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私釈三国志 101 魏呉激突

F「現実問題『劉備玄徳』が長すぎたせいで、ずいぶんだれている。中弛みだな」
A「100回で中弛みってどー考えてもおかしいだろ!」
Y「長かったのは露骨な事実だな。しかも、いつも通り云い過ぎだし」
F「ふぅ……。さて、今回は(珍しく)予告通り、夷陵の終戦後に勃発した魏による三路での呉侵攻について」
Y「待ってましたー」
F「話は夷陵の戦中にさかのぼる。劉備が長々と陣営を連ねたのを聞いて、曹丕がそれを笑ったのは前回見た」

 ――劉備の奴は兵法を知らん。戦争の禁忌を犯しているのだから、孫権から勝ち戦の上奏がすぐにでも届くだろう。

F「そこで、曹丕の中で悪い虫がうごめいた。陸遜は勝てば蜀に攻め入り、呉の備えは薄くなるだろう。そこを狙って侵攻すれば、天下統一は間近だと踏んだワケだね」
A「結果論で云うなら浅慮だったンだがな」
F「時期は不明だが、曹丕は賈詡に諮問したことがある。呉と蜀、いずれを先に討つべきかと。賈詡は『いずれも小国なれど、呉は長江を陸遜がよく守り、蜀は孔明が険阻な地を固めております。ひそかに群臣を見渡したところ、劉備・孫権に匹敵する人材もおりません。いま攻めるのは得策ではないでしょう』と応えている」
A「劉備が存命で陸遜の名が知られているってことは、夷陵戦の直後くらいかな」
F「互いにかみ合う勢力がいるなら、勝負がついたところで動くのは政略としては間違っていない。勝った側でも無傷ということはありえないからな。策士なら劣勢な側を援助して戦闘を長引かせ、両者が疲れ果てたところをまとめて叩くが」
A「……好きじゃないな、そういうの」
F「他の軍師さんたちもいまひとつ賛成はしなかったな。もちろん、劉曄も反対したひとりだ。そもそも劉曄は、蜀軍の侵攻を受けた孫権の降服を偽りのものと断じていて『あの野郎はまったく信用できません。いっそこの機に乗じて呉を滅ぼしておしまいなさい』とさえ云い切っているくらい、呉への強硬姿勢を貫いていたが、この時期に攻めるのは反対している。勝ったばかりの軍を攻めるのは難しいですよ、と」
Y「二荀(荀ケ・荀攸)亡き今、そのふたりより上の軍師などおるまいに」
F「残念ながら曹丕は、割とヒトの話を聞かない君主だったのね。というわけで、曹丕は呉への侵攻を決意した」
Y「三方から一斉に呉へ侵攻したが、陣容にはおおむね曹氏一門を起用。東から、"千里の駒"こと曹休に百戦錬磨の張遼をつけて洞口方面へ一軍。大将軍曹仁をして濡須へ一軍。そして荊州は江陵へ、曹真・夏侯尚・張郃らの一軍が派遣された。文帝曹丕自ら、前線に程近い宛へと出陣していることに、その容易ならざる覚悟がみてとれる」
A「いや、容易ならざるって……魏と呉の局地戦だろ? そりゃ激戦だったが」
Y「三軍いずれも数万からの軍勢を擁し、皇帝までその御座を進めているンだぞ。局地戦なんてモンじゃない、はっきり云うが赤壁の再来だ。ここで魏が勝っていれば、呉を平らげ余勢を駆って蜀をも滅ぼし、天下統一を成し遂げていた」
A「……おいおい」
F「否定はしないな。曹休・曹仁・曹真・夏侯尚のいずれも、この戦役に先だって昇進している。征南将軍の夏侯尚・征東将軍の曹休がそれぞれ征南大将軍・征東大将軍に、鎮西将軍の曹真は上軍大将軍に、大将軍の曹仁は大司馬という具合にだ。戦地に出す将軍を昇進させて、決戦への引き出そうとしたという見方もできるな」
A「……曹仁はともかく、他はホントに昇進か? 大の字がついただけに見えるが」
F「仕方のない弟だなぁ、そんなに当時の将軍位に興味があるのか。えーっと……」
Y(だから、軍政オタクの魂の緒に火をつけるな)
A(ごめんちゃ〜い……)
F「脇道にそれると長くなるけど、仕方ないよな。漢代における将軍位は、基本的に魏・蜀・のちの呉でも受け継がれた。常設の最高位は大将軍だが、これが三公の上にくるのか下につくのかは時代による。何進は上だったが、この頃の曹仁(大将軍から三公の一・大司馬になった)は下だったようだ」
Y「大政が後漢から魏に禅譲されて、制度も変わったってことかね」
F「というか、何進が異常だったンじゃないかと。その下に位置する非常設の将軍位が、上から順に驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍。それぞれ、戦時における軍政・軍令・首都防衛を担当するようなものだと思ってくれ。もっとも、三国時代は戦乱が絶えなかったから、ほとんど常設の地位に近い扱いになっていたが」
A「無理もないか」
F「その下がちょっと多いぞ。四方・四征・四鎮・四平・四安だ。四方は前将軍・左将軍・右将軍・後将軍で、他は征北将軍・征西将軍・征南将軍・征東将軍といった具合に4セット、ただし序列はまちまちで、曹休は鎮南から征東に昇進したのに、趙雲は征南から鎮東に昇進した、とある。平・安もどっちが高いのかよく判らんし。ちなみに、内部での序列もこの順番」
A「前将軍がいちばんなのは何となく判るが、北がいちばん偉いのか?」
F「もともとは『その地方にいる敵を討つ将軍』だからかね? 漢民族にしてみれば北方の異民族がいちばんの脅威だ。それだけに、まったく脅威でなかった東夷を担当する者は低かった……ということじゃないかと。その下に雑号将軍と呼ばれる、非道く云うと君主や権力者の都合で増産される将軍位がたっぷりいる。その中でも序列はあるけど、その辺は割愛」
Y「いちばん下が、関羽や周瑜の任じられた偏将軍、と」
F「征南なり征東なりに大将軍とあったら、年齢・軍歴などに秀でたその位の中での第一人者という扱いだな。まとめるとこんな具合になる」

当時の将軍位
将軍位主な就任者備考
大将軍何進・袁紹・夏侯惇最高位
驃騎将軍張済・孫権・馬超戦時における軍政の最高責任者
車騎将軍朱儁・曹操・張飛戦時における軍令の最高責任者
衛将軍董承・曹洪戦時における首都防衛責任者。皇族ないしそれに類する者が就任
前将軍董卓・関羽
左将軍皇甫嵩・劉備
右将軍楽進・張郃
後将軍袁術・黄忠
征北将軍朱然この辺りから下が実戦部隊
征西将軍夏侯淵
征南将軍夏侯尚
征東将軍馬騰・張遼
鎮北将軍魏延
鎮西将軍曹真
鎮南将軍曹休
鎮東将軍趙雲
平北将軍
平西将軍
平南将軍
平東将軍
安北将軍
安西将軍
安南将軍
安東将軍倭の五王(宋)
雑号将軍破虜将軍:孫堅
討逆将軍:孫策
鎮軍将軍:陳羣(オイ)
伏波将軍:馬援(前漢)
多数
偏将軍周瑜名誉職に近い

F「いやー、熱入れて語り始めると止まらんな、オレ」
A(やめさせろ)
Y(アキラのせいだろーが)
F「さて、話を戻す。泰永が云ったように、この一連の軍事行動は、魏にとっては赤壁の再来と称していいほどの兵力・陣容で行われた。それなのに、どーしたワケか正史・演義を問わず軽視されている傾向がある」
A「正史ではともかく……えーっと、演義では84・85回にかけて、この辺のエピソードが展開されてるな」
F「とりあえず戦場での推移を見ていく。西から行くと、曹真・夏侯尚らの侵攻を受けた江陵軍団(仮称)は江陵を守備していた朱然が相手取った。以前見た通り、病床の呂蒙が自分の後任にと推した武将だ」
A「呉の重鎮たる朱治……の?」
F「甥っ子(姉の子)。孫策存命当時、まだ子供がいなかった朱治が養子に迎えたのね。孫権と同い年で学友だった時期があり、信頼が篤かったらしい」
A「だから、呂蒙の推挙もあってひとかどの将となったワケか」
F「そゆこと。曹真らの軍勢は江陵を包囲するけど、朱然が頑として守っていたため攻めあぐねていた」
Y「孫権は1万からの援軍を送り、長江の中州に砦を築いて朱然の救援に回した。が、別動隊を率いた張郃が蹴散らし、その砦を奪う。江陵は本国との連絡が取れなくなった」
A「ピンチじゃないか」
F「ところが朱然は一歩も譲らない。曹真・夏侯尚は、江陵城を上から(土塁で越えようとした)下から(地下道も掘った)攻め、やぐらを立てて矢を浴びせるのに、兵を励まし防御を重ね、逆撃して魏の陣屋をふたつ奪う奮闘ぶりだ」
A「……ずいぶんな堅守ぶりだな」
F「さて、公安から駆けつけた瑾兄ちゃんだけど、弟(孔明)同様に臨機応変の戦術は苦手とするところだった。大軍は率いてきたものの、どう救援したものかと、長江のほとりで立ち往生する」
A「情けねェ」
F「そこで活躍したのが潘璋だった。張郃が中洲の砦から浮き橋をかけているのを見て、上流に城郭を築き、筏に藁を積み上げる。増水期を見計らって筏を流し、張郃守る浮き橋を焼き払おうとした」
Y「演義でこの辺がないがしろにされているのが判るな。夷陵で死んだことになってる連中が大活躍するンだから」
F「しかし、やはりボケていたのが瑾兄ちゃんだった。夏侯尚に水陸から攻撃され、船を焼かれて撃退される。それを見た潘璋が慌てて筏を流そうとすると、夏侯尚は兵を引いた」
A「……やっぱ情けねェ」
F「負けじと夏侯尚は搦め手に出た。江陵の北門を守っていた武将に内応をもちかけ、これは上手くいきかけたンだけど、察した朱然はその武将を処刑した。どうにもなりませんよと夏侯尚は宛の曹丕に訴え出て、ちょうど軍中で疫病が蔓延していた(江陵城内で早くから流行していたものが感染したと思われる)ため、この軍団は撤退した。半年の猛攻を守り抜いた朱然の名は、魏にまで鳴り響いたという」
A「まず、呉の一勝かな」
F「潘璋も賞されたけど、瑾兄ちゃんも『……ま、領土は守ったしな』と手柄があったことになっている。兵を損なわなかったともされているので、船に火をつけられた時点で退却したのかもしれんな」
Y「その辺り、血は争えんなぁ……」
F「さて、続いては曹仁を相手取った濡須軍団(仮称)。主将は朱桓だが、周泰の後を継いで濡須を守っていた(さらに、周泰の子がこの戦闘で功を立てた)とあるので、たぶん、この頃すでに周泰は死んでいたと思われる。この戦闘は演義でも85回で取り上げられているから、いちおう知ってるのか?」
A「あぁ、10倍の曹仁軍を向こうに回して奮戦したンだよな」
F「それだ。曹仁が羨渓(地名)に兵を向けたと聞いた朱桓は、大部分の兵を羨渓に向けてしまい、濡須には五千しか残っていなかった。そこへ攻め込んできたのが五万からの曹仁本軍。配下の将兵はとても勝負にならないと震えあがった」
A「でも、朱桓はひるまない。剣をつかんで『兵が多いからって負けると思うな! 戦争は数ではなく武将の質で勝敗が決まるンだ!』と豪語。千里を越えてきた曹仁の軍勢は疲れているが、朱桓の軍勢は城に拠り、北は山に、南は長江に囲まれて防備は万全。曹丕が自ら来ても怖くないのに、どうして曹仁を恐れるのか、と」
F「かくて朱桓は旗も立てず陣鼓も鳴らさずに空城を装う。欺かれた曹仁は兵力を分散する愚を犯した。息子に城を攻めさせる一方で、朱桓らの家族がいた中洲にも王双率いる別動隊を回し、自身は退いて全軍の後方をかためた。討って出た朱桓は、魏の水軍を拿捕し、別動隊を撃破して王双を捕らえ部将を斬り、息子の陣営を焼き討ちする。そして堂々と濡須城に引き揚げていった」
Y「残念ながら曹仁伝には、この戦闘に関する記述が乏しいからな。どうやら負けたのが事実らしい」
F「だな。ちなみに、曹仁はこの年のうちに亡くなっている。享年は56だった」
Y「露骨な過労死だな」
A「世代交代が進んでるなぁ……」
F「さて、ラストの洞口軍団(仮称)。曹休・張遼・臧覇ら率いる魏軍と相対したのは、孫策の代から重用された重鎮・呂範。徐盛・全jらを率いて洞口に立てこもった」
Y「いくらこのところ死者・退場者が多いからって、今回呉将出しすぎだ」
F「仕方ないだろう、今まで出さなすぎたンだから……。さて、紙幅の都合でもないが簡潔に云うなら、この方面は魏軍が圧勝している」
A「勝ったの?」
F「うん、はっきり圧勝。……正史の記述に従うなら、だが。曹休・張遼・臧覇、いずれの伝でも『呂範の軍勢を打ち破った』という記述がみられる」
A「でも、この軍団が守っていたのって、呉都・建業ののどもと近くでしょ?」
F「ただし、と云おう。呉側の記述を見るなら、たとえば呂範伝では『曹休らの進行を喰いとめた』とある。事実、この時に洞口が陥落した形跡はない」
A「……どゆこと?」
F「関連する六将の正史での記述をまとめると、こんな具合だ」

曹休:呂範を攻撃し、これを打ち破った。
張遼:病身を押して出陣し、呂範を撃破した。
臧覇:曹休とともに出陣し、呂範を撃破した。
呂範:水軍を動かし、曹休らの進攻を喰いとめた。
徐盛:大風で水夫の大半を失うが、残った兵を集めて曹休と対陣。寡兵よく曹休の攻撃を支え、ついに曹休は退いた。
全j:曹休が足の速い船で攻め入ってくるので、全jは武装して防衛。魏軍数千の突出を中州で打ち破り、部将を斬る。

F「まず、魏軍が攻め入って、とりあえず呂範は敗れたと思われる。退いた呂範は徐盛・全jらと合流して長江の川辺に陣を連ねる。すると魏は、足の速い船を出してその陣屋を略奪して回った。純粋な防御を兼ねて全jが武装して陣を固め、徐盛は大風で兵の大半を失う」
Y「実際には、張遼辺りに敗れた可能性があるな。ここでの大風なんてタイミングが良すぎる」
F「だな。でも、兵は失ってもしっかり対抗する。業を煮やした曹休(だと思う)は、兵数千を送りだして戦況を打開しようとするが、全jに撃退されて部将を失う。やむなく魏軍は兵を退いた……という動きがあったようでな。どうにも『陸戦で呂範が負けたが、水戦になったら呉軍が持ち直した』という具合らしい」
A「……判定勝ち、みたいなモンかな」
F「そんなところだろうな。というわけで、この一連の戦役は、魏軍総退却によって幕を閉じる」
A「そして、オハナシは孔明さんのところに……」
F「……というわけにはいかないだろう。仮にも赤壁に比した戦闘を、1回で終わるのは筋が通らん」
A「まだ続けるの〜? 孔明出そうよ、孔明」
F「そうもいかん。演義では時期がずれているが、この頃に張遼が死んでいることは触れておかねばならないだろう。次回、『私釈三国志』第102回『張遼病没』」
A「あっ……そっか」
Y「それは……さすがにやっておかないといかんか」
F「続きは次回の講釈で」

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