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私釈三国志 106 文帝崩御

F「さて、曹丕が死んだ
2人『いきなり殺すな!』
F「それは僕に云われても困るな。正史でも演義でも、曹丕は226年に信じられないくらいあっさりと死んでいるンだから。殺すなって台詞は僕じゃなくて華歆にでも云ってくれ」
Y「まぁ、死んだのは事実だが……」
A「ていうか、華歆に殺されたの?」
F「アイツなら殺すことも辞さなかったンじゃなかろうか、と思っている……というところか。とりあえず、これが劉禅ならあっさり死なせてハイそれまでよでも実害はないと思うが、曹丕でそれはできん」
A「劉禅でも……劉禅なら……劉禅……」
Y「真顔で考えるところか? とりあえず、実害はあると思うぞ」
F「だが『劉禅公嗣』をやる予定はない。とりあえず経緯を見ていこう。演義では、226年の5月に、風邪をこじらせて危篤に陥り曹真・陳羣・曹休・司馬仲達を病床に招き、太子の曹叡を頼むと遺言して没する」
A「御子息、幾つだっけ?」
F「えーっと……それは後に回す。ひとまず正史だが、こちらでは5月16日に、突然『危篤に陥った』とだけ書かれ、上記4名を召し出して太子を補佐せよと遺言し、翌17日に没している。いずれにせよ享年40、在位6年」
A「在位が十年足らずというのは、後漢では劉備も含めて珍しくないけど……早死にだったのは事実だな」
Y「いや、劉備入れるなよ」
F「在位わずかにして6年。加来耕三氏はこの時代を『魏は最も安定していた』と称揚し『このまま曹丕が長寿であれば、後の晋は建国の機会をもちえなかったであろう。しかし、皇帝としては及第点だった曹丕も、こと寿命にたいしては落第点だった』としている(二見書房『三国志とっておき99の謎』134ページより)」
A「加来センセは曹丕を高く評価しているワケか」
F「うむ。父をさしおいて人妻を略奪し、父の部下を精神的になぶり殺し、腕自慢の部下を宴席とはいえ公衆の面前でコテンパンに打ちのめし、孔子廟を修復し、弟たちを冷遇し、その側近を処刑し、奪った人妻を殺し、戦争に出ては負け、結局早死にして孔明に出兵の契機を与えたにも関わらず、妙に高く評価している」
A「帝位簒奪をさておいてもこンだけの悪事をしでかしている野郎をどう評価できるンだ?」
Y「その前に、『悪事』の中に『孔子廟修復』を入れるなとツッコめよ」
A「……おいっ!?」
F「それを悪と云わず何を悪と云うか!」
A「胸を張るな!」
Y「宗論は、どちらが勝っても釈迦の恥」
F「あなかしこあなかしこ。坑儒は続けるが今回はそーじゃなくて、曹丕の行いを確認しようかと思っているンだが、お前ら先を競って妨害するなよ」
A「そのつもりはないンだけどなぁ……? ていうか、悪いの俺か?」
無意識で儒教否定する奴「無意識でひとを悪く云うようになったら割と重症だぞ。話を戻す。加来氏は前掲書で、曹丕の功績として『宦官の越権行為を禁止し、外戚の進出を未然に防止している。人材の登用は父にならっており、その他にも、租税の軽減、屯田制の整備などを押しすすめていた』とある」
Y「官職についている宦官はこのラインから上の役職にはつけないものとする、という布令を出したンだったな」
A「外戚の動きも封じたの?」
F「うむ。『婦人は政治に関与するな。群臣は皇后にものごとを訴えるな。后の一族は政治を補佐する任務に就くな。領土を伴った爵位も受けるな』とした上で『この詔勅は後世にまで伝えよ。違反するような奴は天下を挙げて討ち滅ぼせ!』と言明した上で皇后を立てている。劉邦没後に権勢をほしいままにした呂后率いる呂一族の再現を恐れたンだろうね」
Y「近代以前の中国では、宦官と外戚さえ封じてしまえば、国家崩壊の30パーセントは抑え込めるからな」
A「残りの70パーセントは?」
Y「外敵。50パーセントは異民族な」
F「数字はともかく、云っていることは的を得ているな。南匈奴の呼廚泉を懐柔して、北方圏の安定化も図っているのは注目すべきだ。西方の異民族とも積極的に交流していたようだし、遼東の公孫一族を手懐けようと気配りもしている。異民族外交にはフルマークつけていいな。また、人事制度に関しては曹操の代から向上させたさえと評価できる」
A「あぁ、九品官人法は曹丕の代に成立したモンな」
F「官人法の制定前に、地方からの推薦枠を増やしているンだ。従来、人口十万人未満の場合は年にひとりとされていたものを、優秀な人材なら人口にかかわらず推挙せよとして、有為の人材が流出するのを防いでいる。また、その推挙にしても年齢制限を撤廃し、選挙権(選んで挙げる権利。92回参照)を持つ地方官の不正は糾弾すると豪語した」
A「引き抜きメモリアルは受け継がれたワケか」
F「仲達が仕官を拒んで仮病を使ったとき『クビに縄かけてでも連れて来い!』と云ったのは曹操だが、その辺の神経はきっちり伝わっているらしい。いくらか薄れた過激さも、魏を経て晋代には復活していて、嵆康という人物が『働かなかったから』という理由で処刑されている」
Y「劉備はその時代にいなくてよかったな、オイ」
A「やかましいわ!」
F「『劉備をニートって云うな』とメールが来たンだから、その辺は控えてくれ。ちなみにそのヒトは『あんな奴と一緒にするな』とも書いていたが。さて、加来氏が記述していない業績として、221年に、董卓の廃止した五銖銭を復活させようとして、失敗したというのがある」
A「そりゃ、失敗したら功績としては挙げられんだろう」
F「3月に鋳造を再開して、10月には穀物の高騰を理由に廃止しているンだけど、この年に何があったかと云えば、真っ先に思いつくのが劉備の荊州遠征だ。劉備存命の間は魏も蜀を警戒していたンだから、軍勢が矛先を変えた時に備えて軍備を整え、食糧の値段が高騰してもやむを得んだろう」
A「……あー」
F「経済は生き物だからね。戦争になれば食糧をはじめとする物資は大量に消費されるから、値段が上がるのはどうしようもないことなんだよ。いつぞや泰永が触れた通り、227年には再び復活している。これがどんな年かと云えば、孔明が南征から帰り、北伐の準備を整えていたため、蜀は(その時点では)大人しかった。呉は前年魏に侵攻して撃退されたため、攻め入ってくる気配がなかった。つまり、軍事的空白の年だ」
Y「云われてみれば、夷陵の戦いが決着してから曹丕が死ぬまで、魏は連年、大なり小なり兵を動かしているのか」
F「そんな状況で貨幣を鋳造しても、上手くいくワケがないな。それでも息子の代には成功しているから、この件に関しても基礎工事を行ったと評価していいと思う」
Y「好意的に評価するなら、だな」
F「法制度としては、密告を事実上禁じたのを注目したい。叛逆と大逆罪を除いて密告を禁止し、もし密告がでたらめだった場合はその罪で密告者を裁くとまで云っているンだ。これが何を意味するか判るか?」
A「いみ? えーっと……」
F「……あ、ヒントひとつ出し忘れてた。曹丕は皇帝に即位すると、洛陽に宮殿を築いている」
Y「高官への登用制度の厳正化、九品官人法を含む人事制度確立、貨幣の復活未遂、密告の禁止、洛陽遷都……董卓のやったことが、ほぼ否定されたワケか?」
F「えくせれんと。董卓は、自己の一族を高位高官につけ、儒者・名士の歓心を買うため清流派を登用し、貨幣経済を崩壊させ、密告を奨励し、長安に遷都した。曹丕はそのほとんど全てを叩き潰した……という見方ができる」
A「はぁ……でも、何のために?」
F「そもそも後漢末期の戦乱は、霊帝の人格的無能に由縁する。アイツがまともな政治をしていれば、黄巾の乱は起こりようがなかった。だったら戦乱を鎮めるには、まず霊帝の王権――後漢王朝を終わらせなければならない。その考えのもとでなら、曹丕が皇帝に即位し、その元号が黄初だったのも納得できるだろう」
Y「黄巾の……というか漢王朝の敵の勝利、という形での幕引きか」
F「次に目指したのが、『悪の権化・董卓』によって『周末期と同じ』にまで過酷とされた民生の再建。上で見たように董卓の為した悪行はほぼ修正・整理されている。また、正史文帝紀に、租税の軽減や弱者救済の政策を行ったことが掲載されているのも、そういう意図だったと考えれば理解しやすい」
A「ふえぇ〜……」
Y「しかし、黄巾による体制破壊へのフォローはいいのか?」
F「曹丕は、元服した頃には、すでに(曹操が)ある程度の地位と身分になっていたからね。上からの改革はできたけど、下からの改革はできなかったと見ていいでしょ。人生の辛酸を舐めた曹操ならできたかもしれんけど」
Y「立ち位置の違いか……」
F「さて、行政面で曹丕が何をしてきたか、は通して見たが、内政的には曹操の行いの上に出たとは評価しにくい」
A「えーっと、生産性や経済活動ってこと?」
F「うむ。そもそも曹操は、少なくとも官渡の戦いまでは、経済力・農業生産力で袁紹に及ばなかった。官渡の勝利から『人口が多く裕福、三十万の軍兵を養える』冀州を制し、袁家の本拠地だった鄴を拠点とすることで、天下に号令する国力を得られたと考えていい。もっとも、河北の民衆は、曹丕の代になっても何かと叛乱を起こしたが」
A「魏王朝に心服はしていなかったってことか」
F「それくらい、袁紹が偉大だったということだ。屯田制を確立し、河北に善政を敷いていた袁紹の後を継ぐことで、曹操や曹丕は当時の第一人者足りえたワケだから」
A「……天国にはいないお母さまお父さま、アキラはどっちの敵に回ればいいのでしょうか」
Y「曹操も袁紹も評価したくないなら、この件に関しては黙ってるのがいちばんだぞ。俺は諦めた」
F「いっそ潔いな、このこん畜生は。とまぁこのように『皇帝としては及第点だった』曹丕だが、軍事面ではどーにも合格点はつけられんな。101回・102回で見た通り第1次・第2次洞口攻めは失敗し、225年にも水軍を整えて呉に攻め入ろうとしたのに、冬の寒さで水路が凍結して船を長江に入れられず、結局引き揚げている。軍を損なわなかったのはいいが、3年連続3連敗。どうにも戦争では負けが込んでいるな」
Y「いや、負けてはおらんぞ。戦わずに引き揚げただけで」
F「攻め込んだ奴は敵を殺せなければ負けだ。攻め込まれた側は敵を退ければ勝ちだ。言葉を飾るな」
A「えーっと……曹丕の悪事も、その負け戦でひと通りは見たことになるのかな?」
F「甄氏が処刑されたのは触れてなかった気がするな。曹丕が皇帝に即位すると、当然だが諸侯競って娘を参内させた。ために寵愛が薄れたことに不平をもらし、曹丕から死を賜っている。ただし、曹叡は即位すると彼女に諡号と奉り、その親族を手厚く扱っているが」
A「母親なんだから仕方なかいでしょ」
F「他の悪事は38・39・79・92回を参照ということで。こうしてまとめてみると曹丕は、いくらか性格に難があるものの、皇帝としては名君と呼んでもいい逸材だったのが判る」
A「いや、漢の帝位を簒奪した一件だけ見ても、名君とは呼べないから」
Y「禅譲だ」
F「禅譲と僭称と世襲のどれが一番マシかと云えば禅譲だ。システムにもよるが、成文化されていないなら世襲より僭称のがよっぽどマシだ。子が制度にもよらず親の後を継がされるなど許すワケにはいかない。だが、曹丕が家臣を使って働きかけたというより、献帝がすでに漢王朝は終わったと判断して、曹丕に帝位を譲ったとみるべきだろうな」
A「世襲という王権の根底をそもそも否定するなよ!」
Y「その意見だけはアキラに賛成しておくが、他は幸市に賛成だな。だが、なぜ献帝は漢王朝の終わりを自覚した?」
F「曹操が死んだからな」
Y「……理由としては、それで充分だな」
A「反論はしたくないな……」
F「ただ、曹丕は皇帝になりたかったとみていい。確かに何度か辞退しているが、それは劉備も同じだ。劉備も本心として、皇帝になりたがっていたのは明白。ただし、劉備と曹丕ではひとつ、決定的な違いがある」
A「皇族かそうでないか?」
F「そうじゃない。蜀には劉備に代わる存在がいなかったのに対し、曹丕には曹植がいたという現実だ」
Y「……そうか。賈詡がいなかったら曹植が皇帝となっていた可能性は低くないのか」
F「あまりしつこく辞退を繰り返し、本当に帝位につく意思がないと思われたら、家臣たちは、曹丕を廃して曹植を皇帝に仕上げたかもしれんのだよ。皇帝の座はひとつしかないが、曹操の後継者はひとりではなかったからね」
A「壁の中に隠れていた皇后を髪の毛つかんで引きずり出し、棒で打ち殺した華歆なら……やりかねないか」
F「華歆のヒールぶりは、正史三国志より後漢書に詳しいな。その辺の記述は正史にはないが、後漢書では採用されているから。ともあれ、曹丕が皇帝になったのは、その辺の利害が一致したからだろう。曹丕は皇帝となって、荒れ果てた後漢王朝を大々的に修復したかった。家臣たちは主を皇帝に仕立てて、そのおこぼれに与りたかった。辞退したのがポーズだったのは否定できないが、権力をいかに得たのかではなく、得た権力をいかに使ったのかで評価するなら、曹丕を名君と呼ぶのを否定する材料はないぞ」
A「うーん……感情的に認めたくない」
F「曹丕の治世――主にいい方向のものを、ひと通り見てきたが、加来氏は前掲書で『政治に関しては父(曹操)よりも優れていた』との郭沫若の証言さえ採用している。確かに曹丕が長じていれば、16歳年長の仲達が先に死んでいた可能性は高く、その代で実権を握っていなければ子や孫が上手くできていたのかは疑わしい」
A「長じてボンクラと化していた可能性はどうだ?」
F「否定していいだろうね。曹操や曹植は晩年にもボケなかったンだから。ただ、惜しむべきことに曹丕は死んだ。これによって、戦乱の時代の終焉が遠のいたのは云うまでもない」
Y「惜しいひとを亡くしたものだ」
F「ところで……」
Y「今日は俺が云おう、しみじみしたら終わってくれ」
A「気持ちと理屈は判る……」
F「無視するが、後継者の曹叡。実は、この時点(226年)での年齢が不明でな」
A「は?」
F「はっきり云おう。演義ではこの226年に15歳とあるのに239年に36歳で亡くなっている。正史にも演義の通り(正確には演義が準じた)没年と享年の記述はあるが、生年の記述がない。ために、年表にも加えていない次第だ」
A「13年後に21歳の加齢って……どう考えても間違ってるじゃないか。没年で考えるなら、203年生まれだぞ」
F「ところが裴松之は、曹操が鄴を攻略した年に着目。曹丕が甄氏を奪ったのが204年なんだから、曹叡が生まれたのは早くても205年だとしている。種が曹丕のものならこの意見は至極もっともで、計算が合わないンだよ」
A「……あれ?」
F「裴松之は『36歳ということはありえない。34歳じゃないのか?』と書いているくらいだ。少なくとも、226年に15歳とした演義の記述は、どこから出たのかは判らんが、無視していいと思う。ちなみに、劉禅は207年、孫権の長男・孫登は209年の生まれだ」
Y「記述ミス……と見ていいのかね」
F「種が曹丕ならな。いつぞや触れたように、漢民族は親が殺されようが兄が殺されようが、史書の記述を変えようとしない。その分、間違いは書かないだろうとも考えられる。正史の記述に間違いがあるとは考えにくいが、これはそう考えていいだろうね。205年生まれと仮定して、即位したのは21歳ということになる。まぁ劉禅よりは年長だな」
A「それでも充分若い君主と云っていいけど、13年後には死んでるのか」
F「ここで、僕が第1回で云ったことを思い出してくれ」

F「というか、弱体期だね。(中略)最高権力者が年若いだけでも、ある意味弱体したと云えるけど、後漢はコレがあまりにも顕著でねぇ」

Y「君主が若いということは、つけいる隙が大きい……と?」
F「孫権が雍闓を使ったときも、劉禅はあてにならんだろうと説得したと見たけど、根拠はここにある。年若い君主というのは、それだけで軽く見られるものなんだよ」
A「ということは……」
F「というわけで、孔明は北伐の兵を起こした。南征が終わり、国力を貯え兵を休めた直後という絶好のタイミングで曹丕が死んでくれたのだから、この機を逃す孔明ではなかったと云えよう」
Y「こーいうのを日本語では火事場泥棒……」
A「やかましいわ!」
F「そっちの騒ぎはスルーします。次回、『私釈三国志』第107回『出師之表』」
Y「だから、そのタイトルは無理があるって、9回と44回で云っただろ」
A「100回前から決めてたンだから使わせてあげなさい!」
F「続きは次回の講釈で」

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