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私釈三国志 130 諸葛孔明

3 鞠躬尽力
F「かくて、竜は風を巻き空へと舞い上がった。……のだが、劉備存命中の孔明は、基本的にはスタッフだ」
Y「大軍師孔明はフィクションで、実際には後方で金銭糧食を担当していたのが諸葛亮だった、と」
A「活躍がなかったのは残念なんですけど……」
F「活躍はしていたさ。いつか云ったが、勢力の伸張度合は、華やかに戦場を往く武将にではなく、裏方として活動できる文官の有無にかかってくる。呂布を上回る武将は三国志史上に存在しないが、彼を支える軍師はいても宰相はいなかった。呂布軍団の滅亡劇は、究極的にはそこに行きつく」
A「……張良はいても蕭何がいなかった」
F「高く見て陳平レベルだしな……充分だが。もちろん、主の側にも部下を使いこなす器量が必要で、袁紹や劉表は人材活用にやや難があった。蒯通を使いこなかった韓信が呂后に謀殺されたのは、歴史的に見るなら両方の意味で無理からぬオハナシ」
A「劉備は……違ったンだよな?」
F「即答は避けよう。孔明は後方にあって金銭糧食を整え、劉備軍団が円滑に軍事活動を起こせるよう奮闘していた。補給というのは地味な作業で、史書にも載りにくい。たまに書かれていても、ほとんどが襲われる側としての記述だ」
Y「官渡では、曹操が襲わせたのと襲ったのと両方があったな」
F「だが、その任務が途絶えたら戦闘は続けられない。欲ボケて罠にかかった文醜はともかく、烏巣を焼かれた袁紹軍があっさり崩壊したように、補給は軍の死命線だ。それを担当していたのだから、劉備の孔明に対する信頼は相当なものだったと考えられる」
A「……信頼しているなら戦場につれてけよ、と思うアキラがずれてますか?」
F「ずれてはいないが、こう考えてみろ。信頼していたからこそ留守を任せた、と。現に曹操は、官渡には荀ケを伴わず、本拠たる許昌を任せていたぞ」
Y「徐州に攻め入り呂布に後方を襲われた時も、荀ケらが守っていたから帰る場所を確保できていたンだったな」
A「あー……」
F「誰もが戦っていた時代だよ。それなら、戦場も武器も人それぞれでいいンじゃないかな。さしあたって孔明は、劉備をけしかけて劉表との対決に持っていき、荊州を支配下に置いてしまおうと目論む」
A「天下三分への第一歩だな」
Y「だが、劉備が『恩義ある劉表殿を討つのは……』と二の足を踏んでそれをなせなかった」
F「劉璋を討つのはよくて劉表はよくないって口実は通りにくい気もするが、直接の恩義があるかどうかの差だろうな。どうにも任侠なこの主に、今度は劉gを利用する策を献じる。もともと劉表は劉jを後継にと考えていたのに、劉備が劉gについたため劉j−蔡瑁閥に次ぐ勢力を形成した」
A「後漢末最高の謀略家をして『長子を立てないと家が滅びますよ』と云わせた事例だね」
F「さっきも云ったが、荊州首脳部は蔡瑁閥で占められていた。蔡瑁や蒯兄弟が劉表の荊州掌握に貢献したのは第10回で見た通り。また、蔡瑁の姉が劉表の後妻に納まり、劉jを産んでいる。ために、劉表は蔡瑁に全幅の信頼を寄せていた次第だ」
Y「その意味では、地位と権力ほしさに劉備に近づいた孔明が、劉備一家総出で劉gに近づかせたのも無理からぬ話か」
A「もー少し穏便な表現はできませんかねー!?」
F「やってみようか。そのままなら劉jで決まっていたはずの劉家後継を、一見正当と思える長子相続をけしかけて劉gに勢力をつけさせ、対立構造に持っていったのが、劉備配下となった孔明の初手柄だったンではなかろうか」
Y「荊州を割ったのが功績か?」
F「相手が多勢だったらふたつ(以上)に分けて各個撃破する。敵を分割するのは、政略としても戦略としても戦術としても常道だ。以前アキラが云った『川は半ば渡らせてから叩く』という河川戦闘での常套戦法があるが、これは、川を挟んでの戦闘では、敵の半数がこちら岸に上陸してから攻撃しろ、というもの」
Y「その心は?」
F「半数が渡河の最中だと、上陸した半分でもまだ戦闘準備が整っていないことが多い。また、背後が川だから逃げられないので、迎撃にも撤退にも不利になる。かといって、残り半分は川を渡っているからどうしても移動が遅くなり、救援に駆けつけるのが難しい。攻撃側としては前段・後段を順繰りに撃破できるワケだ」
A「まぁ、基本だね」
F「話を戻すと、荊州に根づいた劉表の権勢は、孫家三代をもってしても抜くことができなかった。その劉表から荊州を奪うには、一時的に荊州を割ってでも……と考えたンだろう」
A「劉表が高齢なんだから、長男さえおさえれば追随するひともいるだろうしねェ」
F「そゆこと。このまま蔡瑁の下にいるべきか、それとも劉備に近づいて上を目指すべきか……の選択の余地を家臣団に与えたンだ。これに乗った伊籍が劉備に接近したように、それなりに効果を見せたようでな」
Y「だが、それなり程度で終わっている。袁家を滅ぼした翌年だというのに、曹操軍が南下してきたタイミングで劉表が死んだせいで、劉j(蔡瑁)はあっさり降伏してしまった。家臣団の多くはそのまま劉jのもとに留まり、対立は本格的なものにはならず、結局劉備のもとに残ったのは劉gとわずかな劉g派だけ」
A「思いきったよね、曹操は。袁家を滅ぼした勢いを殺さずに、そのまま南下するなんて」
Y「まぁ、もう少し待ってから南下してもよかったとは思うがな。劉備・孔明の根回しが充分でないうちに劉表が死に曹操軍が動いたのが、家臣団が劉j派に結集した原因だ。少し間を置けば荊州はある程度割れて、袁家滅亡の再現ができたはずだ」
F「泰永、お前やっぱりあとで説教」
Y「何でか!?」
F「袁紹亡きあとの袁家分裂は、袁譚・袁尚の間にあった対立の火種を、曹操が炎上させたものだ。ところが、それにちょっかい出して手を焼いているンだよ。同じミスを犯さなかった、と考えるべきだ」
Y「……むぅ」
F「孔明がそうであったように、曹操もまた神ではない。失敗はするが反省もする。時間をおいて状況が悪化するのと、何より劉備が勢力を得るのを恐れたンだろう。燃えあがる前の炎ならひと揉みできると踏んだところ、きちんと成功した。失敗を糧に成長している曹操を評価すべきだろうな」
A「結局、おあげをさらわれたしねェ……」
F「舌打ちじゃ済まない痛恨のミスだろうな。劉表から荊州を奪っていればいくらでも動きようはあったが、この時点での劉備一家には逃げの一手しかなかった。やっとの思いで劉gと合流し、孔明は孫権との同盟締結交渉に乗り出す。……が、これは赤壁戦前にしっかり見たので、ここでは長そう」
A「こらーっ!?」
F「戦後任じられたのは軍師中郎将だが、これは軍費・物資を確保する、云わば宰相の職責だ。軍師とは前線における作戦立案者だがが、孔明がやっていたのは後方から兵站を整え、戦闘そのものを支える態勢づくりだった」
Y「張良ではなく蕭何の役割、か」
F「軍師と文官をどこで線引きするのかは難しいが、この頃の孔明は戦場に出ていない。軍師と呼ぶのは難があるな。ともかく、孔明はこの分野に有能で、糧食を富ませ賦税を徴収し、劉備軍団を多いに富ませている。ただし、さすがは劉備というところで、この時点どころかしばらくは、孔明を首座に据えたワケではなかったが」
A「まぁ、新参者をトップに据えたら反発が起こるわな」
F「劉備軍団の文官といえば簡雍・糜竺・孫乾の三羽烏がまず思いつく。この三者は『糜竺は孔明の上位にあり、彼ほどの恩賞・寵愛を受けた者はいなかった』『孫乾は糜竺に次ぎ、簡雍と同等の礼遇を受けた』とある。益州平定に至るまで、序列としてはいずれも孔明の上にいたワケだ」
A「法正や劉巴でも上だったしなぁ」
F「実務的な責任は与えても、序列としてはその辺りの下に置いていたワケだ。他はともかく簡雍は、態度がでかいことで有名で『劉備がいても長椅子に寝そべって起き上がらず、孔明たちにも座を譲らなかった』とある。旗揚げ当時から補佐役として侍っていたモンだから、関・張ではなく簡雍こそが劉備の義兄弟だったなんて説もあるくらいだ」
A「おいおい……」
F「劉備に仕えた家臣というのは、関・張に簡雍を除くとだいたいが徐州以降に幕下に入っている。これは実際無理からぬオハナシで、当時の劉備は黄巾討伐の功を上げながら、素行不良で解任されて、でも軍事的功績を上げては返り咲き、また解任されて……を繰り返していた。よほど気のいい奴でもなければ、そんな奴の下から離れるだろう」
A「で、文官で残ったのは簡雍だけか」
F「何かで凄まじいものを読んだな。黄巾討伐のため私軍を編成した劉備は、簡雍に金銭糧食の全権を委ねた。郡の下級官吏にすぎない簡雍をどうしてそこまで、と関羽に聞かれると、笑って『アイツはよく、オレのわらじを買ってくれたからな』と応えたという」
Y「ぶはははははっ!」
A「……笑っていいのか笑っちゃいけないのか、判断がつかない。実際にありそうで怖いわ」
F「加えて云うなら当時の劉備は、役職からして五百石。曹操・孫堅が二千石だったのに対して低い原因は官職に空きがなかったからだと以前触れたが、この石高では養える部下もたかが知れている」
Y「宮廷人の曹操や朱儁のお気に入りだった孫堅とは違って、バックになる有力者もいないしな」
F「私軍を維持するのに最低限の部下しか残っていなかっただろうし、去る者を追う余裕があったとは思えない。その余裕ができるのは、幽州を治めるコーソンさんの下についてからになる」
A「……なるほど。文官がいないと勢力は伸ばせんな。経済的に困難だ」
F「ともあれ。旗揚げ当時から劉備を支えた副司令格の簡雍に、徐州時代からの重鎮たる糜竺・孫乾が、孔明に対してどんな感情を抱いていたのかは正史にない。能力はともかく階級的に下だったンだから『よく働く若いのが入ってきたな』くらいだったンだろう」
A「文句を云ったのは、むしろ関羽・張飛だった」
F「孔明が劉備と日に日に親密になるので、関・張は不機嫌になった……と正史にもある。これは、簡雍らは文官として孔明の働きを評価できるが、武将たちは『何でアイツにそこまで入れ込む?』と思ってしまう……というところだろう。馬超の件でもそうだが、関羽はどうにも嫉妬深くていかんね」
Y「弟なら『そこが可愛いンだよ……』とかほざくがな」
A「まさか、孔明ががわらじを買ってくれたとは応えられないよね」
F「劉備に『ワシにはアレが必要なのだ。魚には水が必要だろう? 文句を云うな』となだめられて、何も云わなくなった……とはあるが、これをまっとうに信じるのは危険だろう。むしろ、孔明がやったことに原因を求めたい」
A「何をした?」
F「直接の明記はないが、馬良・馬謖ら荊州人士を劉備配下に招いている。交州に逃げようとした劉巴を引きとめている(失敗したが)ことからも、曹操に仕えるを是としなかった面子を集めたようでな」
A「文官系の家臣団を充実させた功績から、関・張も孔明の存在を重視し始めた?」
F「劉備軍団における孔明閥の増長により、数の暴力で口を出せなくなったンだと思うぞ」
Y「ヒトの和の劉備」
A「やかましいわぁ!」
F「実際のところ、劉備軍団にほんとーに和があったのか判ったモンじゃないンだ。孔明をはじめとする群臣は権力欲から劉備を皇帝に仕立て上げ、劉備は皇帝になったらなったで国是に背いて『関羽の仇を討つ!』と呉に攻め入る。関羽は高慢ちきで、張飛は思慮不足でそれぞれ自滅するし、北伐の実戦段階における主戦力と期待されていた馬超も無反省に死んだ。どうにも自分勝手に生きて自分勝手に死んだ面子が多くてな」
Y「それも、劉備の死に前後してほぼ全滅」
A「しましたけどねーっ!?」
F「孫策が張昭に後事を委ねたのと、劉備が孔明に後を託したのでは、シチュエーションは似通っているが内情が違うンだ。孫家を神輿にした江東豪族の集合体たる呉では、天下に名高い張昭なら孫権に取って代わっても実害はない。だが、劉氏の天下の奪還を存在基盤とする蜀で孔明が皇帝になってしまったら、完全に国が滅ぶことになる」
Y「劉備の奴は……天下三分を理解できていたのか?」
F「できてはいただろうね。そして、荊州の失陥と夷陵の敗戦で、それが実現困難だと判っていた。となれば蜀に残された道はふたつだ。あくまで劉氏の血統を立てる困難な道か、それとも、優秀な指導者を立てて往く少しはマシな道か。劉備や李厳は後者を本人に勧めたが、孔明が選んだのは前者だった」
A「たとえ困難でも、劉備と選んだ道を往くことにした……」
Y「似あいはするが、どうしてそういう任侠じみた考え方をしているように見えるのかね?」
F「劉備の人生から任侠を抜いたら何が残るンだよ? そんなワケで、龐統・関羽・法正・黄忠・張飛・馬超、そして劉備が世を去り、蜀は孔明の双肩に委ねられた。他に任せられる誰かがいたのかはともかく、孔明が劉備から全幅の信頼を得ていたのは事実であろう」

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