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私釈三国志 102 張遼病没

F「張遼というのも不思議な武将で、演義派……つまり劉備贔屓の連中からも、なぜか評価されている」
Y「不思議なことにな」
A「原因があってのことだろうが」
F「客観的に行こう。丁原の配下だったが董卓につき、呂布が董卓を殺すとそのまま呂布に従う。呂布が曹操に敗れ処刑されると曹操に仕える道を選び、曹操の死後は曹丕に仕え、その代に死去。漢王朝そのものは抜き代替わりも含めて、仕えた主5人というのは、呂布(丁原・董卓・王允・袁紹・張邈、以後独立)に匹敵し、趙雲(4人。袁紹・コーソンさん・劉備・劉禅)を超える。当然ながら劉備(6人。コーソン・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉表、以後独立)には及ばんが」
2人『そーゆう云い方すんなっ!』
F「事実なんだけどなぁ」
Y「事実ならナニ云ってもいいってモンじゃないンだぞ。そんなこと書いてるから『じゃぁ親に逆らうためにナチスに入党するということですか?』なんてメールが来るンだ」
F「"この"僕に向かって『親に逆らう奴は全てナチだ』などと暴言を吐かれても困るンだけどなぁ。演義ではもう1年生き延びるが、正史で張遼は223年に病死している。前回見た通り、洞口には病身を押して出陣したワケだし」
A「だな……。演義では病気になってなかったけど」
F「というか、前回見た洞口攻めと、演義で張遼が死んだ戦争は別のものだぞ。224年に曹丕自ら兵を率いて建業を抜こうとして、やっぱり洞口を攻めたものだ」
A「その辺が最前線になるンだ?」
F「先に曹休がある程度の戦果をあげていたからね。他の二方面が敗れているから、攻めやすいと判断したのかもしれない。ただし、正史ではこの戦闘はあまり掘り下げられていない。曹丕は洞口まで来たものの、守りが堅いのを見て引き揚げた……みたいな記述しかされていなくて、この件に関しては演義のが詳しくなっているな」
A「あいよー。えーっと、演義の86回。曹真・張遼・文聘らを率いて出陣してきた曹丕だけど、長江を挟んだ南岸には何の備えも見当たらない。不審に思って『攻めていいものか?』と劉曄に尋ねると『慎重になさるべきかと……』との返事。とりあえずひと晩様子を見ると、夜が明け霧が晴れたとき、南岸には見渡す限りの城壁が並び、旗や幟が立てられていて、ひと晩でこんな城壁を作るとは……! と魏軍は震えあがった」
F「風も出てきたから引き揚げようとすると、呉の一軍が攻めかかってきて、魏の船団は総崩れ。何とか曹丕を守って逃げる魏軍を、今度は炎が包んだ。丁奉率いる別動隊が芦原に油まいて火をつけたンだね。何とか火から逃れて、陸に上がった曹丕だったけど、丁奉が追いすがってくる。迎撃に出た張遼は矢を受けて落馬し、徐晃の助けで何とか逃げ延びたものの、この傷がもとで助からなかった。――魏が大敗して幕を下ろす、という具合に仕上がっている」
Y「ま、演義だしな」
F「そゆこと。先に云った通り、張遼は前年のうちに病死しているし、曹丕は戦火を交えずに兵を引いている。……ただし、一夜城は正史でも見られて、曹丕の侵攻を聞いた徐盛が、川辺に棒を立てて横木を渡し、そこにすだれをかけて偽の城壁と見せかけよう、と提案している。武将たち(とあるが、たぶん張昭)はそんなことしてもムダだと云ったけど、徐盛は強硬に主張して自分で作った」
A「で、曹丕は騙された?」
F「うむ。数百里に渡って偽の城壁が居並び、しかも長江が増水していたモンだから、戦わずに引き揚げている。ちなみに、演義でも採用された負け惜しみは以下の通り」

 数千からの武装騎兵を連れてきたのに、これじゃ使えないじゃないか!

A「……2代めはどうにも情けないな」
F「なぜ張遼がこの戦闘で死んだのか、といえば、前回見た223年の魏軍大侵攻が、演義ではさらっと流されているのが原因だろう。夷陵の大敗から劉備が死ぬまでに、そんな大激突や張遼ほどの大物の死を描いては、劉備の最期への期待感が薄まる。それなら……考えたようで、大戦も張遼も翌年に回された」
Y「その割には、丁奉がごときに討ち取られるという情けない最期になってるンだがな、張遼も」
F「扱い非道いよねェ。その張遼だけど、本人の生涯については簡単に触れたな。割と頻繁に主を変えるのに、各地で受け入れられ重用されるという、どっかで聞いたような来歴だが」
Y「だから演義好きの連中からも人気があるのかね?」
A「……いや、待て。張遼の人生って、だいたいが呂布に引っ張られての転戦だろうが」
F「いや、もともと(并州に駐留していた)丁原の代理として宮廷に送られ、何進暗殺のどさくさで董卓の配下になっているンだ。呂布とは別行動していて、董卓の死後にやっと呂布の配下になったと正史にはある」
A「……むしろ、流浪な人生送ってるのか」
F「うむ、誰かさんとは違って同情の余地はあるな。しかも、仕えた主にいずれも重用されたことから察するに、その将器は確かなものだったようで、赤壁の敗戦後は揚州方面の事実上の司令官となり、孫権を相手に奮戦を繰り返している……のは、63回で見たな。それでいて人格者とも思われていて、あの高慢ちきな関羽をして『君とわしは兄弟のようなものだ』とまで云わしめている」
Y「演義では、だな。正史だと、関羽を兄弟のようなものと云ったのは張遼だ」
F「控えめに云っても魏軍最強の武将というところだが、いまいち関羽・張飛・趙雲には及ばないイメージがあるな」
A「比べる相手が悪すぎる……というか、強すぎるだろ」
F「相手が悪いな。ただし、見落とせないのは、張遼が諾々として転身……というか転戦していることだ」
A「……来たな」
F「張遼と李典の仲が悪かったのは以前見たけど、文官肌の知識人が嫌うのは野蛮人や武骨者だ。蜀きってのインテリだった劉巴は、張飛を『兵卒あがりと馴れあえるか』と相手にしなかった。……となると、実際の張遼もかなり武骨者入っていた可能性がある」
A「あるか! この間正史読んだけど、三公山の叛徒を交渉して帰順させてるンだぞ! ちゃんと落ちついた、文武に秀でた武将で……」
F「功績としては事実だが、その時点(200年)で張遼は33歳だ。合肥の戦いは48歳でのことになり、50に手が届くのに10万からの軍勢に800騎で斬りこんで『張遼ですよー!』とやらかしたことになる」
Y「あぁ、呂布が徐州に逃げた195年でで28歳だったな。割といい歳じゃないか」
F「あまつさえ4年後(52歳)、孫権の抑えはいいから関羽に当たれと命じられて、揚州から荊州に転戦。劉備の死後に孫権が叛くと合肥に帰還。孫権が再度藩国の礼を取ると病気になり、それなのに、叛いた孫権の抑えに立って呂範を撃破した。これが223年のことで、そのまま病気が重くなって死去。享年は56になる」
A「張遼は張遼で、意外と若い武将ってイメージがあるンだけどなぁ……」
F「当時としてはそれほど若くはないな。ただ、そんな若くない武将なのに、北へ東へ南へと戦って回っていた。文人肌で若死にした李典と反りが合わないのは無理からぬことだったようでな」
A「うーん……」
F「ツッコミ入る前に自供すると、63回で2度の合肥戦を書いたけど、よく考えてみたら順番が逆だった。何で漢中攻略の数年後が212年になるンだか。おりを見てフォローしておこう」
A「……読み返すとボケが多いよな。年代的なものなんか特に」
F「反省。ただし、そんな戦ボケの老兵を、曹操・曹丕は深く信頼していた。特に曹丕は、張遼の兄や母親(220年での生存が確認できる)まで手厚く扱い、病気になったら自分で見舞ったほどだ。曹操時代からの家臣を軽んじていた曹丕だったが、張遼はきちんと信頼していたようで、病身の老兵に、最期まで孫権への抑えを任せていた」
Y「その信頼によく応え、惜しまれつつ亡くなった……というところかね」
A「もったいないなぁ……。三國志英傑伝(コーエーの、劉備が天下を統一するゲーム)では、関羽に説得されて蜀軍に加わるのに。曹丕が部下を見捨てて逃げるのを『これでは呂布と変わらん』と憤慨して」
F「戦場だってのに関羽と仲良くオハナシするのはどうよと本気で思った記憶があるな。黄忠さん死ぬし。さて、それでも張遼は(第一次、とつけるべきだろうか)洞口攻めに従軍し、呂範を打ち破って、そのまま戦地で死去している。丁原・董卓・呂布・曹操に仕え、重用された闘将の惜しむべき最期であった」
A「だのに、何で演義ではあんな最期なんだらう」
F「ところで……」
A「なんでいきなり『ところで』やらかす!?」
F「いや、今回のオチでやろうと思ってたエピソードなんだ、それ。前回のラストで見た通り、第一次洞口攻めは、突出した魏のいち部隊(数千)が全jに打ち破られて、やむなく魏軍は兵を退いた……みたいな終わり方だった」
A「まぁ、な……」
F「これ、張遼のせいじゃないかって思うンだよ」
Y「は? 張遼が数千の兵で突出して、全jに負けたのか?」
A「呂布か関羽でもなきゃ勝てないと思うよ?」
F「いやいや、そうじゃなくて。洞口方面軍の魏軍司令官は曹休だけど、百戦錬磨の張遼が副司令官格として従軍している。すると、どうなる?」
Y「……曹休にしてみれば張遼が煙たいだろうし、張遼は張遼で、先任として何かと手も口も出しただろうな」
A「指揮権をめぐって何かと揉めるのが眼に浮かぶねェ……」
F「間に立つ臧覇の気苦労のほどが知れるな。ところが、張遼が病に倒れてしまった。曹休はどう動く?」
Y「……張遼がいなくても戦えると敵にではなく味方に証明するため、自分で動く」
A「で、突出した……?」
F「というわけで、曹休は全jに返り討ちにあい、やむなく魏軍は兵を退いた……と。こんな具合なんじゃないかと」

第一次洞口戦の推移
 魏軍、洞口へ侵攻
  ↓
 その攻撃を防げず、呂範敗れる
  ↓
 呉軍、長江沿いに防御を固める
  ↓
 船戦ではさすがの魏軍でも攻めあぐねる
  ↓
 この周辺での戦闘に通じている張遼が、持久戦を進言
  ↓
 長期戦のために呉陣から略奪を行う
  ↓
 徐盛、反撃して敗れる(ために懲りて、第二次洞口戦では率先して防備をかためた)
  ↓
 ところが張遼、陣中で病没
  ↓
 いいとこ見せようと、曹休が兵を突出
  ↓
 全jが迎撃して曹休を撃退
  ↓
 魏軍撤退

F「僕が前回、この突出した部隊を率いていたのが曹休だろうと踏んだのは、こーいう具合に戦況が推移したと読んだからなんだね。曹休は、武将としては今ひとつ思慮が足りないところがあるから」
A「そーなんだ」
Y「……だから、お前ホントに正史読んだのか?」
F「そして、羅貫中も僕と同じ意見だったようで、演義で(さっき見た通りの事情で、1年後になったけど)『洞口での魏軍撤退は張遼のせいである』という書き方をしたワケだ。ただし、演義では病気になっていなかったから、誰かに討ち取らせることになった」
Y「似たような最期を迎えた徐晃もそうだが、どうにも演義は魏将を軽んじてるよなぁ」
F「丁奉に手柄を立てさせたかったンだろうね。ともあれ、戦史を見るときは、武将の人間関係や性格を含めて考えること。マンパワーで戦争していた近代以前では、割と重要なファクターだ」
Y「了解であります」
F「かくて、各地の武将たちに重用され続けた戦争ボケ老兵・張遼は病に倒れた。ところで……は、やったから素直に終わろう。孫権は合肥で追い回されたのがよほどトラウマになっていたのか、病身の張遼が駐留したのを聞いて震えあがった」

 ――いくら病気だからって、相手は張遼だ。絶対に敵対するな。いいな、気をつけろよ!

Y「そこまで張遼が怖かったのか、お前は」
A「気持ちと理屈は判る……かな」
F「続きは次回の講釈で」

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