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私釈三国志 113 越吉元帥

Y「……おい、幸市」
F「はい、何ですか?」
Y「俺の記憶では、前回のタイトルは確か『西羌軍団』だったはずだがな」
F「HAHAHA、やだなぁヤスったら。前回のオープニングジョークであれだけ雅丹丞相のことをネタにしたのに、どーして別のタイトルをつけるンだい? オイラそんなに薄情じゃないさー」
Y「笑ってほしいのか笑えなくしてほしいのか、ちょっと答えろ」
F「いや、真面目な話どーしてあの時点で何も云わなかったのか不思議に思っていたンだが。そーか、そんなタイトルだと誤解していたのか」
Y「いつの間にか変えておいて何を云うか!」
F「突然ですが、ここで問題です。112回のタイトルが『雅丹丞相』だったと記憶しているヒト、手を挙げて」
陶・趙……じゃねェ『はぁーい』
 今回はアキラが来ないので、前田さんちで講釈・録音しております。
Y「俺の味方をしろよ!」
ヤスの妻「だって、やっとわたしが臨席できるから、えーじろのご機嫌損ねちゃダメかなって」
三妹「そもそもここんちの女は、ひとり除いて全員えーじろの味方よ。忘れてたの?」
F「あぁ、お前だけは確かにオレの敵だ。つーか、えーじろ呼ぶな。というわけで、お前の見た西なんとかってタイトルは白昼夢だ。蜃気楼だ。走馬燈だ。一度病院に行ってこい」
Y「何もかもばっちり覚えてるだろ」
F「オレの耳はきょうは安息日だ。では、泰永の病気が発覚したところで113回を始めます。お題は、前回羌族についてふれたので、流れで異民族についてですー」
Y「確かに、やっておいた方がいいようなモンだが……」
F「本音としては『真・恋姫』発売まではハイペースでの公開を続けたかったンだが、さすがに三国志検定は受けておきたいのでな。今回、ちょっと無理をして1回を設ける。まぁ、検定前の悪あがきだ」
Y「落ちたりしないとは思うが……で、このタイトルか」
F「といっても、南蛮については103・104回で割と触れたし、山越についても73・108回でやっている。アレだけインパクトのある卑弥呼を見たあとで『邪馬台国』をやるのはプレイヤーとして間違っているので、おおむね北方系異民族……北狄についてやることになるだろうけど」
Y「つねづね思うが『恋姫』は、悪い意味で三国志の歴史に名を残すな」
F「『恋姫』を悪く云うンじゃありません。さて、確認から始めるが、北狄というのは字義通り中国の北方、モンゴル高原の騎馬民族だ。定住という概念をもたず、弓馬の技に秀でた遊牧民だな」
Y「漢民族は農耕民族だから、相容れないのは無理もないか」
F「いや、歴史的な意味での"漢民族"が成立するより前からずっと、中原人は北方の異民族に悩まされていた。だから万里の長城ができたンだろうが。……あまり効果はなかったが」
Y「ダメだろ」
F「ともあれ、北狄の嚆矢たるものが、当然ながら匈奴。彼らは前漢以前から中原人を攻撃していて、秦・項羽を打ち破った劉邦さえ白登に追い詰めている。『漢楚演義』ではあまり触れなかったが」
Y「アレは、劉邦の功臣粛清の度合いが過ぎて、敵対できるだけの戦力がなかったのが原因だろ」
F「そゆこと。それなのにあのノンダクレ皇帝は『嗚呼、どっかに我が国の四方を守れる勇者はいないのか』とかほざいている。その劉邦が死んだと聞いて、呂后に『やもめ同士仲良くしようZe♪』と書簡を送ってきたのが、その頃匈奴を率いていた冒頓単于。怒り狂った呂后は匈奴の地へ討って出ると云いだし、親族に制止されたという」
Y「……とりあえず、面白エピソードには事欠かんな。お前の頭の中は」
F「ただし、匈奴との対決は三国時代を待たずにひと息ついている。武帝以来の強硬政策が実を結び、班超らの尽力もあって、いいとこ駆逐に成功したンだね。そこへ隆盛してきたのが、前回見た西羌こと羌族」
Y「まだその連中について触れるのか?」
F「後漢の政策を語る場合、羌族の位置づけはけっこー重要なんだよ。厄介なことに、匈奴には冒頓ら歴代単于が全体の統率者として君臨していたのに、羌族は部族単位での活動が主だったので、究極的な攻撃目標が欠けていたンだ。ために、対羌戦争は断続的に、だが長引いていた」
Y「象一匹殺すのと野犬の群れを殺し尽くすのと、どっちが難しいかってことだな」
F「表現としてはどうかと思うが、そんなニュアンスだ。費用が判明している分で、足かけ22年間で3度の戦役があり、370億の軍費が消費されている。国庫が貧窮の一途をたどっていったのは云うまでもない」
ヤスの妻「えーじろ、口出していい?」
F「えーじろやめろ。どうぞ」
ヤスの妻「実はね、後漢王朝が悪名高い売官を行ったのは、この財政危機を乗り切るためだったという説もあるンだよ」
Y「財政的な危機を乗り切るのと引き替えに、天下を曹操に差し出してたら世話はないな」
ヤスの妻「売官そのものは悪名高いけど、実は無能なヒトは官職を買えなかったし、買いにくかったと思うよ。何しろ官職そのものが高価だから、経済的に成功している豪族もなかったら手を出せなかったもの。領国経営に成功した、経済力・政治力に秀でた豪族にしか、ね」
Y「……曹操の祖父は、無能などとは云えない男だったな」
F「金儲けの上手い者は行政手腕に長けると云うのは、評価としてどうなんですかね。まぁ、意見は露骨に興味深いですね。確かに、官職を買うための資金のは、賄賂だけではまかなえませんか……ふむ」
Y「お前の上前を撥ねるのが、コイツの怖いところだな」
F「違いない。かくして対羌戦争は長引き、涼・并州に司隷の西部は戦禍に見舞われ荒廃した。そのうち、羌族を懐柔したり弾圧したりで、頭角をあらわしてきたのが董卓や馬超だったワケだ」
Y「なるほど……無視できんエピソードなんだな」
F「対して匈奴は、すでにその勢力を失っていた。かつては西域の交易路を支配し、漢王朝を凌ぐほどの盛況を誇った騎馬民族は、西暦46年に南北に分裂すると、あろうことか南匈奴が漢(後漢)に降伏しているンだ。南北の匈奴は相争うが、漢王朝を後ろ盾にした南匈奴が勝利。北匈奴は西域に逃れ、伝説のフン族になった……という説もあるが、その辺はさておいて」
Y「さすがにそれは三国志じゃないからな」
ヤスの妻「えーじろさっき、わたしの書庫で騎馬民族の本を探してはずなのに、気がついたら市民戦争についての本を読んでたよ」
F「だからえーじろやめろ。というかバラさない」
Y「"次"が『私釈アメリカ史』だったら、俺はノータッチを貫くからな」
F「やらないやりたい。さて、その北匈奴の故地に興ったのが鮮卑族で、この異民族は霊帝の代までしばしば中国の北方を攻撃している。一方で北匈奴をも攻撃し、モンゴル高原の統一にも成功した。これが156年のことなんだが、実は153年に黄河が氾濫して、中国北方域からモンゴルにかけて、長いこと飢饉が起こっていてな」
Y「……関係あるのか?」
F「因果関係はともかく、無視はできないと思う。頃合いよしと見た漢王朝も、南匈奴と共同で北匈奴残党を攻略し、劉邦以来の屈辱を晴らした次第だった。第一次党錮の禁が166年だから、それより10年も前のオハナシだ」
Y「まだ三国志は始まってない頃だな」
F「三国時代ならまだしも三国志がいつ始まったのかは言及できんからなぁ。日本の戦国時代がいつ始まっていつ終わったかも定説はないだろ?」
ヤスの妻「わくわく、わくわく」
F「……すみません。僕とアンタがその辺りについて語り出すと、夜が明けるどころか年が明けます。三国志検定は明後日なんですから、そんな無茶はやめましょうよ」
ヤスの妻「ざんねん」
F「話を戻すが、三国時代の匈奴で有名なのは単于の呼廚泉。ちょっと前に『龍狼伝』にも出てきたが、この男が、袁紹の甥で并州を任されていた高幹と組んで曹操に敵対し、馬超に敗れたのは39回で触れた通り」
Y「一戦して敗れたから、曹操に切り替えたのか」
F「つまり、実際に戦うまでは袁家の味方だったワケだ。本人が『河北を制し、異民族を傘下におさめ……』と称した通り、烏桓・鮮卑・匈奴はだいたい袁家に通じていて、コーソンさんとの決戦には北狄の兵が多く加わっていた形跡がある」
Y「……最近、お前が袁紹を高く評価しているンじゃなくて、袁紹は本当にキレ者だったような気がしている」
F「喜ばしい評価だな、それは。ともあれ、この異民族対策は曹操を経て曹丕に引き継がれ、216年に来朝した呼廚泉は宮殿にとどめられて、官位を授与され骨抜きにされている」
Y「かつて劉邦を追いつめた匈奴の威風は、すでに失われていたワケか」
F「それを如実に表しているのが正史でな。北方系の異民族について触れているのは、魏書の三十巻。この巻のタイトルは『烏丸鮮卑東夷伝』という。例の魏志倭人伝……正確には『三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝第三十東夷伝倭人附伝』で、日本では邪馬台国について巻がひとつ割かれていると思われがちだけど、実際には東夷伝の附属だ」
Y「読んでみると意外なほどにあっさりしてるからなぁ」
F「そんな北狄・東夷について書かれている巻なのに、タイトルでも匈奴は触れられないくらい弱体化していたンだ。陳寿が記したように『呼廚泉を宮廷に留め部族の統治者を魏が決めても、匈奴は何の反抗もしなかった』ほど『彼らは時代を経るに従って衰退していった』らしい」
Y「そして、魏の戦力に組み込まれていった」
F「曹操の慧眼さが判るな。その意味でも、袁紹は正しかったワケだが……。えーっと、お次は鮮卑について」
Y「匈奴衰退の元凶か」
F「この時代の鮮卑を率いていたのが、檀石槐というターレン(漢語では大人)だ。北匈奴を討って鮮卑の最大領域を獲得し、漢土に毎年のように侵攻を繰り返した人物だ。例の『天高く馬肥ゆる秋』の語源になったヒトらしい」
Y「誰の時代だ?」
F「霊帝。ただ、167年の即位に対して、最初の侵攻は173年みたいだから、霊帝がアホかそうでないかある程度警戒していたのがうかがえるな」
Y「アホだと判断して侵攻を開始した、と」
F「181年に亡くなった(享年四五)が、息子はボンクラであっさり戦死。ために、兄の子が後を継いだが、成長した檀石槐の孫と争っているうちに、鮮卑は散り散りになってしまう。これを何とかまとめたがのが兄の次男で、それを殺したのが豪族にして有力武将の軻比能。……漢土の戦乱ほどではないが、鮮卑もそれなりに波乱だな」
Y「40年かかってやっとつながったのはいいが、軻比能はターレンの一族じゃないのか?」
F「血縁は確認できないな。ともあれ、黄巾の乱に端を発する『漢土の戦乱』を避けて、漢人が多く鮮卑の地に逃れている。それを吸収して、鮮卑は軍政を整えたとか」
Y「敵地に逃げた連中が、敵に与したワケか」
F「前回も云ったが、軻比能は切れ者だ。218年に代郡(地名)在住の烏桓族が、魏に叛乱を起こしているンだが、前後の推移から見るに黒幕はこの男だった公算が高い。曹操としても手綱を緩めることはせず、曹彰を自分の代行として討伐に差し向けている」
Y「年表にある『烏桓討伐』か」
F「あの辺で起こったイベントを探したンだが、これは外せないと判断してな。何しろ正史曹彰伝は、純粋な寿命の差もあって曹植伝より圧倒的に短いンだけど、裴松之の注を除くとその三分の一以上が、この戦闘についての記述になっているくらいだ」
Y「曹彰について語る場合、欠くべからざる戦闘として扱われているワケか」
F「そゆこと。代郡に入るや数倍の北狄騎兵に襲われた曹彰だったが、補佐役に任じられた田豫は地形を利用して円陣を組み、弓弩・偽兵を配備して防備を固めていると見せかけ、北狄は迂闊に手を出すのを躊躇った」
Y「出たな、対北スペシャリスト。計略で足止めしたワケか」
F「うむ。やむなく退いた騎兵隊を、曹彰は勢いづいて追撃した。自ら弓を引く曹彰の鎧に矢が立つほど激しい戦闘は半日を超え、二百里近く押しまくって兵馬も疲れ果てた。この辺りで撤退を……と勧める田豫に『戦えば勝てるのに退く奴がいるか! 遅れる奴は斬り捨てる!』と突っぱね、一昼夜の追撃戦の末、討ち取ったり捕らえたりした兵は4ケタにのぼった」
Y「果敢だな、さすがに」
F「その力戦ぶりに、数万からの騎兵を率いて形勢をうかがっていた軻比能は震えあがり、服従を申し出ている。陳寿はこの降伏をして『北方は全て平定された』と書いていてな」
Y「……なるほど。場合によっては乱入しようとしていた軻比能だったが、その脚が止まるほど曹彰に恐れをなしたということか。確かに、黒幕は軻比能だったと見ていいな」
F「問題の『反三国志』で曹彰が北狄の王になるのは、この辺りの武威が考慮されているンだろうな。ただ、代を平定しろと命じられていたのに、そのまま追撃したのは命令違反になる。出発前に曹操から『家では親子でも外に出れば君臣だ。国の法に背くなよ』と云われていた(田豫もそれを主張)から、どーしたものかと困った」
Y「まぁ困るか」
F「ここで曹丕が出てくる。当時長安にいた曹操に、叛乱平定の報告へ伺う道中で会っていたンだけど、弟の進捗を快く思わないこの御曹司は『功績を上げても、自慢せず控えめにしているがいい』と入れ知恵。云われた通り曹彰は、曹操に『このたびの戦功は、すべてワタシの指揮で戦ってくれた武将たちのおかげです』と報告。発言はともかく態度を責めるわけにはいかない丞相は『黄ヒゲよ、立派になったなぁ……』と手を取ったとある。なお、配下の武将たちには事前に『通常の規定の倍にあたる恩賞』がふるまわれていた」
Y「……口裏あわせか口封じに見えなくもないか」
F「前回も云ったが、軻比能は切れ者だ。確かに曹彰には降ったがたびたび魏に叛旗を翻し、田豫がこれを防いでいる。軻比能自ら率いる3万の軍勢に田豫が包囲されたり、田豫が軻比能の娘婿・智鬱築鞬を討ちとったりして続いた激戦は、235年に幽州刺史・王雄が放った刺客によって軻比能が暗殺されるまで続いた」
Y「水滸伝なら友情が芽生えていただろうに。王雄は国のためを思ったのか、空気が読めないのか」
F「たぶん二番め。田豫は軻比能の死後、北方での権益を望んだ王雄の讒言で、対呉戦線に回されているから」
Y「……いるンだよなぁ」
F「軻比能が叛逆を続けたのには、実は理由がある。降伏したはいいが、その後、漢中を失ったり曹操が死んだりと、魏の屋台骨が揺らぐような事件が相次いでいるンだ。機を見るに敏な軻比能だけに、その混乱に乗じて自分の権益をつかもうとしていたようでな。……ただ、自力で魏を揺るがすことができなかったのが、軻比能の限界なんだろうけど」
Y「異民族に屈するほど、曹操の守り抜こうとした国は弱くないということだな」
F「やはり相手が悪かったか。さて、順番としては最後になったのが、先程コテンパンに叩きのめされた烏桓。前漢は武帝の代にはすでに一度制圧され、帝国の辺境部と扱われていたが、霊帝の時代には強大となって、丘力居らが王を名乗り、北方諸州に侵入し攻撃と略奪を繰り返していた」
Y「烏桓が強大になったというより、霊帝の代には漢王朝が衰えていたと見るべきじゃないか?」
F「否定する余地はない。人望篤い劉虞が幽州牧になると、いちおう北方は安定の兆しを見せるンだけど、ちょうどその頃丘力居が死んだ。息子がまだ幼かったから、従子の蹋頓が烏桓を統率することに」
Y「冒頓の再来と云われた男だな」
F・ヤスの妻『うーん……』
Y「お前らふたりで悩むなよ! アキラなら泣いて逃げるぞ」
ヤスの妻「あ、非道いこと云われた。わたしほとんど口出してないのに、たまに反応しただけでその台詞はどーかと思う」
Y「日頃の行いを悔やめ」
ヤスの妻「愛されてないなぁ。さっきからあれやこれやそれやどれや、別の部屋に連れ込んででもひと晩中ツッコミ入れたくてうずうずしてるのに」
Y「とめんぞ。お前らの間に間違いが起こるとは思えん」
F「血縁関係はあるが肉体関係はないからな。まぁ、聞け。劉虞存命のうちは烏桓は大人しかったンだが、その劉虞がコーソンさんに殺され、河北の支配権をめぐって袁紹とコーソンさんが争うようになった。蹋頓も目端の効く男で、袁紹についてコーソンさんを破り、感謝した袁紹は単于の印璽を偽造して与えている」
Y「河北を制した袁紹につくことで、利益と安定を求めたワケか」
F「ところが、その袁紹が官渡の決戦に敗れ、袁家は衰退。ついに河北の支配権を失い、長城を越え烏桓のところに袁尚たちが逃げ込んできた。それをわざわざ追いかけてくる、曹操」
Y「白狼山の戦闘だな。勇戦むなしく蹋頓が敗れた」
F「激戦は激戦だったンだが、正史では『敵陣が整っていなかったので攻撃したら、総崩れになった(武帝紀)』とか『手出しを控えて(つけこむ隙のある)動きを待ち、攻撃して打ち破った(烏丸伝)』という記述なんだ。さすがに演義の『烏桓の陣はだらしなく乱れ、まるで隊伍をなしていない。張遼に采配を与え攻撃させると総崩れになり、蹋頓は張遼に討たれた。軍勢はこぞって降伏した(33回)』は云いすぎだと思うけど、蹋頓の指揮能力は、はたしていかほどのものだったのかと疑う余地があってな」
Y「油断していたところをつつかれて崩れるようでは、そんなに強いようには思えんか」
F「いや、兵としては精兵だったことを疑う余地はない。現に、以後内陸に移住させられた烏桓は、精強な騎兵として天下に知られているンだから。ただ、蹋頓をどー評価すれば冒頓の再来と思えるのか今ひとつ微妙で」
Y「うーん……」
F「どうにも相手が悪かったと云えばそれまでだがな。曹操に勝てるのを期待して、袁尚たちは蹋頓を頼ったンだろうけど、蹋頓が冒頓に及ばなかったのか、曹操が劉邦より上手だったのか。ともかく蹋頓は曹操に敗れ、丘力居の息子は戦場から逃げたものの袁尚たちと一緒に公孫康に斬られている」
Y「……割と情けなかった、というのがお前の結論か」
F「実際のところ、この時代の漢民族王朝にとって、最大の外敵は北狄ではなく西戎、つまり西羌ではなかったのかという気もする。前漢時代から続いた強硬政策が曹操の代でピークを迎え、匈奴・鮮卑・烏桓は相次いで膝を屈した。対して西羌は、先に見たような事情で戦闘が長引き、魏を経て晋代まで大きな脅威として西北部に君臨している」
Y「いや、そこまで西羌を重要視するのはいいが、三国時代ではそれほど脅威ではなかったから」
F「そうなんだよなぁ……。正史に西羌の伝が立てられていないので、陳寿がどう考えていたのかは今ひとつ判らんのが惜しまれるが」
Y「そういえばないか。……本人の『歴史書に何書くのか、オレが決めて悪いか!』って居直りのコメントが、例の『烏丸鮮卑東夷伝』の末尾に載ってるだけか」
F「理由になってないよなぁ。ところで……」
ヤスの妻「待ってましたー(拍手)」
Y「喜ぶなー!」
三妹「……アタシたちがしなかった理由より、アンタたちが結婚した理由がまるで判んないわ」
F「いまだに心はひとつだな、オレたち……。騎馬民族、遊牧民といった人種は略奪という一種独特な収入手段に頼っている。これは、極論すると政治活動と軍事活動がイコールである、ということでな」
Y「遊牧民としては、より効率的な略奪のできる酋長こそが優れた君主だが、それは優れた武将という評価もできる……ということか。まぁ、ただ奪われるだけで、抵抗しないのも珍しいか」
F「それだけに、冒頓のように、中原の混乱に影響できる指導力と部下を率いるカリスマ性、何より将としての才覚を備えた、優れたヘッドがいる分には、その下で伸長できるンだが、それが長く現れない時代では、どうしても弱体化の一途をたどるンだ。一方で、誰かの下に集まらないということはそれだけに討伐する側としては難しいという側面もある」
Y「前者が北狄で後者が西戎か? だが、蹋頓とて無能ではあるまい。確かに、聞いている分には冒頓には遠く及ばんが」
F「そゆこと。中原の趨勢を左右できるほどの異民族君主が現れなかったわけではないが、それは呼廚泉でも軻比能でも蹋頓ではなかった。魏や晋の異民族対策は、時代を経るにつれて悪化していき、ついに晋は匈奴出身の劉淵に滅ぼされる。三国時代では中原から北での戦争に目を奪われがちだが、この時代でも中原人と北方民の抗争は続いていた。それは忘れてはならないエピソードだ」
Y「だが、劉淵もまた、冒頓の再来と呼べるほどの傑物だったとは思えんぞ? 確かに天下は盗ったが」
F「その通りだ。騎馬民族が『中原の混乱に影響できる指導力と部下を率いるカリスマ性、何より将としての才覚を備えた』優れたヘッドを得るのは、これより900年の歳月を待たねばならない」
ヤスの妻「!」
Y「蒼き狼の末裔たるチンギス・ハーン……か」
F「まぁ……その意味では、曹操に敵対した頃の烏桓を率いていたのが、はたして呂布だったらと思わずにはいられんな。呂布が中原に出奔せず烏桓に留まっていたら、白狼山ではどんな戦闘が展開されていたか」
Y「そもそも袁尚が頼らんと思う」
F「そーだよなぁ。その辺りから考えないといかんか」
ヤスの妻「(ぷるぷるぷる……)我慢の限界我慢の限界ー!」
F「ぅわ、びっくりした!?」
ヤスの妻「大ハーン絡んできたら黙ってなんていられないよ! そこから先は場所を変えて話しこむことにしよう!」
F(←羽交い締めで引きずられている)「ああああっ、スイッチ入ったか!? 助け、たすけっ……!?」
Y「……悪く思うな」
ヤスの妻「目指すは『私釈蒼き狼』! こっちに来なさい、えーじろ!」
F「とりあえずえーじろはやめ……へるぷみぃーっ!?」
 ぱたん(←ドアが閉じた音)
Y「……続きは次回の講釈で」
三妹「いや、助けないの?」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
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