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私釈三国志 124 李厳暗躍

A「毎度おなじみ、マイナー武将擁護コーナーですよ〜」
F「いや、今回はちょっと違う」
A「毎回違うつもりなんだろ?」
F「……最近、ずいぶんと頭が働くようになったな。この弟は」
Y「李厳については一回を割くよう、俺が求めた」
A「何でまた」
Y「思うところがあってな」
A「……いつかの董卓みたいなブっ飛んだオハナシじゃなかろうね?」
F「孔明について語る場合、李厳というファクターは避けて通れないンだよ。泰永に云われなくても李厳について、時期はともかく1回を割くつもりだった。本音としてはもっと早くやっておきたかったンだが、時系列という建前があるので今回まで長引いた次第だ。というわけで、李厳について」
A「そんなに重要な奴だっけ?」
F「というか、李厳を重要でないと考えているのが、僕に云わせると認識不足だ。99回でも触れた通り、李厳は孔明や皇子らとともに劉備の臨終に立ち会っている重鎮だぞ」
A(←確認中)「……あ、そーいえばいたンだっけ」
F「まず来歴を確認する。李厳、字を正方、のちに改名して李平。南陽郡のひととあるから荊州の出自だな。演義では87回で『陸遜に劣らぬ逸材』と孔明に云わせている(104回参照)。もともとは劉表の配下で高く評価される身だったが、曹操の荊州侵攻に瀕して益州に逃げ、劉璋の下についた」
A「割と節操ナシ?」
F「んー、そういう節はある。何しろ、死んだ劉表はともかく劉璋にも高く評価されていたのに、いざ劉備の迎撃に出されると兵を率いて降伏しているンだから」
Y「ところが、劉備にも高く評価される」
F「その通り。劉備が漢中に兵を向けていた頃には、成都の南の防御を張り、数万からの賊を五千で討伐している。高定もその頃に一度兵を挙げているンだが、これを追い払ったのも李厳だった」
A「指揮能力は渋く高いのか」
F「その後も割と転戦を重ね、222年に夷陵で敗戦を喫した劉備は、李厳を永安に呼ぶと尚書令に任じている。これは、前漢初期までは皇帝書記官の地位だったが、武帝のころから丞相の権限を部分的に委譲していて、後漢ではほとんど政務代行に近い地位になっていた。在りし日の法正が就いていた職権、といえばその重要性が判るだろうか」
A「例の『蜀軍正軍師の座』か!?」
F「劉備が身罷ったのは翌年だが、孔明とともに劉禅を補佐するよう遺言を受けている。具体的には軍権を統括し、蜀領東南部の抑えを張っていた。雍闓や孟達を相手にいろいろ策謀していたのは『私釈』でも取り上げているな」
Y「結果には結びつかなかったような気はするな、どっちも」
F「確かに……な。そして230年、曹真の逆侵攻を迎撃すべく、孔明は李厳を前将軍から驃騎将軍に昇進させて漢中に呼び、蜀軍の軍政を委ねている。李平と改名したのはこの年だけど、まぎらわしいので李厳で通す」
A「いいけどね」
F「そんな李厳がとんでもないことをしでかしたのは231年、第四次北伐に際してだった。祁山にある孔明に撤退命令が届いたのね。正史では『食糧輸送が上手くいかなかったので、使者を送って孔明に軍を撤退させた』とあるけど、李厳が『ダメでした♪』と泣きついてきたところで(珍しく勝っている)孔明が兵を退くはずがない。演義に倣って、皇帝からの退却命令を偽装したと見ていいだろう」
Y「その辺りは羅貫中を認めねばならんところか」
A「確かに、それはとんでもないことだったな」
F「しかも、その後がまずかった。撤退してきたと聞いた李厳は『何で食糧があるのに撤退するンだ?』と驚いてみせ、一方で劉禅に『あぁ、アレは撤退したふりを見せて追撃を誘い、攻撃をしかけるつもりなんスよ』と上奏している。つまり『準備は万端なのに退いた孔明が悪い』と云っているようなモンでな」
A「責任転嫁かよ……」
F「相手が悪かったと云わざるを得ないだろう。孔明は、李厳自筆の書状のことごとくを保管していた。それを整理して劉禅に提出したところ、李厳の暴挙は明らかになり、ついに『夏から秋にかけての長雨で食糧輸送が上手くできなかった』と自分の罪を白状する」
A「間抜けな奴。孔明相手にそんな真似しでかして、上手くいくはずないじゃないか」
Y「むぅ……」
F「正史の注には、このとき孔明が怒り狂っていたのが伝わってくる、(かなり大人げない)李厳を弾劾する上奏文が掲載されている。劉禅にしてもかばうつもりはなかったようで、李厳の官職を剥いで庶民に落とし、追放までしている」
A「演義にも、かばうぞぶりはなかったな」
F「むしろ、処刑に同意していたはずだぞ。実は、孔明が蜀の指揮権と行政権を掌握したのは、この李厳追放後のことだったと考えていい。本人が『李厳在任中は周りが不審に思うほど厚遇していた』と自白しているンだから」
A「気を遣ってある程度の権限を与えていたワケか。劉備の遺言もあって、無碍には扱えない」
F「李厳が有能と云っていい人材だったのは、それまでの行いでも明らかだった。ところが、補給計画の失敗をごまかそうととんでもないことをしでかしたせいで孔明の逆鱗に触れ、そんな過去の栄光全てが台無しになってしまう」
A「判りやすい転落人生だな」
F「さて泰永、李厳の何が気になるって?」
Y「この男、魏に通じていた形跡はないか?」
A「ぶっ!?」
F「結論から云えばないと思う。魏書には李厳・李平の名は一度たりとも出てこない。何事だ?」
Y「前回に見た第四次北伐が蜀軍優位だったことは、俺でも否定せん。長引いていればどうなったか判ったモンではないが、長引く前に蜀軍は撤退している。そして、洛陽にその報が届いて、報奨が行われたのは7月6日だ」
F「正史明帝紀にはそうあるな」
A「あれ……? それ、おかしくないか? だったら蜀軍の撤退は6月中だろ?」
Y「そう、6月なら旧暦ではまだ夏だ。夏から秋にかけて長雨が降っても、輸送失敗の理由にはならんのだ。つまり李厳はまたしても嘘をついている。なぜか。蜀軍を退かせたかった理由があるはずだ」
A「それで、魏に内通……?」
Y「この男が、孔明も認めていたとはいえ孟達に通じていたのは覚えているだろうな? 李厳が孟達に叛逆を促したなら、その逆があってもおかしくないように思えた。赤壁で似たようなことを云っていただろう」
A「……蒋幹か」
Y「孟達は、少なくとも曹丕の代までは魏の忠臣だった。それならば、親友で能力も確かな李厳に帰順を持ちかけてもおかしくはあるまい。曹丕・孟達の死でタイミングは逸していたが、腹の底では帰順の誠心を捨てておらず……」
A「蜀軍優位な戦況を覆そうと、撤退命令を出した……?」
Y「魏への帰順を考えての行動ではないか、と思えてな」
F「まず、えくせれんと。状況証拠で云うならそこまでの講釈には筋が通っている。だが、繰り返すが、結論から云えばそれはない。云ってしまうが、そこまでは僕も考えたンだ」
Y「なに?」
F「李厳が魏に通じていると考えるのに、最大の障害は李厳のその後でな。庶民に落とされた李厳は、それでもいつか孔明が、自分を復活させてくれるだろうと期待していたとある。そのまま蜀に留まっていて、孔明の死を聞いて発病し、死んでいるンだ。この最期を見るに、おおよそ李厳には魏に通じる意思はなかったと判断せざるを得ない。あったのなら演義で部下がやったように、魏に逃亡しているはずだ」
Y「……では、なぜ孔明に兵を退かせた? 他に説明がつくか?」
F「李厳が、孔明に漢中王を名乗るよう勧めたのはいいな?」
2人『何ですと!?』
F「正史の注には王を名乗るよう勧めたとはあるが、当時の孔明の任所は漢中だ。漢中にある孔明に王を名乗るよう勧めたということは、すなわち漢中王を名乗れと云っているに等しい」
Y「九錫を受け爵位を進め王を称するよう勧めたとは確かにあるが……あー、そうなるか。漢中王……」
A「どこの王でも孔明が受けるわけないだろ! 曹操に九錫を勧めた董昭に反発して、荀ケが憤死してるンだぞ!」
F「実を云うと、李厳についてはその頃にやっておきたかったンだ。九錫は公および王になる前段階で、これを受けることを曹操に簒奪の意思があった証拠とするのが一般論だからな」
Y「ということは……つまり、って話をしたかったワケか」
A「……もちろん、孔明はそんなモン拒絶しているンだよな?」
F「もちろん、と云っていいだろうな」
Y「じゃぁ、李厳は何がしたかったンだ? 孔明を王にして恩を売りたかったのか、それとも孔明を王座にまつりあげることで自分が実権を握るハラだったのか? 目的が判らん」
F「話を少し戻すが、李厳は孟達と関係が深かった。一戦交えたような記述もあるンだが、劉備に降伏していることから考えても、孟達同様益州を劉備に委ねたかったひとりだろう。才徳あふれる君主に蜀を治めてほしかった」
A「もともと荊州の出なら、劉備とも交流があったかもしれないしねェ」
F「むしろ孔明だな。漢中王推挙への返事で、孔明は『アナタとは知りあってずいぶんになりますが、まだワタシの性格が判っておられないようですね』と云っている。益州攻略からその時点(226年ごろ)で12年だから長いは長いが、その前からの知り合いだった可能性も否定できない」
A「226年ごろ……」
F「劉禅の即位から数年を経た226年の、最大のイベントと云えば魏帝・曹丕の死だ。それを狙って魏に侵攻しようと、孔明は漢中に駐屯し、後事を李厳に任せた。その頃に漢中王になるよう勧めた裏には、孔明に帝位につくよう勧める意思さえあったように思える。何しろ李厳は、劉備の臨終に立ち会っている」
Y「李厳の見立てでは、劉禅は帝位にあるべき器ではなかった、ということか」
F「かつて劉備がやったように、まずは漢中王、次いで帝位。ところが孔明には簒奪の意思がなかったモンだから、さっきの続きで『あぁ、魏を討ち果たしたら九錫どころか十命でもお受けしますよ。今は劉備様の御恩に報いるため努力するだけです』と答えている」
A「……じゃぁ、例の撤退命令は」
F「劉禅からの撤退命令が勝っているところに届いて、追撃を退けて帰還してみれば『え? 食糧ならばっちりでさー?』とお留守番が戸惑っている。どう思う?」
A「誰かの陰謀……とか考える前に、劉禅のボケだと思うのが筋だな」
F「ために、孔明はキレる。今度こそ勝てるはずだったのに……! と怒らないはずがない。逆上した孔明に『もういっそ、あなたが皇帝におなりなさい。劉備様もそれをお望みです』とけしかける……そういう強硬手段。劉禅への書状も、兵を進める口実として『領内深く引き込む計画ですンで、軍が南下しても驚かないでくださいねー』と云っているように見えなくもない」
Y「蜀を割ろうと考えたのか?」
F「かつて張松たちがやったのと同じだ。有能で徳があり、賢者をよく使う君主に蜀を治めてほしいンだよ。さらに云うが、そこで割れるのかも微妙なところだ。法正・黄権に劉巴亡き今、蜀内における益州人最高の人望・実績・権威を持つのは李厳だ。その李厳と荊州人トップの孔明とが手を組めば、家臣たちの総意として劉禅を下ろすのは難しくない」
A「家臣の意思があれば、君主を変えることもできる……だったな」
F「君主を家臣が替えるシステムを、漢土では禅譲と呼ぶ。往々にして譲る側ではなく譲られる側の意志だというのが通説だが、このとき李厳は何を思ってそれを目論んだのか。……李厳は、孔明になりたかったのかもしれない。孔明を皇帝にして自身が軍を率い、劉備の志を継ぎたかったのではなかろうか」
A「……気持ちと理屈は判るな。結局のところ、劉禅が上にいたのが孔明失敗の原因だ」
Y「アキラ、お前な……」
F「だが、それをやれば孔明は董卓になる。いや、董卓でも帝位にはつかなかったのだからもっと悪い。それと判っていたようで、孔明は李厳の勧めを突っぱねたのみならず、あらゆる官位・権限を剥奪して庶民に落とし『あの野郎は常々、利己的なことばかりしていました』『アイツのわがままで私がどれだけ頭を悩まされたことか……』と、蜀の文武官23名の連署で李厳を処断した旨報告している」
A「はっきり処断することで、自分が王にも皇帝にもなる意思はないと表明したようなモンか」
F「李厳は、孔明が皇帝になることが蜀のためになると知っていた。実際のところ、孔明が劉禅に奉った書状に、李厳が何をしたかったのかははっきり書いてある。『永安一帯を割いて巴州とし、自分をその都督として(魏の仲達のような)自治権を認めてもらいたい』と主張していた、と」
A「独立宣言?」
Y「いや、荊州方面軍か? 関中方面は孔明に任せ、自分は永安から荊州方面を攻撃するつもりだったとか」
F「好意的に考えればそう思えなくもないだろう。だが孔明には、蜀を割る意志も自分が劉禅に変わる意志もなかった」
A「結局、李厳の失敗の原因は、孔明本人が看破した『孔明を理解できていなかった』という点に行きつくね」
F「ただし、孔明は李厳を惜しんだ。処刑せずに庶民に落とし、李厳の息子には『忠勤を尽くすなら貴家への配慮は惜しまぬ』と云っている。何しろ李厳の家には、下働きやメイドさんが百数十人健在で、息子はそのまま現職にとどまった。同じランクの役職にある家と比べれば充分優遇されている……とのこと」
Y「やっぱり、例によって処断はしたくなかったワケか」
F「というか、息子に『そなたが李厳を慰め誠意を尽くせば、過ぎ去った時間を取り戻すこともできる。この手紙の前で涙を流す私の気持ちを察してくれ』と書いているンだ。李厳を復帰させたい意思はあったようでな」
A「……前言撤回。心の奥底では通じていたように思える。惜しい人材を手放して、涙が止まらなかったンだろうね」
F「互いに認めあっていても(この頃の)孔明には身分的な野心はなかった。若い頃の欲ボケ模様がどうにも薄れていたのが、李厳には判らなかったンだろう。李厳本人が欲深かったのかは、検証の余地があるが……ともあれ、これによって蜀内部における政治的な最大のライバルを失脚させ、孔明は蜀を双肩に背負うことになった」
A「孤軍奮闘の人生が続いているワケだ」
Y「果ては近いがな」
A「やかましいわ!」
F「孤軍奮闘と孤立無援は似て非なるものなんだが……ともあれ。ところで、陳到を覚えているか?」
A「? だれ?」
F「蜀将だ!」
A「……あー、うん。豫州だか徐州だかで劉備配下に加わったンだっけ」
F「先日2周年企画でやって不評だった『三國志演技』のルールブックで『資料が乏しく、それゆえ蜀史に伝をたてられることもなく、三國志演義でも無視され』た武将の見本として名指しされている人物だが、『私釈』メインアドバイザーの蒲沢氏はなぜかこの陳到をえらくお気に入りでな」
A「そんな奴の何をどう気に入っているンだ?」
Y「正史でも……(確認中)李厳の下についたのと『趙雲とともに猛将と知られていた』みたいな記述しかないぞ。ちなみに、『私釈』メイン参考資料の『三國志X事典』では『趙雲クラスの勇将なのだが、口の悪い連中に言わせると、趙雲が陳到クラス』と書いてある」
A「わざわざ云わんでいい!」
F「僕があのヒトと知りあった経緯はともかく、陳到が趙雲クラスというのを史料的に検証して盛り上がったのが、今日の関係を構築できた所以でな」
A「何をどう盛り上がれるンだ? 原稿用紙に換算したら、2枚どころか半分にも満たない記述しかないのに」
F「その乏しい記述が問題なんだ。さっき泰永が確認した通り、陳到は永安にいた李厳の下に配属されている。その李厳が漢中に左遷された折に、李厳の息子が後任として江州を治めているが、軍は陳到が引き継いだと考えていい」
A「なんで」
F「陳到の役職が永安都督・征西将軍なんだ。さらに上位の李厳がいるなら軍権は李厳にあるだろうけど、たとえば、さっき云った李厳弾劾の連名書にある23人にも、征西将軍より上の地位にある者は、孔明を含めても7人しかいない。征南将軍(2人)を入れても10人に満たず、東部方面軍に陳到より上位の者がいたとは考えにくい」
A「意外にも、役職としては高い地位にいるのか?」
F「そりゃそうだろう、趙雲に次ぐ名声と官位にあったンだから」
Y「……あー」
F「つまり陳到は『趙雲に次ぐ名声と官位』を買われ、『陸遜に引けを取らぬ』李厳の後任として、対呉最前線の防御を張っていた。これでどうしてマイナーズなのだ……と、蒲沢氏は主張している。実際、僕も全面的に合意する」
A(……やっぱり今回マイナー武将擁護の回だったンですね)
Y(帰りてェ)
F「ただし、残念ながら没年(死んだ年次)・享年(死んだ年齢)いずれも不明。劉備が豫州にあった(193年)くらいから劉備軍に属していれば、劉備臨終の際に勤続30年だ。趙雲同様、かなりの老将だったのは否めないな」
A「じゃぁ、この231年には死んでいた可能性が高いか」
F「たぶんな。劉備時代からの生抜きが高齢で次々と倒れていき、だが開いた穴を埋められなかったのが、蜀の人材不足の原因だった。劉備はいろいろと問題のある男だったが、たったひとつ、カリスマだけは孔明をも上回っていたことは否定できない」
A「誰も否定する奴はいないと思うぞ」
Y「……ふん」
F「続きは次回の講釈で」

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