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私釈三国志 97 夷陵終戦

F「では、何事もなかったように『私釈三国志』を始めます」
Y「触れるなよ」
A「……うん」
F「そんなワケで、前回はおおむね演義ベースでオハナシを進めたンだけど」
Y「そのフレーズも久しぶりだな」
F「バタバタ死んだ呉将連中だが、実際にはこの戦闘で死ななかった、それどころか従軍もしなかった者が多い。糜芳は前回見た通りだし、藩璋だって生き残っている」
A「馬忠については『蒼天航路』でやってた通りでいいのか? 関羽を捕らえた場面でしか出てこない」
F「うん」
Y「……反応薄いな。関羽を捕らえたンだから、もう少し扱いがよくてもいいだろうに」
F「馮則は、確か演義に出てこないぞ。直接首級を上げたいち兵士の名を正史に残すくらい、黄祖は孫権にとって重大な敵だったとほのめかしている。それと同様に、関羽を捕らえた馬忠(正史には司馬とあるが、それも疑わしいと『蒼天航路』で指摘されている)の名を明記するくらい、関羽は孫権にとって重大な敵になっていた……と読み取れるな」
A「でも、その馮則の役割を果たしたのって甘寧だよな」
F「馮則を甘寧に差し替えることで『黄祖が甘寧を冷遇した』→『甘寧が出奔し孫権のもとに走る』→『恨みを晴らす』という流れができる。呉の数少ない猛将として、甘寧に固有のエピソードを与えたかったンだろうな。黄祖の部下に蘇飛という人物がいて、このヒトが甘寧を厚遇するよう黄祖に上申しても容れられなかった。結局甘寧は蘇飛の手引きで孫権のもとに走っているンだけど、黄祖が斬られた折に蘇飛も捕らえられてる。それと知った甘寧は、孫権に直訴して彼を助命した」
A「因果応報……かな」
F「受けた恨みには死をもって応え、受けた恩には命をもって報いる、というところだな。でも、馬忠は、関羽の息子が仇を討つというエピソードのために、そのまま斬られる必要があった。他の誰かに差し替えるよりそのまま肉付けして使った方がいいと、羅貫中は判断したンだろう」
Y「だからって、弓の生き神たる黄忠に矢を射かけるのはやりすぎじゃないかと思うがね」
F「まったくだ。ともあれ、緒戦で呉軍は劣勢、期待を込めて出した孫桓も小城に包囲されたのは事実。そこで陸遜に迎撃の全権をゆだねることにしたンだけど、例によって張昭が『あんな若僧に何ができますか!』と反対する。演義での張昭は、どうにも間違った進言をしがちだな」
A「正史では違うのか?」
F「おおむね正論を吐く。孫権が虎狩りに出るのを諌め(聞かなかったが)り、前回見たように、魏からの使者の態度がでかかったモンだから『殺すぞ!』と脅迫している。一度など、宴席で酔っ払った孫権が家臣に水をぶっかけ始めると退席して、孫権から『みんなで楽しんでるンだから空気読めよ』と叱責されると『殷の紂王(暗君の代名詞)も酒池肉林で宴会していた時は、悪事をしているつもりはなくただ楽しんでいたンでしょうなぁ』と発言をしている」
A「家臣にあるまじき……かな」
F「表面上はともかく、内心では張昭を遠ざけたかったのがありありと見えているからな、孫権は。演義では反対を押し切って陸遜を大都督に任じ、祭壇さえ作って就任セレモニーを挙行。命令に従わない奴は斬ったあとで報告しろ、とさえ云って、副将をふたりつけて送り出している。正史では、いちおう反対意見は見られないンだけど、諸将不満に思ったのは共通」
A「だろうな。いくら大都督でも若造に、孫堅以来三代仕えた老将たちが従うはずが……」
F「180年生まれじゃなかったかな。孫権に出仕したとき21歳だったとある。ただ、245年に63で亡くなったともあって、ちょっと数字がずれているンだけど(没年が正しいなら183年生まれで、孫策が死んだ200年ではまだ18歳。なお、当時は数え年)」
A「……えーっと?」
F「出仕した年齢を信じるなら42歳、没年から逆算するなら39歳。周瑜はともかく、魯粛(38歳)や呂蒙(39歳)とほぼ同じくらいの年代で任命されたことになる(いずれも前任者の没年時点での年齢)。横山氏が描いた陸遜がどんな武将だったのか思い出してみろ」
A「……中年オヤジでしたね」
F「まぁ、なぜ陸遜に諸将が反駁したのかは次々回に譲るとして、ともあれ、全権を預かった陸遜は、持久戦に回った。防御を固めて蜀軍の疲労を待とう、という戦略に、諸将は同意しかねたものの、孫権が任命した大都督に逆らうわけにもいかず、しぶしぶ守りに入る」
A「侵攻して来た軍勢が国境を越えてるのに、守りを固めるってのはどうなんだろうな」
F「ロシアの基本戦略は『守りを固めて冬を待て』だぞ? 冬将軍の前には、ナポレオンやヒトラーでも退却した」
Y「モンゴル軍や日本軍はどうした」
F「寒さに強い連中が相手だと通じないンだよなぁ。一方で、攻める蜀軍にも問題発生。事実上の参謀格だった黄権があンまり劉備を諌めるモンだから、疎ましくなったのか魏への抑えと称して水軍指揮に回されたのね」
Y「人の和の劉備」
A「やかましいわ! 魏への抑えだって重要な役割だろうが!」
F「否定はしないけど、コレは追放だろうね。戦場に出ていながら最前線から外されるンだから、実質的な左遷だよ」
A「反論はしないから、もう少し劉備に優しくしてくれ……」
F「それ無理。というわけでやりたいほーだいできるようになった劉備は、長江沿いに150キロに渡って50もの屯営を連ねた。演義では七百里・四十塞とあるが、この陣営を見た韓当が、陸遜に『攻めれば劉備を捕らえるのは難しくない』と進言したものの、陸遜は『蜀軍の勢いはまだ盛んだから、その士気が衰えるのを待とう』と突っぱねた」
A「攻めやすいように見えたってコト?」
F「横に広ければ厚みはなくなる。いつかも云ったが、防衛線の強度はいちばん弱いところで決まる。また、誘いということで本陣が手薄に見えたのかもしれない。陸遜が兵を率いて討って出たところを全軍で叩く策だから。ところが、ここで馮習が上申してきた。夏の日照りで兵士が参っているので、日陰に移動できないものだろうか、と。兵がへばっては戦争にならない。劉備の命で山の立木の中に陣を移動させたところ、馬良はこの布陣に不安を覚えたのか『陣営図を孔明兄ィに見せたらどうだろう』と進言し……」
A「待て」
F「正史では、馬良は孔明をして尊兄と称している。義兄弟か共通の親類があったのでは、というのが裴松之の分析(陳寿はノーコメント)。僕としては義兄弟に一票なので、こんな呼び方だが」
A「呼び方じゃなくて、問題なのは馬良の口調だ!」
F「49回思い出せよ。まぁ、意地の悪い見方をするなら、地図を口実に逃げたとも取れなくないンだが」
A「とるな!」
F「出発前に馬良は、陸遜が迎撃の指揮を執ると聞いて『周瑜に劣らぬ人傑です』と、劉備に油断しないよう求めているが、頭に血が上っている劉備はこれを無視している」
Y「ヒトの和の劉備」
A「繰り返さなくていい!」
F「というわけで馬良も追い出された。蜀軍は日陰を求め、乾ききった立木の中に陣を連ねる。約半年に及んだ対陣に、ついに決着のときが訪れたワケだ」
A「……火責めだな」
F「風の強い夜を見計らって、陸遜は攻撃命令を下した。水上から朱然、北岸から韓当、南岸からは周泰が、延焼材を混ぜた枯草を抱えて、蜀軍の陣営に火を放つ。ひとつおきに火をつけていき、蜀軍が混乱したところに襲いかかった」
A「夕暮時ということで油断していた劉備は、火がついたと聞いても火事だと思って気に留めなかった。ところが、次々と火の手が上がって、周りの立木にも燃え広がったモンだから、呉軍の攻撃だとやっと気づく」
F「奇しくも東南の風が吹き荒れる中、呉の諸将は半年間のうっぷんを晴らすように暴れまわった。ここで討たれるわけにはいかず、と張苞・傅彤を連れ逃げ惑ううち、劉備は馬鞍山に追い詰められた。山の上に立ってみれば、周りは、蜀軍の死屍と生ける呉軍で埋め尽くされている」
A「で、関興が何とか駆けつけてきて、劉備に白帝城まで逃げるよう勧める。傅彤を殿軍に、兵たちの鎧や衣服を道に積み上げて火を放ち、何とか逃げる時間を稼いだのに、朱然が前に立ちはだかる」
F「そろそろ夜も明けてきたモンだから、背後から迫りくる陸遜本軍がはっきり見える。劉備もこれまで……と思われたその時、趙雲が駆けつけた。陸遜が動いたと聞きつけ、兵を率いてやってきた。出合い頭に朱然を斬り捨てると劉備を救い出す。陸遜は陸遜で、趙雲が来たと聞いた途端、急いで兵を引き揚げた」
Y「いっそ潔いな?」
F「数万からの蜀軍を討ちとったから、戦果充分と判断したのかもしれない。この戦闘に参加した蜀の将兵は、そのほとんどが生還できなかったからね。趙雲は、何とか劉備は助けたものの、他の武将には間にあわなかった」
A「……ごくっ」
F「まず馮習。小城にこもっている孫桓の抑えに回っていた張南のところに駆け込んで蜀軍の大敗を伝え、劉備を助けに行こうとしたンだけど、群がる呉軍を抜けないばかりか孫桓まで討って出てきて、乱戦のなかでふたりして戦死」
Y「一説では、夷陵の敗戦は馮習のせいらしいが」
A「コイツがいらんこと云わなかったら、陸遜の策にはまらなかったかもしれんからねェ……。気持ちと理屈は判るな」
F「馬鞍山で殿軍を張った傅彤も、劉備を逃がすため踏みとどまって、配下の兵士が全滅しても降るを潔しとせず『漢の将が呉の犬に降伏できるか!』と云い放ち、そのまま斬り死にした。程畿は水上にいて、呉の軍船が迫ってきたから部下に退くよう勧められたものの『陛下に従い出征し、敵に後ろを見せられるか』と自害している」
Y「まぁ、バタバタと……」
F「シャモーコも兵を失い、ひとり馬を飛ばして逃げる途中に周泰に出くわし、討ち取られた。悲惨なのは遠ざけられた黄権で、江上は軍船で封鎖されていて劉備を助けには行けない、とはいえ呉に降服もしたくない、と進退窮まり、ついに魏に降伏した」
A「そこで魏に走るなよ!」
F「この黄権に対する処遇に、僕が劉備を暗君呼ばわりしていない直接の原因があってな」
A「……ナニしたっけ?」
F「少し後のことになるらしいが、刑法官が『黄権の妻子を捕らえたい』と申し出てきた。呉にならまだしも魏に降伏したモンだから、さすがにまずいだろう……と、いうのがその主張だが、応えた劉備の台詞が際立っている」

 ――俺が黄権を裏切ったのであって、黄権が俺を裏切ったワケじゃない。

F「妻子へ罪を問うことは許さない、とこれを退けている。裴松之はこの一件について『君主としての劉備は漢の武帝に勝る』という趣旨の記述をしている」
Y「そこまで云うか?」
A「それくらい云ってくれないと。劉備はともかく、アレが暗君だったのは事実なんだから」
F「本国に逃れていた馬良は、孔明に例の布陣図を見せた。すると孔明は、怒り狂って『こんな陣を敷けと陛下に申し出たのは誰だ! 斬り捨てろ!』と叫ぶ。劉備自らだと聞いて、天を仰いだ」

 ――漢朝氣數休矣

Y「えーっと……?」
F「ここまでのまとめ」

武将演義正史(演義と違う場合には注釈)
黄忠戦傷死戦前に死亡(ただ死去としか記述がない。疑えば疑えるが)
張苞生存従軍せず(正確には、従軍したという記述がない)
関興生存従軍せず(同上)
馮習戦死戦死
張南戦死戦死
廖淳生存生存
傅彤戦死戦死
馬良生存戦死(敗戦の中で死亡している)
黄権魏に降服魏に降服
程畿戦死戦死
沙摩柯戦死戦死
趙雲生存従軍せず(国境付近にはいた模様)
李異戦死生存(追撃戦に参加している)
甘寧戦死戦前に死亡(どう死んだのかも記述はない。やはり、疑えば疑える)
藩璋戦死生存(馮習を討つなどの功を上げる)
馬忠暗殺記述なし(この武将について、正史では「関羽を捕らえた」としか記述がないのは有名)
糜芳処刑生存(従軍せず、魏戦線にいた模様)
士仁処刑記述なし(糜芳が北にいたのなら、そちらにいるのが筋かと思う)
范彊処刑記述なし(「クビ持って孫権のもとに逃げた」としかなく、その後の安否は不明)
張達処刑記述なし(同上)
朱然戦死生存(別動隊として奮戦し、功を上げる)
孫桓生存生存

F「演義と正史での、参戦者及び死亡者の対応表です。ずいぶん違うのが判るな。――ところで」
A「やるな! 今回くらいしんみり終わらせろ!」
F「逃げ上手で有名な劉備だが、今回も虎口を脱している。将兵問わずバタバタと戦死しまくったにもかかわらず、だ。いくら趙雲が来たとはいえ、正史ではその辺りの記述はない」
Y「趙雲もなしで、どうして劉備が逃げおおせたのかって話か?」
F「うむ。これがどーにも判らなくて、正史を読み返していたンだが、確たる理由がつかめなかった。あるいは糜芳がこっちにいたなら、その援護で逃げられたのかもしれないけど、いなかったみたいだし」
A「……内通者がいた、と?」
F「一切記述はないが、考えられなくはないだろう? 曹操の家臣だって、官渡の戦いを前に袁紹に寝返りの書状を送っている。今回、呉将で寝返りを考えた者がいなかったものだろうか、と。劉備贔屓の演義でも、瑾兄ちゃんをおいて他に、疑いさえかけられた者がいないンだよ」
A「そいつのおかげで劉備が逃げられたなら、戦後ないし戦中に死んだ面子が疑わしいことになるか……ふむ」
F「……と思ったンだけど、そうじゃなさそうでね」
A「は?」
F「いや、寝返りを考えた者がいたのかいなかったのかはともかく、劉備が逃げおおせたのはそれが原因じゃなさそうなんだ。内通者の検証は引き続き行うけど、劉備が逃げられたのには別の理由があるとみていい」
Y「その心は?」
F「演義にはっきり書いてあったよ。陸遜につけられた副将っていうのが、ひともあろうか丁奉と徐盛だったンだ」
2人『…………………………あー』
F「孔明を逃がして、孫尚香を逃がして、今度また劉備を逃がしたワケだ。何やってンだろうね、このふたりは」
Y「いや、待て。演義での話だよな、それって」
F「説得力のある根拠あるけど、いま出そうか?」
Y「……どう思う、アキラ」
A「聞きたくない、聞きたくない……」
F「ではいずれということで。ともあれ、先に挙げた孔明の台詞の通り――漢はここに滅んだ」
Y「ナニを口走った、孔明!?」
F「続きは次回の講釈で」

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