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私釈三国志 130 諸葛孔明

1 漢土諸州
F「まずは、僕の十八番から行かせてもらおう」
A「パイズリ?」
ヤスの妻「スカトロは嫌だな」
Y「さすがに50こえた女だと客は引けんぞ? 四十代でも年齢を明記していると……」
F「誰がエロゲのオハナシをしてますかっ!? そーじゃなくて、地味な"史"ネタから行かせてもらうって云ってるンだよ。……というか、他2名はともかく泰永、あとで説教」
Y「何でか」
F「今まででひたすら、州名やおおまかな位置関係だけで流してきたが、漢土の地理・地勢についていちどまとめておこうと思ってな。130回でやるのは遅いとしか云いようがないが、そこは勘弁してくれ」
A「していいレベルかね……?」
F「確認するが、漢代には十三州に分割されていた。それぞれでどんな群雄割拠が行われていたのか……は、過去129回を見てもらうことにして。北から、どんな州なのかを触れていこう」
A「北からってことは、幽州からか」
F「そうなる。幽州は漢土最北東に位置し、治所は薊。これは、現在の北京市大興県(行政区分が日本とは異なり、市の中に県がある)の西南部に相当する。その北京市全区と河北省の北部に遼寧省南部、それに北朝鮮の西北部が包括される。11郡国90県だ」
A「………………」
Y「………………」
ヤスの妻「わたしが必要なワケだ。鮮卑や烏桓、高麗に面しているのが特徴で?」
F「海に面しているので水路・塩業は盛んだが、中原から遠いため異民族との関係が常に問題になる。劉虞や袁紹は宥和政策をとったのに対し、この地でいちばん有名な群雄・コーソンさんはひたすら強硬策を掲げ、その軍勢は烏桓から白馬義従と恐れられた。それがどうなったのかは過去に見た通り」
A「結果としては、宥和策のが正しかったのかな?」
Y「結果で云うなら強硬策だ。曹操がやったことを思い出せ」
ヤスの妻「ちからで抑え込むと、そのちからが失われたときに反発が起こるよ。曹操が死んだら麹演が動き、魏・晋が衰えたら劉淵が勢を誇った。結果で云うなら宥策だろうと思うかな」
Y「……次!」
F「グウの音も出ないのか? 冀州と并州はまとめる。というのも、尚書や呂氏春秋では趙から燕にかけてを冀州と総称しているのでな。つまり幽州も入っているンだが、そこは見逃してもらおう」
A「……ヤス、ヤス。何の話?」
Y「歴史書だったかな」
ヤスの妻「わたしがお説教していい?」
F「やめておきましょう」
ヤスの妻「ざんねん」
F「えーっと、并州は晋陽(現・山西省太原市西南部)を治所として、9郡98県。現在の山西省に内モンゴル自治区、それと河北・陝西省の一部を包括している。冀州は鄴(現・河北省磁県南部)を治所に、河北省の大部分と山東省の西部までを包括する9郡国100県」
A「だいたいは袁家の領土だね」
F「そうなる。鄴に治所がおかれたのは後漢代で、それまでは邯鄲に治所があった。戦国期から前漢を通じて北方の一大強国として扱われ、曹操が鄴を拠点としていたくらい、国家の中心とされていた地方だ」
A「それにはやや北寄りに思えるけど……」
Y「解釈を求めるかたちでの発言は控えろ! 手薬煉引いてるンだから!」
F「云ってしまおう。南には黄河が流れ、西には太行山脈が控えている。また、東は海にまで続いているので、おおむね要害の地と呼んでいい地勢にあるンだ」
A「東と南からは水路を必要とし?」
ヤスの妻「太行山脈は標高1500メートル級の山々が連なっていて、超えるルートはおおむねみっつ。北に迂回するか南に迂回するか、それとも井陘のような小路を抜けるか、だね」
F「守るに易く攻めるに難い、という奴です。土の質としては『白壌』とされ、"壌"は水を含んだ肥えた土地のこと。ただし、田の質は『中の中』にランク付けされている。海・北地に面しているので、塩と馬が生産できる」
Y「自給自足も可能だということか」
F「王者ならば擁しておきたい土地だな。続いては兗州。治所は昌邑(現・山東省金郷県西北部)で、8郡国80県。山東省西南部と河南省東部を包括する。ただし、領内に濮陽(現・河南省濮陽南部)・定陶(現・山東省定陶)・陳留(現・河南省開封東南部)といった大都市・商業都市を有し、古代から商業の中心・先進地域として栄えていた」
A「……ってことは、そんなに特産物はない?」
F「いいところに気づいたな。黄河の南に位置する交通の要衝ではあるが、兗州自体にはそれほどの特産品はない。いちおう、土質は『黒墳』で、"墳"は肥えた土地の意。また、田の質は『中の下』にランクされる」
Y「おや……? 泰山はこの州になかったか?」
ヤスの妻「東北部に泰山を擁する山脈が、青州との州境としてそびえてはいるけど、こっちは高くて1000メートル台だから、交通の妨げとしてはそんなに大きくないンじゃないかな」
A「……このヒト、ひょっとして山好き?」
Y「というか、地学マニア。誰のせいとは云わんが」
F「その青州は、治所は臨葘(現・山東省臨葘県)で、6郡国65県。現在の山東省東部……要するに、山東半島だ。かつての斉に相当する強国」
Y「もちろん海に面するので塩を産し?」
F「海産物も豊富。土質は『白墳』で田質は『上の下』と上位にランクされている。もっとも、この州最大の特産品は『山東大漢』と称される精兵だな。この周辺では大男が多く、兵も強いと恐れられていた」
A「そこから南に下がって……徐州」
F「こちらは5郡国62県。治所は、後漢代では郯(現・山東省郯城県)だったけど、下邳(現・江蘇省邳県東部)を経て魏の頃では彭城(現・江蘇省徐州市)に移っている。現在の省分けで云うと、山東省の南部から江蘇省の長江北岸まで」
A「ここは……産業ってどうなんだ? 陶謙が治めていたくらいしか知らないけど」
F「淮水とその支流の堆積で、土壌はずいぶん肥えている。土質が『赤埴墳』、田質は『上の中』と高ランクだ。農業に向くと同時に、周囲には交通の妨げになる地形もないので兗州同様商業も盛ん。また、塩・海産物も豊富」
A「かつて、楚の王城がおかれただけはあるのか」
F「いちおう、旧国名で云うなら楚の東部だしな。続いては豫州(予州とも)で、譙(現・安徽省亳県)を治所として6郡国97県。現在の、河南省の大部分(淮河以北・伏牛山以東)に安徽省の一部を包括。……するが、時代によっては司隷に組み込まれたりする」
A「司隷校尉部に?」
ヤスの妻「司隷の西を雍州、東を予州に含める場合がある、ってコトだよ」
F「というわけで、司隷についても。7郡106県を擁する大州で、治所はもちろん洛陽。河北省の南部から河南省の北部、それに山西省の南部と陝西省の渭水平原を包括する」
A「? えーっと、河北の南部と河南の北部……?」
F「足りない頭を使うな。豫州は許昌(現・河南省許昌市東部)や潁川郡・汝南郡を、司隷は洛陽・長安の二大都市をそれぞれ擁する。前漢・後漢を通じてもっとも人口が多かった地域だ」
Y「前漢と後漢の首都があればそうなるか」
F「豫州はだいたいが平地なので、北・東・南との交流は盛んに行われ、ために商業が発達した。司隷も商業は盛んだが、西には水路として活用できない黄河があり、陸路においても虎牢関・函谷関・潼関などがあるモンだから、交通の便がいいとは云いがたい。政治的ではなく軍事的に交通が制限されていたンだが、防衛上やむを得んだろうね、コレは」
Y「生産性としてはどうなんだ?」
F「土の質は『壌』で、田の質は意外にも『中の下』と低め。ただし、塩池があるので塩は取れる。関羽が塩を密売していた伝説のある河東郡解県は、司隷に属する」
A「天子の御膝下でそンな真似しでかしていやがったンかい……」
F「で、さっきあがった雍州は、涼州の一部に司隷の西部を加えたもの。ただし、尚書では涼州全土に司隷の一部で雍州としている。……ので、ここではまとめて見る」
A「ていうか、雍州って何だ? 割と前から気になってたンだが」
F「そっちからだな。194年に、長安(現・陝西省西安市西北部)を治所として設けられた州だ。陝西省の中部に甘粛省の東南部、寧夏回族自治区南部に青海省の黄河以南を包括し、9郡だけが属するが、涼州・漢中への抑えとしての防御態勢を司隷から独立させた……ンではないかと見ている」
Y「194年というと……改元があった年か」
F「まだ政権は李・郭が握っていたころだが、この年は、後漢朝廷はいろいろ活発に動いていたようでな。涼州の治所は隴(現・甘粛省張家川回族自治県)だったが、魏の代では姑臧県(現・甘粛省武威市)に移っている。12郡国98県で、現在の青海省の一部に陝西省西部」
ヤスの妻「南部には秦嶺山脈、東部には潼関・黄河があるから交通は極めて不便。でも、ディフェンスで云うならトップクラスだね。秦が興ったり周の起原だったり、長安が前漢の首都になったのもそれが理由」
F「土質は『黄壌』で田質は『上の上』と最高。ただし、早い時期から開発が進んでいたので乾燥が進み、灌漑施設がなければまっとうな農業は営めないくらいに衰えていた。一方で北地に面して馬を生産でき、また、州内部に塩の産地があるので、他の州との交流がなくても独立していられるのが強み」
A「えーっと……13州のうち9州が終わったか」
F「魏領はこんなところだな。次に呉だが、領域としては揚・荊・交州。旧国名で云えば呉・楚・越に相当する地域で、面積としては漢土全域の4割には相当する。まず揚州だが、治所は歴陽(現・安徽省和県)だったが戦火を理由に寿春(現・安徽省寿県)に移っている。6郡国92県を擁し、現在の安徽省淮水以南に江西・浙江・福建省、湖北省東部に河南省東南部、あと江蘇州の南部も入るかな」
A「……広すぎンか?」
F「ホントに広いンだ。云うまでもなく長江下流域なので、尚書の頃には『塗泥(水の多い土)』とされ田質は『下の下』と最低にランクされた。ところが漢代に入って開発が進み、農業生産力は向上したとされている。水運による商業・流通業が盛んで、住民は商人気質である一方、中原から遠い上に長江の険があるモンだから異民族が多く居住していた」
ヤスの妻「漢族ではない民族、かな」
F「それを漢土では異民族と云います。代表的なのが山越だが、山越の民がやっていたのは焼畑農業で、賀斉を筆頭とする呉の諸将は、侵略しては水稲農業に従事させていた……というのが農業発展の経緯らしい。エジプトがナイルの賜物とされるのと似たようなモンかな」
A「呉は長江の賜物、か」
F「続いて、長江中流域に位置する荊州。現在の湖北・湖南両省に河南省南部、それに広東省の一部を包括する、7郡117県。後漢末に地籍変更があって、それまでの治所を含めた西側の一部が益州に移ったため、襄陽(現・湖北省襄樊市)が治所になったのは、実は割と遅い」
A「昔から栄えていたワケじゃないンだ?」
F「栄えてはいただろうけど、正式な治所になった時期は遅い、だな。こちらも『塗泥』かつ『下の中』だったが、やはり漢代から開発が進んで、いち時期には漢土でもっとも裕福な土地となっていたくらいだ」
Y「ために、のちの魏・呉・蜀による係争の地となった」
F「そゆこと。ただし、もともとは楚の義帝(懐王)が流された長沙(現・湖南省長沙市)が中心だったのに、南陽(現・河南省南陽市)から江陵(現・湖北省沙市市)を経て襄陽へと、州の中核都市は時代を経るに従って北上している。ために長江南岸域は、いつの間にか武陵蛮(シャモーコが有名)などの異民族が居住するようになってしまっていた」
Y「荊蛮の地って表現もあるくらいだしな」
F「いちおう北に山地はあるけど、他の州に比べると比較的低いので交通は容易だし、長江や漢水の水路を利用しての東西交流も可能。場所的にもほとんど真ン中に位置するので、争奪の対象になりやすい。長年に渡ってこの地を治めた劉表の行政手腕が、割と侮れないものだったのは触れてきた通り」
A「だったな」
F「このまま流れをさかのぼりたいところだが、南に移って交州。治所の龍編が現在のハノイ北部だということでも判るように、尚書の頃には中国ではなかった地域だ。ために、地質・田質は評価されていない。現在の広東省に広西チワン族自治区、それとヴェトナムの一部を包括し、7郡56県を擁した」
Y「呉と云うより士燮の領土だった、というのは73回で見たな」
F「うむ。農業よりは水産業・交易が盛んで、呉の海外交易の中心となっていた公算が高い。真珠や玳瑁について、何回か前に『こんなモン呉にはいくらでもあるぞ』と孫権が云っていたのを見たが、それらが南シナ海の特産品なのは確認しなくてもいいだろう」
A「呉の経済を支えていたワケか」
F「食糧生産や農業的なものはともかく金銭や財宝に関しては、呉は交州に依存していた。ために、士燮の死んだ226年に、孫権は交州を南北に分け、北を広州(10郡国)として呉の直轄地にしようとしている。ところが士燮の息子の強烈な反発にあい、何とか謀殺して士家の抱き込みには成功したが、コレに懲りたようで令を撤回した」
A「……孫権が情けないのは何回か前に見たけど、南でもそんなことがあったンだ」
Y「東には船を出しての強制連行に失敗し、北では張遼・公孫淵にしてやられ、南では士燮の遺徳をぬぐい去れず、西では……それでも蜀には勝てたか」
A「蜀がいちばん弱いみたいな云い方すんなっ!」
F「思えば孫権に勝てなかったのは蜀だけのような気もするが、それについての言及は避けよう。俗にその蜀と呼ばれるのが、最後の益州だ。治所は雒(現・四川省広漢県)だったが、劉焉が益州牧となったときに成都(現・四川省成都市)に移された。12郡国118県で、四川・雲南・貴州省全域に、陝西・甘粛省の一部を包括する」
Y「成都の歴史もまた浅いワケか」
F「そうでもないな。起源は秦代までさかのぼるから。前漢末には公孫述が、ここにこもって成王と称している。ただ、意外に思うだろうが、尚書では地質が『青黎』、田質は『下の上』と低いランクだ」
A「何でか!?」
F「例によって開発がされていなかったってコトだ。田質はともかく地質は『青い(=未熟な)土』って評価だぞ。史記が編纂された頃には、すでに『肥沃な土地』との評価があった。だから、劉焉や孔明が眼をつけたワケだ」
A「なるほど」
Y「……あっさりと」
F「人口密集地は大きく、北部の漢中盆地・中南部の成都盆地・東部の巴とみっつに分けられる。ただし、北・西には2000メートルを超える秦嶺山脈が連なり、移動は人口の桟道をもってしなければならなかった。東には長江が通じているものの、こちらも三峡の険と呼ばれる暴れ水。そして南は異邦と、交通の便が悪すぎる地域だ」
A「その分防御面では十三州トップで?」
F「うむ、中原から独立した勢力が拠点とするのにもってこいだった。何しろ塩も馬も州内で生産できる」
Y「きちんと発展させれば叛逆者のよりどころに相応しかったということか」
A「叛逆云うな!」
F「ちなみに、益州東部の巴は、現在の四川省重慶市。面積は北海道くらいだが、都市部に居住する人口は世界最大、カナダ一国分に相当することで知られている」
Y「……自分で云っておいてアレだが、ホントに発展させたら凄まじいことになってるな」
F「だが、この頃の益州一州ではおおむね百万程度の人口しかなかったのは、120回で指摘した通り。263年に蜀の人口調査が行われ、その時点で九十四万だったのが確認されている。呉の人口調査が行われたのは280年で、その頃に二百三十万」
Y「……待て。それ、二国が滅んだ年か?」
F「そゆこと。降伏時に上奏された資料なんだから、この数字に偽りがあるとは考えにくい。出生率や庶民の平均年齢が判らないので、この時期(229年から234年にかけて)から蜀・呉の滅亡までに人口がどう推移したのか、よく判らんのが本音だ。だが、黄巾の乱のような天下そのものの動乱や、官渡の戦いのような天下分け目の決戦がなかったことを考えると、人口そのものは徐々に増えていたと考えていい」
Y「30年後でそれなら、孔明存命当時の蜀の人口は、もっと少ないと見ていいンじゃないか?」
A「やかましいわ!」
F「魏の人口も263年に調査され、四百四十万少し。泰永の云う通り、人口の伸び代を考慮すると234年時点では四百万を割っていた可能性は否定できない。が、呉を晋が併呑すると、総人口が1600万に増えている」
A「計算が成立しません!」
F「曹操の代から続けられていた屯田制が着実に実った、とは考えられんか。蜀の人口を加えて五百四十万。それから17年どころか、長年各地で屯田制は続けられていた。呉を降してその辺りが兵戸(兵の戸籍)から通常のものに移ったため、3倍近くに膨れ上がった」
A「えーっと、えーっと……?」
Y「要するに、曹操が偉大だったということだ」
F「要約しすぎの感はあるな。まぁ、ひと通りまとめるとこんな具合」

漢土諸州
所属州名旧国名治所規模異民族黄巾尚書地質田質
幽州11郡国90県冀州白壌中の中
并州代・晋晋陽9郡98県××
冀州9郡国100県×
兗州梁・魯昌邑8郡国80県×××兗州黒墳中の下
青州臨葘6郡国65県×青州白墳上の下
徐州楚(東部)彭城5郡国62県××徐州赤埴墳上の中
豫州6郡国97県×××予州中の下
司隷周・魏洛陽7郡106県××
涼州胡(外地)12郡国98県××雍州黄壌上の上
雍州長安(司隷・涼州から9郡)×
揚州呉・越寿春6郡国92県×揚州塗泥下の下
荊州楚・韓襄陽7郡117県×荊州塗泥下の中
交州越南(外地)龍編7郡56県××
広州越南(外地)番禺(揚・交州から10郡)××
益州蜀・漢・巴成都12郡国118県×巴州青黎下の上

所属:229年(孫権が即位し三国が鼎立した)時点での領有国
旧国名:春秋・戦国時代ではどの国に相当するか
塩・馬:それぞれを州内で生産できるか
異民族:州内に漢民族でない民族がいるか
黄巾:黄巾の乱が発生したか
尚書:尚書での州名
地質・田質:尚書での評価(交州・広州は尚書に記述がない)
漢代では基本13州だったが、雍州は194年、広州は226年に成立した(ただし、広州は年中に廃されたため、実際には229年時点に存在しない)

F「国力はともかく、どんな風土だったのかは察することができるかと思う」

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