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私釈三国志 123 張郃戦死

F「一般論での第三次北伐を、加来耕三氏が認めていないのは以前見た通り。118回だが、ほとんどメインの参考資料にしている『三国志おもしろ意外史(二見書房)』ではこうなっている」

 私は認めたくないが、一般にはこの作戦を第三次北伐に数えるらしい。(240ページ)

F「ただし、これが出版されたのは1991年。6年後に講談社から出版された『<三国志の謎>徹底検証』では、何かあったようで『一般には、この作戦を第三次北伐に数えるようである。』(339ページ)となっている」
A「ちょっとソフトな表現に編集されたンだろうね」
F「その割には、342ページの『先の武都・陰平の攻略を別にすると』はそのまま残っているンだけど……ね。ともあれ、三度を数えた蜀の北伐がいい加減こうるさくなって、逆撃に出た曹真が長雨に負けて引き返したのが前回」
A「第四次北伐は、その翌年だっけ?」
F「曹真が死んだ年だからな。228年の第一次北伐以来、3年間で4度めの出陣になる。実際のところ、どうして加来氏が武都・陰平攻略戦を第三次北伐と認めたくないのかは判らないけど、230年の魏延による雍州侵攻が北伐に数えられていないのの理由は判る。孔明が動いていないからだ」
A「判りやすい理由付けで」
F「ともあれ231年2月、孔明は四度兵を挙げる。今回も第一次・第三次北伐同様、直接関中に向かうのではなく迂回路を取り、第一次北伐で攻め取っておきながら馬謖の敗走で手放した祁山へ向かった」
A「あの失敗が響いてるねェ……」
F「これに対して魏では、ブっ倒れたままだった曹真が3月に死去し、これに代わって大将軍・司馬仲達が迎撃の指揮を執ることになった……のは、前回見たな」
A「いよいよの直接対決だねっ!」
F「そうでもないンだが、とりあえず経緯を見ていく。孔明が祁山に向かったと聞いて、魏ではふたつの意見が出た。『蜀軍には食糧がないのだから、攻撃しなくても自滅するはず』と『上邽(地名)付近の麦を刈って、蜀軍に奪われないようにしましょう』という意見だが、曹叡はいずれにも従わなかった」
A「何で?」
F「とりあえず、戦って勝つことに意義を見出したようでな。孔明が退くのを待つのではなく、戦って勝てと仲達に命じ、兵を増員して仲達の軍勢とした。加えて、見張りを出して麦を刈られないように手配している」
A「……何でそんなアホなことするかな」
F「曹叡は、軍事的には割と優秀と云っていい君主だったはずなんだが……ともあれ。孔明はほぼその読み通りの動きをしている。祁山を包囲し、仲達はこれを迎撃。ただし、ひともあろうか加来氏が見落としていた事実がある」
A「また何か、お前の思い込みで云うつもりじゃなかろうな」
F「いや、客観的な事実だ。祁山に兵を出す場合、武都・陰平を抑えておかないと背後を衝かれる恐れがあるンだよ」
A「えーっと、前に見た地図……あ、ホントだ」
Y「……なるほど」
F「位置関係つかめてないと見落としがちだけど、戦略的観点から見る攻撃の順番としては正しいンだよ。むしろそれまでで攻めていなかったのが遅いくらい。つまり、陳式を出したのは次の北伐への下準備。ところが、孫権即位のゴタゴタと曹真の攻撃および長雨のせいで、兵を出すのが遅くなった。それほど間違ったことを云っているつもりはないが」
A「失礼しました」
F「ところが、長安から出陣した魏の軍中で、いきなり意見対立が発生。仲達は、上邽に費曜率いる精兵四千を配して麦を守らせ、残る兵を総動員して祁山を守ろうとしたのに、事実上の主将たる張郃は、軍勢を各地に分配し戦略拠点を守らせようと発言している」
A「んー……?」
Y「一長一短、かね。食糧を守りつつ蜀軍を叩こうとする積極策と、要所に兵を配して長期戦準備としたように見える慎重策。どちらも正しいという意見は出せるが、司馬懿案では蜀軍に別動隊がいたら上邽(食糧)を奪われ、張郃案では各個撃破の危険性がある」
F「ために仲達も『先発隊だけで蜀に勝てるならそれでもいいが、勝てなければ項羽が黥布に敗れたのと同じ結果になる!』と突っぱね、祁山へと進軍した。それと聞いた孔明も、兵を二分して一方を祁山に残し、自身は上邽に向かう」
A「別動隊が出たようなかたちか」
F「ところが、ここで思わぬ事態が発生する。孔明が早かったのか仲達が遅かったのか、仲達本隊が祁山へ到達するより早く、孔明率いる軍勢が費曜隊を打ち破り、救援に駆けつけた郭淮まで打ち破られてしまう」
A「ふはははっ、孔明強っ!」
F「しかも、仲達率いる本隊とも上邽の東で遭遇しちまった。ここで両者が激突していたら(不謹慎ながら)面白いことになったンだが、蜀軍はいかにも孔明らしく、とりあえず麦を刈り集めだし、魏軍はいかにも仲達らしく、要害に立てこもって守りを固めた」
A「……むしろ面白いくらい、この両者らしい言動ですね」
F「違いない。ただし、孔明が麦を刈って上邽を包囲したのには、ある程度の成算があった。この時点では存命だった鮮卑の軻比能が、幽州に兵を出しているンだ。北方が動乱して魏が兵を引くのを期待して、孔明の依頼で動いたらしい」
A「あの、北の切れ者が動きましたか」
F「加えて、上邽の麦を刈り取ってしまえば、蜀軍の食糧にできるのに加えて、魏軍の食糧を減らせる。孫子には『敵から奪った食糧1は味方の食糧20に相当する』との記述がある。敵の食糧が減って味方の胃袋を満たすンだから、一石二鳥って奴だな」
A「あぁ……そうか。魏領の食糧で現地調達すれば、蜀の備蓄は減らさずに済むのか」
F「このときの魏軍について、正史郭淮伝に『隴右に穀物なし』という記述さえある。実際、仲達は割と困っていたンじゃないかと思える。何のつもりか曹叡が派遣してきて兵は多いけど、兵が増えればその分食糧も消費される。過去蜀軍が撤退した原因の主たるものが食糧不足だということを忘れてはならない」
Y「否定はせんな。明帝紀(曹叡伝)にはさっき見た議論があり『上邽の麦を頼りとして食糧を確保した』とあるが」
F「おおよそ仲達が守備をかためて戦おうとしなかったから、孔明は退却した……と諸葛亮伝にある。この時点では、蜀軍の食糧が尽きたという記述が(珍しく)ないところから察するに、この退却は孔明の策だろう。せっかく刈り取った麦さえ捨てて引き揚げることで、魏軍に追撃を促し、野戦で打ち破ろうとした」
A「おぉ、これぞまさに孔明の罠!」
F「実際のところ、仲達はしっかり守って蜀軍を魏領に入れなければそれで済むが、孔明は何とか魏軍を打ち破り関中・長安へと攻め入りたい。それが判っているからこそ、仲達は守り、孔明は攻めた。結論を云えば、この化かしあいは孔明が勝利し、仲達は追撃の兵を出している」
A「さすがの司馬仲達でも、功を焦ったのかな?」
F「たぶん郭淮のせいだ。さっきも云ったが、上邽に立てこもっていた魏軍には食糧がなかった。ところが羌族を帰順させていた郭淮は、付近の羌族に命じて食糧を出させ、その輸送も命じて『兵糧を充足させ』ている。加えて、蜀軍が放棄していった麦がその辺にあったモンだから、食糧問題が解決したと仲達は判断したンだろう」
Y「関連する正史の記述が問題なくつながるよう、頭使うのも大変だな」
F「リンゴの消費が激しいよ……。いちおう張郃が『追撃するのではなく、小規模な奇襲部隊を出して敵を疲労させるべきです。前進して圧力をかけるのは敵を団結させることになります。どうせ食糧の乏しい連中です、放っておいても引き揚げるでしょう』と云っているけど、またしても仲達はその意見を退けて追撃する」
A「意見対立が激しいなぁ」
F「しかも仲達は、追いかけるのに、追いついても手は出さずに陣地をかためて戦わない。蜀軍にゆるゆると圧力をかけて、そのまま領外に追い出そうとしたのかもしれないけど、これには張郃・費曜・郭淮らではない、他の武将たちが怒った。仲達に『公は蜀軍を虎か何かとお思いですか! これでは世間の笑い者です!』と突き上げ、ついには攻撃を承諾させる。5月10日、張郃を先鋒に魏軍は蜀軍に攻めかかった」
A「そして返り討ち!」
F「判っているようだな。張郃隊は蜀軍の南を張っていた王平隊を攻めたものの、街亭に続いてまたしてもその陣を抜けずに撤退。孔明本隊に向かった仲達本隊も、魏延らのディフェンスの前に大損害を受けて敗走する。蜀軍は三千の首級を挙げ、五千領の甲冑、三千張りの弩を鹵獲している」
A「大勝利じゃねっ! やっぱり孔明さん、強い強い!」
Y「不思議だな」
F「実際のところ、今回の北伐で孔明が何かと上手くやっていたのは、相手が仲達だったからだと見ていい。これが曹真相手だったら、過去3度のように、こうも上手くはいかなかったはずだ」
A「おいおい……司馬懿が曹真より下だったとでも云うのか? いくら『私釈』でもそんな暴言はまずいぞ」
F「もともと仲達は荊州方面軍を率いていたンだぞ。先年の蜀侵攻には従軍しているが、蜀までは到達できていない。また、先に確認したように、街亭の戦いには来てもいない。つまり、仲達がこの方面で戦うのは曹操の漢中平定戦以来、実に16年ぶりになるンだ」
A「……あ?」
F「実際のところ、張魯攻めに本当に従軍していたのかも判ったモンじゃない。となると仲達が長安西南部で戦うのは初めてになる。対して、孔明は失敗したとはいえ3度に渡ってこの地に兵を出し、魏延に至っては10年以上守りを張っている。純粋なキャリア不足が著しいンだ。勝てるワケないじゃないか」
Y「なるほど……陸遜なら地形を調べてどう動き動かすか計画するが、仲達にはその時間がなかったワケか」
F「しかも、郭淮はともかく張郃とは何かと意見していたモンだから、熟練の防御経験からくる意見に基本的には反発する方針をかためていた節がある。個人的な対抗意識があったように見えるンだ」
A「……否定できんなぁ」
F「要するに、仲達は孔明と戦う前に魏軍をまとめることができなかった。張郃に折れるかせめて退けるかしていればよかったンだろうけど、彼の意見の逆をやらかすという最悪の判断をしてしまい、結局大損害を喫してまたしても守りを固めてしまう」
A「まぁ、こうなったらカメかカタツムリになるしかないだろうね」
F「ところが、状況は予断を許さない。まず、幽州に来ていた軻比能が、蜀軍劣勢と考えたのか『馬あげまーす!』と云って引き揚げてしまう。率いていた軍勢の馬を献上して、敵対意識はなかったと意思表示したらしい」
A「……さすが軻比能と云うべきか、何と云うか」
F「しかも、漢中で留守番していた李厳から、劉禅からの撤退命令が届く。演義では『呉が魏と組みました!』とされている書状だが、そんなモンが来ては兵を引かないわけにはいかない」
Y「東方が動乱して蜀が兵を引くことになったワケか」
F「そもそも、食糧が限界に達していた。この戦闘から孔明は、伝説に名高き木牛流馬を動員して食糧を運搬しているが、それでも根本的な解決にはならなかったようでな」
A「孔明の大発明・そのいちを持ってしてもか……」
F「というわけで、蜀軍は撤退を開始するンだけど、それを聞いた仲達は最大のボケをかます。『逃げる兵を追うべきではありません』と云った張郃本人に、蜀軍追撃を命じているのね」
A「どこまでボケてンだ、このときの司馬懿は……」
F「やむなく進撃した張郃だったけど、追撃を予期していた孔明は巧妙に伏兵を配置していた。矢の雨に魏軍は撤退を余儀なくされ、しかも張郃も脚を射抜かれ、その傷がもとで亡くなっている。はっきり、仲達のせいで死んだと云っていい」
Y「惜しい武将がまたしても、あまり納得のできんタイミングで射殺されたな。しかも今度は正史の記述だから、あながち文句も云えん」
F「改めて見返すと、官渡では張郃(と、高覧)の寝返りが袁紹軍総崩れの決定打になり、漢中争奪戦では夏侯淵の足を引っ張り続け、米倉山では趙雲に一騎駆けを許し、江陵では潘璋にしてやられ、この戦闘でも、いくら総司令官がアホだったとはいえいいところなく終わっている。街亭の戦いがまぐれだったンじゃないかとさえ思える負け人生なんですよ」
Y「以前云った『張郃の悪夢』だな。張郃のいた軍隊が勝ったのってかなり少ないンだよ」
A「……何だかなぁ」
F「ただ、劉備は張郃を恐れていた。定軍山で夏侯淵を討っておいて『いちばん肝心なのを討たんでどうする!?』と張郃こそが大物だと断じている。コレは、確か演義では劉備ではなく孔明の台詞になっていたはずだが」
A「あったかな。……ていうか、射殺しておいて孔明さん『イノシシを討っちゃいました、てへっ♪』と云ってるけど」
F「張郃が強かったのを否定する意思はないが、正直、評価が難しいところだ」
Y「本音を口にするなら、俺は否定するがな」
F「演義での強さと間抜けっぷりは何回か先で見る。それはともかく、ところで……」
A「ぅあーんっ!?」
F「正確な没年は不明だが、曹叡の御代に許褚が死んでいる。享年も不明だ」
Y「あぁ、いつの間にか死んでいたか」
F「正史では曹叡の即位後に亡くなったとあるが『太和年間に皇帝が許褚の忠孝をを思い出し……』ともある。曹叡の即位が226年で、太和は227年から233年(2月)まで。早ければ226年ごろには死んでいたようでな」
Y「正史・演義ともにその最期ははっきりしない、というところか」
F「曹操が死んだ折には血を吐いて悲しみ、泣き叫んだという。どうして(最低でも6年)曹操の後を追わずに生き残っていたのか不思議なほど、曹操に忠節を貫いた男なんだが、正史でも割とないがしろにされたようでな」
A「……やるタイミングがつかめなかったから、今やってるのか?」
F「本音としてはあと4回以内にやれれば問題はなかったンだが、張郃が死んだタイミングでやるのがいちばん効果的に思えた。実は、この両雄の死が思わぬ事態を引き起こしているンだが、それは5回先で見る」
Y「残りが少ないせいで、どこで何をやるのかはっきり云えるワケか」
F「……ともあれ、孔明は兵を引いた。加来氏の云う『孔明の恐れた二人の宿敵』のうち、存命しているひとり・李厳の謀略によって。次回『私釈三国志』第124回『李厳暗躍』」
A「何か、今回はしっくり終わりますね……?」
Y「頭使ってるせいでボケもツッコミも出ないくらい疲れてるのかね?」
F「続きは次回の講釈で」

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