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私釈三国志 109 北伐開始

F「何だかんだでお休みが長引いた『私釈』の再開1回めは、いよいよ始まる孔明の北伐ですー」
A「わー(ぱちぱちぱち)」
Y「まぁ、どうせ失敗するンだしなぁ」
A「それを云うな!」
F「割と重要なポイントだと思うがな、それは。とりあえず、今回は北伐の前準備ということで、割と地味なオハナシになる。実際にどういう戦闘を経て孔明率いる蜀軍が撤退するのかは、次回以降にやるので」
A「戦闘前の準備期間って、どーしても面白みがなぁ」
F「そういう方面をおろそかにしたからこそ失敗したンでしょうが。さて、以前……えーっと、103回か。流しておいた『劉備の死後に魏がどう動いたのか』をまず見てみる。コレが、実は意外なことをしていた」
A「なに?」
F「はっきり云えばほったらかしだ。蜀は呉に攻め入って返り討ちにあい、挙げ句に劉備も死んだ。関羽が北上した折には遷都さえ取り沙汰されたというのに、その後蜀が魏に向かわなかったモンだから、曹丕も蜀を軽んじてロクな備えもせず、ただひたすら呉攻略に心血を注いでいやがった」
A「無視してましたか!?」
Y「お前の台詞を借りれば、気持ちと理屈は判るぞ。呉によって将兵の半ば以上を失った蜀をほったらかしにして、勝った呉への対策を講じるのは、政戦両略で考えるなら間違ってはいない」
A「それくらい、ないがしろにされていたワケですか……」
F「いちおうは223年(劉備崩御の年)に、華歆や陳羣が孔明に書を送っているな。内容は明らかではないが、劉備が死んだンだから降伏しなさい、という書簡だったらしい。対して孔明は返事は送らず、『道義を盾に悪人を滅ぼすのに、多数の軍勢など必要ない』と突っぱねる文章を書いている」
A「交渉決裂だな。えーっと……劉備が死んでから南征まで国力回復に努めていて、南中の資財をもってこれを成し遂げた。これが225年で、北伐の開始が227年。……関羽の北上(219年)から都合8年か」
F「曹丕が連年兵を動かし負け続け、結局40歳という若さで崩御したせいで、後を継いだ曹叡は自分での外征は控えていた。父親が軍事的には今ひとつだったせいでか、曹叡は呉にも蜀にも、自分からは攻め入らなかったンだね」
Y「すでに亡き賈詡が『劉備も孫権も強敵です、いまは国政を整えましょう』と曹丕に言上していたのが、この時点になって影響しているのかね?」
F「うーん、影響は……少ないと思うぞ。何しろ曹丕はそれを聞かずに呉に攻め入ってるンだから。自分の手で三国鼎立を終わらせたかったンだろうな」
A「それは、劉備や孔明にしても同じだろうと思うが」
F「まったくだ。ただし、曹操・劉備が相次いで倒れ、だが蜀も呉も魏に降るを潔しとしなかったことで、天下が三国に分かれた事実が認識されだしたようで、少なくとも短兵急に天下統一を成し遂げられるとは誰も思わなくなったらしい。曹丕なんかは呉征伐に従軍していた劉曄に『お前の云ってることが正しいのは判った! だから、あの連中を滅ぼす策を考えろ!』と八つ当たりしてるくらいだ」
A「そう簡単には思いつかんだろうけどな」
F「問題は、三国が鼎立している状態では、蜀はジリ貧に陥るということだ。劉曄が云うように、天下は三分したが魏はその七を得ている。純粋な国力で劣る蜀としては、何とか中原に打って出たいワケだ」
A「呉と戦うって選択肢もあったけど、それは劉備が選んで失敗してるしなぁ」
Y「まぁ、蜀と呉が組んだくらいで魏に勝てるとは思えんがな」
F「というわけで孔明は、後世に北伐と呼ばれる一連の軍事行動を起こすことになった。時期を逸したかもしれない……というのは、107回で見た通り」
A「できればもう少し早く動いておきたかったってことか?」
F「可能なら、呉に攻め入らずに魏に兵を向けておくべきだったンだ。理由を確認する必要はないと思うが」
A「……ないな」
F「7年前に攻める相手を間違えたせいで、蜀軍は事実上崩壊した。兵は何とか集められたが、人的被害は結局埋められなかったンだ。特に、歴戦の武将たちを失ったのはあまりに痛かった」
Y「人材不足が表面化してきてるンだな」
A「確かに……孔明の手元にもう少しマシな武将が残っていたら、どれだけ助かったことか」
F「さて、残っている武将たちの中でももっとも有力なひとりが、劉備自らが見出し10年近く漢中を守っていた魏延だ。彼は、北伐に先立って孔明に長安への奇襲を献策している。ちょっと長いが見てもらおう」

『長安を守る夏侯楙は、曹操の娘婿というだけの若輩者。臆病で兵法にも暗いと聞いております。ここはひとつ、精鋭五千と輜重五千をお貸しいただきましょう。私が秦嶺山脈を越え子午谷から北上すれば、十日を要さず長安を攻撃できます。敵は仰天して逃げ出すでしょうから、文官ばかりが残った長安など瞬く間に占拠できます。魏が軍勢を整え直して攻め入ってくるには二十日はかかるはずですが、その間は長安の食糧をもって籠城し、丞相が来られるまで守り抜きましょう。この策ならば、関中以西を蜀のものとできますぞ』

A「反三国志では、実際に魏延にやらせた策だな」
F「コレを用いていたら、案外うまくいったンじゃないかと思ってるンだが、作戦内容を検証する前に、ちょっと確認しておかないといけないことがあってな」
A「なに?」
F「実は、今の今まで完全にスルーしていたが、222年に馬超が亡くなっている。47歳だったらしいが、演義ではいつ死んだのかさえよく判らん最期を遂げているのね」
A「……あー、云われてみればいつの間にか死ぬンだよね、アイツ」
F「正史では『一族のほとんどを曹操に殺されているので、残った馬岱くれぐれもよろしく』と云い遺して死んでいる。殺された原因が自分にあるのを反省していないのはともかく、遺言をのこせたってことはこの年に決着した夷陵での戦死ではないと考えていいな」
A「まぁ、あの乱戦のさなかで死んだなら、そんな遺言はできんか」
F「馬超を亡くしたというのは、北伐に際してあまりに大きな痛手なんだ。涼州に名を馳せた馬騰の息子が攻め入る前に死んでは、軍事的にはもちろん、政治的にも大きなダメージだと云える」
A「かつて涼州軍閥の盟主におさまり、武将としては曹操をも追い詰めた馬超だからな。涼州に派遣していれば、ある程度の影響力はあっただろうに。いや、惜しいヒトを亡くした」
Y「地元で見捨てられたから負けたンじゃないかという気もするが」
A「死んだヒトを悪く云うモンじゃありませーん!」
Y「三国志の登場人物はもう全員死んでるぞ。生きているとしたら左慈くらいだ」
A「……お兄ちゃん、オハナシ続けてください」
F「俗に五虎将と称される蜀の武将だが、こうして馬超も死去。228年時点で生存しているのは趙雲ただひとりとなった。孟達や馮習といった、五虎将の次代と期待されていた面子ももう亡い。さらに洒落になっていないのは、演義の91回でな。当初孔明は、その唯一の生存者・趙雲を、北伐のメンバーから外そうとしていたンだ。しかも理由が『南征から帰って間もなく馬超が死んだ。趙雲ももういい年だから……』というもので」
Y「あぁ、演義だとその頃に死んでるのか?」
F「というか、羅貫中は馬超のことを忘れていたンじゃないかと思う。南征で殺すワケにもいかんからしばらく出さなかったら、ちゃんとした死亡シーンを書き忘れて、慌てて『死んじゃいました!』と云いだした……ように見えるンだよ、この辺の演義の記述って」
A「一時は曹操をも追い詰めた馬超が、どーしてこういう扱いかな……?」
F「やっぱりこういう武将は、ヒトに仕えちゃいかんね。水滸伝の魯智深然り、西遊記の孫悟空然り、自立してこそ華だろうに……。っと、話が逸れたな」
A「あ、趙雲だったな。確かに、この時点では趙雲も割と高齢だろう。戦場に連れ出すのは……」
F「そこで思い出してほしいのは、夷陵の戦いを前に趙雲は、劉備を堂々といさめたことで、前線から外されたという事実でな。正史でもそんな扱いを受けているンだが」
A「何が云いたい!?」
Y「また何かやったのか?」
F「演義では『孔明の奴は、オレが老いぼれたと疎んじやがる』とか『亡き劉備様に従い戦ってきたオレを戦場に出さないというならここで死ぬ!』と発言しているな。さすがに丞相府で国の元勲に死なれちゃ困るモンだから、やむなくケ芝をつけて出したが」
Y「裏で意見対立があったとしか思えないな」
A「そんなことじゃないでしょー! 孔明はホントに趙雲が大事だったから、いざ自分たちが敗れて魏が攻め入ってきたときに、国家の最終防衛ラインとなるのを期待して外そうとしたンじゃないか!」
F「いや、しかしね? 老いたりとはいえ劉備に従い中国全土を駆け巡ってきた老兵を、後輩の文官がこき使うのは、心理的にも序列的にも問題があるだろ? 趙雲は、はたして孔明の命に諾々と従っただろうか」
A「従うだろうが。あれはそういう武人だ」
Y「いや、アレはたとえ主君でも間違っていると判断したなら真っ向から反発する男だ」
F「僕としては泰永に賛成。公衆の面前で劉備をいさめた男が『魏を倒すのに涼州へ行くよー』と云いだした孔明に対して、黙っているとは思えない」
A「むむむっ……」
F「話を戻そう。というワケで、魏延の作戦は却下された」
A「孔明が武将を軽んじていたとでも云いたいのか!?」
F「実際のところ、これは割とやむを得ない措置だ」
A「……は?」
F「蜀は小さかった。魏を討つのはおおよそ世迷言とさえ思えるほどに、蜀は小さく、弱かった。だから、それをもって魏に勝つには、軍事にせよ政治にせよ指揮系統を一本化しておかなければならなかったンだ。実際に漢中を守っていた魏延が、孔明の南征……いわば、裏門でこそこそ立てた功績を上回る手柄をあげてしまったら、少なくとも将兵からの支持は魏延に流れるだろう」
A「そこまで魏延に人望があったとは思えないけど……」
F「魏延のひととなりについては、いずれ彼の最期で取り上げるが、孔明の政敵扱いされたせいで割を喰っている感があるンだ。ともかく、孔明は、魏を討つという悲願のために、国内に自分の競争相手を作りたくなかった。ために、魏延にせよ趙雲にせよ、あまり大功を立てさせまいとしていたように思える」
Y「文民統制の観点から、武官が自分と同格以上にならないよう気を遣っていた、ということか」
F「単に競争相手の足を引っ張っていたなら、ここまで孔明は評価されんだろう。私欲はなかったはずだ。ただ、自分の権勢を維持したかっただけ。それが、蜀のためになると信じてな」
Y「判断として正しかったのかは、また別の問題にも思えるが……」
F「ともあれ、孔明は魏延の作戦案を退け、趙雲・ケ芝に一軍を預けて長安への牽制とする一方で、自ら率いる本隊(魏延はこっち)は関中西部、隴右と呼ばれる地方を目指した」
Y「このとき趙雲がどう思ったのか、正史に記述はない」
A「やかましいわ!」
F「ところで……」
A「ひさしぶりー!?」
F「このとき孔明はなぜ隴右に向かったのか。僕はいちおう、それの想像がつくようなものを書いてきたつもりだ」
A「えーっと……今までの『私釈』でヒントは出してきたンだな?」
Y「あったかね、そんなモン……あ、涼州兵か?」
F「えくせれんと。董卓が従え、馬超が率い、曹操が恐れていた、漢土の西門を守る精強剽悍な涼州の人士を蜀の版図に組み込むことで、軍事力の拡張をはかるのは、北伐における目的のひとつだったと見ていい」
A「はぁー……なるほど、だから西に向かったのか」
Y「気づけ」
F「ちなみに泰永でも5分くらい考えていました。涼州兵がどれだけ強く、恐れられていたのかについて、こんな証言がある。資治通鑑から引用しよう」

『并・涼州の兵と西戎騎兵ほど恐ろしいものは天下にありません。その勇猛な軍勢を、董卓は爪牙として使いこなしているのですぞ。いったい誰が董卓を飼い馴らせるのです』

F「どれくらい涼州兵が恐れられていたのかがうかがえる発言だな」
Y「董卓についての話ってことは……40年くらい前か。その間、董卓や呂布、馬超のせいである程度の弱体化はしただろうが、精兵の産地としては無視もできんだろうな」
A「……待て、バカ兄貴。聞きたくはないが確認しよう、コレ誰の発言だ?」
F「今度は気づいたようだな。もちろん、惜しまれて死んだ我らが鄭泰の言葉である!」
A「どれだけ鄭泰と禰衡の逸話を隠し持っていやがる、お前は!?」
F「続きは次回の講釈で」
A「聞けーっ!」
Y「……というか、何でそんなことに気づくンだ、お前も?」

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