私釈三国志 114 孟達敗死
A「アキラのいない間に、大変だったみたいだねェ」
津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
F「やかましい、お前さえいればあんなことをしないで済んだのじゃ。ともかく、本筋に回帰します。なお、前回僕に何が起こったのかは気にしないように」
Y「思い出したくもないか」
A「気持ちと理屈は判る……俺もあのヒトの相手はしたくない、というかできない」
Y「だが、アレがあーいう性格になった原因の大部分はお前に求められるという歴史的事実はどうする?」
F「オレの耳は、きょうも安息日だ! えーっと、今回は孟達について」
A「マイナーズ好きだね、ホントに……。そこまで取り上げるほどの武将か? アレが」
F「一時的にではあるが魏蜀の政権中枢に取り入ったのは事実だ。やらんわけにはいかんだろう。さて、孟達……加来耕三氏に云わせると『魏延と並んで五虎将の次代を担う蜀の将帥』だった男だが、この頃は魏に仕えていて、新城郡(地名)の太守だった」
A「裏切り者ー」
Y「前回はアレがいたから聞き役に徹したが、今回はきちんとアクションしよう。正道に立ち帰るのを裏切りと呼べるか」
A「主に忠を果たさずに何が正道か!」
Y「つまり、孟達は劉璋に仕えていればよかったのか?」
F「主主足らずば臣臣足らずとも云うが、よい主か否かを誰が決めるのかは実際大きな問題だ。叛逆者とされる者の前身は忠臣である場合が多い。つまり『御家のためを思うならあの主には任せておけん』と考えるのが臣足らぬ家臣で、『ワタシを尊敬しない民が苦しもうが知ったことか』と考えるのが主足らぬ主君だ」
A「さいてー」
F「と考える奴は多いのだが、上記台詞の"主"を"親"に、"民"を"子"に変えると、どんな暴君であろうとそっちが正しいと云いだすバカがいる。嘆かわしいことこの上ないな」
A「……すみませんお兄さま、坑儒コーナーはじめる場合は30分前に警報でも鳴らしてもらえませんか」
F「二六時中警報鳴らしてたらお隣から苦情が来るだろ。確認するが、孟達はすでに亡き張松・法正とともに劉璋を見限って、蜀を劉備に売り渡した男だ。劉璋から見ればただの裏切り者だが、劉備から見れば入蜀の大恩人にあたる」
A「劉備がどう考えていたのかは、判ったモンじゃないけどな」
F「そうでもない。孟達が劉備に信頼されていたのは、養子の劉封を預けていたことで判る。劉封は養子で、劉備と直接の血のつながりがなかったモンだから、蜀の政権内部において地位を認められるにはある程度の功績が必要だった。ために、劉封を預けて戦場に出したということは、孟達には軍監ないし先任としての役割があったと見ていい」
Y「ぶっちゃけて云うと、皇子の教育係か?」
F「軍事面での、と限定するべきだけどそう見ていいだろうね」
A「いや、劉封にそれほど過度の期待を寄せていいのか? 俺なんかは、養子とはいえ王子が戦場に出るのがそもそもどうなんだって思うが」
F「おいおい……。演義の話ではあるが、献帝は劉備を左将軍に任じて皇叔などと頼りにしているだろう? 親族というのは皇室の藩屏たるべきなんだ。王族の危機において最後の防衛ラインとなるのが頼れる身内。ために、後漢末から三国時代にかけての衛将軍は、おおむねその時点での最高権力者の親族か姻族だ。泰永、確認してみろ」
Y「董承……献帝の妃の父、曹洪……曹操の親族、諸葛瞻……妻が劉禅の皇女、全j……妻が孫権の皇女、司馬師……司馬懿の息子」
A「……ぅわ」
F「そうでない姜維なんかものちに任じられているから断言はできないけど、長じていたら劉封もこの地位までのぼりつめていた公算は高い。いち時期の劉封はそれくらい期待されていたし、その先任士官に選ばれたのだから、孟達の軍才も認められてしかるべきだ」
A「でも、『高い地位にあるから有能』っていうのは逆説じゃないかな。『妹が皇后で本人も大将軍なら、何進はブタ殺しじゃなくて豪族のはずだ』って記述をどっかのサイトで見たことがあるけど」
F「どこでンな抜けたこと云ってるンだ? 何進はともかく、孟達の指揮能力は高い。何しろ孟達は、65回でさらっと書いたけど、劉備率いる本軍が到着するまで、馬超を相手に防御戦を展開していたンだから」
A「……ぅわー!?」
F「かつて馬超は曹操の命を追い詰めたが、それは野戦だった。騎兵相手に関城にこもって本軍の到着を待つのにどれだけの評価をするべきかは微妙なラインだが、短期間とはいえ馬超を防ぐのは難しいぞ。曹仁や徐盛でもできるかどうか」
Y「龐徳の不在と率いていたのが張魯配下の兵だということを考慮しても……それは、しかるべき戦功だな」
F「正史でも、荊州から益州に入り、主に劉備軍の後背を守っていた。北上しては上庸(地名)を攻略し、そのまま現地の太守に任じられたくらいだ。ここが益州・荊州・司隷の境界に位置する要衝だというのは以前触れた通り。魏延が守る漢中に匹敵する重責だ」
A「うーん……コイツはどーにも重要武将か」
F「認めたくないかもしれんがな。というわけで、蜀に留まっていれば魏延と並ぶ中核武将たりえた孟達だが、関羽敗死の責任を問われるような形で魏に寝返ってしまう。こんな書状を劉備に献じて」
――オレ、劉備様にお仕えできるタマじゃないンすよ。大した才能も功績もないのに重臣の皆さんと肩並べるのって、心苦しいンすよね。だから、やめます。関羽さんのことは残念っすけど、やめるンで許してやってください。引き留めないでくれると嬉しいっす。
F「冗談は抜きで、まとめるとこんなことを書いて劉備に送っている。劉備がどうリアクションしたのか正史に記述はないが、怒っただろうなぁ」
A「劉備じゃなくても怒るだろ、コレは!」
Y「……というか、何で口調が徐庶なんだ?」
F「以前見たように、劉備は荊州陥落と関羽戦死の原因を、援軍を出さなかった劉封・孟達に求めた。確かに、兵を出していれば荊州はともかく関羽は助けられたはずだ。それくらいの能力が孟達にはある」
A「あるかどうかはともかく、劉備の怒りは意外とまっとうだったワケか」
F「実はここで、笑えない事実がある。劉封は孟達を嫌っていたンだ」
A「……あ、そーなん?」
F「何が気に入らなかったのかはよく判らんが、劉封は孟達を嫌っていて、その配下を没収している。これと荊州の件があって、孟達は蜀を見限っているンだから、劉封の罪は小さくないンだよ。それでいて、夏侯尚・徐晃らとともに劉封を攻めることになった孟達は、劉封に書状を送っている」
――肉親の情ほどあてにならないものはない。まして実の親子でないならなおさらだ。劉禅が生まれてから、君はどんな思いをしてきた? これから我々は大軍をもって君を攻めるが、成都に逃げ帰っても君は処刑されるだけだ。魏に降れ。君の父は劉備ではない、魏にいるではないか。
A「……孟達の側では、劉封を嫌っていなかったということか」
F「実際に負けて成都に逃げ帰った劉封は『孟達の云う通りにしていれば……!』と云い遺して処刑されている。劉備は彼のために涙を流したという。一方で孟達も、劉封について『アイツは要衝に拠っておきながら、それを失うとは……』と慨嘆している」
Y「お前に云っていい台詞じゃないのは判っているが、云おう。親の心子知らずだな」
F「劉封の親が誰なのかはさておくが、我ながら珍しくその意見を認めておく。魏に降った孟達は、意外になほどに曹丕に重用されている。その風貌・才覚を高く評価して……人物評価に遣わされた使者のひとりは『彼は楽毅に比すべき良将です』と言上したこともあって、新城郡一帯の太守に任じているンだ」
A「持ってきた土地の支配権をそのまま認めたワケか」
F「それだけではなく、重臣として西南部の治安を委ねたことになる。一度など、曹丕が外出しようと馬車に乗ろうとしたとき、孟達の手を取り背中を叩いて『おいおい、まさかお前は劉備からの刺客じゃないだろうな?』とからかいながら、馬車に同乗させたくらいだ」
A「あんがい、本気で疑ってたンじゃないのか?」
F「曹植や張繍への態度を考えると、それはないな。本気で疑っていたならそいつが死ぬまで疑い通すのが曹丕だ。王忠やケ展のように、その場でからかわれているだけと見ていいンじゃないかな」
A「……事前に事例がいくらでもあるだけに、反論もできんな」
F「誰かは記述がないが、曹丕に『孟達への待遇が度を超えている』とか『降将に重要拠点を任せるのはいかがかと……』と進言する者(内容からして陳羣辺りと思われる)もいた。対して皇帝陛下は『アレに異心がないことは、この僕が保証する。蜀への前線を任せるのは毒を以て毒を制するためだ』とおこたえあそばされた」
Y「つまり、曹丕の見立てでは、孟達は劉備に匹敵する人材か」
A「ンな無茶な!?」
F「魏に降ってからの孟達が何をしていたのか、今ひとつまとまった記述がない(正史に個別の伝が立てられていない)のでよく判らないが、魏のためにそれなりの活動をしていたらしい。先に見た通り夏侯尚らを率いて劉封を討ち、西南国境の鎮撫を勤めた。前回出てきた幽州刺史の王雄も、孟達が曹丕に推薦したからその地位につけたンだし」
Y「ん……? ちくま学芸文庫の人物索引では、王雄を推挙した孟達は別人になってるぞ」
F「その推挙文に『私は昔、ヒトを見る目がなかったため誤って、地方の君主に仕えておりました』と書いてあるンだ。ンなこと云ってて別人てありえるか?」
Y「……ないな」
F「そんな孟達だったが、パトロンというべき曹丕と仲のよかった夏侯尚が相次いで死んだモンだから、魏の宮中での居心地が悪くなってしまった。悲しきは裏切り者と云うべきか、もともと劉璋を裏切って劉備に仕えておきながら、その劉備から寝返ってきた男を、肝心の曹丕亡きあと信用する者はそういなくなったワケだ」
A「気持ちと理屈は判る……な。で、蜀軍が北伐で快進撃していると聞いて、望郷の念から李厳に帰参を申し出た?」
F「正史だとちょっと違うンだ。北伐に出ようとした孔明は、後方の運営を李厳に任せた。そこで李厳は孟達に『丞相から重責を受けたンだけど、よき協力者がほしーなぁ?』という書状を送っている。孔明も孟達に書状を送っていることから、孟達は蜀への帰参を考えはじめた……という次第だ」
A「あぁ……勢い込んでくる前に、孔明が手を打ったのか」
Y「そもそも孔明の快進撃そのものが、演義でのフィクションだ」
A「また云いだしたか!?」
F「はいはい、仲良くしなさいなアンタたち。そもそも、本隊が益州から魏へ侵攻するのとタイミングを併せて、荊州方面からも別動隊が一軍を出す……というのが孔明の計画だった。ところが関羽とともに荊州は失われている。――孟達が治める新城郡の地勢が、ここで重要になってくるワケだ」
A「魏に二面作戦を強いることができるのか。なるほど……孟達を抱き込めれば、北伐の成功率は跳ね上がるな」
F「ところが孟達としては、ハイ喜んでとは云えない。何しろ孔明は、劉封を殺しているンだ。関羽を見殺しにした孟達を、蜀の首脳陣は本当に許すのか。劉封のように殺されるのではないか……と疑念が先に立つ」
Y「日頃の行いが悪く影響しているな」
F「この辺りに関する正史の記述を確認すると、加来氏の見立てが正しいように思える。申儀という、孟達の配下に位置する武将がいる。この男が『孟達は蜀に通じています』と宮中に上奏しているンだが、なぜこの男が孟達の二心をはかりえたのかについて、加来氏は孔明の密告によるものだと看破している。つまり、孟達を進退窮する状態に追い込むことで、決断を促したンだ」
A「やりそうと云うか……」
Y「アイツならやるだろ」
F「というわけで、孟達のところに洛陽へ出頭するよう命令が届いた。これには孟達も態度を決さねばならず、ついに孔明の誘いに乗ることを決意する」
A「で、仲達か」
F「新城郡にもっとも近い軍事拠点の宛(地名)に配されていたのが司馬仲達そのひとだった。この謀略家は、正史・演義で割と動きが違っているンだが、その辺については次回触れる」
A「次回までこのオハナシ引っ張るンかい」
F「実は、先立って孟達は、孔明に『仲達がこちらに来るには、洛陽からの勅命を得てからになりますので1ヶ月はかかるでしょう。それだけあれば迎撃の準備も整います。仲達本人が来ることもないでしょうから、誰が来ようが私には敵いませんよ』という書状を送っている」
A「……なんか、魏延みたいなこと云ってるンだけど。アイツも『曹操が来なければ守り抜きます』と云ってたろ」
F「云われてみれば……? うーん、その辺の発言はともかく、孟達の読みは完全に外れる。孟達の叛意を知るや、仲達は宮廷に確認なんぞ取らず、そのまま独断で新城郡へ侵攻したンだ。昼夜兼行での強行軍で、わずか8日で新城郡へと攻め入った」
Y「その辺だけ見ると、孟達の読みは甘いンじゃないかと思うが」
F「いや、仲達が二枚か三枚上手だっただけだ」
A「しかし、8日か……迎撃の準備なんて整わんわな」
F「しかも、例の申儀が一軍を率いて、孔明との連絡路を遮断してしまう。完全に包囲された孟達だったけど、それでも奮戦を演じ、16日間持ちこたえたのちに、部下の裏切りによって捕らえられている」
Y「……この辺だけ見ると、それでも武には通じているのを認めねばならんのかな」
A「うーん……。しかし、孔明でも打つ手なしだったワケか」
F「聞きたいのか? 正史では、孟達が包囲されたと聞いた孔明は、費詩に『アイツはあてになりませんよ』と云われていたこともあって、救助しようとしなかったンだ」
Y「頼るべきじゃないものに頼ったら、こうなるのは明らかだな」
A「……どっちのこと云ってる?」
F「ところで、演義ではこの孟達攻めの最中……というか、最初で徐晃が死んでいる」
A「あぁ、そーいえば……孟達に射殺されてたか」
F「魏の五将軍の末席に位置していた徐晃だが、仲達が孟達討伐に向かうと聞いて、志願して先陣を張った。ところが、そのせいで孟達の手による矢を額に受けて落馬し、陣中に運び込まれたものの結局助からなかった……というのが演義における徐晃の最期だ」
A「かなり情けないンですけどー?」
F「正直、仕方ないと思うぞ。正史での徐晃は、227年に死んでいるンだから。病死らしいけど、本人の『慎ましい性格で、人付き合い広げることはなかった』性格よろしく、何の盛り上がりもなく亡くなっていたンだ」
A「……寂しいねェ」
F「羅貫中は、演義を蜀正統論にのっとって書いているが、魏将にも割と気を遣っているように思える。地味に名将だった徐晃にも、情けないとはいえきちんと死に様を用意したンだから。……情けないが」
Y「張遼は丁奉、徐晃は孟達か。演義ではBランクと評価していい連中にやられてはな」
F「まぁ、黄忠さんもそうだし、死に様の直接描写がない馬超よりはマシな扱いだと思うぞ。ともあれ、孟達の失敗によって、孔明の別動隊プランは水泡に帰した」
A「ある程度進んだ後だったからよかったようなモンかな」
F「あれ……? 云ってなかったかな。演義では、西羌軍団を退けたこのタイミングで起こっている孟達騒動だけど、正史では孔明が北伐に出陣する前に発生している。つまり、『本隊が益州から魏へ侵攻するのとタイミングを併せて、荊州方面からも別動隊が一軍を出す』というマスタープランが、事前に失敗していたンだ」
A「えぇーっ!?」
Y「いや、云ってあっただろ? さっき李厳が話に上がったとき」
A「ぅわ、いつも通り聞き流してました……」
F「お前ね……。ともあれ、孟達騒動の失敗に関して、加来耕三氏はこうコメントしている。潮出版社の『人物 諸葛孔明』250ページから、あえて全文を引用しておく」
筆者にはこの段階で、第一次北伐の勝敗はすでに定まっていたように思えてならない。
A「出兵前からすでに失敗が決まっていたとでも云いますかっ!?」
F「なお、曹操軍最後の軍師・劉曄は、孟達をして『アレは利益で動き策に頼るので、道義と云うものを知りません。新城は要衝ゆえ孟達が裏切りでもしたら、国家の大事となるでしょう』と評価している」
Y「仲達はそれを聞いていたのかね」
F「可能性はあるな。ともあれ、人格・性格はともかく能力としては惜しむべき男が、またしても散った」
Y「人格としても惜しむべき男もひとりな」
A「……どんどん終わりが近づいてるねェ」
F「続きは次回の講釈で」