前へ
戻る

私釈三国志 100 劉備玄徳

1 青春時代
F「実際のところ、劉備という人物は評価が難しい」
Y「評価できることがないからか」
A「ヤス!」
Y「戦場に出れば負ける、城を得れば失う、ひとに仕えれば裏切る。そんな奴をどう評価しろと云うか」
A「だから、正史での記述に沿った悪意のある発言は控えてよー!」
F「演義でもやってるのが問題なんじゃないか。行いそのものは完全に悪役かやられ役なのに、演義ではなぜか主人公に抜擢され、理想の名君扱いされている」
Y「なぜ羅貫中、そして他三国志ものの作者たちが劉備を主人公に選んだのかは、練り児山が曹豹血盟軍を起こしたのと似たような理由だったな」
A「ヤスー!」
Y「88回を参照してみろ。そーいう結論になってるから。俺はおらんが」
F「オレが云ったことだからツッコミもできん……。えーっと、ただ、正史でも劉備の行いはおおむね悪役かトリックスターだ。それだけに、なぜ実態は地方軍閥にすぎなかったとはいえ国を興せたのか、なぜ家臣たちは劉備についていったのか、その辺りの説明が難しいンだ」
Y「簡単だろ? 蜀というのはその程度の国で、孔明を筆頭に家臣どもに見る眼がなかったからだ」
A「ヤスーっ!」
F「泰永、泰永……。お前、チャプター2まで黙ってろ。その辺に茶菓子あるから」
Y「お前、俺が甘いもの喰ってれば大人しくなると思ってないか?」
F「黙りなさい」
Y「はい」
F「10年近く前だが、迂闊なこと書いて刺されたことがある身としては、発言は穏当にしてほしいところだよ」
A「日頃のお前からは想像もつかん台詞だな!?」
F「……どうして『私釈』で劉備取り上げようとすると先を争って話を逸らすンだ、お前らは」
Y「嫌いだから」
A「黙ってろ!」
F「姐さん……頼むから生き返るか、腕返してください……。ともあれ、劉備とはどんな人物だったのか、これまであまり触れてこなかったので、そこから見ていこうと思う。まずは生い立ちだが」
A「子供の頃か」
F「正史でも演義でも採用されている(つまり、演義が正史に倣った)エピソードがある。玄徳少年の自宅のそばに桑の木が生えていたが、この木が天蓋付きの馬車に見えた。そこで玄徳少年は『オイラは将来、こんな車に乗るンだ』と云ったとか。それを聞いた問題の劉子敬(おじ)さんが『バカなことを云うな!』と叱りつけた」
A「あれ? 感心して仕送りし始めたンじゃなかった?」
F「それは別のおじの劉元起だな。劉備を、自分の息子の徳然(諱は不明)と同じ扱いをしたモンだから、妻から『よその子の学費を出してやるのはどうよ?』と怒られても『あの子は只者じゃないからな』と取り合わなかったとか。父親を早くに亡くして困窮していた劉備が、盧植のところに遊学できたのは劉元起のおかげなんだよ」
A「親戚からは受けがよかったってことか」
F「早くに父親を亡くして、母ひとり子ひとりで暮らしていたからね。口数は少なくひとによくへりくだったという。多少やんちゃな面も見られたが、それを補えるくらいの孝行息子と思われていたようだ」
A「うんうん、いいことだいいことだ」
F「もっとも、15の年で遊学に出はしたが、勉強はしなかったんだが。コーソンさんをはじめとする人脈は作っていたが、もっぱら遊び呆けていたようで、黄巾の乱が起こる184年まで何をしていたのか、正史にも記述はない。ちなみに、なぜか演義では184年で28歳となっている(161年生まれなので23歳のはず)」
Y(喰い終わった)「こうして見ると、日本で劉備が人気者なのもうなずけるな」
A「……その心は」
Y「大人しいいい子は見せかけで、親元を離れると本性を現す。学費だけもらって勉強もせず、人脈を作ると称して遊びまわり、口に出しては『俺はいつかビックになるぜ』と云い続けて28歳。いや、どこのニートかフリーターか」
A「ヤス〜っ! アンタって仔は、アンタって仔はぁ!」
F「もっとふさわしい日本語に恩知らずってモノがあるンだが……もういいや、チャプター2に行こう」

津島屋幸運堂は【真・恋姫†無双】を応援しています。
【真・恋姫†無双】応援中!
進む
戻る