私釈三国志 103 南方征伐
F「南蛮の蜂起は呉の謀略だった」
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2人『いきなり爆弾発言すんなっ!』
F「キャッチコピーって奴だよ。意表を突く見出しで衆目を集めるワケだ」
A「意表を突きすぎてるだろ……」
F「話を劉備の死後まで戻す。夷陵の戦いに敗れた劉備は、呉との関係を修復したところで力尽きたように、永安宮に身まかった。死に臨んで『劉禅では蜀を治められないようなら、お前が皇帝になれ』とまで孔明に遺言している」
A(……流した方がいいンだよね、きっと)
Y(そうしろ)
F「劉備の死は蜀に大ダメージを与えた……精神的にも、物理的にも、政治的にも、軍事的にも。そして、そのダメージから蜀を立て直すのが、孔明に与えられた最初の仕事だった。何しろ、劉備が漢中王に即位してから荊州・夷陵と敗戦が続き、歴戦の将兵や功臣たちも多く世を去っている。益州が動揺したことは想像に難くない」
A「そうか? 劉備不在の間も孔明がしっかり成都を治めていたンだから、それほどの混乱が起こったとは……」
F「年表を確認してみろ。益州平定から劉備の死まで、たった9年だ」
A「……あれ」
F「見落としがちだが、益州での劉備の治世は10年にも及ばなかった。たったそれだけの期間で確たる統治機構を築くのは、不可能に近い。後漢王朝が滅んだ原因のひとつが、皇帝が幼少のうちに即位して成長せずに死んだことを最初に挙げたが、それと大差ない事態が起こったンだよ」
A「成長してはいても統治期間が短かったから、益州にも劉備に服していない者がいた?」
F「現に夷陵の敗戦後、劉備が健在であるにも関わらず病に倒れたと聞いて叛逆した者がいる。すぐに鎮圧されたが、その点から考えても益州の劉備への支持率はちょっと低かった可能性は否定できん。民意を得られなければ、国を治めることはできんぞ」
A「そりゃまぁ……そうか」
F「蕭何を擁した劉邦でさえ、左遷されていた時期しか駐留しなかった漢中ではなく、自分への支持率が圧倒的な関中を首都にしているくらいだ。不平分子の温床では、まっとうな統治は行えない」
Y「蕭何に及ばん孔明では、いかんともしがたいか。まして、親子二代で20年に渡って益州を治めた劉璋を追放しての、事実上の侵略による征服ではな」
A「……表現は慎みませんか、お義兄さまがた」
F「言葉を飾ることはできるが、劉備が外征と漢中王・皇帝への即位を繰り返したのは、益州の民意を高揚させるためだったという見方もできるぞ。繰り返すが、統治者としての劉備には合格点はつけられん」
A「むぅ〜……」
F「さて、その孔明が最初に手をつけたのは、蜀の国内整備だった」
A「ん……? 呉との関係修復じゃなくて?」
F「呉とは劉備存命のうちに、ある程度まで回復できていたからな。呉の鄭泉が劉備を訪ねて、関係修復をはかり、劉備も乗っている。劉備の没後には弔問の使者がたてられたくらいでな」
Y「劉表のときも名目的な使者(魯粛)は出したンだから、謀略だった可能性はないのか?」
F「その使者たる馮煕は『アレは答礼のためで、ついでに蜀の弱点も探ってきました』と、曹丕に向かって自供している。笑顔で握手しながら相手の足を蹴飛ばすのが孫権だ」
A「……修復されているようには見えないのは、アキラの気のせいですか?」
F「実はその通り。劉備が生きていれば、孫権もある程度は手出しを控えただろう。だが劉備亡き今、蜀を同盟国として遇するのか、それとも攻略してしまった方が手っ取り早いのか。孫権の究極的な国是は、亡き魯粛らが献じた天下二分だということを思い出せ」
A「天下への野心が収まらなかったワケか」
F「孫策とは違い守成のひとだが、孫権は孫策を凌ぐ野心家だ。そこで、対呉外交のスペシャリスト・ケ芝が起用されている。ある程度まで回復していた呉との関係だけど、劉備が死ねば再び悪化すると孔明は読んでいた。ケ芝もそう考えていて、誰かを送って孫権にクギを差しておくべきでは、と申し出た本人を派遣したのね」
A「演義とはちょっと違う展開なんだ」
F「演義では、蜀に対して五方面から侵攻しようと仲達が進言して、そのうち四方面までは対処したけど、唯一呉に対して誰を送るべきか判断つきかねた。ンで、ケ芝が……似たような経緯で選ばれているな」
A「曹真率いる魏の本軍は趙雲、孟達率いる別動隊には李厳、西羌軍には馬超、南蛮軍には魏延をあてたけど、呉からの孫権はどうすべきか……と自宅にこもっていた孔明を、劉禅自ら大臣たちを率いて訪れたところ、その時の態度から大物だと判断して、抜擢した。……だったね」
Y「演義だからもちろんフィクションだがな。南蛮はともかく西羌が動いた形跡はないぞ」
F「劉備の死後に魏がどう動いたのかは、何回かあとで見る。ともあれ、ケ芝は役目を果たし、呉は魏と断絶して蜀との同盟に合意した。……ことになっている」
A「思うところがあるワケか」
F「益州の西南部を南中と呼ぶが、劉禅の即位(223年5月)から間もなく(夏ごろに)、その地で叛乱が続発するンだ。益州郡の豪族・雍闓が太守を捕らえ、郡を上げて叛乱。ついで朱褒・高定も各地で叛乱したが、劉備存命の折にはこれらの叛乱は起こらなかった」
A「……それが、呉の謀略だった、ンだな」
F「そこで出てくるのが、『私釈』では名が挙がっていないのにも関わらず、年表にはちゃんと載っている不思議な人物、歩隲だ。呉の謀略家で、士燮を降して交州を平定した人物だが」
Y「自分で書いておいて不思議とか云うンじゃない」
F「この男が、士燮を通じて雍闓を呉に臣従させたンだよ。夷陵の戦いで保護した劉璋の息子(本人は故人)を交・益の州堺に派遣すると、士燮をそのバックアップに回す。先に挙げた益州郡の太守は呉に送られて、ケ芝が孫権を説得して回収したくらいだ。蜀の東部方面総帥とも称すべき李厳が、何とか雍闓を説得しようとするものの効果は得られず、叛乱は激化の一途をたどった」
Y「ここでも、夷陵の敗戦が響いているワケか」
F「そういうことだ。夷陵で将兵の大半と、優秀な内政・外交官だった黄権・馬良、そして劉備を失っていた蜀には、この叛乱に対抗するすべはなく、国境をかためて兵を養う他はなかった」
南中の諸郡が叛乱を起こしたが、君主の喪にあったばかりなので、兵を出すことはしなかった(正史諸葛亮伝)
農耕につとめて穀物を増やし、(南中への)関門を閉ざして民衆を休息させた。(正史後主伝)
Y「兵があれば鎮圧できていた、黄権か馬良がいれば投降させることもできた、劉備が健在なら叛乱は起きなかった……だが、そのいずれも蜀には残っていなかった、ということか」
A「でも……歩隲? そいつ、そんなことができそうな奴なの? 演義では、赤壁前に孔明に論破されたり、曹操のところに使者に出たりしてるだけじゃないか?」
F「77回で触れた、呉の『参謀のひとり』ってのが歩隲だ。孔明や仲達向こうに回して、関羽ひとりにかき回されていた荊州・中原の戦乱を鎮める方策を献じた張本人だよ」
A「……うわ」
F「演義ではそういう書かれ方をしているが、正史での歩隲はおおむね戦場にいる。交州で士燮を降し、夷陵の戦いでは荊州の諸郡を鎮定し、蜀軍につけいる隙を与えなかった……『1万の兵を率いて南荊州に赴任し』た交州刺史だ。文臣の割には、武将としても優秀な男だな」
Y「何だ、その『諸葛孔明を超えた男』みたいなのは?」
F「凄まじいフレーズだな。ともあれ、そんな男をバックに恃む雍闓は、劉備の死後、蜀に叛乱した。この時歩隲が何と云って雍闓を説得したのかは想像に難くないな。劉禅のようなボケ君主はあてにならん、呉に降れ……と誘ったとみていい。即位時点での劉禅は17歳。当時としてはまぁ一人前の年代だが、あてになるのかは未知数だ」
A「あてにならんのは歴然です!」
Y「対して孫権は20年以上呉を率いている。実績として比べものにならんのか」
F「君主としての実績はさておくがな。さっき云った通り、孔明と握手しながら蜀の足を蹴飛ばしているンだから」
A「あー……」
F「蜀との外交を正常化したからには、直接的な軍事行動は起こせない。ではどうやって蜀を盗るか。漢土の最果てたる益州は、その半ばが南蛮や西戎に面する蛮夷の地だ。西と南から大規模な侵攻を起こせば、足下が揺らぐ」
Y「75回で触れたオハナシだな」
F「というわけで、誰かの謀略で南中は挙兵した。誰のか? 直接には士燮、その上役の歩隲、主君は孫権だ」
A「呉の謀略……だね」
F「ところが、ケ芝の弁舌で蜀と呉には同盟が結ばれたため、孫権は雍闓を見捨てている。呂凱という文官が堅守して『関門』を守り続け、雍闓がそれを抜けなかったことも大きいだろうな。例の益州郡の太守の身柄を返したことでも判るが、この件からはすっぱり手を引いた」
A「見切りが早いな?」
F「謀略の手駒くらいにしか思ってなかったンじゃないのかな。かくて叛乱発生から2年後の225年、孔明は自ら兵を率いて南中へ侵攻した。右翼を馬忠に預け朱褒に向け、本軍を李恢に率いさせ雍闓に当て、自身は左翼となって高定を相手取った。李恢も先に見た呂凱もこれまでほとんど兵を率いたことがない文官で、馬忠もいち部将に過ぎなかったのに、ひとかどの武将として戦場に送りこんだ辺りに、孔明の実戦式人材育成術、OJTが発揮されている」
A「2年かかってようやく、一軍を任せられる人材を得られた……ということかな」
F「そうだな。もっとも、雍闓は高定の部下に殺されていて、平定そのものも半年かからないくらいで終了している。まぁ、純粋な戦力の差があっただろうから、蜀が本腰を入れてきたら防ぎようはなかっただろうし」
A「劉備の死後、意気消沈していた蜀にとって、たかだか一勝ながらも大きな勝利だったワケだ♪」
F「そうなる。もともと孔明は戦場に出るタイプではなくて、益州入りにしても同行していた趙雲が、実際の戦闘指揮を執っていたと見ていい。だが、孔明が直接兵を率いて勝利したことで、内政や外交のみならず軍事にも秀でていると内外にアピールすることができたワケだ」
Y「虚名だろうが」
A「やかましいわ!」
F「まぁ、実体はないな。ただし、この戦闘は来るべき北伐に備えて、欠くべからざるものだった。第一に、夷陵の敗戦後に編成された軍勢の実践演習として。第二に、後方を任せうる人材の発掘作業として」
A「後方?」
F「南中ではこの後も異民族がたびたび兵を挙げているけど、事実上の総督となった馬忠がしっかりガード。北へ向かう孔明の背後を守り続けている。ちなみに劉備は、馬忠をして『黄権を失ったが代わりに馬忠を得た!』と絶賛している。孔明が北に全精力をつぎ込めたのは、馬忠の働きが大きいンだよ」
A「はぁー……渋めの人選があるモンだなぁ」
F「かくて南征は果たされ、孔明は兵を魏に向ける……のだが、そんな南方征伐の最中、ひとりの変人が、孔明と命賭けのどつき漫才を繰り広げていたのはよく知られている」
Y「やるのか?」
F「やらんわけにはいかんだろう。次回、『私釈三国志』第104回『孟獲とゆかいな仲間たち』」
A「わーわーわー(拍手)」
Y「漢字四文字はどうした」
F「その辺台無しにしてもマジでやりたいンだけど……ね。ところで」
A「次回予告したンだから終われよ!」
F「このときの孔明とほとんど同じことをしたのが、遼東の公孫度だ」
A「……は?」
F「僕の尊敬する加来耕三氏は、この公孫度が大好きで、三国時代をして『三国鼎立というよりは公孫氏を加え、四国鼎立=四国志とするほうが史実に近そう』とまで云っている」
A「何でそこまで公孫度を重要人物だと思いこんでるンだ!?」
F「公孫度が何をしていたかと云えば、中原の動乱に背を向けて、ただひたすら朝鮮半島攻略に心血を注いでいた。襄平を中心に旧満州や北朝鮮を支配下に置き、独自の支配権を確立するのに成功しているンだ。後に公孫度の孫・公孫淵が、孫権と組んで燕王を名乗っている。魏の首脳陣は呉・蜀と並んで燕まで敵に回してはいち大事と、公孫氏の関心を買うべく侯に封じているが、それくらいの勢力は確保していたワケだ」
Y「……大物かはともかく、小物ではないのは判るな」
A「でも、孔明と同じことをしたって云うのは……?」
F「中華・中国と呼ばれる範囲の辺境に位置し、その外縁を攻略して自己の勢力圏を確立した、という意味だ。これによって、彼らはひとつのものを失い、ふたつのものを得た」
A「その心は?」
F「後顧の憂いを失い、領土と収入を得た。公孫氏は朝鮮半島を支配下に置くことで、遠く邪馬台国からの朝貢さえ得ていたほど、中国東北部で勢力を伸張させた。孔明は南蛮を征し、南方の物産・鉱物、何より兵員を得ることに成功している。南方の土着民を蜀の軍籍に入れて、北伐の兵力としたのね」
Y「初期のシ○シティで、領域の角に原発設置するようなモンか」
A「例えが非道いけど、云いたいことは判った……。で、そこから得られる収入で国庫を富ませた、と」
F「三国志ではどうしても中原付近の勢力争いがメインになりがちだけど、視線を少し動かすだけで、割と洒落になっていないオハナシが見えてくる。こういう興味深いエピソードを提供してくれるのが、僕が加来氏を尊敬する所以だな」
A「上には上がいるモンだな……」
F「続きは次回の講釈で」