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私釈三国志 122 曹真逆撃

F「では、すっげェ怒られたものの122回を始めます」
A「ちゃんと謝っておくンだよ、ホントに……」
F「1月19日付のブログで、なんか『私釈』そのものを公開休止するような印象を受ける書き方をしてしまったようで、誤解を招いたことをお詫び申し上げます。ホントすみません」
A「悪気がないのはいいけど、心遣いが足りない。まったく、どれだけ心配したかと……」
F「まぁまぁ、お説教はそれくらいで」
A「自分で云うな!」
F「ともあれ、講釈を始めよう。229年に孫権が皇帝に即位し、名実ともに三国時代が始まった……のが前々回。ところが、その年は不思議なほど静かに更けた」
A「ったく……。4月7日以降には、積極的な軍事交錯はなかったと?」
F「そゆこと。魏と蜀は呉の出方を待って、呉は即位の事後処理から動けなかったンだろう」
A「事後処理って?」
F「孫権の即位に伴い、長子の孫登が皇太子に立てられた。212年に張紘の勧めで建業を本拠地とはしていたンだが、その後連戦に次ぐ連戦で孫権は呉領を駆け回っていた。ために、当時の首府(即位前なので都ではない)は武昌だったが、即位に際し改めて建業を首都に定めた」
A「ふんふん」
F「この武昌は荊州の江夏郡に位置していて、要するに孫権自ら対魏前線(文聘への抑え)を張っていた次第だった。帝位についたらさすがにそんな真似はできないということで、自身は建業に遷り、孫登を武昌に置いたンだね。ただし、さすがに不安になったようで、その教育係には陸遜が任じられ、孫登のもとに呼ばれている」
A「陸遜、もともとはどこに?」
F「西陵とあるが、実は夷陵だ。つまり、蜀への抑えを張っていた」
A「で、蜀との同盟が改められたから、対魏戦線に回された?」
F「そういう見方もできるな。が、移動したということは、あの慎重居士のことだから、周辺の地形とかきっちり調べて、どう動くか動かすか念入りに計算したはずだ。ために、呉の側から積極的に動ける態勢ではなくなった」
A「立太子のタイミングを間違ったのかね?」
F「帝位についたらとっとと立太子するのは、筋としては間違っていない。劉備だって帝位についたら劉禅を皇太子に立てている。ところが曹丕が曹叡を皇太子に立てたのは、崩御する直前だった」
A「……カミさんの不貞を考えて躊躇ったのか?」
F「母親が誅殺されたため、とは正史にもあるな。ただ、曹操が魏王に就任したのは216年だが、曹丕を後継者と定めたのは翌年だ。父の顰に倣ったと云えばそれまでなんだが」
A「どーして年表の217年に魯粛の最後しか書いてないの!?」
F「それに比べたら大したモンじゃねーからだよっ! ともあれ、そんな年が終わりを告げた翌230年、長安にあった曹真は洛陽に参内して、蜀への侵攻作戦を曹叡に奏上している」
A「反撃開始、かな」
F「そゆこと。漢中の孔明さんが性懲りもなく軍備を整え、北伐の準備をしている……との情報を聞きつけたンだね。ために『この際こちらから兵を出して蜀を討伐し、災いの禍根を断つべし!』と作戦案を考案している」
A「性懲り、云うな! しかし、魏の側から蜀に攻め入ろうとするのって初めてだろ?」
F「228年の2月には、長安まで行幸していた曹叡が自ら侵攻しようかと考え、孫資の進言を容れて諦める……ということがあったけど、今度の曹真案は実行段階まで進展した」
A「演義では、第三次北伐で蜀軍が退いた翌年だから……ちょうどいいのか」
F「いいはいいが、演義だと孫権が即位してから第三次北伐が起こっているな。それはともかく、曹真のプランでは、自身率いる本隊が長安から南下し、かつて曹操が漢中侵攻に際してたどったルートを往く。一方で分隊が子午谷から南下するが、コレは以前魏延が眼をつけた長安−漢中間の最短ルート。当然抵抗が厳しいことが予想されたので、ここには張郃が充てられた」
A「例のプランを逆用されたワケか」
F「実績のある進路をたどった辺りに曹真の慎重さがあるな。のみならず、荊州方面軍軍団長とでも云うべき宛の司馬仲達まで別動隊として、こちらは水路から漢中を目指している」
A「わざわざ司馬懿まで動かすかね……」
F「もともと魏は、蜀よりも呉を注視していた。前々回に見たように、呉の人口は蜀のおおむね2倍。国境線が揚・荊二州にまたがっているだけに、ある程度以上の軍を配しておかねばならなかった。というわけで、大将軍曹真を大司馬に昇進させ、仲達を大将軍に任じて、侵攻軍に駆り出した」
A「……魏の本気が伝わってくるな」
F「ここで、正史・演義に共通している(つまり、演義が正史に準じた)イベントが発生している。この出陣計画について、曹叡が劉曄に諮ってみたところ『討伐すべきです』と応える。でも、曹叡の寵臣のひとりが蜀攻略に反対していて『劉曄殿も反対しております!』と曹叡に抗弁する」
A「劉曄を宮廷に呼びだして諮問してみると『やっぱりやめるべきだと思いまして』とあっさり」
F「ところが、人払いしてふたりきりになると、劉曄は真剣になって『兵は国の大事、戦争とは騙しあいですぞ。軍を起こすことが確定していないうちにそれを広めて、敵に知られたらどうしますか』と曹叡を非難する。曹叡もバカではなく、劉曄の考えを理解して謝った」
A「例の寵臣が浅はかだったワケな?」
F「そゆこと。劉曄は、本心としては蜀攻略に賛成だったンだけど、その寵臣相手には『攻略すべきでない』と云い続けていた。それを真に受けていたモンだから、劉曄から『あなたは誠実ですが智略は取るに足らん』と酷評されている」
A「まぁ、相手が劉曄では智恵比べでは勝てんか」
F「実際のところ、正史ではこのエピソードがいつのことなのか、はっきり曹真の蜀侵攻についてのことなのかは記述されていないンだが、そうだと考えていい事態が発生している。あとで見るが」
A「……また考えすぎてるンじゃないだろうな」
F「さて、蜀の側でも魏軍大侵攻の報は聞きつけている。漢中の孔明は自分だけでは対応しきれないと判断し、対呉戦線から李厳を呼び寄せて漢中の政務を執らせ、かつて曹操軍から奪った南鄭で防御をかためていたンだけど、魏の三軍が合流予定地としたのも南鄭だった」
A「実際、魏が攻め入ってくるなら望むところなんだよな。蜀軍にしてみれば、過去の北伐が失敗していたのは、迎える魏軍の防御が堅かったのが原因だ。攻守ところを取りかえれば、孔明にも勝機はある」
F「……一般的に、城攻めは、攻撃側に守備側の三倍の兵力が必要だとされている。先に郝昭が、数十倍の蜀軍を防ぎきった例でも判るように、火薬兵器が存在しないこの時代では、城攻めはそれくらい困難でな」
A「だろうな」
F「このとき動員された魏軍兵数は、孔明率いる漢中駐留軍の3倍には達していたとみていい。前々から見ているように、長安駐留軍でも孔明に充分対抗できたンだから、各部隊が漢中軍並みの規模を擁していた公算は高く、また、魏にはそれだけの軍勢を動かす財力・民力もあった」
A「……城攻めには充分な数でしたか」
F「純粋な戦術論を云々するつもりはないが、曹真の計算高さは確かなものだった。蜀軍に対してどれだけの兵を出せば確たる戦果をあげられるのか、はっきり見極めていたと考えるべきだろう。加えて、別動隊は仲達が率いていたのだから、ちゃんとした戦闘になったら孔明が南鄭を守り抜けたのかは疑問視していい」
A「仲達との直接対決……しかも、兵数は3倍か。確かに勝てるかは疑問だな……」
F「演義では、四十万と号する魏軍に対し、孔明は王平・張嶷に一千の兵を与えて迎撃に出そうとして『それなら我らをこの場で殺していただきたい! そうすれば一千の兵を死なさずに済みます』と抗命されている」
A「常識で考えれば、防げるわけがない数字だな」
F「ところが、孔明には成算があった。曹叡自らの見送りを受けて出立した曹真が、長安を出たのは8月だが、例年にない大雨が降り続いた。正史でも三十数日間降り続いたと記述される豪雨に、魏の本隊・分隊・別動隊のいずれも身動きが取れなくなってしまう」
A「孔明が風雨を操るってことを忘れてたのかね?」
F「それは演義での話なんだがなぁ。曹真は計算高かったが、唯一天候は計算に入れていなかったようでな。9月末まで降り続いた秋の長雨は魏軍の足を止めたが、以前触れたように、漢土では天変地異は天の意志だ。この長雨は天が我らを止めているのです……と、楊阜や華歆、亡き王朗の息子・王粛などがこぞって上奏し、撤兵を進言している」

楊阜「今年は凶作で民が飢えているのですから、軍費には節度を持つべきです」
華歆「戦乱がふたまわり(24年)を越えているのに、今年は人民を役務に徴発し、農業をおろそかにされているとか。まずは政道を行い、征伐の道は後回しでよろしいかと存じます」
王粛「曹真は出発してから1ヶ月になるのに、長雨に阻まれて行程の半ばも進んでいないとか。コレは天の意志に反するでしょうな。軍を引くべきです」

F「曹叡はこれらの意見を容れて、曹真に撤退命令を下す。結局曹真は、何の戦果もなく撤退せざるを得なかった」
A「かっかっか、相手が悪かったようだな」
F「しかも、この長雨は思わぬ被害を魏にもたらした。曹真が病に倒れてしまう」
A「演義だと、病に伏せったのは撤退途中で蜀軍の追撃を受けて、仲達に助けられた落胆が原因だったか」
F「蜀軍が追撃したのは、例によって演義でのフィクションだな。雨にあてられたのか、益州の気候が肌に合わなかったのか、洛陽に戻る途上で病に倒れた。これには曹叡自ら屋敷に赴き見舞っているくらいだ。深刻さが判ると同時に、感染性のものではないのが察せられるな」
A「長雨でろくな食事がとれず、体力が低下して弱ったのかね?」
F「どうなんだろう。正確な年齢は判らないが、曹操が挙兵した頃に親戚筋の父が殺され、孤児になったところを引き取られ、曹丕とともに育てられた……とあり、曹丕と大した年齢差はなかったと思う。つまり四十代半ばだろうから、身体はそんなに弱くないと思うンだけど」
A「肉体的な最盛期は過ぎてるけど、そんなに衰えてはいない年代か」
F「正史の記述で云うなら、むしろこの辺だな。遠征先では将兵と苦楽を共にし、賞与が足りない場合は自分の財産を削って分け与えていたモンだから、兵士たちの信望は篤かったとある。王粛は上奏文で『曹真の兵たちは桟道を自分で作って進んでいる』とあるから、曹真があるいは無茶でもしたのは想像できるぞ」
A「……いくらなんでも大司馬自ら道路づくりはせんだろうよ」
F「ともかく、この病は完治せず、曹真は翌年の3月に死去した。これにより、蜀軍への防御指揮は仲達が執ることになる……が、事態はそれでは収まらない。曹真の死の翌年、劉曄が病気になっている」
A「? 関連あるのか?」
F「正史の注にはあるひと、とあるがそれが誰なのか記述はない。曹叡に『アイツは陛下の顔色をうかがっているだけで、陛下を軽んじていますぜ。試しに考えと逆のことを諮問してくださいよ』と吹き込んだ奴がいて、それを試したところ劉曄は曹叡の本心を見抜いた返事をした。ために、疎んじられるようになったとある」
A「何でそれで疎んじられないとならんのだ? 主の意を察するのは軍師として問題のある行為には思えんが」
F「楊修のことを思い出せ。切れすぎる部下は警戒されるンだよ。もともと曹丕にもそれなりの諫言を繰り返していて、しかもそれが正しかったモンだから、109回で見たように八つ当たりされたくらいだ」
A「……じゃぁ?」
F「病といっても精神的なもので、いつぞや云った通り発狂したとあってな。それなのに、外務大臣に相当する重職に任じられている。実際に任務があったのかは判らんが、外地に出たなら曹真同様、現地の風土に身体がついていかずに死んだ可能性も否定できない」
A「……何だかなぁ」
F「ここで注目すべきは、劉曄が蜀侵攻に賛成していた事実でな」
A「ここで来た!?」
F「撤退は自然環境に負けてのことだから仕方ないにしても、誰かが責任を取らねばならんのは筋だろう。いくら戦闘で負けたわけではないとはいえ、魏の西南方面軍を総動員したに等しい一戦が、天災で阻まれては立つ瀬がない。そこで、誰かに詰め腹を切らせる必要があった」
A「……劉曄が、その責めを負った?」
F「撤兵を促した華歆も戦後(曹真と同じ年)死んでいるから、誰がどこまで責められたのかは今ひとつ判断はしかねる。ただ、大人げない負け方をした曹休が曹叡の部下に見舞われて死んだことを考えると、戦前に死んだ鍾繇はともかく、曹真・劉曄・華歆の死には何らかの作為があったように見えなくもない」
A「相変わらず、死因のトップに『謀略』ないし『粛清』を持ってくるンだな」
F「いちおう確認はしておこう。曹真は帰還途上で病に倒れ、翌年に死去。劉曄は戦後2年して発狂しその2年後に死んでいる。そして、華歆は曹真と同じ年に死んだ」
A「……これにより、仲達が対蜀戦線の指揮を執るに至った」
F「そゆこと。かくて、両雄は相まみえることとなる。……ところで」
A「いつになくマジな顔して何だ!?」
F「曹真らを退けたこの長雨だが、ホントに孔明が呼んだンじゃないかと思える」
A「……演義ではちゃんと風雨を操るが、正史にもそんな記述が?」
F「いや、曹真が出兵したのは230年8月で、撤兵したのは9月から10月頭にかけてになる。それから翌231年3月に至るまで、魏では雨が降らなくて、9日に大規模な雨乞いをしたと正史で書いているンだ。誰かが降らせまくったせいで水行のバランスが崩れ……」
A「雨乞いについて真面目な顔で分析するのやめろ!」
F「得意なんだけどなぁ。ともあれ、天機によって魏軍は退き、そのまま曹真は三国志の舞台から退いた」
A「……こうしてみると、割と惜しいひとを亡くしたように思えるな」
遅刻者「判ってきたようだな」
A「あ、やっと来たし」
F「続きは次回の講釈で」

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