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私釈三国志 133 倭人朝貢

F「ひとまず先に。先日来アンケートに協力していただき、まことにありがとうございます」
2人『ありがとうでーす』
F「その中で、実に93パーセントから『黄色は見にくい』とのご意見をいただきました。変えることにはしますが、コレでもまだ見にくいようでしたらご指摘くださいね」
というわけで紫色「単色じゃいかんのか?」
A「前のサイトからの伝統だしねェ……」
F「当時はお前がいなかったから、2色で充分だったンだがなぁ。人数増えているせいでこーいう思わしくない事態が事態が発生しているワケだ。さて、133回のタイトルは『倭人朝貢』ですー」
A「だから、日本国内で倭人とか朝貢とか云うな!」
Y「謹慎解除からいきなりぶっちゃけるが、お前のが問題発言が目立つと思う」
F「『邪馬台国』はできないって先に云ってあるだろうが。魏(大陸)から見ると、東方の小島の原住民が朝貢してきた程度のイベントなんだ。だが、日本国内で三国志を語る場合には、避けては通れないイベントでもある」
A「教科書に載るような三国志関連のイベントって、コレくらいだからねェ」
F「赤壁での戦闘や九品官人法も載っている教科書もあるはずだが……まぁ、いちばん肝心なものは無視するかたちで、邪馬台国について一回を割く」
Y「北狄・西羌・南蛮・山越については割と触れてきたが、ついに東夷にも手を出すか」
A「孔明の死後に起きた歴史的イベントでは、各国の滅亡並みに有名なものだしねェ」
F「この近辺の地勢については、がっこうでも習うから予備知識があるだろう。ために、いきなり突っ走る。曹操に通じたことで実質的なフリーハンドを与えられた公孫康は、楽浪郡の南方に帯方郡を作り、韓族などの蛮民をを討ち、倭人や韓人を帯方に属させている。楽浪は北朝鮮南部で帯方は南朝鮮の北部に相当するンだが、北朝鮮のさらに北部に高句麗という蛮民の国があった」
A「北の南部で南の北部……?」
F「だから、足りない頭を使うな」
A「むぅ〜……。とりあえず、日本国内で南朝鮮云うな」
F「実は、公孫氏の存在は高句麗にとって非常に都合のいいものだった。何しろ、魏が高句麗を討ちたくても、直前にいる燕を滅ぼさなければ軍は通れない。公孫淵が頑張れば頑張るほど軍事的脅威は薄れるので、朝鮮半島南部に食指を伸ばし、遠く倭まで支配下に置こうとしていたらしい」
A「帯方まで攻略しようと目論んだのか」
F「公孫氏にしてみても、この動きは黙認せざるを得ない。魏が侵攻してきた折に、背後から高句麗に攻められたら一大事だ。そこで、帯方以南の攻略は放棄していた節がある」
A「公孫淵でなくても、背後を衝かれたら戦争にならんからねェ」
F「しかし、曹叡はやはり切れ者だった。海路で楽浪・帯方に太守を派遣し、公孫淵・高句麗両者の南下を封じているンだ。これが『景初年間』とあるから、つまり237年から239年にかけて。前回云った通り、魏では大規模な策を用いて、北東部の軍事的脅威を排除しようとしていたようでな」
A「あー……ここでこうつながるンだ」
Y「そう考えると、公孫淵もあまり目は利かんな。南北からの挟撃を避けようとして、東西からの挟撃に見舞われては」
F「しかも、高句麗は仲達に呼応して数千からの兵を出したとある。236年にも魏に朝貢の使者を送ってきていたことからも、あっさりと公孫淵を見捨てていたのがうかがえるンだ」
A「燕がいなくなれば、東北域での覇権を握れると考えてかな」
F「そんなところだろう。それが判っているだけに、魏でも放置はできなかった。燕を平らげた余勢を駆って、そのまま高句麗まで侵攻するべきだったが、さすがに帰順してきた国を討つのは躊躇われたようで、この時点では攻撃していない」
Y「それが甘かったと痛感したのは、数年後のことで?」
F「うむ。242年に兵を挙げたものだから毌丘倹が動員されて、3年がかりで高句麗の王城を攻略している。どうせまつろわないなら早くに手を降すべきだったとは思うな」
A「対外的な宥和策はどーした」
F「こんな連中に甘い顔してもつけ上がる一方なのは、現代日本が実証しているぞ。ともあれ、燕王騒動が決着したのは8月23日だが、この年6月に、難升米率いる倭人の使者が、帯方に到着している」
A「……なんしょうまい?」
F「人名。なしめとも呼ぶようだけど、当時の日本語を表音したンだと思う。ヴァースディーヴァが"波調"になっているように、漢語にすると割と変になるので実名は不明」
A「誰だよ、ヴァースディーヴァ……」
F「大月氏の王。ちなみに、漢語の発音では、孫権は『すんちゅあん』で孫堅は『そんぢあん』で孫乾は『すんちあん』で孫倹(匡ひ孫)は『すんじあん』(少し違う)で孫謙(静末子)は『すんしあん』だ」
Y「知るか!」
A「アキラはだいたい読める!」
Y「中国語で云わんでもいいだろうが! 読者が混乱するか大笑いするぞ」
F「話を戻すが、洛陽の皇帝に朝貢したい……と倭人が使者を送ってきたのは、公孫氏の衰えを察したからのようでな。燕が滅んだら高句麗の南下政策に勢いがつくのは明白。高句麗の軍事的圧力から逃れようと、申し出てきたらしい」
A「戸惑っただろうねェ、太守のひと」
F「反応は書かれてないけど、たぶんね。とりあえず、難升米たちに兵士と役人をつけて洛陽まで送ってやったとある。ただ、襄平城の戦闘および長雨のせいもあってか、洛陽に到着したのは12月だが」
A「7ヶ月くらい……210日?」
F「日数の半分は戦禍による足止めだと思う。6月に帯方に到着し、戦闘が終わる(8月末)のを待って遼東に至れば9月そこらだ。洛陽まで100日という数字で計算すれば、ちょうどいいくらいだろう?」
A「なるほど」
F「まぁ、公孫淵の首級は9月10日には洛陽に届いているンだが。ともかく、曹叡はこの朝貢を喜んで、献上してきた男女の奴隷10人や反物に対し、数十倍の量の反物に剣双振りと銅鏡百枚、五十斤の真珠を下賜し、親魏倭王の金印を授けている」
A「……大喜びしてないか?」
F「貢ぎ物に対して数十倍の下賜品を給うのが朝貢外交らしいがな。あるいは直接の財貨ではなく通商権で応える場合もあるが、それでも今回は大盤振る舞いとしか云いようがない。たぶん、直前に遼東を平定できて機嫌がよかったンだろう。首級をもってきた早馬が、その辺りの報告も併せて携えてきたのかもしれない」
Y「勝利を寿ぐ使者と思われたのかね」
F「さて、難升米を送ってきた倭の女王が卑弥呼という。……知っているだろうとは思うが」
A「当然だろ、日本の歴史でいちばん有名な女性なんだし」
F「いちおう確認しておくと、もともと邪馬台国には男の王がいた。ところが、彼のもとでは政治が安定しなかったので『鬼道に仕え、よく衆を惑わす』卑弥呼を女王に立てて、国を安泰させた……とまぁ、日本史の教科書でも読み直してもらえれば、この辺のことは詳しく書いてあると思う」
Y「さすがにこの辺りは一般常識の範疇だろうしなぁ」
F「倭人に関する正史の記述は、原文ではおおよそ二千字(原稿用紙で5枚)くらいしかない。だが、古い時代の日本(正確には、まだ"日本"は成立していないが)の風俗を知る資料として珍重され、『魏志倭人伝』などと『魏志の中には日本について、独立した伝がある』と思わせる名称が流布しているワケだ」
A「実際には、東夷伝の中の数多い異民族のひとつでしかない……か」
F「その辺りの時代に関して、日本の側の史料があてにならんからね。日本書紀に『明帝の景初三年六月、女王は難升米を遣わし……』云々とあるが、景初三年(239年)六月だと、皇帝は明帝じゃない」
A「いや、年次が1年ずれてるだけであてにならんと云いきるのはどうなんだ?」
F「それについてはあとで見る。ともかく、アキラの云う通り、卑弥呼は女性としては日本史でいちばん有名だと云っていい。ただ、原初の女王ではあるが、問題の倭人伝にも『男は複数の妻をもち、妻たちは浮気も嫉妬もしなかった』とか『罪人の罪が軽い場合は妻子を没収する』とかあるので、女性の地位は高くなかったようだが」
A「卑弥呼だけが特別だった、と」
F「その卑弥呼は、さっき云ったように鬼道、当時の漢語で云えば仙術をもって女王に選ばれた。この"鬼"は幽霊や霊魂で、要するにシャーマンとしての業に長けていたらしい」
Y「占いが得意なんだったか」
F「倭人伝には、骨を焼いてその割れ方で吉凶を占うものは書かれているが、具体的に卑弥呼がどんな鬼道を身につけていたかは書いていないンだ。骨占いはあくまで『地元の風習』となっていて」
A「ないンだ?」
F「ない。ただ、卑弥呼というのは個人名ではなく日巫女、つまり太陽に仕える巫女ではなかったか、という説もある。例によっての表音表記説だが」
A「ふむ?」
F「この時代の日本は、縄文から弥生に移りゆく原始時代だ。大陸から伝播した農業は当然天候に左右されるので、太陽に関する卜占(要するに天気予報)をよくする女王のもとには農耕を始めた部族が集まり、狩猟・採取生活を続けていた部族はそれに反発した……とも考えられる」
A「はぁー……で、そのいさかいをいさめたのが魏で?」
F「えーっと、親魏倭王の詔が下されたのは238年12月。で、勅使が邪馬台国まで赴き金印を与えたのが240年とある。この勅使に、卑弥呼は篤く感謝した旨を報告してもらった。243年にはもう一度使者と貢ぎ物を送り、今度は難升米に旗が下賜されている。こっちは曹芳伝にも記述があるな」
Y「明帝紀に、卑弥呼の使者の記述はないンだったか?」
F「理由としては判りきっているが、ない。邪馬台国は近隣の狗奴国と戦争中だったが、魏は勅使を出してそれを制止している。これが247年のこと。曹芳伝によれば244・247年に日食があり『太陽が消えた(死んだ)ンだからお前も死ね』と日巫女は殺された……という説がある」
Y「突飛とは云いがたいな。卑弥呼がアマテラスだという説もあるから」
A「いつかも云ったけど、記紀にはアマテラスが女神だって記述はないぞ」
Y「……むぅ」
F「卑弥呼が何者だったのか、というのはさすがに三国志で検証すべき事項ではない。ともかく、卑弥呼の死後に邪馬台国では男王が立ったものの、国中従わなくて内紛が起こり、一千人以上死んだとある。人口が判らないのでどれくらいの被害かは不明だが、少なからぬダメージだろう」
A「そりゃ、それだけの内紛はまずかろうよ」
F「で、結局卑弥呼の親族の少女(当時13歳)を女王に仕立てて国をまとめた。そこで魏も使者を出し『よく国を治めるようにな』と諭した、とある。正史における倭人の記述はここで途絶え、その後に邪馬台国がどうなったのかは定かではない」
Y「いちおう、各王朝の正史に倭人に関する記述はあるンだろ?」
F「そうだな。晋書の時点ですでに邪馬台国の記述はないが、いちおう倭人伝はある。以降から隋書までは倭国伝、新唐書以降は日本伝(宋史のみ日本国)として記述があるな」
A「しんとうじょ……? じゃぁ、古唐書とかあるの?」
F「旧唐書だ。が、コレにはなぜか倭国伝と日本伝の両方がある。ちょっと触れたくないのが本音だな」
Y「……振ったのは俺だが、やっぱり詳しいな」
F「アンタのカミさんほどじゃないって。……ところで」
A「よし、来い!」
Y「何でやる気だ!?」
F「229年のことだが、長安にあった曹真辺りが中央アジア諸国に働きかけたようで、魏に朝貢が来ている」
A「……へ?」
F「当時の中央アジアで最大の強国が、現在のパキスタンに位置するクシャーン帝国。これが漢語では大月氏と称されたので、曹叡は国王ヴァースディーヴァ(波調)に『親魏大月氏王』の称号を送っている」
Y「ついさっき、似たようなモンを聞いたな」
F「そゆこと。229年と云えば曹叡即位からわずか3年後で、孔明の北伐が盛んだった時期だ。しかも4月には呉の孫権が皇帝に即位し、少なからず魏の威信に瑕がついていた。それを補うために『我らが天子には遠方から朝貢の使者が訪れるのだすげーだろ』と喧伝する意味で、大月氏の来訪を歓迎したンだろう」
Y「孫権の即位は4月7日……大月氏の使者が来たのは」
F「クリスマスイブだったとあるな。クシャーンにしても、呉と交流のあるパルティアとの関係を鑑みて、魏に使者を送ってきたンだろう。では、曹叡が卑弥呼を親魏倭王に任じたのはなぜか」
Y「理由……というか、目的があるのか?」
F「たぶん、まったく同じものだと思う。つまり、『我らが天子には遠方から朝貢の使者が訪れるのだすげーだろ』と喧伝することで、病の床にある曹叡の威信に瑕がつかないようにした」
A「病?」
F「実は、曹叡は12月に入ると病を発しているンだ。難升米が実際に謁見したのか判ったモンじゃないンだよ。それが発覚しないように、遠方の国が魏の威徳を慕って朝貢してきた……と喧伝しなければならなかった」
Y「実際には日本列島も統一できない程度の連中でも、国威発揚には利用できるワケか」
F「だが、それも虚しく曹叡の病は快方に向かうことはなかった。次回『私釈三国志』134回『明帝崩御』」
Y「お約束のタイトルだな」
A「待て。待て、待て、待て」
F「はい、何ですか?」
A「肝心なこと忘れてないか?」
F「『いちばん肝心なものは無視する』と最初に云ってありますが何か?」
A「……おや?」
Y「何の話だ?」
A「場所! 邪馬台国がどこにあったのか、大きく九州説と近畿説とあるだろ? コイツがどう考えているのかってすげー興味あったンだよ」
Y「……ふむ」
F「お前までそういう表情をするンじゃない。僕はその件に関して、口出ししたくないンだから。邪馬台国の場所が知りたかったら正史を読め」
A「正史に書いてないから議論が起こってるンじゃないかよ」
Y「書いてはあるぞ。距離か方角がおかしいだけで」
F「『私釈』始める前から云い続けているぞ、泰永。中国の歴史家が、歴史書に偽りを書くはずがないだろうが。親が殺されようが兄が殺されようが、史書の記述を変えないのが歴史家だ。逆に考えるなら、偽りを書いていたら殺されても仕方ない。ゆえに、歴史書には積極的な嘘はないと考えるべきだ」
A「……あの、すみません。魏志倭人伝に書いてある通り進むと、南太平洋に行くンですけど」
F「正確な地図がなければ戦争はできん。方角が間違って書いてあったり距離の単位が違ったりして、それを鵜呑みにして軍が負けたら史家が責任を問われるぞ。そもそも、魏の使者は卑弥呼に会って金印を下賜している。実際に行きついた使者が何のツッコミもしなかったのに、正史の記述が間違っているというおかしな前提での議論には、多少ならず距離を置きたいのが本音なんだよ」
Y「……云われてみれば、魏志倭人伝でしか存在が確認できない国について、魏志倭人伝の記述が間違っているという前提で議論しているのか?」
A「そこだけ聞いてると、何がしたいのか判らないンですけど……」
F「陳寿が聞いたら本気で怒るぞ、『お前の書いたものはあてにならん』と云われているンだから。それも、距離か方角がなんかおかしいだけで」
Y「年次が1年ずれてるだけであてにならんと云いきるのはおかしい……と、お前が云っていたか」
A「アキラが悪いですかっ!?」
F「だが、フィリピンに邪馬台国があられては僕も困る。ために、邪馬台国の場所に関して、僕は口出ししないことにしている。正史の記述がどうにも現実とずれているのに、歴史という棺桶に片足突っ込んでる僕の立場としては、それを信じざるを得ないンだから。正直、考えたくないンだよ」
Y「……態度はともかく、意見そのものは認めざるを得んのか?」
A「気持ちと理屈は判った……」
3バカ兄弟『うぅ〜ん……』
A「結局……この件は、考えない方がいいのかな?」
F「だから云っただろうが、無視すると。少なくとも三国志に関連しては、考えるべき事柄じゃない」
Y「お前がはっきり逃げを打つのも珍しいな」
A「気持ちと理屈は判るけどね……」
F「続きは次回の講釈で」

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