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私釈三国志 120 孫権即位

1 瑞兆連発
F「まず、歴史的経緯を見る。220年に曹操が死に、献帝は曹丕に禅譲。ここに400年の漢王朝は幕を下ろし、魏が成立した。すると劉備は漢の喪も明けきらぬ221年、蜀の地で皇帝を名乗る。4月のことだった」
A「曹丕に奪われた漢の正統を継承するという意思表示だね」
Y「僭称だ」
F「そして229年4月7日、孫権は皇帝に即位した。これにより、名実ともに三国時代が始まった。曹操の死から9年、劉備の死からは6年の歳月が経過している」
A「これもまぁ、僭称と云うべきなんだろうね」
Y「王朝の創始者というものは侵略者でなければ簒奪者だとの意見もあるが、そのどちらでもないな」
F「演義では、第2次北伐が終わり、蜀が退いたものの戦果はあった(つまり、魏が軍事的に弱っている)との報告を受け、張昭の勧めに帝位についた……となっている。報告を受けたのがどうにも遅いみたいで、3ヶ月ないし4ヶ月たってようやく第2次北伐終了の報が入ってきたような書かれ方だ」
Y「演義だしな。実際には、第一次・第二次ともに戦果なんてなかったンだから」
A「やかましいわ!」
F「それはともかく、正史呉主伝では220年5月に甘雨が降っている。漢土では、天下は天から命を受け支配する者が決まることになっているので、ろくでもない君主が世を治めていると災いが起こり、いい君主の場合は瑞兆が発生する。シナ五輪の直前に四川省で大地震が起こったのは記憶に新しいな」
A「はい、そこから先は口にしちゃダメ!」
Y「やっぱりお前、中国嫌いだろ?」
F「いや、『しなごりん』て語呂が気に入ってるンだよ。このあとも呉での瑞兆は続き、222年3月には黄色い龍が現れ、223年5月には甘露が降っている。225年には連理の木が見つかっているが、この年にはたびたび地震もあったとのこと。226年には鳳凰が現れた」
A「信憑性はどうなんだろうね?」
Y「疑わしい、というよりは信じられる要素がない。こんなモンわざわざ書いているのがむしろどうかしてるぞ」
F「まぁ、わざわざ記録しておくのは、帝位を名乗る下準備だね。年表で確認してもらえば判るが、222年には夷陵の戦いが決着し、陸遜が劉備を破っている。223年の4月にその劉備が死去。225年には、曹丕自らの侵攻を徐盛が退けている」
A「その年の地震は?」
F「瑞兆は呉で起こったものだけど、地震は天下で起こったと主張できるンだ。つまり魏は『地震が起こるようなろくでもない政権だ!』と主張できるワケ」
A「……あの、何か間違えてませんか?」
F「226年には曹丕が崩御している。これだけ続けば判るように、蜀・魏に何か起こったら『やっぱりあいつらはあてにならんのだ』と意思表示する目的で『呉ではこんな瑞兆が起こりましたー!』と記録を残していたワケだ」
Y「よくもまぁ、そんなモン正史に記したよ」
F「229年4月、即位する直前には黄龍と鳳凰が出現しているが、このネタは演義にも見えるな。また、呉でも群臣によるパフォーマンスは起こり、223年4月と229年春(1〜3月)に、孫権に帝位につくよう勧めている。一度めは退けたが2度めで従っているのには、すでに曹丕が何度も辞退したり、劉備がお断りしていたりの前例ができていたので、繰り返す必要性を認めなかったンだろう」
A「223年の4月って……」
Y「劉備が死んだ直前になっているな」
F「そのタイミングで帝位につかなかったのには、説明はいらんだろう。ンなことしでかしたら蜀との全面戦争、よくても国交断絶だぞ。本音はどうあれ対外的には『蜀の皇帝を破ったので、これからは僕が皇帝でっす!』と宣言するようなモンだ」
A「なるほど……で、6年か」
F「223年から3年連続で曹丕が兵を出してきたし、それが治まったら今度は彭綺の乱が起こっている。途中、自分で江夏を攻めて失敗したこともあった。彭綺を捕らえて、曹休を破ってようやく魏に一矢報いたのが228年。その6年間、呉にはそんなことを考える余裕がなかったンだろう」
Y「帝位さえ後回しにしなきゃならんほど、呉の国内は政情不安だったワケか」
F「だったらやめときゃいいのにね。というわけで、曹休を打ち破ったことで呉の国内がわきかえっている余勢を駆って、孫権は皇帝になった」
A「……こーしてみると、けっこうキツキツな即位だったのかもしれんな」

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