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私釈三国志 130 諸葛孔明

4 駄目親父
F「ここで、一度方向転換して、私人としての孔明を見ておきたい」
A「プライベートに関して?」
F「家庭人としての孔明がかなり失格だというのは、改めるまでもないと思う」
A「改めろ!」
F「割と早くに結婚したのに、定職に就いたのは27歳。なのに士官後は働き続けで、54歳で過労死するまでほとんど家庭を顧みず、死後に多くは財産を残さなかった」
Y「思えば、どこまでも日本人に好かれる男だと云えよう。プライベートをなげうって仕事しごとで挙げ句の果てに過労死しては、働くのが好きで好きでたまらない日本人に受けないはずがない」
F「本場での評価が日本でほど高くないのも無理からぬオハナシだね」
A「コイツはともかくヤスも日本人でしょー!?」
Y「最近、ロシア人になりたい気がするようになってきてな」
ヤスの妻「ひとのダンナを左に左にひっぱらないでくれるかな」
F「僕のせいか? まぁ、泰永はともかく。話を戻すが、実子が生まれたのもかなり遅くて46の時だ。小なりとはいえ国を率いる宰相としては、ちと遅いと云わねばならない数字だな」
ヤスの妻「その通りだね、ヤス」
Y「うむ、孔明は家庭人としては失格だった」
A「やかましい!」
F「昔『暴走族は早くから子供を作るから、少子化対策にヤンキーを養成しよう』というブっ飛んだ雑誌記事を読んだことがあるが、元ヤンの劉備もどうしたことか、46まで子供を得られなかった。偶然とはいえ符合したな」
A「この主従は、そンなとこまで似なくていいのに……」
ヤスの妻「そうだよね。早いうちに子供は得ておくべきだよね、ヤス」
Y「……その通りだな」
F「曹操が長子を得たのは三十代だから、ハタチ前後で孫策が生まれた孫堅だけが早かったと考えるべきかもしれないけど、このふたりはちょっと遅すぎだな」
怒られている妻「三十路近くになってまだ妻を孕ませられないのは、男の甲斐性としてどうなんだって黄承彦さんが怒らないのが不思議だよね、ヤス」
甲斐性ナシ「さっきから何を云いたいンだ、お前は!?」
ヤスの妻「やだ……ヤスったら、女の口からそんなコト云わせる趣味があったの? えーじろに毒されるのもたいがいにしないとお義父さんみたいになるよ」
Y「ひとの義弟と父親悪く云うなよ!」
A「……あの、そこの夫婦が脱線してるンですけど」
F「儒教を標榜するつもりはないが、当時では家を残すために、ある程度早くに子を得ておく必要があったンだ。感心はしないが、子供がいないと家が途絶えるのは事実で、ために子供を産める出戻り・未亡人が重宝されたのは以前見た通り。月英さんが初婚だったら、子供がそう簡単に得られなくても無理はないな」
初婚でしかも年下「……むぅ」
Y「さすがだ、さすがだぞ幸市。コイツの口を封じられるのは、日本狭しといえどもお前くらいだ」
A「ホントに何でこのヒトと結婚したのさ……」
ヤスの妻「ふふふっ♪」
Y「笑うな!」
F「なぁ、その辺のやり取りカットしていいか? 行潰しにもならんくらいしょーもないンだが」
ヤスの妻「面白いから残そうよ」
Y「お前が云うな!」
F「はいはい、行のムダ行の無駄。いまなら子供ができないと不妊治療とかあるけど、当時の医療水準ではそれも望めない。皇帝が多くの婦女を囲ったのにも、数を撃ってアタりを引こうとした目的があり、それが寵愛をめぐる争いや外戚に国政を壟断されることにつながったのは、確認しなくていいな」
A「ねェ、疲れてきたならちょっと休まない?」
F「……いい提案だな。とりあえず、このチャプターが終わったら休憩しよう」
A「はぁーい……」
F「話を戻すが、子供が生まれなかった場合の対策としてはもうひとつ、養子を迎えるという単純なものがある。ただし、迎えたあとで実子が生まれると揉めごとの火種になるのが常なので、これはこれで感心しない」
A「非常手段か」
F「ただ、口減らしとしては出す側でも有効な手段でな。たとえば毛利元就は次男・三男を他家に養子に出して、出した先を毛利本家に従属させている。もともと次男以下は長男の非常用スペアとしてしか扱われないンだから、部屋住みとして飼い殺されるよりは他家に出るのを選んだ方が本人のためだろう」
A「出先と出元の都合で決めるべきなのか」
F「本人の意思は無視してな」
A「……えーっと」
Y「(フォローするぞ)儒教の入っていないヨーロッパでも、長子相続が基本だろう?」
ヤスの妻「(おーらい)モンゴルだと上の子から独立していって、末子が相続するけどね」
F「実は、ヨーロッパでも未亡人は大人気。中世の騎士の時代において、長男は家を継げばいいけど次男以下はそうもいかない。そこで、戦争か何かで夫を亡くした、だが城と領土は残っている未亡人を見つけて、そこに婿入りするのがトレンディだったとか」
A「……洋の東西を問わず未亡人が大人気ってどうなんだ?」
F「年増ならなおよし。ともあれ、孔明は瑾兄ちゃんの次男・諸葛喬を養子に迎えている。長男の諸葛格と並んで利発と知られた若者だが、呉の世間一般では『器量では格に及ばないが、人格では上回るだろう』とのこと」
A「才徳で云うなら徳はある、か」
F「アレに器量で勝つのは難しいからなぁ。ところがこの喬クンが228年に、25歳で死んでいる」
A「またあっさり死んだな」
F「234年に8歳とあるので227年(当時は数え年)、つまり前年に、孔明の実子・諸葛瞻が生まれている」
A「何が云いたい!?」
F「云いたいことは先に云ってある。孔明は、この両者についてそれぞれ、瑾兄ちゃんに手紙を出している」

「喬は本来成都に帰るべきですが、諸将の子弟はみな輸送の任に就いているので、彼らと同じ任務に就くべきでしょう。五、六百の兵を指揮させて、食糧を輸送させています」(時期不明だが『本来……』云々からして瞻の生まれた直後くらい、227年頃)
「瞻はもう八歳ですが、聡明で慧発で可愛くて仕方ありません。今からこんなに利巧だと、将来さらに成長できるのかが不安になります」(234年)

Y「知るかそんなモン、と兄ちゃんが呆れそうな親バカぶりだな、オイ」
A「えーっと……喬クンには厳しく、瞻ちゃんにはダダ甘に接していたのかな?」
F「嘆かわしいことに、養子と実子への態度の差がありありと見えるな。自分の子かそうでないかがそんなに大事なのが、オレには理解できない」
A「親からすれば大事だろうと思うぞ。アキラには子供いませんけど」
F「なぜ泰永の母が、オレを高く評価しているのか教えてやろう。以前、泰永の父親相手に儒教について口論したことがあるンだが、その中で、親を大事にする男と娘を結婚させるべきではないことを納得させている」
A「……どうやって」
F「親を大事にするような男は、妻と親が敵対したときに妻の味方をしないからだ。ほんの些細な対立でも、妻の味方をせず親の側に立つ。今の日本で妻の立場が姑より下にあるのは『お父さんお母さんを大事にしよう』という誤った風潮が根源だぞ。妻を大事にできん男には、女と結婚する資格はない。そんなに大事なら親と結婚しろ」
Y「納得はできんが、反論はもっとできん暴言だな」
ヤスの妻「わたしは全面的に納得するな。経験あるから」
Y「……悪かったのは反省してるから、しみじみ怒るな」
F「オレは、娘が将来どんな男と結婚すると云いだしても口出しはしないつもりだが、翡翠はそんな男にはやらん。翡翠の夫となるには、親とオレに勝てるのが最低条件だ。その後で清く正しく交換日記から始めてもらうが、唐突に話と理性を戻すと、僕が翡翠ちゃんを可愛がらずに自分の娘ばかり可愛がってるようなモンだろ?」
A「何もかも聞き流してそこだけ聞いてる分には、確かに態度としてよろしくないように思えてくるな……」
F「自分から頼みこんで孫権にまで許可を取って迎えた養子を、実子が生まれたからってないがしろにした挙げ句、謀殺した可能性があるンだぞ。男としてはともかく、父としてはどうかとしか思えない」
Y「……すまん、根本的なこと云っていいか?」
F「はい、何ですか?」
Y「家族を大事にしないお前が、ひとさまのご家庭に口出しするな」
F「…………………………確かに」
A「オチだけつけて休憩しようか。そろそろ日付変わるし」
F「そうしよう。えーっと、孔明は、それほど多くの蓄えを家族(月英・瞻)に残さなかった。これは、瞻(数えで8歳)はともかく利発な月英さんなら、わずかな土地でも充分喰っていけるだろうと踏んだから、と劉禅に上奏した遺書でしたためている」
A「家族に多くのものを残して、職権をもって私財を蓄えたと噂されるのを恐れたのかな」
F「そうらしい。その遺書の中で『利益などは求めませんので、私の財産について陛下が気を病まれる必要はありません』と書いてあり、事実その通りだったともある。つまり、劉禅(ないし、他の誰か)が実際に調べたようでな」
Y「清貧な宰相というのは人品として理想だが、周りから誤解されるからなぁ」
F「かつて楊震や龐徳公がしたように、子孫には財産よりも大きなものを残そうとしたらしい。それが何かと聞かれたら、孔明は、息子にこんな書を遺している」

「君子となるためには、じっくりとかまえて自分を鍛え、何事も控えめに振る舞い、徳を身につけねばならない。無欲でなければ志を抱き続けることはできないものだ。じっくりかまえねば大きな仕事は成し遂げられない。努力を怠っては自分を高めることはできず、志を失っては努力を続けることはできない。人を見下す気持ちがあっては己を奮い立たせることはできず、心に落ちつきがなければ性格も浮ついてくる。
 時が経つのは早いのだから、年をとって気力も体力も衰え、世の中とのかかわりが少なくなってから慌ててもどうにもならない」

F「残念ながらこの遺言を、諸葛瞻は守れなかった。それはいずれ見るとして、もうひとり、甥(龐徳公と姉の子)にも一通を遺している」

「志は高く遠く掲げねばならない。そのためには、古の聖賢の生き方を学び、色恋を断ち切って、掲げた志を常に自分の中に抱き続けることだ。逆境に遭っても耐え忍び、つまらぬ惑いは打ち捨てよ。ひとにはよくへりくだって助言を求め、疑ったり恨んだりしてはならない。
 そうしていれば、大きな進歩は望めなくてもひとから非難されるような人生は送らずに、着実に自分を高めることができるだろう。志をもたずに人情に流されて平凡な生活を送り、向上する意欲も乏しいようでは、いつまでも凡庸なままで一生を下積みとして終えることになるだろう」

F「子にも甥にも、志をしっかり持てと教えている。その上で、向上する努力を怠らないように、とも。人生のちょうど半分を野に置いて過ごした孔明だったが、その間も、志を胸に自分を高める努力を続けていたのだ……と息子たちに諭しているワケだ」
A「……父としても、立派だったンじゃないか?」
F「ただ子が生まれたから親だ、と考えるのはどうかと思う。親たる自覚ができて責任を負って、はじめて男は父を名乗れるンだ。孔明は、親ではあっても父ではなかった。ようやっと自覚ができて息子たちに諭す書を送ったのは、残念ながら晩年だった。家族に対してダメ親父だったことは割と明白だ」
Y「誰に対してはダメ親父じゃないンだ?」
F「劉備から託された、もうひとりの息子」
A「……いたなぁ、とことんできの悪いお子さんが」
F「そちらに対しての責任を優先していたのが、家庭を顧みなかった元凶だろうね」
Y「……否定はできんな」
F「じゃぁ、休憩しようか。ひと眠りしてから再開する」

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