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私釈三国志 118 趙雲死去

F「さて、趙雲が死んだ
A「だからーっ!?」
Y「いきなり殺すなって云ってンだろーがね、この雪男は……。だが、なるほど。趙雲が死んでは魏延を斬れんな」
A「五虎将亡きあとは、魏延が武のエースを……って、すとっぷ。趙雲って、郝昭戦の前に死んでなかった?」
F「演義ではな。趙雲は演義のみならず正史でも随分な活躍を描かれていて、命令を遵守する姿勢と主をも諌める高潔さ、何より純粋な武勇によって人気武将の地位を揺るぎないものにしている」
A「旧『恋姫』および『真・恋姫』での旧蜀将の人気投票でトップだったしねェ」
F「それとこれとはさすがにちょっと話が違うような気もしなくはないのだが……えーっと、ゲームでも最強ランクに設定されているほど厚遇されていて、古い資料で悪いが辰巳出版の『シミュレーションゲーム最前線 パート2』で行われた『第一回 三國志杯 武力No.1決定リーグ戦 誰が一番強いんだっ!? 〜洛陽決戦〜』を制している。2回以降が行われたのかは判らんが」
A「タイトル長すぎるよっ!」
Y「つーか、どのゲームでどんなルールだ?」
F「コーエーの三國志T(正確には無印で、当時は光栄)で、参加10名に兵2万(最大値)を持たせて2人ずつ、どちらかが全滅するまでひたすら『突撃』を繰り返すというもの。公平を期すため同一カードで4戦をこなし、全36戦の通算で順位を出すンだが、23勝13敗(19KO、判定4)で1位となった」
A「他の出場者は?」
F「順位でいいな? 2位が許褚、3位が孫策と呂布、以下黄忠、張飛、太史慈、典韋、馬超、最下位が関羽で14勝22敗(13KO、判定1)。なお、引き分け(両者全滅)の場合に生還すれば判定勝ち」
A「……関羽最下位かよ」
F「黄忠さん相手に全敗したのが響いたね。コーエーものでいうならシリーズを経ても、趙雲の強さは健在でな。毎度おなじみ三國志X事典でも『武力だけでいえば、呂布がナンバーワンのはずだが、呂布は意外とポカが多い。その点、趙雲の強さは安定して』いる旨書かれている。Y以降事典が出てないンでそっから先はコメントしないが」
A「まぁ、かなり強いよね」
F「そんな趙雲の最後の活躍を、ちょっと歴史をさかのぼって確認する。街亭での馬謖の敗走は、そのまま蜀軍の敗走につながった」
Y「戻りすぎという気もするがな」
A「第一次北伐での堂々たる退き様は、趙雲について語る場合、避けては通れん功績のひとつだぞ?」
F「うん、そのオハナシ。敗戦を聞いた孔明は、潔く隴右の住民を漢中に移住させて全軍を撤退させる。演義での扱いを見るに、魏延辺りは街亭へ援軍を出して戦況を挽回するよう献策したようにも思えるが、孔明が積極策を容れるはずもない」
A「かくて蜀軍は趙雲を殿軍に漢中へと退き、曹真は郭淮に兵を預けて追撃させる」
F「ところが趙雲は、ケ芝に兵と物資を預けて先行させると、自ら殿軍に立っていた。追撃してきた蘇顒を一撃で斬り伏せると街道に仁王立ち。事前に郭淮から『趙雲は強いぞ、気をつけろ』と云われていた万政は恐れをなして近づけない」
Y「……野郎が強いのは否定せんよ、ああ」
A「うむうむ。郭淮からの攻撃命令に、万政やむなく飛び出した刹那、兜を射抜かれて落馬!」
F「谷川に落ちた万政だったが、槍が差し出されている。つかまって川辺に上がってみると、あろうことかそれは趙雲の槍。ドスの利いた声で『助けてやるからさっさと帰って、郭淮に出てこいと伝えろ』と云われ、濡れ鼠の万政は震え上がって逃げだした」
A「で、ケ芝に追いついてみるけど兵や物資にほとんど被害はナシ。趙雲隊は無事漢中へと帰還した、と」
F「正史でも、孔明本隊が祁山に出ている間、趙雲・ケ芝別動隊は曹真の相手を張っていた。もちろん負けているが、趙雲が自ら殿軍となって軍需物資を守り引き揚げてきたのは演義と共通」
Y「例によって演義が準じたということか」
F「そんな趙雲に、孔明は絹を下賜しようとした。見事な撤退だったということでの下賜品だったンだけど『負け戦に褒美など不要です。冬に備えての貯えとなさいませ』と断っている。細部は違うが、これまた正史・演義で書かれている、趙雲の誠実な人格をあらわすエピソードだな」
Y「考えてみると、やっぱり趙雲の見せ場って負け戦なんだな」
A「やかましいわ!」
F「街亭での敗戦の責任を取るかたちで、孔明は丞相から三階級降格になった(ただし、業務は引き続き行う)が、趙雲も同様に鎮東将軍から鎮軍将軍に降格された。で、この翌年(229年)に亡くなっている」
A「演義だと?」
F「演義では228年中に死んでいるンだが、これには理由があってな。前回見た第二次北伐を前に、孔明は『後出師の表』を書いているンだが、文中で『趙雲をはじめ、数十年かけて集めた武将たちが数多く死んだのに、ここで数年動かねば三分の二も失われるでしょう。益州ひとつではこの人的損失を補えません』とあるンだ」
A「例の『死してのち已む』か」
F「締めの言葉はそうなっているな。ただし、この『後出師の表』は後年の偽作との説が根強い」
A「あ、そーなん?」
F「街亭で敗戦した蜀軍が、半年少しでまた動くとか云いだしたら、いくらなんでも反対意見が起こるだろ。数年は兵を休め軍備を整えてから出陣すべきでは、という慎重策を封じるために書いたことになっている」
Y「孔明は皇帝じゃなくて最高責任者だからな。反対する意見を唱える権利は、他の家臣にもあるだろうな」
F「ために、魏が呉で敗れたと聞いた孔明が、11月になって『兵を挙げますがいいですね?』と書いたことになっている。で、偽作説いちばんの根拠は、228年時点では生存している趙雲が、文中で死んだと名指しされていることだ」
A「趙雲は生きているから『後出師の表』は偽作で……でも、演義には取り入れられていたな、コレ」
F「だから、趙雲は第二次北伐前に死んでいなければならなくなった。孔明に嘘をつかせるワケにはいかんからだ」
A「あー……順番を変えて『後出師の表』を正しいことにしたのか」
F「逆に考えると、趙雲は『後出師の表』のために死んだことになる。僕もコレはあまり重視していないので、前回の時点ではスルーしておいた。ちなみに、『出師の表』をひと言で云うと『劉禅への説教』だが、『後出師の表』をひと言で云うと『開き直り』だ」
Y「妥当な判断かね」
A「どーいう意味か!?」
F「『私釈』では触れんので、気になるなら自分で調べろ。ともあれ、演義での趙雲には、街亭出兵前に死んでおく必要があった。正史におけるその最期が問題なんだ」
A「その心は?」
Y「七年(229年)逝去し、順平侯の諡号を追贈された。以上」
A「……いつも通り『ただ死んだ』としかないのか?」
F「そゆこと。放浪時代から劉備に仕え、関羽・張飛と並ぶ重鎮として支えてきた趙雲だったが、正史ではただ惜しまれて亡くなっただけだ。これでは面白みも盛り上がりもない。そこで羅貫中は『後出師の表』を、本当に孔明が書いたことにして、趙雲の死を蜀軍の動くべき理由のひとつにまで昇格させた」

 臣が漢中に入ってから1年と経たぬうちに、趙雲らの武将七十人以上や南方の土着民ら一千人を失いました。これらは(先帝が)数十年かけて集めた四方の精兵たちであり、益州ひとつではフォローできません。もし数年など待っていれば三分の二が失われ、どうして敵に勝ち得ましょうか。

Y「それくらい、蜀の人材は不足していたワケか」
A「そーなんだよねェ」
F「……珍しく反応しないのか?」
A「いや、この先人材不足が顕在化していくから。さすがにそれは否定できることじゃない」
F「お前たちの仲がいいと、むしろ何か企んでいるように感じるな……事実なんだが。ともあれ229年、趙雲は死んでいるが、春になると孔明は懲りずに兵を挙げた。世に第三次北伐と呼ばれる戦役だが、驚くべきかこの一戦は上手くいく」
Y「まぁ、な」
A「……そっちもツッコミなしかい」
F「お前ら、何を企んでいる!?」
A「企んでいると云うか……」
Y「第三次で蜀軍が戦果を挙げたのは事実だからなぁ」
F「……どうにも勝手がおかしいな。えーっと、失敗に終わった先2回の反省から、今回は関中から大きく西に向かって武都・陰平(いずれも地名)を攻撃している。第一次と同じく関中への迂回路を進んだワケだが、実はこの辺りは、いち時期蜀の領土だった」
A「だっけ?」
F「漢中争奪戦の頃にはな。曹洪に攻められて呉蘭が敗死し、魏の領土に入っていたンだが、とりあえずそれを取り戻そうと目論んだらしい。率いるのは陳式……異説では陳寿の父」
A「異説以外が『私釈』にあるのか?」
F「やかましいわ。晋書では、陳寿の父は馬謖の参軍で、馬謖に連座して処罰を受けたとあるけど、それが誰なのかは不明。ともあれ、出兵と聞いた郭淮は、兵を出して陳式を討とうとするけど、すかさず孔明が本隊を出した。退路を断たれては適わんと、郭淮は兵を退く」
Y「以上」
A「……終わり?」
F「うむ。盛り上がりがなくて悪いが、二郡を蜀領に奪還して第三次北伐はこれで終わる。演義では、ついに都督として迎撃に出てきた仲達と一大決戦を行っているが、正史では仲達が動いた形跡もない」
A「あのすみません、まだ全然分量余ってるンですけど……」
F「もちろん『私釈』はするがな。アキラ、演義での第三次北伐はどうやって始まった?」
A「えーっと、郝昭が病気に伏せっていると聞いて、その隙に陳倉を攻め落としたンだったな」
F「その通りだ。実際のところ、孔明が西ではなく北に向かっていれば、陳倉を攻略できていた公算は高い」
A「郝昭の病気は、正史でも?」
Y「病死したとはあるが、この時期だったのかは判らんぞ」
F「曹叡は、孔明を退けた郝昭を列侯に封じ、都に帰還した折には孫資に向かって『キミ同様素晴らしい武将がいてくれて、僕には何の心配もありません』と絶賛している。重用したいと考えたが、おりしも病で亡くなった……とあってな」
A「229年春時点では、郝昭が陳倉にいなかったか、すでに病死していた可能性が高いワケか」
F「そゆこと。郝昭の死後に陳倉城は放棄されているが、空き城に入るのと攻略するのとでは、功績として大きな差が出る。先の侵攻での失敗をここで巻き返せれば、孔明の評価も高くなっていたはずだ」
A「方向性を間違えていたワケか。……でも、二郡を攻略したのはちゃんとした功績だろ?」
F「実は、それもちょいと疑わしい」
A「何でか!?」
F「この二郡はおおむね異民族の居住地でな。魏としては軍事的にも政治的にも重要とは考えにくい地域だったンだ。だから、曹真ではなく郭淮が守備に出て、形勢不利と見るやあっさり手を引いている」
Y「魏から見れば取るに足らん土地だったワケか」
F「その証拠に、正史魏書の明帝紀(曹叡伝)・曹真伝・郭淮伝のいずれにも、第三次北伐に関する記述はない。加来氏もこの一戦をして『私は(第三次北伐とは)認めたくない』とさえ云っているし」
A「……魏ではこの一戦を、そこまで軽視していたと?」
F「重視していたなら郭淮伝に少しでも触れてあるだろう。ところが229年に何をしていたのか一切記述がなく、曹叡伝の229年は夏から始まっている。曹真伝ではなぜか第二次北伐が229年にあった(郝昭を派遣した翌年春に孔明が来た)ことになっているが、やはり第三次に関する記述はない。徹底的に無視しているな」
A「おいおい……」
F「よほどの敗北でも正史はきちんと書いておく、というのはここまでの『私釈』で再三云ってきたことだ。ために、この一戦が魏で軽視されていたのは歴史的事実だろうと考えていい。もともと蜀の領土だっただけに、それほどの未練はなかったンだろう。守備に固執せず放棄した次第だ」
Y「だのに、蜀の連中は大喜び。連年出兵して敗戦が続いただけにたったこれだけの勝利でも沸き上がり、先に敗戦しておきながら王双を討ったというちっちゃい"功績"とやらを併せて、孔明を丞相に復権させている」
A「やかましいわ!」
F「さすがにフォローはしておくか。第三次北伐は、魏から見れば確かに小さいが、蜀では大きいンだ」
Y「は?」
F「敗戦が続いているンだから、軍部から孔明下ろしの声が上がってもおかしくないだろ? 軍部の重鎮たる魏延の献策を蹴り、趙雲を別動隊に回しての第一次北伐は、馬謖のせいで全軍撤退。自ら指揮を執った第二次北伐は、数万の兵を出しておきながらわずか一千の敵を抜けずじまいだ。そろそろ不満の声が出てくるだろう」
A「そこで、小さくてもいいから軍事的勝利を挙げておきたかった?」
F「たとえ生産性もない僻地を攻め取っただけでも、領土は領土、勝利は勝利だ。以後、魏がこの二郡を積極的に奪還しようとしなかったことでも、この地の戦略性などたかが知れているが、南征以来実に4年ぶりの勝利に、蜀軍の士気は高まっただろう」
Y「無責任かつ無反省にな」
A「やかましいわ! 勝てばいいの、勝てば!」
F「その考え方には感心しないが、結果を出したのは事実。かくて孔明は丞相に復権し、名実ともに蜀の最高責任者に返り咲いた。……ところで」
A「はい、何ですか!? 最初に挙げたきりほったらかしになってた趙雲について!? だったらアキラ嬉しいな!」
F「察しが早いな。趙雲の死は229年のいつか、正史に記述はない。が、たぶん年明け間もなくだろう」
Y「その心は?」
F「趙雲の死を、劉禅でさえ『趙雲は先帝に仕え、功績は顕著。朕は年少より艱難を重ねてきたが、彼の忠誠のおかげでそれを乗り越えてきた』と悼んでいる」
A「演義でも、孔明は『国家は棟木を失い、ワタシは片腕を失った』と、劉禅は『子竜がおらねば朕は乱戦の中に死んでいた』とのたまってるな」
F「そうまで惜しまれた趙雲が死んでは、蜀国内の意気消沈ぶりは計りしれん。そこで孔明は士気回復のため、先の失敗からほとんど間をおかずに兵を動かした……というシナリオだ。それなら、陳倉に向かわなかった理由も察しがつくだろう。病身とはいえ相手は郝昭。怖かったンだろうな」
A「云われてみれば、228年冬に兵を出して、229年春にまた出兵か。強行軍にもほどがあるな」
Y「だから負けるンだろ、と思ったが今回は勝ったンだったな。失敬失敬」
A「黙ってろ!」
F「というか、趙雲が生きていたら、先遣隊は陳式じゃなくて趙雲が指揮を執っていたように思えるンだよ。だから、出兵前にすでに趙雲は死んでいたンじゃないかな、って僕は思う」
A「……確かに」
Y「異存はない」
F「続きは次回の講釈で」

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