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私釈三国志 132 遼東平定

F「というわけで、叛乱多発地帯で叛乱すべくして叛乱した公孫淵だったが、先人や永楽帝を除く後人らとは異なり、当初は上手くいった。魏の側での内部問題があったとはいえ、毌丘倹の軍勢を打ち破るのに成功している」
A「田豫には負けたンだろ?」
F「その辺りは無視したンだろうね。公孫淵附伝(正史では魏書に公孫度の伝があり、康・恭・淵はその中に収録されている)には、田豫の出兵は触れられていないし」
A「まぁ、勝ちは勝ちか」
F「というか、前後関係だけで見るなら、功名心に駆られた毌丘倹が曹叡を突き上げて、それに乗せられた曹叡が『ヘビたくさん』と書いてある藪を棒でかき回したンだから、上手くいく方がどうかしている」
A「……むしろ、攻められた公孫淵に同情したくなるンだが」
F「魏が公孫淵を屈服させるタイミングを計っていたのは、間違いないと思う。孔明が死んで西側の守備兵を削減できると考えたのも間違いではない。問題は、ちゃんとした武将を選んで出せばいいのに、志願してきた毌丘倹をそのまま使った、やっつけ仕事みたいなモンだったことでな」
A「最初から、たとえば田豫が主力の指揮を執っていれば、負けることはなかった?」
F「そう考えていいな。とにかく、局地戦とはいえ公孫淵に白星をつけてやったのはまずかった。だが公孫淵の側でも、この一戦に勝ったのは、結果論で云うとまずかった」
A「魏に叛意があると公言したみたいなモンだからなぁ」
F「それは表立っていなかっただけで、周知の事実ではあったンだから知られても問題ではない。まずかったのは、公孫淵が増長したことでな」
A「調子に乗った?」
F「夜郎自大というか自分のブタは白いというか、毌丘倹を打ち破ったことで『俺は遼東の王だ!』という自覚(実力はあるので思いこみとは云えない)を確かなものとしてしまったンだ。魏から任じられていたのは楽浪公だったが、公の上には王がある。というわけで、(裏切っているのに)呉から受けた燕王の位を自称し百官を任じた」
A「完全な独立宣言ですね」
F「20年ほど前に失敗した叛逆者がやったのは、あくまで漢王朝の枠組みの中で漢中王を自称したものだが、魏の藩国でありながら魏ではなく呉からの叙任を名乗っては、同情の余地はない叛逆だな」
A「やかましいわ!」
F「問題は、この時の公孫淵がふたつの勘違いをしていたことにある」
A「話を進める前に劉備をフォローしろと云っていいか?」
F「しつこい子だね。公孫淵は、割と単純なことを考えていた。呉・蜀が健在の間は、遼東で好き勝手していても大規模な討伐軍は来ず、いち地方軍が来る程度だろう、と。事実、孔明が死ぬまで魏は公孫淵を事実上野放しにしていた」
A「理由としては、前回云ったように、公孫度時代から遼東に割拠していた公孫氏の勢力を侮りがたく思って?」
F「そゆこと。公孫度・恭はともかく、公孫康は袁家を滅ぼした功労者だし、公孫淵本人も呉の使者を斬り魏に誼をつないだことで大司馬に任じられている。そう簡単に手出しはできない……というのが魏の宮廷の考えだった。加えて、公孫淵は公孫康の二男だが、康長男の公孫晃は袁尚たちの一件から宮廷に出仕している。不肖の弟はこの兄を恃んで、いざ出兵論が起こっても兄ちゃんがフォローしてくれる……と考えていたようでな」
A「政略的には、割と考えが回るンだな」
F「ところが、勘違いそのいち。公孫淵は、毌丘倹の出兵を毌丘倹独断でのものと思っていた」
A「……は?」
F「つまり、地方軍が来たと考えていたンだ。藩国とはいえいちおう自立している公孫淵を、目障りに思った新任の幽州刺史が、手勢を率いて攻め入ってきた、と。田豫や王雄の北狄対策をみていると、地方の太守には、自領内でのある程度(国益に反しない範囲)の軍事活動が黙認されていた形跡がある」
A「攻められはしたけど、魏そのものに攻められたわけではない……と思いこんでしまった?」
F「そう考えさせた原因の一端が毌丘倹にある。率いていたのが『しばらく使っていなかった幽州の兵』だから、それほどの数ではなかったらしい(正確な兵数は不明)。毌丘倹の敗因は公孫淵を侮っていたことに終始するが、ハナから勝てるだけの戦力がなかったようでな」
A「間抜けにも程があるが、どっちがより間抜けか判断がつかんな……」
F「だが、腐っても毌丘倹は魏の任じた幽州刺史だ。それを打ち破ったことで、公孫淵は『魏は俺を止める意思はなくなっただろう。燕における覇権を認めざるをえまい』とでも考えたようで、鮮卑の単于に印璽を送り、魏の北方を襲わせた。本格的な"四国志"成立に乗り出したような状態だ」
A「……この頃、呉や蜀が積極的に動いた形跡は?」
F「ん? えーっと、呉では問題の呂壱が幅を利かせて、結局斬られている。蜀は廖化が郭淮と一戦交えているが……コレは9月だな。積極的な外征が起こった記憶はないぞ」
A「じゃぁ、何で魏が手をこまねいていたンだ? 曹叡が先手を取られたのが判らんぞ」
F「優秀じゃないのはお前だな、アキラ。第一次遼東討伐戦が失敗し、魏は本腰を入れて公孫淵を討つことにした。そこで、西方前線から仲達が呼び戻されている。で、実際に公孫淵討つべしと命じられたのは238年春」
A「何でそんなに時間がかかるンだ?」
F「マジで云ってるか? 距離を考えろ。かつて洛陽の民衆は、1ヶ月かけて長安まで歩いたンだぞ。民衆よりは統率がとれているとはいえ長安−洛陽間を移動するのには、だいたいそれくらいはかかるということだ。本人が『往路百日』と云っているが、魏・代・趙を経て燕に仲達率いる軍勢が到着したのは6月だった」
A「あー……当時の軍勢が移動するのって、それだけ時間がかかるのか」
F「距離がそのまま防壁となるのが、燕で叛乱が多発した原因の一端なんだよ。徐州−揚州間や荊州の北部が移動しやすい地形なのは130回の1で見た通り。反面、これまでの益州からの侵攻および益州への侵攻は、そのほとんどが失敗している」
A「地勢的な問題で、大規模かつ高速な兵員移動はできなかった……と?」
F「水路を使うか北方系異民族なら話は別だが、少なくとも仲達はそれをできなかったことになるな。そんな仲達の軍勢が到着するまで毌丘倹も粘っていたが、もともと『呉・蜀との戦闘に使っていない兵を使わせてくれ』と奏上している。至近の軍が踏みとどまって燕軍に抗戦するという雰囲気だったンだろうな」
A「で、実質北方は公孫淵の手に落ちた……」
F「とっとと燕王討つべしとの声が強くなったのは考える余地はないな。なお、前回見た、その声を最初から上げ続けていた男の名は公孫晃
A「お前、何やっとんね!?」
F「大事なことなので何億回でも繰り返します、儒教などクソ喰らえ。さて、仲達が来たことでふたつの勘違いに気づいた公孫淵は、慌てて迎撃の準備を整える一方、外交を駆使して危機を脱しようと目論んだ。公孫淵はいろいろと問題のある男だが、孫権を欺き財宝と1万の兵を奪い取ったほど外交センスは確かだ」
A「……そういう表現もできるか」
F「袁紹に北狄から劉虞の残党までことごとく敵に回したコーソンさんとはえらい違いだな。具体的には、呉に使者を送ってかつてのことを詫び、援軍を求めながら、魏の宮廷にも使者を送っている」
A「聞く耳あるのか? 両方」
F「魏にはなかった。というか、正史の注には、燕の使者がもってきた書状(公孫淵が配下に書かせたもの)が引用されているンだが、書き下してまとめるとこんなモンでな」

「遼東は夷狄に接し、戦火が収まることはなかった。孔子は『管仲がいなければ、我らは夷狄の風俗に従うことになっただろう』と云っているが、その遼東をはじめて収め、管仲に等しい功をあげたのが公孫度だ。都の天子を思い、国家を思い、動乱を鎮め武帝(曹操)に『海北の地は子々孫々に渡ってお前が治めろ』と絶賛されたのが公孫康だ。そして、父祖より軍と才徳と忠義の心を受け継ぎ、孫権の使者を斬りその野望を退けたのが公孫淵だ。なぜ遼東を攻めるというのか。我らに怒りを向けるなら、我らの罪状を云ってみろ。攻めるべきは夷狄の者どもであろう。公孫淵は金城鉄壁の城壁と一致団結した軍民と、豊富な国力と武器を有する。天下をのし歩くことも可能だのにそれをしないでいたのだぞ。攻め入ってくるのなら、蜀と呉のことを忘れるなよ」

A「何云ってンだ、こいつは?」
F「かなり過激な文章なんだ。僕の要約がまずいというのではなく、純粋に内容が悪い。何度も通じて読み返したが、結局ケンカを売っているようにしか見えなかった」
A「そーかよ……。孫権は?」
F「もちろん、その使者を斬り捨てようとするンだけど、家臣が止めた。ここはかつての恨みを忘れ、兵を出して公孫淵に恩を売るべきである、と。魏が負けた時は敗残兵を叩き潰し、戦況が膠着していたら近隣の住民を連行してくれば、先年の雪辱となるだろう……という進言に、孫権はなるほどと納得したとある」

「仲達は向かうところ敵なしの勇者なので、深く憂慮している。もう一度使者を送ってくるがいい、その指示に従おう。我が弟・公孫淵と喜びも悲しみもともに味わい、存亡を共にしたい。たとえ死ぬことになってもワシは満足だ」

F「こんな書状を送り返したらしい」
A「まただまされたのか……」
F「さて、改めて遼東に兵を出すことになった魏では、割と大規模な策を用いている。青・兗・幽・冀州に動員令を出して、外洋航海に耐えうる船を造らせたのね(兗州は海に面していないが黄河がある)。通常、こういう軍需品は敵国に判らないよう作るので、史書には載らない場合が多く、載っても実際に作った年代からはずらして書く。現に、諸葛亮伝で連弩について触れているのは孔明が死んだあとだ」
A「いつ作ったか、は明記されないモンなのか」
F「ところが、海船を造っていますと喧伝している。これは、公孫淵に海路での攻撃を意識させ、その戦力を分割させる狙いがあったと考えていい。現に、昨年の戦闘では水軍が田豫にコテンパンにされているので、警戒しないわけにはいかない。実際には別のことに使うハメになったようだが、それはともかく、海から攻めると大々的に喧伝しておいて、仲達率いる軍勢は百日かけて毌丘倹と合流。遼東へと侵攻した」
A「海路から攻めると思わせて、陸路から兵を出した……か」
F「出陣前に、仲達は曹叡から『公孫淵はどんな策で抵抗するでしょうね?』と諮問されている」

「彼にとって最良の策とは、襄平の城を捨て逃げることです。ですが、智恵者でなければ城を捨てることは思いつかないでしょう、アレがそれに思い至るとは思えません。遼水(川)を根拠として防衛するのが中策。下策としては、襄平にこもって我が軍を待ちうけるものです。そうなったらワタシが生け捕りにしてみせますよ。しかし、このたびは我が方が遠征する立場にあり、持久戦は好ましくありません。先手を打って遼水を突破し、勝負をつけましょう」
「それは頼もしいものです。それで、どれくらいかかりますか?」
「そうですなァ。往路百日、戦闘に百日、復路も百日、六十日を休息にあてて……まぁ、一年というところでしょう」

A「さすがは、陸遜にも引けを取らぬ当代随一の智将……」
F「ちなみに、率いた軍勢は4万(+毌丘倹の軍勢)。家臣(内容からしてたぶん孫資)は『多すぎて戦費が賄えません!』と主張したンだけど、曹叡は『戦場での采配は仲達に任せるのだから、我らが考えるべきは彼が戦いやすい状況を作ってやることになる。金を惜しんで勝てると思うな!』と突っぱね、この軍勢を率いさせた」
A「……これじゃいつも、孔明でも負けたワケだ。優秀な武将の能力を遺憾なく発揮させる、優れた君主。孔明の足を引っ張っていた劉禅とは比べ物にならん」
F「曹叡の軍事的才覚は確かなものだったと云えよう。さて、公孫淵は仲達曰く"中策"に出た。配下の卑衍を遼水に派遣して、先年毌丘倹を破った地に陣を構えさせ、二十里以上に渡って塹壕を掘らせている。その上で兵を出して魏軍に挑ませたが、これはあっさり撃破された」
A「全体的に武将の質が往時より圧倒的に落ちているとはいえ、そんな武将で仲達の迎撃に出るとは……」
F「卑衍を破った魏軍は塹壕をブチ抜いて東南に向かった……とある。つまり海岸線を進むことで、先年来用意していた軍船と合流すると思わせたワケだ。当然、卑衍は迎撃責任者の立場上、遼水の陣を捨てて追撃しなければならない。それを見てとった仲達は、突如として針路変更し、一路襄平へと向かう」
A「翻弄されてるな」
F「夜間に襄平城が不安になったため、卑衍は城に撤退しているンだけど、仲達率いる魏軍が侵攻してくると再び迎撃に出された。そこで、死力を尽くして戦うもさんざんに打ち破られたとあり、たぶん戦死している。そんなワケで公孫淵は襄平城に立てこもるという"下策"を余儀なくされた」
A「どんどん追い詰められていったワケか」
F「手を緩める仲達ではない。城壁の下まで進軍すると塹壕を築いた。すると三十日近く降り続くことになる長雨が始まり、遼水が増水して輸送船が城壁の下まで来れるようになってしまう。『コレはちょっとまずいンでないですか?』と宮中の文官連中は曹叡に撤退を求めるンだけど『仲達は臨機応変の戦術に通じています。公孫淵を捕らえるのは時間の問題でしょう』と相手にしなかったという。期待されている現場での仲達は、雨があがるまで待ってから土山・櫓を築いて、その上から弩を射かける長期戦の構えを見せている」
A「攻める立場にあるのは孟達戦と同じでも、速攻作戦と持久作戦を使い分けられる辺り、臨機応変な戦術を身につけているワケか」
F「長雨が『短期決戦が好ましい』としていた開戦前の戦況を一変させたワケだ。あるいは、昨年毌丘倹を破った公孫淵(か、卑衍)の手腕を買いかぶっていたのか。卑衍を討ち、連戦して実働部隊を叩き潰したと判断したようで、城を包囲する戦法に出た。コレには公孫淵どうすることもできず、食糧は尽きるわ部下は投降するわで、文字通り戦にならない。ついにひとを送って『息子を人質に出すので、降伏を入れてもらいたい』と申し出るンだけど、仲達は毅然としてこれを撥ねのけている」

「戦争には5つしかない。第一に攻められるなら攻め、第二に攻められなければ守る。第三に守れなければ逃げる。第四に逃げられねば降る。第五に降れねば死ぬ! 人質などでごまかせると思うな!」

F「8月23日、公孫淵は息子を連れ騎兵を率いて魏の包囲網を突破。東南へと逃れようとしたが、追撃を受け捕らえられた。正史では8月7日、演義では6日前に流星が落ちたンだけど、ちょうどそれが落下した場所だったという」
A「できすぎたオハナシで」
F「公孫淵は息子ともども斬られ、洛陽で獄につながれていた公孫晃も処刑された。遼東をはじめとする四郡は平定され、公孫度以来4代50年に渡る、遼東での公孫氏政権はここに途絶えたことになる」
A「相手が悪かったな。……はいいが、アニキはどうした? 結局、呉は救援を出さなかったのか?」
F「笑顔で握手しながら相手の足を蹴飛ばすのが孫権だぞ。そもそも孫権をいさめた家臣が、仲達が勝っている場合のことを想定していなかったンだから、この時点で動くワケがない。仲達が洛陽に凱旋したのは翌年正月だが、孫権はその年3月に、兵を遼東に差し向けて魏の守将を討ち、住民を強制連行している」
A「……何とかならんか、この皇帝サマは」
F「やることなすことどうにも狡いね……。ところで、攻略される前の遼東で奇妙なことがあった、と正史・演義のいずれでも記述されている。相手がお前ひとりだと、がくぶるされるとちょっと困るンだが」
A「またそーいうネタ!?」
F「うむ。御釜でごはんを炊いていると、どうしたワケか中身が赤ン坊になっていて、蒸し殺されていた」
A「みぎゃーっ!?」
F「自分の子供を蒸し焼きにして主に献じた料理人の話があったな。それはともかく、犬が頭巾をかぶって赤い着物を身につけ、屋根の上にあがったりしたともある」
A「あぁーうぅーっ……どーして食人イベントが多いのー……?」
F「さて、襄平の北で生肉を売っているお店があったンだけど、そこに、長さ・太さがいずれも数尺、頭と目と口がついていて、手足がないのにゆらゆら動くお肉があった」
A「捨てろ!」
F「占い師が呼ばれたンだけど『形はあってもできあがっておらず、肉体はあっても声がない。こんなモノが現れる、縁起の悪い国は滅ぶであろう』と予言する」
A「いや、縁起が悪いのは誰の目にも明らかだから! 占い師わざわざ呼ばなくても! つーか来るなよ、管輅!」
F「誰かは記述がないンだがな。この辺りの不吉な兆しを理由に、公孫淵に自制を求めた家臣もいたンだけど、聞く耳もたじと斬り捨ててしまったらしい。この生肉には耳がなかったのもうなずけるな」
A「……眼はあっても見えてなさそうだしな」
F「続きは次回の講釈で」

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