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私釈三国志 130 諸葛孔明

2 臥竜出廬
F「のっけから割と時間がかかったが、話を孔明に戻す」
A「おー(ぱちぱちぱち)」
F「孔明の人生は大きく3段階に分けられる。劉備に仕える前・劉備に仕えてから・劉備死後、だ。たとえば関羽の人生なら、曹操時代や荊州お留守番時代を中心にすれば劉備の関与を極力抑えたものを書けるが、孔明についてを劉備抜きで語ることは完全に不可能」
A「しようと思うな!」
F「違いない。段階を経るに従って、孔明の責任と権限は伸張していくンだが、ひとまずその人生を振り返ってみる」
A「出自は、徐州だっけ?」
F「青州の瑯邪郡。父は地方官僚だった諸葛珪だが、幼いうちに亡くなったとある。戦火から逃れるため、弟・均クンを連れて叔父のいる揚州に逃れた……というのが定説だが」
A「その"戦火"こそが、曹操による徐州侵攻だった」
Y「だが、正史諸葛亮伝には、父を亡くしたとはあるが戦火云々はないぞ」
F「呉書で瑾兄ちゃんが『郷里が壊滅し生き物が根絶やしになる事態に遭って、墳墓の地を捨てた』と述懐している」
Y「……おや?」
F「確かに明記こそされていないが、時期からして間違いはないだろう。父の死によって徐州に移り住んでいた。たぶん、母親の実家か親戚筋が徐州にあったものと思われる。ところが、曹操による徐州殺戮に瀕して、さらなる流浪を余儀なくされた」
A「おじさんのところだっけ」
F「叔父の諸葛玄が袁術配下で、揚・荊州の州境辺りの太守になっていたのね。そこへ身を寄せたとある。朝廷の命でちゃんとした太守が送られてくると失職して、旧知の劉表治める荊州に移った……正史の注では新任者との間で戦闘が起こり、諸葛玄は民衆に斬られたともあるが」
A「それが、いつくらいなんだ?」
F「んー、正確な年代は不明だな。181年に孔明は生まれているが、徐州殺戮は193年、注を信じるなら諸葛玄が死んだのは197年。どちらにせよ叔父の死後は、襄陽の西方二十里に位置する隆中で晴耕雨読していたらしい。ちなみに、いつぞや触れたが身長八尺なので張飛並の体格だったらしい」
Y「まさに山東大漢か」
F「『恋姫』で張飛がああだったのはともかく、孔明までロリっ娘になっていたのには張飛並という身長設定に由来するのかね? ともかく、197年に諸葛玄が死んでいたなら16で隠遁生活を始めたことになる。時期は不明だが、張昭が孔明を孫権に推挙したものの孔明にはその気がなかった(裴松之はこの一件を否定している)とか、民間伝承では曹操自ら孔明の登用に乗り出したなんてネタもあるが、基本的には世俗の君主に仕える道を選ばなかった」
A「孔明が、何を考えて隠遁していたのかは今ひとつなぞ?」
F「孔明には現実がよく見えている、と考えるべきかもしれない」
A「それは、否定しないけど……」
F「まず、宮廷に仕える道はない。劉備が黄巾の乱で戦功を挙げながら封爵を得られなかったのは、封爵に空きがなかったからだ……というのは第6回で指摘した通り。それから13年経っているが、197年最大のイベントと云えば袁術の帝位僭称だ」
Y「そして、諸葛玄は袁術配下」
F「諸葛亮伝・劉繇伝のいずれ(の注)にも、劉表が諸葛玄を現地に派遣したとあるが、どうにも朝廷に顔向けできる人材ではなかったようでな。あんがい、民衆に殺されたのは真実じゃないかと僕は見ている。さらに云えば、この時期後漢朝廷は曹操の庇護下にあったため、孔明の側にも朝廷への仕官の意思はなかった」
Y「いつもの『……と見ていい』じゃなくてか?」
A「徐州を焼いたのは誰だった?」
Y「……ここでつながるのか」
F「この一件は割と大きい。なぜなら、孔明は幼少期から曹操に恨みがあったと考えられるからだ。ちなみに、当の中国では、孔明が故郷を失ったのは曹操による徐州侵攻が原因ではないとの意見が割と根強く、ために、曹操が孔明のもとに自ら訪れ生きて帰るという、考えてみるとトンデモな民間伝承があるくらいだ」
A「云われてみれば、孔明の側から曹操を害する可能性がまったく考慮されていないのか」
F「孔明が故郷を追われたのは黄巾の乱のためだ、として黄初だの黄龍だのと年号に掲げた魏や呉を目の敵にしていた……という説もあるが、184年当時孔明は3歳だから、その説は弱いと思う。また、加来氏は例の"魏武の強"青州兵が主体となって徐州に侵攻したとしているけど、となると事態はさらに悲劇だ。父を亡くして徐州に逃れていたところ、故郷の人士が攻め入ってきたことになるンだから」
Y「幼少期のトラウマって後々まで残るからなぁ」
ヤスの妻「ヤス、えーじろの前でその発言はちょっと」
Y「……だったな」
F「気にすることじゃない。では劉表にはどうして仕えなかったのか、は微妙な問題だ。何しろ孔明は、閨閥としては蔡瑁に連なっているンだから、その気になれば荊州で重きを置かれる存在になることは難しくはなかったはずだ(蔡瑁の下ということにはなるが)」
Y「神輿に求めるのが劉氏の血なら、劉表でも実害はないはずだな」
F「だが、ある程度の結論は出せる。孔明の師かどうかはともかく、荊州知識人に多大な影響力を誇った龐徳公・水鏡先生のいずれもが、劉表自らの勧誘による仕官を拒んでいる事実だ。それも『お前に仕えたら子孫が危険じゃ(後漢書逸民伝)』『私は世を捨てた身ですからな、はおはお♪(世説新語言語篇)』という口実で」
A「ふたりとも、劉表をそれほど高く評価はしていなかった……」
F「劉表は、清流派知識人層では第22位にランキング(李膺が4位、陳蕃が3位)されたが、二度の党錮の禁を通じて処罰を受けた記述がない、数少ないひとり(上位35名で5人)だ。そして、89回で触れた、清流派に『そんなことしてると、また焚書坑儒が起こるぞ』と注意喚起した"政治活動に参画することを避ける"純粋な儒学の徒こそが、龐徳公らが属する逸民という存在だった」
Y「ある程度どころか、完全な結論じゃないか。荊州在野の知識人に、劉表は軽視されていた。現に、龐徳公・水鏡のいずれもが、曹操が侵攻して来たら出頭している」
F「その年のうちに死んだがな。仕える意思がなかったワケではなく、劉表の側に問題があったと見ていい。蒯兄弟や蔡瑁によって劉表の幕下は埋められていた。ために、余人の入る隙がなかったのは理由のひとつ。そのうえ、劉表の死後に蒯越・蔡瑁(蒯良は故人)が魏に仕えている辺り、ひと遣いで云うと及第点とは云いがたい」
Y「倅はブタみたいなモンだと酷評されているように、息子どもも見限られたということかね」
F「つまり、治政には一定以上の功績を挙げていても、いち時期下についていた劉備を使いこなせなかったことでも判るように、ひとを使うのが上手くなかった。ために、賢者は彼に仕えるを潔しとせず野に降ったり寝返ったり、留まった者たちも結局曹操には敵しえず、息子の代で屈服している」
Y「おい、どっちのこと云ってる? 袁紹か、劉表か?」
F「……自分でも判らなくなりかけたが、劉表だ。とりあえず、孔明が劉表に仕えなかったのは、龐徳公・水鏡先生・黄承彦らと同様だった。知識人層からはあまり評価されていなかったから」
A「それじゃ、袁家と同じ末路をたどるワケだ。袁紹とほぼ同じ欠点があるンだから」
F「まぁ……そうだな。ではなぜ劉備に仕えたのか」
Y「ひとを見る目が……」
A「黙ってろ!」
F「否定されがちだけど、劉備が三顧の礼をもって孔明を迎えたのは事実ではないかと僕は見ている。原因の一部以上はそこにあるンじゃなかろうか」
Y「劉備が直接出向いてきたのに感激して、か? だが、その程度は劉表もやっているだろう」
F「演義で徐庶・龐統が、どういう経緯で劉備に仕えたのかを思い出せ。徐庶は街中で歌い踊った挙げ句劉備を怒らせる発言をし、龐統は孔明・魯粛の紹介状を出さずに百日分の仕事をため込んで叱責された。演義における水鏡門下生には、主を試す傾向が見られるンだ」
A「じゃぁ……三顧の礼も、劉備を試すためにやっていた?」
F「実史で劉表を試したのは水鏡先生だったがな。劉備が荊州に入って7年経っていたンだから、天下三分プロジェクトの旗頭に使える人物だというのは、人づてには知っていたはずだ。有為の人材への執着心を鑑みて、これくらいやってくれる君主なら、きっと自分や他の者をも使いこなせるはずだ……と」
A「法正たちと考えの根底は同じか」
F「というか、賈詡だな。有利な者に味方するより、劣勢な側に味方した方が感謝される。すでに蔡瑁閥に占められていた劉表幕下より、劉備の下についた方が出世できると踏んでも計算としては正しい」
Y「野郎が欲ボケていたのは常々見てきた通り」
A「やかましいわ!」
F「いちおう見ておこう。張昭が孫権に孔明を推挙したことがあるらしい。……つまり、200年以降だな。正史でその旨記述があるのは、赤壁の最中くらいなんだが」
A「赤壁での働きに眼をとめて、ほしくなったのかな? 演義でも諸葛瑾送って勧誘させてるけど」
F「だとすると、いま見るのはタイミングが違う気もするな。ただ、孔明はそれを承知しなかった。あるひと(たぶん魯粛か瑾兄ちゃん)が理由を尋ねると」

 あのヒトは将に将たる器でしょうが、度量には難がありますな。私の才を認めることはできても、私の才を充分に発揮させることはできないはずです。だから、呉に留まるなどできません。

Y「まぁ、妥当な評価に思えるな」
F「……うん、見るタイミング間違えたな。だが、この一件をはっきり裴松之は否定している。コレは孔明のひととなりに反する、とした上で、相変わらずな感情論をブっちぎっている」

 孔明と劉備の関係は、世にも稀なる出会いで結ばれた君臣であり、終始一貫した関係には誰も水を差すことはできない。どうして断金の結びつきを中途で放棄し、改めて主を選ぶというのだ。

F「というわけで『世にも稀なる出会い』こと三顧の礼をもって、孔明は劉備に仕えるに至った。ちなみに、裴松之は加来氏他が唱える『孔明が自分で劉備を訪ねて仕官した』というのもばっちり否定している」

 出師の表で孔明は『劉備様自ら、三度我が家を訪ねてくれた』と書いているのだから、孔明から劉備を訪ねたのではないのは明白である! 見分の相違から記述がずれて独自の説が生まれるのは仕方ないにしても、ここまで事実と食い違うのは、いや不可解なことだ。

Y「……どんだけ孔明が好きなんだ、この注釈者は」
F「どこまでも好きみたいだぞ。ともあれ、孔明は劉備を選んだ。その原因の残り部分には、徐州を救ったのが劉備だったこと(になっているの)も影響しているように思える」

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