」
A「その程度じゃ皇后サマの御霊は安らぎませんのだ」
F「羅貫中もそう考えたようで、遼東で公孫淵が死んだ演義106回の中盤、毛皇后が侍女たちを率いて化けて出て『いのちをかえせ〜、いのちをかえせ〜』と曹叡を呪っている。正史では12月8日に突然病に倒れているが、演義で曹叡が病気になったのはコレが原因」
Y「お前がこの辺を読んでないから、幸市自らフォローしないといけんじゃないか」
A「だって〜……」
F「こうして見ると、曹叡という君主の最大の欠点は若さだな」
A「幾つだっけ?」
Y「実年齢は不明。というか、正史に没年はあるが生年が記述されていない」
F「曹叡の出生については『私釈』106回で見た通り、陳寿は明記せずただ没年・享年のみを記し、裴松之は『陳寿の記した年齢は書き間違いか?』としている。それはともかく、想像してみてくれ」
A「ん?」
F「四百年を数えた後漢から、禅譲を受けたのが曹丕だ。残念ながら早死にしたが、曹丕や曹操から受け継いだ国と人材をよく治め、曹叡は若いながらも優秀な君主と評価してよい実績を挙げた」
A「ふん、ふん」
F「ところが、曹操の代から受け継いだ敵国ふたつも健在だった。特に蜀との戦闘は激しく、将来を有望していい姜維を奪われ、曹真・張郃が死に、切り札として投入した仲達でも苦戦どころか敗戦を重ねる。このままでは西北部が危うい……と重臣たちは危惧したものの、曹叡は『むしろ南こそが心配です』と意に介さない」
Y「態度としては間違いではない、だったか」
F「そう、読みとしては正しかった。孔明が死に、魏延・楊儀が共倒れすると、蜀軍は撤退しているンだから。なのに、どーしたワケか曹叡は大喜びし、宮殿を建てると宣言。民衆は『この忙しいときに……!』と不満を抱き、重臣も反対を唱えたものの聞きいれなかった。のみならず、后を殺し新しい皇后を立ててしまう」
A「……孔明が死んで、理性のタガが外れたのか」
F「傍から結果だけ見ると、そうとしか思えないンだよ。若い頃からある程度の苦労を重ね、自分に取って代わりうる存在が常に後ろにいた曹丕なら、自分を抑えるすべを身につけていただろう。でも、曹叡にはその辺りの自制心が備わっていなかったようでな」
A「孔明が死んだことで、宮殿を建て始めたり后を殺したりではねェ……」
F「あの降伏勧告文書でも判るように、どうにも曹叡は、孔明を著しく敵視していたようでな」
「劉備は恩義に背いて巴蜀に逃げ込み、孔明は故郷の国を捨てて仁義にもとる逆賊の一味に加わった。神も人もみなその害悪を被ったが、悪行の累積で身を滅ぼすに到った。
だのに孔明は、益州の民を残虐に扱ったので高定らとの関係は瓦解し、彼らは孔明の仇敵となった。奴は貧乏生活が身についているのを立派だと誤解し、危険なことをするのを有能な証だと思っている。朕は即位してから民生の安定を求めてきたが、野郎のせいで台無しになりかけた。
その孔明が軍を出してきて辺境が動揺したが、ちょっと小突いたら壊滅しやがった。蜀の民よ、そんな奴は見捨てるがいい。孔明に脅迫されて下についているなら何もかも許す」
F「お若い皇帝さんの中では、軍事的・政治的には孫権のが強大でも、個人としては最大の敵手と考えていたのかもしれない。それが死んだせいで、暴走を始めてしまった」
Y「軍事的には優秀でも、人間として成熟していなかったのかね?」
F「軍事的才能というのは先天的なもので、将に天才はいても秀才はいないというのが通説だからね。だが、人生そのものは(後天性の)苦労続きだったはずなのに、ひととしての円熟さには欠けていたようでな。孔明の死を喜ぶのはいいが、喜びすぎて身体を壊すまで酒を呑んでの病気だったら、暴君ではないがアホウだぞ」
A「喜んでおいて酒を呑まないっていうのは考えにくいね」
Y「いや、呑みすぎるとはもっと考えられんぞ」
A「この子のおじいちゃんは、宴席で酔っ払って料理に頭を突っ込んだぞ?」
Y「いや、やったけどな!?」
F「酒癖が悪かった可能性は否定できないンだよ。こうして考えると、曹叡は曹丕より曹操に似ている。曹操は袁紹や漢王朝から受け継いだものを発展させ漢王朝を守り、曹丕はそれに上からの改革を加えて漢王朝を名実ともに過去のものにした。曹操が守成かというと考えこまねばならないが、曹丕は紛れもない創業のひとだ」
A「曹叡は、創業のひとではなかった?」
F「そゆこと。彼は君主として、明らかに守成に特化している。曹操・曹丕から"天下"も家臣も敵も受け継いだ曹叡は、これをよく治め、よく守り、よく使い、よく攻めた。だが、父からは短命の運命をも受け継いだようでな」
A「親子そろって歴史の神から嫌われていたのかね?」
F「そう考えねばならないだろうな。かくて、もと王妃の云うように、曹叡の死後に魏は破滅へと転落していくが、それはこの先見ていくことにする。ところで……」
A「来たな……」
F「曹叡の最期を、期せずしてどらまちっくなものにしてしまったのが仲達だ」
Y「あぁ、臨終シーンか」
F「先に云った通り、仲達は燕(+たぶん遼東)を1年で平定するつもりだった。ところが、あんがい手っ取り早く、8月末には(その時点での)ひと通りの決着がついている。出発したのは、明帝紀では『238年正月』となっているが、公孫淵附伝では『238年春』とあり、軍勢が幽州に到着したのが6月なので百日を引くと3月ごろと逆算できる」
A「戦闘も9月には百日か。その辺はほぼ予定通りだね」
F「ところが、曹叡の容体悪化から仲達を宮廷に呼び戻すことになった。間道を通って遼東まで早馬が走ったが、これが15日で到着できるのは以前確認した通り。曹叡が病に倒れたと聞いた仲達は、慌てて帰還しようとするが、その中途で病身の曹叡自ら記した手紙が届く」
A「早く戻れ、と……?」
F「すでに参内さえできる状態になかった曹叡は、寝室で仲達を迎えている」
「根性って、あるものですね……。君に会えるまでと思い、死ぬのを我慢していましたよ」
傍らに控える斉王・曹芳、八つ。秦王・曹詢、九つ。弱い目線を皇太子に向け、かすれる声で。
「コレはまだ八つ、見ての通りの子供です。どうかこの子を見守って、間違いを犯さないようにしてやってください」
「陛下は、先帝が陛下のことを私に託されたのをご覧になったではありませんか! すでに曹真様も曹休様も陳羣殿も亡き今、陛下をお守りできなかった私に、どうして殿下をお守りできましょうか……!」
力の入らない曹叡の手が、仲達の手を取る。その弱々しさに、仲達は思わず言葉を失った。
「……かつて、劉備は死に臨んで我が子を孔明に託し、孔明は死ぬまで忠節を曲げませんでした。彼にそれができたのですから、君にもそうあってもらいたいのです」
仲達に曹芳を抱かせると、幼い曹芳は仲達の頭にしがみついて離れない。わずかに笑った曹叡は、ふたりに向かって。
「芳、仲達を私と思いなさい。仲達、後のことは君に任せます。曹爽とふたり、幼い息子を補佐してください。私の病は重いですが……君に会えたのだから、思い遺すことはありません」
云い終わると涙にむせび、仲達もまた幼子を抱いて声もない。やがて曹叡は、わずかに曹芳へと手を伸ばし、そのまま息絶えた。
(正史・演義の記述から創作)
F「享年不明。だが、239年正月一日、魏王朝二代皇帝は崩御した。陳寿は云う。沈着にして剛毅、識見と決断力を併せ持つ優れた君主ではあったが、三分した天下の人々が疲弊していたのに大業を果たそうとせず、秦の始皇帝や前漢の武帝のように建築に没頭したのは、歴史的に重大な失敗であった……と」
A「やや手厳しい評価だね」
Y「晩節を汚した、とまで云っては云いすぎだろうな。だが、終わりをまっとうできなかったのは事実だ」
F「似たような評価を、即位直後に拝謁した劉曄が口にしている」
『秦の始皇帝、前漢の孝武帝のともがらではあろうが、資質では少なからず及ばんだろうな』
F「……ともあれ、曹叡は死んだ」
A「キャッチでやらなかったのをここでやると、何か響くものがあるな」
Y「まぁ、冒頭でやられるよりはマシか……」
F「続きは次回の講釈で」
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